再出発
「入団希望だって?」
「ええ」
クマ子は大まじめにうなずいた。
「で、君、どんな芸ができるんだい?」
「二足歩行と、頑張れば逆立ちもできるわ。玉乗りはまだ練習中よ」
「ハッ」
サーカスの団長はバカにしたように笑って、クマ子を見下ろす。
「それで食っていけるなら俺たちゃ苦労しないよ。帰んなお嬢ちゃん」
「違うのよ! 私は魔術でクマに変身できるの。見てて」
クマ子は全神経を集中させ、心の中に詳細なクマのイメージを作る。
「私はクマ、私はくま、私はクマ……」
そしてカッと目を見開く。
しかし何も起こらない。
「おーすごいすごい。満足したか?」
あきれかえる団長。
「今のはちょっと調子が悪かっただけよ! ねえお願い、もう一度チャンスを……」
「じゃあな。せいぜいがんばれよクマの子」
「ああ、ちょっと! あとで後悔するわよ!」
団長はさっさとテントの中に入ってしまう。
「ここにも私の居場所はないのね……」
講演の終わった寂しいサーカステントの裏でへたりこむ。ぐぅとお腹が鳴った。サーカスの動物たちはちょうどエサの時間のようで、檻の中のクマが肉の塊に豪快に食らいついていた。
「うわぁ……やっぱりサーカスのクマにはなれないわ」
力なく立ち上がり、フラフラとテントを離れていく。
魔術師の地獄の指導から逃げ出して早3日。所持金は底をつき、稼ぎ口を探してあちこち歩き回ったが、ひ弱そうな少女など誰も相手にしてくれない。
いっそ国に帰ろうかしら。牢獄の中だって野垂れ死ぬよりはマシなはず。それとも物乞いか、いっそ夜の蝶になるとか? いやいや、早まってはダメ。私は王女。地位や財産はなくなっても、誇りだけは捨てずに生きたいわ。
狭い路地をとぼとぼと歩きながらクマ子はひとり妄想した。
ああ、どこかに素敵な王子様が転がっていないものかしら。私のすべてを受け入れ、心から愛してくれて、何不自由なく幸せに暮らすの。優雅なドレスと宝石で身を包み、一緒に談笑しながら庭で昼下がりに紅茶を飲んで、テーブルとワゴンには世界中の甘くてかわいいお菓子がいっぱい並んでいて、私は迷わずアップルパイに手を伸ばし……待って、なんでアップルパイ?
クマ子はハッとして目を開けた。なぜか目の前にアップルパイがあり、バターとリンゴの芳醇な香りを放っている。私ったらまた知らぬ間に新しい魔術を発動しちゃったのかしら?
「おひとつどうぞ、お嬢さん」
紙袋を抱えた見知らぬダンディな髭のおじさまが、それを差し出していた。
いや、おじさまというにはまだ若い。髭のせいで老けて見えただけだ。ぱっと見シンプルな身なりのようでいてマントやシャツの生地は上等、革靴も高級そうな光沢を放っている。
ブルジョワかしら? 理想の王子様には及ばないけれどけっこう素敵!
クマ子は心の中で彼を髭のダンディな男の人、略してヒゲダンと名付けた。
「なんておいしそうなのかしら……本当にいいの?」
「いいんだ、今日はいいことがあったからおすそ分け。それに、こんなやつれた女の子を放っておくなんて、ばあちゃんが知ったら杖でボコボコにされる」
「素敵なおばあさまね」
「ただおっかないだけだよ」
クマ子は有難くパイを受け取った。我慢できずすぐにかぶりつく。
「家出でもしたのかい?」
「まあそんなところよ。師匠の稽古がスパルタすぎて逃げてきたの」
「稽古ってなんの?」
「魔術よ。これでも素質があるらしいの」
「へえ、君みたいな女の子が魔術を。僕はあまり詳しくないが、逃げ出すくらいならさぞかしつらい修行をしているんだろうね」
「ええ、つらいわ」
とクマ子はパイのおいしさに負けないようにつらそうな顔を作った。
「長時間椅子に座らされて、難解な魔術書の講義を聞かされるの。居眠りすると棒でたたくし、質問に答えられないとこれ見よがしにため息を吐いてくるし、眠らないために落書きをしていると怖い顔でにらんでくるし。この前なんかややこしい呪文を覚えきるまでご飯を食べさせてくれなかったのよ! 師匠だってお腹鳴ってたくせにずっと私を見張ってるし、ひどい時間だったわ」
「ああ、なんていうか……」
ヒゲダンは同情すべき点を必死に探した。
「棒でたたくのはよくないね」
「でしょ! おかげで師匠が使ってる黒板は傷だらけよ」
「たたいてたのは黒板だったか……うん、それはひどい」
ヒゲダンはこれ以上深掘りするのはやめようと思った。この子の師匠は人道的でとても根気強く、立派な人物のようだ。
「どうだい、よかったらうちに来て休んでいかないか。元気が出るように、ご飯をごちそうしよう」
「えっ、いいの!?」
クマ子はぴょんと立ちあがった。しかしこれじゃあまりにもがっつきすぎではないかと思いとどまる。
「でも、悪いわ。パイをもらって、そのうえご飯までごちそうになるなんて」
「いいってことさ。ここで会ったのも何かの縁だ」
「やった! あなたのおばあさまに感謝しなくちゃ」
こっちだよと薄暗い路地裏へ先導するヒゲダンに、クマ子はるんるんとついていく。
「ところで、さっきいいことがあったと言っていたわね。どんなこと?」
「ああ、それは」
髭の下で男はほほ笑む。
「もうすぐほしかったものが手に入りそうなんだ」
「ほしかったもの?」
「おいで」と男は片手を差し出す。クマ子はぽかんとしてかじりかけのパイをとり落としそうになる。
