気が付いたら初夜でした…え?貴方も!?
激しい雨が幌を突き破らんばかりに打ちつける。
整備の手が回っていない山道を走る馬車は勿論揺れも激しく、冷え切って動きの鈍い私は何度も荷物に体をぶつけ擦り傷まであるほどだ。
この山を越えればあの人の領地から出て、たった一人の私になる…ううん、私はずっとたった一人だった。
父も母も、親族ももういない。愛する人はいたけれど、心を通わす事はできなかった。
「…あの人が、幸せになりますように」
神様の手はきっと領地を越えるとは思うけれど、近い方が届きやすいかもしれない。
だったらせめて愛するあの人が治めるこの地にいる内にたくさん祈ろう…そう思って手を祈りの形で組み、目を閉じた。
次の瞬間馬車は大きく傾き、馬の嘶きと御者の叫び声の響く中、私は眼前に迫る自分を覆う…いや、潰してしまうほど大きな荷物に場違いな考えを抱きながらじっと見つめる事しかできなかった。
(…大きいと思ったけれど、婚礼用の鏡台だったのね)
この国では嫁ぐ娘に鏡台を持たせる風習がある。
包みの隙間から見える真新しい木目に刻まれた見事な彫刻は、きっとどこかの花嫁の両親の願いがこもっているんだろう。
(そういえば私の鏡台は…どうなったのかしら…)
鏡台に押し潰され激しい痛みを感じる間もなく、私は意識を失いそのまま死んだ
…………筈だった。
「………え?」
見上げた先には鏡台の木目ではなく、淡い緑色で作られた天蓋。
寝かされているのも粗末な荷台ではなく清潔で柔らかなシーツと真綿で作られたベッドだ。
そして隣には…
「ヴィンスフェルト様…!?」
「アンテノーラ…!?」
何故か同じように驚愕の表情でこちらを見つめる…かつての夫、ヴィンスフェルト様がいた。
記憶の中の彼よりも若く見えるけれど、ふんわりと波打つ薄灰の髪とたれ目がちな新緑の瞳、端正で甘やかな顔立ち…間違えようがない。
どれだけ裏切られてもけして愛する事を止められなかった、最愛の人。
しかしこれはどういう事だろう。
ヴィンスフェルト様と寝室を同じくするなんて奇跡でもなければあり得ない、そもそも私はこの人の領地から出ようとしていたのに。
「私達は離縁しただろう!アンテノーラ、君がどうしてまだここに」
「わ、私は馬車で山を越えようと…ここは?ガリエスのお屋敷なのですか?」
「山?山だって!?どうしてそんな…い、いやそれより、何故そんな格好でっ」
「え?」
言われて目線を下げて自分の身体を見ると、ドレスやワンピースはおろか下着の一枚も身につけておらず一番はしたない部分はシーツで隠れてはいるものの、上半身の膨らみは露わという淑女にあるまじき有様だった。
「っきゃ…!な、え!?待ってヴィンスフェルト様も何故そのような…!」
「は?私の何が…っうわぁ!」
シーツを引っ張って体を隠すとヴィンスフェルト様に掛かっていたシーツがこちらに寄せられ細いながらも均整のとれた体が眼前に…ベッドの中二人して裸なんて、たとえ死ぬ間際の夢だとしてもこんなの恥ずかしすぎる!
「一体これはどういうことなんだ…訳が分からない…」
脇に避けられていたガウンを拾い羽織ったヴィンスフェルト様は頭を抱えて項垂れ、私も同じように頭を抱えたい気持ちは山々だけれど、確信にも似た嫌な予感がする。
先程からチラチラと視界の端に映る頼りない、大半が繊細なレースで占められた純白のそれには見覚えがある。
羞恥に震えながら摘まむと、予想通り女性ものの下着で……最初で最後、たった一度だけヴィンスフェルト様と同衾したあの夜に身につけていたものと全く同じものだった
「ヴィンスフェルト様…」
「…なんだ…?」
「…今日が何年の何日か、おわかりになりますか?」
「今日は…」
ヴィンスフェルト様が口にしたのは、私の記憶と同じ日付。
長く籠っていた別邸から出され、山を越えるよう侍女頭に手配された馬車に乗り何日か過ごしている中の日付…
でも馬車に乗った私が屋敷にいる筈もなければこうしてヴィンスフェルト様とベッドにいる事などあり得ない。
自身の手を見ると、あった筈のアカギレやヒビが無く小指の爪まで磨かれている。そう、結婚式の為に朝から磨き抜かれたあの日のように。
「……ヴィンスフェルト様、落ち着いて聞いてくださいませ。
もしかしたら私達は過去にいるのではないでしょうか?」
「過去に…?あぁ、でも確かにそう言われてみれば君も随分幼く見える…そうだ、結婚した当初はこのように豊かな髪だった…」
髪?そういえば、ヴィンスフェルト様の想い人がショートカットだと聞いて、少しでも好みに沿うようにとバッサリ切ってしまったんだったかしら。
ヴィンスフェルト様の手が伸び、その指が私の栗色の癖毛を一房掬った。そこに注がれる視線が熱を帯びていたり、指先が震えているのは何故…?
