第3章-3
恐怖と苦しみが押し寄せてくる。
必死に呼吸をしているつもりだったが、息を吐くことができなかった。これ以上吸えないのに、吐くことを忘れて吸い続けていた。
誰かが自分の名前を何度も呼んでいるようだが、わからない。視界は真っ暗。このまま死ぬのかと思うと、余計に怖くなる。
『死ぬ』感覚ってこんなに苦しくて怖いんだな……と、客観的に見る自分がいた。
と、徐々に苦しさが無くなっていった。すうっと吸い出されていくような感覚だった。妙に首元が暖かい。誰かの手が添えられているような……。
ヘイレンは自然と息を吐いた。
*
手を握られている感覚が戻り、ヘイレンは薄っすらと目を開けた。
右側にはシェラ、左側にはなんとアルスがいた。
「ヘイレン……!?」
手を握っていたのはシェラだった。安堵の表情を浮かべ、頬を伝うものを拭っていた。アルスもため息をついて、座っていた椅子にもたれかかった。
ヘイレンはゆっくり起き上がる。目眩はなく、身体も軽くなったように感じた。
聞くと、丸一日眠っていたという。その間、シェラはエクセレビスに再び向かい、ウォレスに事態を説明すると、アルスが駆けつけてくれた。軟禁状態は解除されたらしい。
ふとアルスを見ると、少し辛そうな表情だった。目を閉じ、深呼吸を繰り返していた。じわりと汗が滲み出ている。痛みがあるのなら取り除いてあげたい。そう思って手を伸ばしかけた時、シェラが止めに入った。
「ヘイレン、だめ」
でも、とシェラを見るが、彼の眼は鋭かった。思わず手を引っ込める。いつもの優しい眼差しは鳴りを潜めていた。一呼吸置いて、彼は口を開く。
「ヘイレンの癒しの力は、アルスにとって……毒だ」
「え……毒……ってどういうこと?」
毒ということは、体力を奪い、傷つけ、最悪死なせてしまうということだ。「アルスにとって」という意味がわからない。
「属性には相性があるんだ」と教えてくれた。例えば、火と水は相性が悪い。水をかけると火は消えるから。その水は電気を通すので、雷属性には弱い、など。
「聖なる力はどういう力だったか覚えてる?ダーラムに戻る時に話したよね」
ヘイレンは必死に記憶を手繰り寄せた。聖なる力は清めの力。邪気や闇を消す……そう話していた。
闇。ハッとしてアルスを見た。
「闇……属性なの……?」
召喚士は黙って頷いた。
「え、待って、ボクの力って……聖属性なの?」
その問いにも同じように頷く。
自分の力は聖属性だったのか……。実感がわかないが、シェラの言うことは不思議と受け入れられた。
「そしたらボクは……アルスを助けられないんだ……」
ひどくショックを受けた。その言葉にアルスが顔を上げた。
「だから、お前を突き放した。言い方はその……キツかったことは謝る。だがその力を使われたら、俺は……」
「やめて!」
ヘイレンはアルスの言葉を遮った。とても、とても悲しくなった。虚しくなった。頭を抱えて唸った。抑えたかった感情が溢れ出す。
ボクは、ボクの力は、アルスを傷つける。たくさん助けてくれたアルスを、癒しの力で殺してしまうかもしれないなんて!そんなの……あってはならない。
ショックが呼吸を荒くした。身体が震えだす。シェラが慌ててヘイレンを抱きしめたが、もうどうしていいかわからなくなっていた。
涙が止まらない。シェラの腕の中で、声を上げて泣き続けた。
「どうしたらよかったのかな……」
泣き疲れて眠ってしまったヘイレンをそっと寝かせたシェラは、彼を見つめながらつぶやいた。
不安と戸惑いの靄が纏わりついていた。アルスも途方に暮れる。ヘイレンから吸収した『心の闇』は、まだ自分を痛めつけている。心の臓が疼く。
アルス自身も、海岸で保護した時にヘイレンが聖属性なのではと感じていた。彼の不安の闇を取り除いたあの時に。ただ、側にいるだけでこちらの体調が悪くなることはなかったのと、記憶喪失に陥っていて話したところで混乱させるだけだと思って話さなかった。
