第4章-2
王宮都市ダーラムの南に広がる荒野で、鉤爪を支えにして倒れないように踏ん張るのが精一杯だった。
赤い斑点が広範囲に大地を色付けている。全てアルスの血だ。
悠々と立つキルスを前に、アルスは半ば絶望していた。黒目がちのオッドアイ。闇に囚われた眼で、自我を失っているようだった。
雄叫びをあげ、刃を向けて突っ込んでくる。受け流して鉤爪を振るう。キルスはアルスの鉤爪をひらりとかわすと、魔力を込めて薙ぎ払う。それを避けようとするが、切先が服を、皮膚をかすめ、鮮血が弧を描く。波動を受けてやや後ろに下がるも、踏ん張って大地を蹴り、今度はアルスがキルスに突っ込む。
一度鉤爪を引っ込めて左から右へと薙ぎ払うと、キルスはそれを己の鉤爪で受け止めた。鉤爪のついた右上腕を、キルスの左手にむんずと掴まれると、赤黒い炎を放たれた。
「んぐっ……」
右腕が一瞬にして炙られ、コートの袖が無くなる。手を振り解こうにも力が入らない。鉤爪を受け流され、そのまま仰向けにはっ倒されると、上半身にのしかかられ、兄の鉤爪が首元スレスレに地面に突き刺さる。うっすらと掠ったようで、熱い痛みを感じた。
アルスは息を飲んだ。もがけば首を深く斬られる、そんな状況だった。痛みが全身を駆け巡り、表情を歪ませながらもキルスを睨んだ。呼吸が荒い。
静寂が降り、睨み合いが続く。打つ手がないアルスに勝ち目はない。キルスに殺されるのかと絶望した刹那。
「!?」
キルスの鉤爪が突然砕けた。アルスは咄嗟に目を瞑り、顔を横に向けて破片から顔面を守った。キルスも手で顔を覆ったところへ、背後から何かが兄の肩を貫いた。
「なっ!!」
その何かの切先が少しだけ胸元から顔を出した。矢尻だった。キルスは雄叫びをあげてアルスから離れ、立ち上がりながら振り返ると、さらに飛んできた矢を左手で掴んだ。
「邪魔をするなあああ!!」
掴んだ矢を己の炎で焼失させようとするが、敵わなかった。ならばと力一杯握りしめてへし折ろうとしたが、びくともしなかった。
まさかこの矢は……とアルスは凝視した。キルスは持っていた矢を地に打ち捨てると、その場で闇の波動を放った。右肩に矢が刺さったままのせいか、威力は弱く、見えない相手に届く前に消えた。
解放されたアルスは左腕で身体を支えてなんとか起き上がった。よろめきながら立ち上がると、キルスに刺さった矢を掴んだ。瞬間、兄は動きを止めた。
「な……」
「頭を冷やせ、キルス!!」
力一杯矢を抜いた。
低い悲鳴と共に大地が血潮に染まった。焼かれた右腕が返り血を浴びて激痛が走るが、アルスは踏ん張った。
キルスは膝から崩れ、突っ伏した。
赤黒い靄が兄を包んだかと思うと、徐々に空へと浄化されていった。彼を縛っていた闇の鎖が砕け消えた瞬間だった。アルスは靄が兄から煙のように離れて消えていくのをじっと見つめていた。
煙の向こうに、紺の服に身を包んだ、ベージュの髪と瑠璃の眼が映える青年が、弓を携えて立っていた。
手際よく応急処置を施すラウルを、アルスはぼんやり見つめていた。
キルスが倒れた後、アルスも力尽きて崩れてしまった。ラウルは冷静にアルスを仰向けにしコートを脱がすと、焼けただれた右腕の下に敷いた。
ラウルは腰のポーチから青い石を取り出すと、右上腕部に置いた。石は水色に輝きながら形を変え、腕を包み込んだ。水に浸したような感覚を覚える。痛みは走るが、すぐに引いた。
「この水が消えるまで、このまま動かないように」
アルスは黙って頷いた。それを見てラウルも小さく頷き微笑むと、隣で突っ伏していたキルスのほうを向いた。
兄はうつ伏せのまま動かない。だが死んではいないと妙な確信があった。ラウルはゆっくりキルスをひっくり返すと、同じような石をもう一つ取り出し矢が刺さっていた跡にそっとあてた。
同じように水色に輝きつつ形を変えると、右肩とその裏……背中を覆った。ぐっ、と小さく兄が呻いた。
「あなたもしばらく動かないように」