「ゎ…私達がこのように褥を共にしたのは、初夜以外にありません。
この下着も、間違いなくあの時に身につけたもの…だとすれば今は…」
「あの日の夜…ということか」
「はい…」
思えば、この天蓋にも部屋の様子にも覚えがあるし何より両親が私の為に残してくれていた鏡台がある。…数回しか使う事はできなかったけれど、確かに私達の寝室だ。
ヴィンスフェルト様も部屋を見回し得心がいったのか大きく息を吐き、小さく良かったと呟いた。
「ヴィンスフェルト様?」
「君が本邸に戻ってきたのではなくて本当によかった…」
「…?どういう意味でしょうか…?」
「……もしこの幸福な夢から醒めたとしても、どうか本邸には戻っては来ないでくれ…死ぬのは私までで充分だ」
ヴィンスフェルト様が死ぬ…?
心臓が締め付けられるような感覚に、胸元を隠すシーツを握りしめた。ヴィンスフェルト様は私の様子をどう思ったのか、目を逸らしながら言葉を続ける。
「…ガリエス伯爵家の者は、皆死んだ。
第二王子と共に国家を危険に晒した大罪人の一族として二日前に捕縛され、当主のアレンは勿論、その奥方や子供も処刑され…私の首にも刃が下りた筈だ」
「そんな…っ!」
「勿論君との離縁は既に成立しているし別邸の所有権も既に売却してあるが、今戻っては危ないかもしれない。
念のため国外へ脱出するよう手配もしていた筈だったんだが、何故山に…」
大罪?処刑?……脱出?
何も知らない、何も聞かされていない。
それにその言い方だと、まるで全てわかっていて私を逃がしたように聞こえてしまう。どうして、だってこの人は、
「…わ、私の脱出を手配できるのなら、何故ご自分にしないのです!愛する人と共に逃げる道もあったでしょう…!」
「…アンテノーラ…?」
「離縁すれば貴方が本当の愛を得られると、そう言われたから私はサインしたのです!貴方が幸せになれるのならと…そう思ったのに…!」
「待て、待ってくれアンテノーラ!君は何を言っているんだ?」
感情のまま腕を振って声を上げる私を抑えるヴィンスフェルト様の顔は今までに見た事がないくらい焦りが見えている。
ずっと貴族らしい作り笑顔か、感情を削ぎ落としたように無機質な顔の記憶しか見せてくれなかったのに。
「ヴィンスフェルト様には愛する女性がいるのでしょう!?
私は先代伯爵の同情によって婚姻を結んだだけの邪魔者なのでしょう!?」
「誰がそんな事を!」
「屋敷の皆が言っていました!同情に胡坐をかいて図々しく居座る厄介者だって!」
侍女から庭師まで、ガリエスの家に仕える者は結婚する前や結婚してからも最初の内は若奥様と親しげに呼んでくれたけれど、日が経つにつれよそよそしくなっていった。
言葉にも棘が生え身支度や食事も手を抜かれるようになり、戸惑ったけれど同情で嫁ぎ正しい愛を引き裂いた身には当然だと思っていた…だから、離縁の話を聞かされた時は心底安堵したのだ、やっとヴィンスフェルト様を解放できると!
それなのにどうして死ぬなんて、生きて幸せになってくれればそれだけでよかったのに!
「アンテノーラ!」
ヴィンスフェルト様の両手が私の肩を掴む。
こちらを見つめる目は真剣そのもので、思わず言葉を失った。
「…一体どうしてそんな話が広まったのかはわからないが、それは事実じゃない。私に愛する者がいるとすればそれは……アンテノーラ、君だけだ」
「えっ…」
「父に連れられた君を一目見たその時からずっと、私の気持ちは変わらない」
「では…どうして初夜の翌朝、私が目を覚ました時にはいてくださらなかったのですっ…!愛する人を裏切った罪悪感に苦しんでいるのだと聞かされ、私は…私は…!」
「こ…幸福すぎて現実のものとは思えなかったんだ!だから熱が冷めるまで屋敷の周りを走りに行った…確かに、今思えば愚かな事をしたと思う」
「……本当なのですか?でも、それから一切褥を共にする事がなかったではないですか…いいえ、それどころか会話や挨拶すら最低限で…」
私の言葉にヴィンスフェルト様は言葉を詰まらせた。
眉を寄せながら私を見て、しばらく目を泳がせると意を決したように口を開く。
「…初夜の後、君が…本当は弟のアレンを好いていると執事から教えられた…」
「……は?」
「君は御両親を亡くし天涯孤独になった為、庇護を受けるように親交のあった我が家に入った。
…年齢が合うから私との婚姻が決まったが、立場上逆らう事ができなかったんだと…アレンの傍にいるために耐えているのだと言われ…」
そんな事を、一体誰が…!