ヘイレンが今ここでショックを受けるのは必然的だったのかもしれない、と都合良く考えてしまう。
アルスはため息をついた。
「ヘイレンが聖属性の種だと気づいたのは、癒しの力をシェラに使った時か?」
ああ、と頷く召喚士。
「その時に話していても、同じようにショックを受けていたと思う。アルスにも会いに行かなかったかも……」
俯いて拳を強く握る。右手のガントレットがギュッと小さく音を出した。
ウィンシス城で再会した際に、シェラは『ヘイレンには癒す力がある』と話していた。が、それだけでは正直何に属しているのか判断できない。水属性や風属性にも癒す力は存在する。聖属性だと確信していたのは、その力を受けたシェラしかいない。
ヘイレンの力がアルスにとって毒であることをわかっていたのかいなかったのか。そのことを問うと、シェラは首を振った。
「あの時は……僕も冷静じゃなかった。ヘイレンがアルスの力になりたいって決意を強く感じたし、突き放そうとするアルスにちょっと……イラついた」
「それで聖属性だってことを棚に上げたのか?」
シェラは視線を寄越さなかった。ただ俯いて、拳を振るわせていた。アルスはため息をつく。
「……まあ、俺に力を使った時に気づくより、今知ってショックを受けてもらっといたほうがマシだと思ったがな。殺してからじゃ遅いしな」
『殺す』の言葉にシェラはようやく顔を上げ、こちらを睨んだ。なぜ睨むのか。
「何だよその目は……」
どうしてか靄が濃くなった。明らかに怒りを込めた視線に、少々たじろいだ。
しばらく睨み合う。シェラの呼吸が揺らぎ始め、空色の眼が潤んでいった。
「思ったことを言ったまでだ。何をそこまで怒ってんだ?また言い方悪かったか?」
言うと、シェラはそっぽを向いてしまった。ああ、と声を漏らして顔を両手で覆って項垂れた。
ヘイレンの属性の事を今まで話さなかった自分が許せないのか、アルスの言い方が許せないのか。その両方かもしれないが、シェラの心の深淵に潜む『自己嫌悪の闇』が彼を包んで見えなくなりそうだった。
こうなると自傷しかねない。アルスは痛む身体に鞭を打ちそっと立ち上がる。シェラの背に向けて目を閉じ、右手を突き出し力を込めた。
目を見開いてシェラを睨むと、右眼が熱くなるのを感じた。闇が勢いよく右手に吸い寄せられていった。腕を伝い、心の臓に流れ込む。シェラはあっ、と手を顔から離して振り向いたが、そのまま固まってしまった。
あっという間に彼が纏っていた闇を吸いきった。よろめき、椅子に足が引っかかり、盛大に転けた。床に打ちつけられた痛みよりも、闇を取り込んだ痛みの方がはるかに強かった。
己の傷や魔力を回復させるのに、なぜ痛みを伴うのか。矛盾している黒魔術が憎かった。汗がどっと噴き出てくる。身体が熱い。それなのに、震える。
アルスは痛みに耐えることに必死だった。浅い呼吸で息苦しいが、とにかく耐えねばならない。……右眼まで疼き出した。胸と目を手でそれぞれ押さえて、ただひたすら耐えた。
その様子を、闇から解放された召喚士が驚愕の眼差しで見つめていた。
二度も続けて『黒の一族』特有の黒魔術を見てしまうと、確信せざるを得なかった。
ヘイレンを傷つけてしまった事に対する自己嫌悪やアルスの言い方に怒りを覚えていたはずなのに、今は心が穏やかになっている。
力が入らなくて動けないが、意識ははっきりしていた。確か『心の闇』を取り除かれた側は一時的に意識を失うはずではなかったか。
ダーラムの図書館の『天空史』コーナーにあった、『黒の一族』にまつわる文献を読み漁ったことがあった。……随分と前のことだが。その知識がまさか活かされる日が来るとは……。
文献とは違う結果になったことが不思議だったが、それよりも床に倒れ込んで苦しむアルスが心配だった。