と言って、小さくため息をつく。2人からやや離れて左手を地面にかざすと、ゴゴゴ、ゴトゴトと地面が小さく盛り上がり、岩のようなものが生まれた。動きが止まると、平然とした顔でそこに腰掛けた。
ラウルは地属性の魔力を宿している。他の属性から石を生成したり、大地から石や岩を作ったりできる。キルスを射抜いた矢も、石に魔力を込めて作り上げたものだ。だから火も効かず砕くことも敵わなかったのである。
「さて……その腕が治ったら動けそう?」
「……ああ」
右腕が一番酷くやられてしまったが、あちこちに切り傷を作られていて、かつ闇の魔法もくらっていたため、身体が非常に重かった。
だが、ラウルの言葉からして、どうやらあまり休んでいられない状況に陥っていそうだった。
「動きがあったのか?黒い靄とか……」
ラウルは目を細め、ゆっくり頷いた。
「黒い靄……私もここに来る前に遭遇したけど、アルスに体格がよく似てたね。親族かと思うくらい」
「ヤツと戦ったのか?」
いや、と否定した。ちょうどキルスともうひとり、それこそ体格がよく似たジンブツと何かやりあっている様子を、気づかれない位置から眺めていたらしい。
「なんかこう……キルスがもうひとりに斬りかかって。攻防の末、キルスがもうひとりの腹をその爪で刺しちゃって。倒れたあと黒い靄のジンブツが現れて、何やら紫っぽい靄と赤い何かを吸い出してた。……赤いのは血だったのかな」
吸い出す。この単語に戦慄した。アーデルの血を引く『黒の一族』の魔術。それをあろうことか、同族にやっただと?その行為は禁忌とされているはずだ。
今は滅びし天空界の国エフーシオの王に君臨したアーデルは、『心の深淵に潜む闇』の吸収は同族に行ってはならないと定め、犯したものは制裁を加えるとした。
基本的には『心の闇』を取り込むだけではヒトは死なない。だが同族間でその力を使うことは、闇を奪い合うことになる。度が過ぎると殺し合いだ。アーデルは己の血族を後世に残すため、禁忌とした。
因みに、制裁とは如何なるものかはわからない。皆、掟を守っていたからだろう。
……という歴史を親から教わったのを思い出していた。自分の血族の過去は知っておけ。そう言われたので、興味も無かったがとりあえず頭に叩き込んだ。
「……アルス?闇に囚われてない?大丈夫?」
一点をじっと見つめていたのが誤解を生んだらしい。アルスはハッとして軽く首を振った。
「すまん。……それで?黒い靄のヤツが吸い出した後はどうなったんだ?」
ああ、とラウルは頷く。
「キルスがヤツの手を止めて、倒れたヒトを庇おうとしてた。そしたらヤツがキルスに赤黒い靄を放って……」
「それがキルスから出て行った闇の鎖か……。自我も失われていたのはコイツのせいか」
己の闇に囚われて自我を失うと元には戻らないが、他人の闇に囚われた場合は戻る時とそうでない時がある。キルスは元に戻るのだろうか。アルスは珍しく少し心配した。というのも、彼自身、あまりキルスは好きではなかった。長男面で偉そうなところが気に食わなかった。
世界を支配するとか変なことを言い出した頃から、ヒトが変わったように思えた。何がきっかけでそうなってしまったのか……。
それはさておき、アルスは続きを言いたそうなラウルに顔だけ向き直った。
「倒れたヒトと少し見つめあったかと思うと、持ち上げて、闇の波動だと思うけど……そのヒトを彼方へ吹っ飛ばした。その後、黒い靄のヤツとその場を去っていったよ」
「……そうか。しかし随分と鮮明だな。よく気づかれなかったな」
召喚士が集う家の部屋から見た光景は、ラウルの話のどの部分だったのだろうか。ヘイレン曰く、体格が似た者同士が交えていたので、黒の靄のヤツが合流する前あたりだろうか。
「大地の力を借りて、自分も地に溶け込んでいたからね」
そんなことまで出来るとは……。
ラウルとはあまり知った仲ではない。何故なら数年前まで敵対していたからだ。彼もまた、闇に囚われていた身なのだが、今はそんな話をしている場合ではない。