体が怒りに震える、きっと私にもう少し力があれば手の中のシーツを捻じり切ってしまっているだろう。
「最初はたとえアレンに心があろうと君が傍にいるのなら嬉しかった。
しかしやはり距離を感じ少しずつ苦しくなって、褥は勿論言葉を交わす事もできなくなり…黒熱病による両親の死とアレンの結婚で病んだ君が別邸に移った時も、一緒に行く事すらできない臆病者だったんだ」
「…待ってください。私が別邸に移ったのはヴィンスフェルト様のご指示では?」
「は…?私は君からそう請われたと聞いて許可を出したぞ」
「私はそのような事を望んでいません!なにより、アレン様を好いているなんて事実は一切ございません!」
なんだろう、何かがおかしい。
ヴィンスフェルト様の弟であるアレン様に対して家族以上の感情を抱いたことはないし、それを匂わせるような発言や行動をした覚えもない。
そもそもアレン様はかなり内向的な方で、記憶にある限り挨拶以外で言葉を交わしたのは結婚式くらいなものだ。
…それに、何より私が心を傾けるのはたった一人しかいない。
「では、君が本当に好いているのは…」
「私がお慕いしているのはヴィンスフェルト様です!」
ヴィンスフェルト様の手を握り返し、真っすぐに伝えるとヴィンスフェルト様は大きく目を見開き口を何度かはくはくと動かした。
信じられないのかもしれない。私だって、ヴィンスフェルト様が私を愛しているだなんて信じられない。
でも、この思いには嘘なんてひとかけらもない。
親を亡くしこの屋敷に転がり込んできた平民の私にも優しく言葉をかけてくださった、私にとっては太陽のような眩しいお方を想わずになどいられない。
「他の誰でもない、ヴィンスフェルト様を愛しております…これがたとえ死を待つ僅かな間の夢だったとしても、どうかこれだけは伝えさせてください…!」
「そんな…君が、私を…?いや待て、死ぬとはどういう事だ!?
先程山を越えると言ったな、私は船便を手配した筈だぞ!」
「と、隣の侯爵領へ行くように侍女頭から言われ、荷馬車に乗りました…その最中で事故に遭い、気付いたらここに」
「あの治安の悪い侯爵領に?それも荷馬車で…?
私は確かに執事長と侍女頭に君を安全な国外へ連れ出すよう指示し、紋章のない馬車や船の旅券も手配したんだ。一体どうなっている…!」
どうしてこうもお互いの記憶が食い違っているのか。
いや、食い違っているというよりは捻じ曲げられている…誰に?
記憶を辿ってみると、ひとりの女性の顔が浮かんでくる。そう、いつだって彼女がそこにいた。
ヴィンスフェルト様を見ると同じように思い浮かんだ人物がいたのか、眉間に皺を寄せて唇を噛んでいる。
「ヴィンスフェルト様」
「なんだ、アンテノーラ」
「私達が食い違ってしまった原因は、もしかしたら私達にはないのではないでしょうか」
「…私もそう思ったところだ。あまりに作為的で何故気付かなかったのかと悔やまれるよ」
「疑わしい人物はいますか?」
「あぁ、一人いる」
顔を見合わせ、頷き合う。
「侍女頭のダリラです」
「執事長のジャックだ」
思い浮かべた人物は違ったが、それは恐らく性別と立場で仕える人間が違う為だろう。
でも、そのどちらも使用人に対して権力を持ち、また長く真面目に勤めている為こちらも信を置いてしまうような立場の人間だ。
「…手を組んでいるかはわからないが、二人が私達を意図的に不仲に陥らせ、最終的に君を殺したというわけだ」
「殺害まで考えていたかはわかりませんが、そのようですね。
…一体何が目的なのでしょうか」
「目的は流石にわからない…だがそんな追及をしている暇はない。
ここが夢の世界だとしても、いや夢だからこそあんな未来は消し去ってやろう」
力強いヴィンスフェルト様の言葉に私はハッと目が醒めた。
そうだ、今私達は未来を…そしてお互いの心を知ってここにいる。同じように進まなければ別の未来へ行ける。たとえ処刑されるとしても、一人鏡台に潰されるよりはヴィンスフェルト様と死ぬ方が余程いい。
それがたとえ全て夢で、結局一人死んでいくとしても…胸の中にその夢さえあれば何も怖くない。
「そもそもアレンが当主に就いたのは、私が君以外を拒み子を成せなかったからだ。……その、それも今ならば改善できるのではないか?」
「…私が、ヴィンスフェルト様のお子を授かれるのですか?」
「私の子を宿すのなら、君以外にはいない。子を成して当主に就けば第2王子派につく事もせず処刑を避けられるだろう」
「まぁ…!」
なんて明るい未来だろう!
叶わなかった夢を…愛しい人の子をこの手に抱ける可能性があるなんて!