目を閉じて息をゆっくり吐きながら念じる。動けるようになってくれ、と。ひんやりと何かが身体を持ち上げた。見ると、エールがそばにいた。無力な足に氷の息吹がかけられると、少しずつ踏ん張る力が戻っていった。
ようやく歩けるまでに回復してアルスの元へ駆けつけた頃には、彼も苦しみから解放されて起き上がっていた。あぐらをかいて真っ直ぐ前を向く眼は、左右色が違っていた。
「……アルスのその眼、しっかり見たのは今日が初めてだよ……本当に……『黒の一族』だったんだ……」
シェラは力が抜けてその場にへたりこんでしまった。
「……この一族はヒトの心の闇や魔物の血肉を喰らって生命力を高め、魔力を得る。そしてヒトビトを支配する。祖はそうしてエフーシオの先住民を奴隷に置いて、国を発展させた」
突如、アルスが語りだした。視線はシェラではなく、何もない壁を見つめていた。
「闇を取り込む己の心が弱ければ、逆に闇に取り込まれて自我を失う。そうなれば二度と、正気に戻らない」
瞬きもせず淡々と語る姿に身震いした。それこそ闇に取り憑かれたかのように……。
シェラは咄嗟にアルスの両肩を掴んだ。すると我に返ったのか、ハッと目を剥いた。オッドアイをじっと見つめる。アルスは目を見開いたままだったが、しばらくして数回瞬きをし、シェラと目が合った。
「……大丈夫?」
そっと声をかけてみる。ややあって、ああ、と弱々しい声が返ってきた。
「俺……闇に……囚われかけた……か……」
そう言うと、溜息をつきながら右手で右目を覆いながらやや俯いた。
この重々しい空気を何とか変えたくて、シェラは部屋の隅にあるキッチンに向かった。
棚の中にあった紅茶葉の袋を取り出し、片手鍋に水を入れて火にかける。ポットの茶こしに茶葉を入れてお湯ができるのをじっと待つ。
「……シェラ」
突然アルスに呼ばれてびくっとした。見ると、彼は立ち上がりこちらに来ていた。
「どうした?」
少し距離を置いて立ち止まる。俯く彼を、シェラは黙って見守っていた。
「……すまない」
自分が『黒の一族』の末裔であったことを今まで隠していたこと、その一族の黒魔術は扱いを誤ると災いに転じること、それを恐れてヒトと関わりたくなかったことと、ぽつぽつと話した。そして。
「ヘイレンに、俺とはもう関わるなと伝えててくれ」
そう言って部屋を出ようとしたのを、腕を掴んで止めた。振り解かれそうになるのを必死に抑える。
「そういうのは自分で言え!」
凄い剣幕で叫んだのか、アルスは目を丸くした。腕を掴む手が自然と強まる。背後でこぽこぽと湯が沸いたと片手鍋が知らせていた。
掴んだ手はそのままに、ドアに向かって氷の魔法を放ち、出口を無理やり塞いだ。アルスは唖然してそれを眺めていたので、そっと手を放し、ゆっくり振り返って火を止めた。
大きい溜息をひとつついて、片手鍋の湯をポットに注いだ。ふんわりと爽やかな香りが鼻腔をくすぐる。
「……ミントティー淹れるから、その辺に座って」
静かに言うと、アルスは素直に従った。出ていく道を断たれたからだろうか。
蒸らしている間に、カップを3つ用意する。アルスを一瞥すると、彼はぼんやりとヘイレンを見つめていた。その眼差しはどこか憂いを帯びていた。
2つのカップにミントティーを注ぎ、アルスの側のテーブルにそっと置いた。空いてる椅子に座り、少し冷ましつつ口に含んだ。すっきりとして、ほのかにスッと冷えのような感じが喉を通っていく。
アルスも黙ってカップを取ってそっと飲む。冷ます様子が見られなくて目を剥いた。
「熱くないの?」
思わず声を掛けるが、平気な顔をしてこちらを見た。
「……別に」
ぼそっと小声で言い、視線を外された。重い空気は一向に軽くならない。この後ヘイレンが目を覚ますまで、お互いに話すことはなかった。