「俺たちがダーラムの門を出て南へ下ろうとした時に、片方がトア・ル森の方向へ飛んでいくのを目撃した。シェラがそいつの後を追い、俺はもう片方……キルスの元へ行ったが、会うなりいきなり斬りつけてきやがって……」
と、アルスは兄を一瞥した。傷を覆っていた水が無くなっていて、薄らと目を開けたのである。
ラウルもそれに気づき、そばに寄って患部を確認する。
「ん、綺麗に塞がってる。もう動いても大丈夫だけど、正気に戻ってるか?」
しばしラウルと兄は見つめ合った。緊張が走る。やがて、兄がため息をついた。
「俺は……何を……」
「囚われてたよ、闇に」
「……そうか。……そうだ、あいつの……ヴァルストの闇に囚われた。完全に洗脳される前にシェイドを逃したが……」
「シェイド……!?」
思わず身を起こしかけたのをラウルがこちらを見ずに左手で止めた。アルスの腕には、まだ水色の物体が残っている。そっと頭を地につけた。
「お前……シェイドを刺したのか?」
怒りのこもった声に兄はアルスを見た。今存在に気づいたかのように、目を見開いた。
「アルス……!」
起き上がるも、目眩を起こして倒れかけた。ラウルが支える。
「ダメだよ急に起きちゃ」
ラウルの優しい声が、張り詰めた空気を少し和らげた。ゆっくり寝かされ、キルスはため息をつく。薄らと淡い紫色の靄が、少しだけ兄の頭上にかかっていた。
「あなたが彼方へ吹っ飛ばしたヒト……シェイドは、おそらくトア・ル森にいるって。向かったヒトがいるから、運良く辿り着いてるといいけど」
そうか、と小さく呟く兄の表情が、酷く憔悴していた。
「……シェイドはもう、絶えているかもしれん。俺が重傷を負わせた上、ヴァルストに血と魔力を奪われた。ヤツの闇に囚われていたとは言え、俺は……」
取り返しのつかない罪を犯した、とアルスが代わりに吐き捨てるように言った。キルスと目が合う。いつも鋭く見下すような視線なのに、今は絶望感で満たされていて妙に気まずかった。
「奇跡的に生きていたとしても、俺はお前を許さない」
兄には濃い紫の靄が見えているはずだろう。目を細めて口を硬く閉じ、眉間に皺を寄せて低く唸った。
「アルスも落ち着いて。正気に戻ってるみたいだし、これからキルスにも協力してもらおうじゃない?」
ラウルはそう言って、不意に笑みを浮かべた。
「私はその黒い靄……ヴァルストを屠るつもりだ」
直球過ぎてアルスもキルスも目を瞬かせた。ラウルは続ける。
「靄を目撃したヒトたちの話をあちこちで聞いてきたけど、どうもアイツは聖なる国を相当恨んでるみたい。ヒトの心の闇を吸収しては『ホーリアに制裁を』って呟いて去っていく……。みんなそう話してた。何でそんなに恨んでるんだろうね?と不思議に思うヒトもいた」
腕組みをし、瑠璃の眼はキルスをちらと見た。
「アイツ……ヴァルストと同じような眼をしているあなたたちは、同族だと見て間違いなさそうだけど、ホーリアに恨みを持つほど何かされたの?」
兄はハッと何かを思い出したようだった。
「はるか昔、エフーシオという国が天空界にあり、ある時ホーリアに滅ぼされたと聞いた記憶がある。まさかその復讐か……?」
「そんな昔の出来事を、今になって復讐しようとしてるの、アイツ?どんだけ執念深いの」
アルスはふと、ヘイレンが時を超えてこの世界に来たことを思い出した。いまだに信じられないが、これが事実なら、ヴァルストもまた時を超えて来たことになる。
遠い過去、それこそエフーシオがまだ存在していて、滅ぼされる瞬間を生きていたジンブツだとしたら。
自ら時空を裂いて時を超え、現代にいるとしたら。
「時空の……裂け目……」
アルスのつぶやきに、2人がハッとする。
「まさか……天、地、水界に同時に出現したってやつから出てきた可能性?」
「ヘイレンが時空の裂け目からこの世界へ来たって言っていた。黒い靄のヤツ……ヴァルストを追いかけてここに来たって……」
「……それ、ほんとなの?」