思わず涙ぐむ私の頬にヴィンスフェルト様の唇がそっと触れる。
「今度こそ二人ともに…髪が白むまで生きよう。愛している、アンテノーラ」
「…白髪の時と言わず、どうか黄泉路まで…いいえ、魂の廻りの中でも永久にお傍に。私もヴィンスフェルト様を愛しています」
誓うように口付けを交わし、ぎゅっと二人抱き合った。
初夜を済ませたとは言え、私達の感覚としてはもう10年ほど経っている…久しぶりの抱擁は優しく、心まで溶かしていくように暖かなものだった。
(ヴィンスフェルト視点↓)
日が昇る頃、ベッドサイドに置かれたベルを鳴らす。
しばし待てば寝室のドアがノックされ、入室を促すと侍女頭…いや、この時はまだアンテノーラの専属侍女になったばかりのダリラが二人の侍女を連れ澄ました顔で入ってくる。
「おはようございます、ヴィル様」
「…おはよう、ダリラ」
ダリラは私の乳母の娘で、姉のような存在でもあった。
だからこそ信用してアンテノーラを任せていたのだが、裏切られるとは思わなかった。
しかし、まだこの時点ではダリラは何も悪い事はしていない以上何もする事はできない。だから気取られないよう、いつものように接する他ない…。
「父上達は起きられたかな?」
「はい、まもなく朝食をとられるとのことですがご一緒なさいますか?」
「勿論。あぁ、でもアンテノーラは寝かせておいてくれ」
私の言葉にダリラはほんの少し片眉を上げる。
そうか、こういう些細な変化に気が付けば前も防げていたのかもしれないな。
「…少し無理をさせたからね」
柔らかな頬に口付けると、眠るアンテノーラはくすぐったそうに小さく呻いた。
愛しすぎて、正直前の私と同じように走りに行きたいような気もするけれどダメだダメだ。夜通し話し合って決めた作戦じゃないか。
「…どうぞ、お召替えを」
「あぁ、頼むよ」
私達は差し当たって、ダリラやジャックにつけ込まれないようお互いに愛し合っている事をアピールする事に決めた。
眠るアンテノーラの頬にキスしたのはダリラは勿論、一緒に入ってきた侍女達の目にもしっかりと映っただろう。
これを続ければ少なくとも私に『心から愛する者がいる』ことにはならないし、『愛する者を裏切った罪悪感で苦しんでいる』なんて事にもならない筈だ。
地道だが私達二人の愛を守るには一番確実な手段と言える。
身支度を整えた私はさっさと私室を出て、食堂へと向かう。
部屋を整える為ダリラ達は寝室に残ったが、二人きりでないなら大した事はできないし問題はない…だろう。
「おはようございます…父上、母上」
「うむ」
「おはよう、ヴィル」
もう既に食堂についていた両親を前に、私の心は震えた。
流行り病で死んだ筈の両親がそこにいるのだ…震えない方がおかしい。
線が細く頼りなくも見えるが領主としての威厳を確かに備えた父も、父をしっかりと支えながら屋敷を取り仕切る母も、記憶のまま元気にそこにいる。
胸が熱くなって、その衝動のまま声を上げたくなるのを抑えながら席に着くと朝食が運ばれてくる。
朝が弱いアレンがいないのは当然だが、アンテノーラがいないのに気付いた父が声を上げる。
「アンテノーラはどうした」
「まだ眠っております。昨日は結婚式でしたし…疲れたのでしょう」
「そうか…無理させてはおらんな?」
「ぐっ…ま、まぁ…昼食はご一緒できると思いますよ」
「ははは、仲睦まじく結構なことだ…これは孫の顔も案外早いかもしれんなぁ」
「あなたったら、朝食の席でする話ではなくてよ」
そう言いながらも母の顔は楽しそうだ。
前の時はこんなやり取りあっただろうか…あぁ、そうだ、そもそも前の時はアンテノーラがいて、席に着くや否や体調を崩したと中座してしまった筈だ。
…そういえば、前のアンテノーラは何故朝食の席であんな華美なドレスを着ていたんだ?
「昨日の結婚式でのアンテノーラは本当に美しかったわねぇ」
「え?えぇ…本当に」
記憶の違和感を辿ろうとした私を、母の言葉が引き戻す。
「ドレスも良く似合っていて…あぁ、そうだわ。義理とはいえ母娘になれたのだから、記念に今度二人でドレスを仕立ててもらおうかしら」
「おぉ!それはいい、アンテノーラも喜ぶだろう」
「…今までは遠慮してなかなか新しい物は受け取ってくれなかったけれど、やっと家族になれたんですものね。
私、今まで以上にアンテノーラを可愛がってしまいそうだわ」
「ははは。私の花嫁なのですからほどほどにしてくださいね、母上」
アンテノーラは結婚前からもう何年もこの屋敷で暮らしている。
出入りの商人であり友人としても交流のあったアンテノーラの父とその奥方が揃って事故で亡くなった日からずっと…。
父も母も同情抜きにアンテノーラを非常に可愛がっていて、だからこそ後継者である私の花嫁として据えたんだろう。
「もうじき冬が来る、ドレスと一緒に揃いのケープも仕立てるといい。
ついでに執務室に敷くブラン織の敷物も君のセンスで選んでくれると嬉しいよ」
「かしこまりましたわ」
「母上、アンテノーラの帽子もお願いしても?」
「勿論よ。あぁ、貴方のも仕立ててこようかしらね」
伯爵領は王国の北側にあり、グメル湖という大きな湖を有している。
冬の寒さは王国で一、二を争うほど厳しいと言われており王都とは文化も大きく異なっていて、毛皮に特殊な糸を織り込んだ防寒性の高いブラン織が名産だ。
…が、名産とはいうもののブラン織は国内外での知名度も低く、厳しい寒さは観光客も寄せ付けない。
他の土地に比べどちらかと言えば貧しい部類に入るが、自分にとってはかけがえのない故郷だった。
ガリエス家を失った後、伯爵領はどうなったんだろうか。
隣接する王領に併合されたかもしれないし、別の領主がやってきたかもしれない。…領民が苦しい思いをしていなければいいのだが。
(でも、勿論今この世界では私が守ってみせる)
決意を新たにしながら朝食のスープに手を付けると、丁度そのタイミングでガシャンと耳障りな音が響いた。