「待ちなさい!」
「えっ?」とクマ子と男が振り返ると、そこには怒りに燃える魔術師が立っていた。
「げっ、師匠!」とクマ子は男の後ろに隠れる。
「探しましたよクマ子。逃げたりしないと自分から誓ったくせに、まさか基礎の座学で逃げ出すとは……来なさい。その根性、一からたたき直します」
「いやよ!」
魔術師はドンッと杖で地面をついた。
「そんなことではいつまで経っても国に帰れませんよ!」
「別にいいわ! この人が私の面倒見てくれるもの」
男は面食らってクマ子と魔術師を交互に見る。
「必死で逃げてきた男にすがるとは、聞いてあきれます」
「なんですって?」
「まだ気づかないんですか? その男は元婚約者、隣の国の王子ですよ」
「何言ってるのよ。この人は髭のダンディさん、略してヒゲダンさんで……」
クマ子はまじまじと男の顔を眺める。そして想像の中で、顔の半分以上を占めている髭を引っぺがす。
「うわーっ!!」っと叫んで飛びすさるクマ子。ぎゅっと握った手の中でパイがぐちゃっとつぶれてまた「いやーっ!」と叫んだ。地面にべたりと落ちたパイの残骸を見て涙目になる。
「どうしてあなたがここに?」
「食べ物を恵んであげたのにその反応はひどいな。ずっと君に会いたくて追いかけてきたんだよ」
「ストーカーじゃないの!!」
「行方不明とのうわさを聞いてもしやと思っていましたが、やはりそうでしたか」
「師匠、早くあの人をどうにかして!!」と今度は魔術師の後ろに回りこむクマ子。
「落ち着きなさい。そしてそのべたついた手で私のローブをつかむのはよしなさい!」
魔術師はやれやれと首を振る。
「この通り本人も嫌がっているので、もう引き下がってもらえませんか」
「僕は彼女に興味があるんだ。そして君にも」と魔術師を指さす。
「えっ?」と今度はクマ子と魔術師が同時に聞き返す。
「姫、君は突然クマになる謎めいた人間だ。しかし僕はあの一件以来、君が変身するところを一度も見ていない。ところが魔術師のほうの君は、この短い期間に少なくとも7回も姿を変えている。老人、青年、鳥、酒場の常連客、役人、馬、美人の踊り子……」
「美人の踊り子?」とクマ子は怪訝な顔をする。
「殿方から話を聞きだすのに有効なんですよ」と魔術師は弁明する。
「これは神秘だ! 神業だ!」
王子は叫んだ。抱えたパイの紙袋がぐしゃっとつぶれ、クマ子は「ああ!」と悲痛な声を上げる。
「僕は決意した。この謎を生涯かけても解き明かすと!」
「ええと、つまり?」
「僕をあなたの弟子にしてもらえないだろうか?」
「なんですって!?」
素っとん狂な声を上げるクマ子。
「ダメに決まってるでしょ! 師匠は私のお世話と仕事で忙しいんだから」
「そうですねえ」
魔術師は思案顔になる。
「あなた、勉強は好きですか?」
「ちょっと師匠?」
「はい。興味がある分野なら、1日中だって本を読むのも苦ではありません」
「授業料は払えますか?」
「現金は少ないですが、宝石でよければ」と言って腰に下げた小袋を指す。
魔術師は「ふむ」と一呼吸おいてから、「いいでしょう」と言った。
「うそだ! こんな人と一緒に行動するなんていやよ、耐えられない!」
「この人はあなたの国の隣国の王子ですよ? 手荒なマネはできません。それにこそこそつけ回されるより、行動が把握できたほうがいい」
「そんなバカな」
クマ子はガクッとひざをつく。
「おお、なんと心の広い方だ! 師匠、あなたのもとで誠心誠意学ばせていただきます。身の回りのお世話、仕事の手伝い、なんでもいたしましょう!」
「おや、これは。強力なライバル出現ですね、クマ子」
「悪夢だわ……この人から逃れるために出てきたはずなのに」
「ただし」と魔術師は王子にだけ聞こえるようにささやく。
「姫様に手を出したらすべての記憶を消して森の奥に置き去りにするので、そのつもりで」
「わ、わかりました」
王子の首筋を冷たい汗が流れる。
「二人とも、せいぜい精進することです。ではまず私の事務所に帰って、基礎の座学から……」
真っ白な灰になりそうなクマ子の様子を見て、魔術師は考え直す。
「この街にちょうどサーカスがやってきているそうですから、今日は趣向を変えて変身したいものを観察することを学びましょう」
「サーカス!?」
クマ子はパッと顔を輝かせる。
「やった! やっぱりサーカスは出るより見るほうがいいわ!」
「なんの話です?」
「い、いいえ! なんでも!」
「師匠、少しつぶれてしまいましたがアップルパイはいかがですか? ちょっと買いすぎてしまって……」
「あ、私も食べたい。それ、すごくおいしかったわ」
「自分をはめた罠にためらいなく食いつくとは、いじきたない」
「何か言った?」
「いいえ。どうぞ」
「先に言っておきますがクマ子は手が焼けますよ。結婚しなくてよかっと思うかもしれません」
「あなたたち、私のことあんまりバカにするとクマになって暴れるわよ!……あら、なんか体が熱いわ」
体中の血管がドクドクと脈打ち、クマ子は黒くて大きなクマへと変貌してゆく。狭い路地を圧迫し、どう猛な唸り声を上げる……
「しまった、こんな狭くては魔法陣が出せない!」
「奇跡だ! 僕はなんて幸運なんだ……」
こうしてクマの王女と、過保護な魔術師と、変態ストーカー王子の奇妙な物語が幕を開けた。
「グワォォゥ!(つづく!)」