「俺もまだ信じられないんだがな……。だが、ヘイレンが嘘を言っているとも思えない。記憶も断片的に戻ってきている。『復讐』の言葉がきっかけになったみたいだ」
アルスはヘイレンが思い出した『記憶』の詳細を2人に話す。キルスはずっと空を見ながら、ラウルは腕を組んでじっと聞いていた。
「……まあ、彼は純粋の塊みたいな存在だし、疑ってもしょうがないでしょ。で、ヴァルストが時空の裂け目からやって来たジンブツで、そいつは過去のヒトだと過程すれば……エフーシオが滅びる瞬間を目の当たりにしたかもしれない、ということだな」
「それで復讐を……か」
ラウルの過程にキルスがつぶやきつつ、ゆっくり身を起こした。
「ヴァルストが過去のジンブツで、時空を超えて現代にいる。エフーシオの生き残りはいない、という歴史は違っていたのか……?」
「そもそも、滅びたはずの『黒の一族』が目の前に2人揃っている時点で、『生き残りはいない』は誤りだよね。誰がそんな歴史にしたのやら……」
ラウルはやれやれとため息をついた。歴史のことは今は置いといて、と言いつつ、アルスの腕を一瞥する。
つられて自分の腕を見たが、まだ微妙に水の膜が張っていた。
「随分と酷くやられたのか、治癒力が乏しいのか。いい加減無くなっててもいい頃なのに」
ラウルは近くまで来ると、じっくり右腕を観察し始めた。試しに指を動かしてみると、電気が走るような痛みを感じ、思わず眉間に皺を寄せた。
そろそろ起き上がりたい気ではあった。それを察したのか、ラウルが腕を気にしつつそっと起こしてくれた。……腰が痛い。
水の膜はするりと落ち、地に吸収されてしまったが、焼けた跡はほとんど消えていた。もう一度指を動かし、肘も曲げてみる。さっきの痛みは無かった。
「大丈夫そうかな?」
アルスはラウルの問いに頷き、ゆっくり立ち上がって伸びをし、身体を軽くほぐした。キルスも立ち上がる。袖の破れたコートを拾いながらアルスは聞いた。
「ヴァルストを探さねえとだが、ラウルはこれからどうするんだ?」
キルスが正気に戻ったことは、闇の鎖が消えた時点でおそらく気づいているだろう。再び洗脳しに接触するかもしれないが、シェイドの力を奪い取っているので、既に聖なる国ホーリアへ向かっている可能性もある。
「私はキルスと行動を共にする。ヴァルストがまた捕らえに来るかもしれないしね……。そのタイミングで屠れたら……なんて思ってもいるし」
アルスはちらと兄を見る。黙ってラウルを見下ろしている。身長差があるせいだが……風の国ヴェントルの王ウォレスよりもデカい体格は威圧感を覚える。
「……俺は協力するとは言っていない」
兄はそう言うと、身を翻した。
「どこ行くんだよ?」
アルスは去ろうとする兄を止める。このまま行かせていいのか?洗脳から解けたとしても、コイツは「世界を支配する」と言ったヤツだぞ。また言い出して行動に移す可能性は十分にある。
咄嗟に回り込んでキルスの前に立ち、鉤爪を出して首元に突きつけた。兄は怯むことなくアルスの鉤爪側の手……右手首を掴み捻り下ろした。ミシッ、と嫌な音と激痛が走り、その場でくずおれた。
ラウルが慌ててアルスに駆け寄った。骨だけは異常なほど頑丈なので折れてはいないと言うと、少しホッとした表情を見せた。そうしている間に、キルスは黒い靄と共に姿を消してしまった。
一瞬でいなくなったことに、ラウルは唖然とした。
「もうアイツはほっとけ。またヴァルスト側に付いてたらぶちのめせばいい」
右手を軽く振りながら立ち上がり、ため息をつく。
「キルスの力、相当強そうなのになあ……。結局はヴァルストに付いちゃうのかな」
残念そうなラウルだったが、まあいいかとすぐに切り替える。
「一旦ダーラムに戻る?そのコートもそうだけど、服の替えはある?」
いろいろ気にかけてくれるが、アルスは考えるのが面倒くさくなっていた。それを察したのか、ラウルは黙ってアルスからそっとコートを取った。そして、戻ろうか、と言いながら歩き始めた。