「何の音だ?」
「……二階からですね」
二階には家族の寝室と執務室がある。
聞こえた方向から考えて南側、両親の部屋ではなくアレンか私達の寝室の方だ。
前はこんな事なかったが、なんだか胸騒ぎがして両親に断りを入れ足早に自分の寝室へ向かう。
「何の騒ぎだっ」
自分の部屋にノックをする必要もない為そのままドアを開けると、そこにはさっきまでいた侍女二人はおらず、ダリラとアンテノーラだけがいた。
「ヴィル様、こ、これは…!」
眠っていた筈のアンテノーラはお茶会にでも行くようなドレスを身につけ事もあろうに床にへたり込んでいて、その側には割れた…恐らく水差しだろうガラスが散乱している。
ダリラはそのアンテノーラの腕を掴んでいたが私の入室に気付くと慌ててその手を離す。
「…ヴィンス、フェルト…様…」
アンテノーラは青い顔を苦し気に歪めている。
結婚式から初夜をこなし身体的に疲れている所に記憶が戻り、夜遅く…いや、朝早くまで二人で未来への対策を話し合っていたせいで寝不足にはなっているだろうが明らかにそれ以外にも原因があるような様子だった。
駆け寄ってその体を抱き上げると、私の服の裾を掴み小さく安堵の息をつく。
その唇がほんの少し意味ありげに笑ったのは私以外に見えていないだろう。
「ヴィンスフェルト、何があったのです」
私の後を追ってきた母は部屋の状況や棒立ちのダリラを冷ややかな目で見つめ、その後私に抱えられたアンテノーラを見ると心配そうに眉を寄せた。
「…ヴィンスフェルト、アンテノーラをベッドへ寝かせ別室でダリラから話を聞いてきなさい。カリナ、アンテノーラの介抱を」
「はい奥様」
家の中の事は基本的に母の領分だ。アンテノーラの事が心配ではあるが任せる他ないだろう。
母の専属侍女カリナははすれ違う私に一礼すると母の元へ向かい…ダリラは言い訳を考えているんだろうか、みっともなく爪を噛みながら私の後についてくる。
「一体何があった。嘘偽りなく話してくれ」
「…ヴィル様、実は」
食堂では父がまだ食事をとっている筈なので、人がいないサロンに向かいダリラへ問いかけると化粧でしっかりと固められた顔に涙を浮かべ言い訳を始めた。
…曰く、私が部屋を出た後すぐにアンテノーラが目を覚まし朝食の事を伝えると自分も行くと言い始めドレスを着せるよう申し付けられた。
顔色が悪かった為心配だったが命令通りドレスを着付けると、態度が気に入らないと言われ水差しを投げられた、と。
「アンテノーラが床に座り込んでいたのは?」
「落ち着くようにお声を掛けたのですが、お疲れの所に興奮されたのが障ったのか眩暈を起こされて…」
「お前が腕を掴んでいるように見えたが」
「起こそうとしたのです」
「………」
後でアンテノーラからも話を聞くつもりだが、きっと全く違う話が聞けるだろう。
なにせアンテノーラを殺したも同然の女だ、嘘で保身くらいは息をするようにしてのける筈…たとえ、姉のように育ってきた人間だとしても、アンテノーラを害するのなら紛れもない敵だ。
「ヴィル様…」
涙で濡れた視線とねっとりとした声に寒気に似たものを感じ、頬が引きつりそうになるのを堪えたがその微妙であろう表情をどう捉えたのかダリラは嬉しそうに笑う。意味が分からない。
「…わかった。退室してくれ」
しつこく何度も礼を言いながら去っていったダリラと少し間があって入れ違いに入ってきた母は笑顔もなく、怒りを滲ませていた。
「母上、アンテノーラは」
「落ち着いて休んでいるわ。カリナがついているから安心なさい。…ダリラはどう言っていたの」
ダリラの話を聞いたまま伝えると、母は苛立ちを吐き出すように大きなため息をついた。
「…貴方はダリラに懐いていたけれど、アンテノーラとダリラどちらを信じる?」
「勿論、アンテノーラです」
間髪入れずに答えた私に母はほっとしたように眉間の皺を緩める。前の私だったらどう答えていただろうか、アンテノーラの事を愛していてもダリラの事を信用しきっていた自覚はあるのでここまで早く答えていたかはわからない。
…もしここでダリラを信用すると答えていたら、母の中で私に対する見方が変わっていただろう。
「まずアンテノーラの体調不良の原因だけれど、原因はコルセットの締めすぎで後に残るようなものではないわ」
「コルセット…屋敷でですか?」
ガリエス家はれっきとした貴族ではあるが王都から離れているせいかマナーに関して割と緩く、客人のいない朝食の席でコルセットを締めなければいけないような家ではない。
思わず目を向けてしまったが母もコルセットを締めるようなドレスではなくゆったりとしたワンピース姿だ。
「朝食だからと揺り起こされ、着替えを任せたら腰の細いドレスを出してきてコルセットを締められたそうよ」
「私も見ましたが、あのドレスは茶会用か何かでしょう」
「えぇ。今はコルセットも外して服も楽なものに替えさせたわ。
…アンテノーラに合わせて仕立てたドレスだというのに、コルセットを締めすぎて腕が入るほど余っていたのよ。あれだけ締めればあんな顔色にもなるわ」
確か侍女が二人いた筈だが、あの場にはいなかったし話にも出てこないと言う事はダリラが体よく追い払ったということか。
……本当はもう少し様子を見てから手を打とうを思っていたけれど、母が絡んでくれているのならこれ以上泳がせる必要もないな。
「ダリラはよく仕えてくれましたが、アンテノーラとは相性が悪いようですね」
「えぇ。少し若いけれどカリナの双子の娘が揃って優秀だから、候補としてしばらくつけてみるわ」
「よろしくお願いします。…ダリラの配置はどこへ?」
「…それが困るのよね。アンテノーラもかなり怯えてしまっているし、どこか別の家に出せたらよかったのだけど…」
伯爵領は栄えているわけではない。
雇用の受け口も限られていて、ブラン織の職人をはじめ家々で決まった仕事に就くことが多くダリラの家も代々伯爵家の使用人として皆仕えてくれている。
若ければ別の仕事の選択肢があっただろうが、20を越えた歳で職を失うのはなかなかに厳しいだろう。
「婚約か結婚でもしていればいいのだけど、そういう話は聞いていないし…あぁ、そうだわ。マーガレットに任せている別邸に置くのはどうかしら?」
ダリラの母マーガレットは私の乳母であり、かなり厳しい人物だった。
厳しいとは言っても正しい目を持ち弁えたものだったが、誰に対しても均等に厳しい為ダリラやその姉達と纏めて叱られ尻を叩かれ泣いたのも数えきれないほどあり…
一度とはいえ次期伯爵夫人に危害を加えようとした娘に対してもきっと容赦なく叱りつけるだろう。
別邸はかつての領主が第二夫人を迎える際に第一夫人との軋轢を防ぐため建てたもので、今いる本邸からは少し離れているというのも丁度いい。
「いいと思います」
「ではそうしましょう。別邸への異動は貴方から伝えなさい」
「私がですか?」
「えぇそうよ。貴方は気付いていなかったようだけれど、かねてよりダリラは貴方に対し使用人ではない距離感を持っていました。
主と使用人として、適切な関係性を保つために線引きをしなさい」
「そうですね…私も話を聞いている時、改めて違和感を覚えました。
今まで気付かず、申し訳ありません」
「長く近くにいる者を信頼するのは仕方がない事……しかし、それが自身にとってどのようなものなのか見極めるのが肝要なのです」
「はい」
きっと母は過去でも同じように考えていた。
現場が露呈した今は直接的だったが、もしかしたら過去も遠回しに伝えてくれていたのかもしれない。
でも、きっとそれを聞き入れるだけの余裕が、自分にはなかったんだろう。
「は?別邸、ですか?」
「そうだ。引継ぎや荷造りが終わったらマーガレットの補佐として別邸にいってくれ」
「そんな…どうしてっ」
「今朝の事を双方の話を聞き決めた事だ…アンテノーラも随分と怯えている。
相性がよくない者を専属にした所で双方が苦しむだけだろう?」
「怯えてるなんて嘘です!そもそも私はヴィル様の…!」
「私の、なんだ?」
アンテノーラが怯えているのは確かに半分は嘘だった。
怖かったがチャンスだと思い大袈裟にした、とあの後本人から聞いた時は不謹慎にも笑ったものだが、それを今言うつもりはない。
「ゎ…私とヴィル様は、幼い頃から一緒に過ごしてきて…」
「乳母であるマーガレットがお前の母だったからな、お前の姉達とも一緒によく遊んだ…懐かしい思い出だ。
けれどお互いもう成人して働いている。子供の頃の思い出をいつまでも引きずるわけにはいかない事くらいわかる筈」
「でもっ」
「でも、ではない。もう既に決められた事だ。
勿論ずっと別邸ではなく、アンテノーラが落ち着いたら戻る事もあるだろう。マーガレットの元で邸の管理などを学んでくれればいずれは侍女頭にも…」
「…べ、別邸に行ったら、ヴィル様のお傍にいられなくなっちゃうじゃない!そんなの嫌よ!ねぇ!ヴィルだって私がいないと寂しいでしょう!?あんなに一緒に過ごしたじゃない!」
未来を知っている私個人としては本邸に戻すつもりはない。だが、一度のミスで切り捨てるのは他の使用人への心証が悪い。
邸の管理を勉強する為の異動だという事を説明するが、ダリラは恥も外聞もなく私に縋りついた。
敬語を忘れ床に膝をつき私に縋りつくダリラは姉のような頼りがいのあるイメージからかけ離れていて、自分の中にまだかろうじて残っていた彼女への気持ちがみるみる内に萎んでいく。
この私への執着心が、前のアンテノーラを死に追いやったのか。
冷えた頭の中に湧くのは軽蔑と怒りだった。
「…悪いが、使用人として弁えられないのなら別邸にも置くことはできない。母にもそのように伝えさせてもらう」
「どうして!どうしてそんな冷たい事を言うの!?ねぇ!あの女が来たから!?」
「お前が自分の立場を理解しないからだろう。アンテノーラは何も悪くない」
「嘘よ!あの女のせいで!私がヴィルの横にいる筈だったのに!」
「主人になる者の言葉も嘘と断じるか…。残念だがこれ以上何も言う事はないし、その危険な思想を持ったまま屋敷の中置く事もできない。今すぐに自宅へ帰ってくれ、荷物は後ほど届けさせる」
これ以上アンテノーラに危害を加えられたらと思うと気が気じゃない。
体裁も忘れ子供のように地団駄を踏み泣き喚くダリラを使用人に連行させ、大きく息を吐いた。
今まで信頼してきた相手を切る少しのストレスと、歪んだ未来を回避できた安堵が綯い交ぜになって心が乱れかけるのを感じ目を閉じる。
母上に報告をしなければいけないし、その後はダリラにしばらく監視をつけるか、アンテノーラに護衛をつけよう。
マーガレットが責任をとって辞めてしまうかもしれないから、引き留めるなり別の者を別邸に送るなり母の判断を仰がなければ…
自身の役割を考える事で心を鎮めていると、そっと視界に湯気の立った紅茶が差し込む。
「…あぁ、ありがとう…ジャック」
控えていたジャックは私とダリラの会話も全て聞いていた。
ダリラの醜態も勿論見ていたが、特に擁護する事もなく二人の間に連携は感じ取られない。
…ジャックには別の思惑があって、過去のダリラはあの執着を利用されたのかもしれないな。
私に嘘を吹き込み、アンテノーラと切り離したのは何の為だったのか。
「これを飲んだら母へ報告しに行くよ。
いや、その前にアンテノーラに少しだけ会いたいな…」
「若奥様はお部屋で朝食をとられた後、そのままお部屋でお過ごしとのことです」
「そうか、わかった」
ジャックは若いが有能な執事だ。
元々は王都で貴族の屋敷に見習いとして勤めていたが、その家が傾き人員削減で流れ流れて我が家にやってきたらしい。
両親は私の支えになる優秀な人間が雇えたと喜んでいたが、そもそも王都に屋敷を構える貴族がそう簡単に傾くものだろうか?
それにジャック本人の素質もあまりに申し分が無さ過ぎる。
身の回りの事は勿論予定管理も上手く、場や立場に合わせた完璧な振る舞い…容姿だってそれなりに整っているし、何よりも若い。
こんな北の僻地でなくとも働き口はすぐに見つかりそうなものだ。…最初からこの家を狙ってきたのでなければ。
「………あぁ、そう言う事か」
「何かございましたか?」
「いや、なんでもないよ…自分の不出来を再確認しただけだ」
「若様が不出来だなどと、御謙遜を」
記憶を辿り、ちゃんと考えてみればなんてわかりやすい。
過去の自分はアンテノーラへの想いを拗らせていたせいで、目を曇らせ考えに蜘蛛の巣を張っていたらしい。
ジャックのような人間がこんな場所にやってくるなんて、何か思惑があるに決まっているじゃないか。
父はそれを見抜けなかったのかもしれない。
政治や権力争いには関わらず、代々この地を守りながら穏やかに生きて死ぬのがガリエスの領主だ。
王城に行くのも年に一、二度だし懇意にしている貴族もそう多くない。寒いだけで大したうまみのない土地を狙う者がいるなんて思わないだろう。
私だって過去を知らなければ疑うことはなかった。
…過去、アレンが娶ったのは第二王子を産んだ側妃様と縁がある令嬢だった。
一体どこで知り合ったのかと不思議だったが、ジャックの手引きだったのなら納得だ。
元…いや、本当の主人の縁者なのだろう。いざとなれば全部押し付けて切り捨てられる、手頃で使い勝手がいい家として目を付けられていたに違いない。
そして両親が黒熱病で倒れ、嘘を信じ跡継ぎを作れない私は自ら後継をアレンに譲り…中立だった我が家は婚姻関係から第二王子派閥に入った。
とはいえただの王位争いであれば、派閥に属していようと処刑までは行かない。
…あの大発見が、第二王子派の計画すらも狂わせたのか。
何十年かに一度大流行し、その度に多くの被害をもたらす病、黒熱病。
七日に渡り高熱を出す事と、身体中に出来る黒い斑点が特徴で罹患した者はまず助からない。
感染力も高く、一人が出れば村一つ消えると言われるほどで特効薬は見つかっていない。
何度も国全体、ひいては王家まで危機に晒したその病は過去、両親の命も奪っていった。
その特効薬が、ガリエス領から発見されたのだ。
王国全土に広く分布するサンテと呼ばれる実をつける植物がある。
その黄色い実は以前から腹痛の民間薬として重宝されていたが、ガリエス領のグメル湖の周辺にのみ確認された特別なサンテは実が赤く、腹痛ではなく黒熱病に効果があった。
過去にアレンの妻の家が研究者を囲い込み、投資し研究を進め特効薬となったのだ。
…結局、過去の私が生きている間はその薬が広まる事はなかったが。
第二王子派はその薬を公表はしたものの制限をかける事で政治の道具として使い始め、派閥の貴族や力添えを約束した上位貴族にしか渡さなかった。
勿論平民に行き渡る筈もなく、特効薬があるというのに被害は拡大するばかり…やがて下位貴族や平民は蜂起し、第二王子は処刑され派閥であり原因ともなった我が家もまた処刑された。
第一王子は黒熱病の流行が始まってすぐに罹患し亡くなっていた為、生後間もない第一王子の御子が王位につくと牢の中で聞いた。
…今のジャックが薬の事を知っているとは思えない。
まだガリエスの事は何のうまみもない、使い捨ての盾程度にしか思われていないだろう。
「…というのが私の仮説だが、どう思う?」
「…薬の事など全く知りませんでしたわ…そんな非道な事があったなんて」
夜、母によって正式にダリラの処分が下された以外は恙なく終わった一日の終わりにベッドの中で私たちは向かい合う。
起きている間はジャックや他の使用人が傍にいる為、寝室の中でしか未来の話をする事はできない。
「薬を発見した研究者の名前は伏せられている。
恐らく製造技術が確立した後に始末されているんだろう。私は会った事があるが感じのいい青年だったよ」
「…その人はガリエスの民なのですか?」
「あぁ」
「なんとか今の内に保護する事はできないでしょうか?
早い内に研究を進めてもらえば、大流行を抑えれるかもしれません」
「私もそれを考えていた。
ただ、人ひとりを保護して研究を支援するには少し不自然だろう…黒熱病の流行も私達以外は知らないんだ」
今の段階では誰もこの後の悲劇を知らない。
支援するとなれば費用を捻出しなければいけないし、その為の理由も必要になる。
いずれ来る流行の為とは言え確かな効果もわからない不確かな研究をする、というのは曖昧過ぎて父からも賛同は得られないだろう。しかもありふれたサンテについてだ…私費を使ったとしても愚かな事にお金を費やす若夫婦だと噂されるかもしれない。
どうすればいいのか、考えを巡らせる内にふとアンテノーラが口を開く。
「………両親が生きていた頃、ある冬に私は酷い熱を出しまして」
「うん?」
「それはもう大変苦しくて、両親も死を覚悟したそうなのです」
「アンテノーラ?」
「私はどうせ死ぬのなら、と思いずっと食べてみたかったグメル湖の赤いサンテの実を父にとってきてもらったんですが」
「……続けて」
「それを食べると、不思議な事に熱が下がったのです。
両親は奇跡だと泣いて喜びましたが、もしかしたらあのサンテの実は何か特別なものなのでしょうか?」
なるほど、なるほど
仮定と妄言で研究させてくれと頼み込むより、美しい『昔話』としてそのまま母か父に伝えれば私費を使うくらいは仕方ないと目を瞑ってくれるかもしれない。
妻の思い出を大切にする夫というアピールにも繋がる。
「そういえばあのサンテは他のものと色が違うね。
誰か植物に詳しい人か医者を呼んでみようか」
「だったら若い方がいいのではないでしょうか?
現役で働かれる方を私の思い出に付き合わせるなど心苦しいですし」
「そうだね、じゃあ明日の食事の席で話してみよう」
「えぇ、そうですね」
(アンテノーラ視点↓)
結論として、グメル湖のサンテの実に強い解熱効果がある事が判明した。
以前から細々と研究を続けていた薬師の青年…マークをガリエス家ではなく、ヴィンスフェルト様と私個人で保護・支援した結果一年後には薬効が確認され、改めて領主家として支援を開始し量産に向けて原材料となるサンテの実を栽培することになった。
今の所黒熱病の患者がいない為効くかは確認できてはいないけれど、いずれハッキリするだろう。
そしてもう一つ、サンテの実には特別な効果があった。
「さぁ!もう一勝負だヴィンスフェルト!」
「父上…!いくらなんでも元気になり過ぎです!」
「元気はいくらあってもいいだろう!はっはっはっ!」
窓の外から聞こえてくる威勢の良すぎる声に、私も正面に座る義母も苦笑いを浮かべる。
サンテの実に隠されたもう一つの効果…それは滋養強壮と免疫力上昇だった。
解熱剤として使う時は種から精製する必要があるけれど、種を除いた果肉部分を干してそれを煮出した汁を飲むと効果がある。
種を取った後の実を勿体ないからと干して煮出し、甘酸っぱくて美味しいそれを病弱だったマークの弟が飲み体質が改善されたのが始まりで、安全確認を済ませた後に疲れやすいとこぼしていた義父に進めてみたら…
「…まさかこの歳で授かる事になるとは思わなかったわ」
外で木剣を素振りする義父を見ながらお腹を撫でる義母は口ではそう言いながらも幸せそうに微笑んでいる。
サンテの実の煮出し汁によって元気になった義両親の元に新しい命が宿ったのだ。
まだ授かっていない嫁としては少し複雑だけど、おめでたい事には変わりない。
そして寒い土地柄のせいで皆一冬に何度もかかる熱病も、試験的に習慣化させた朝晩に飲む煮出し汁のおかげで屋敷内での罹患者は出ていない。
サンテは実が成るまでが長い為量産化は進んでいないけれど、薬と一緒にこの干したサンテの実も流通させる計画が進んでいる。
記憶によれば黒熱病が流行るのは来年、それまでには薬も干した実もある程度の数を準備できるし隙はない。
「ジャック…じゃなかった、ごめんなさいね?
ミゲル、お義父様とヴィル様をそろそろお止めしてきてちょうだい」
「かしこまりました」
過去に暗躍したジャックは先週解雇された。
マークの研究結果とサンテの種から作った試薬を盗もうとしたらしい…きっと、本当の雇い主の元へ運ぼうとしたんだろう。
アレン様は義父と交流のあった子爵家のご令嬢と婚約が決まって、成人したら婿入りするそうだ。
義父はまだまだ元気だけれど、予定通りあと十年もしない内にヴィンスフェルト様へ家督を譲り、隠居するらしい。
お腹の子は男女関係なく後継には関与させず、自由に育てたいと義母が言っていた。
……何もかも、上手くいきすぎている。
これが幸せな夢なのか、過去が悪い夢なのか。
未だに不安になる時もあるけれど、そんな時は愛しい人の頬を撫でて、夢かどうか関係ない手が届く喜びを感じればいい。
「アンテノーラ」
「ヴィル様」
頬に触れる手に返すように、私もヴィンスフェルト様の頬を撫でる。
確かにそこに在る事を感じて、笑いあった。
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(反応が良ければ連載化したいなぁ~とは考えてます…)