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落日の嵯峨野 1

 岡宮那智が京都に住む二番目の兄を訪ねたのは六月中旬だった。

 金曜の夜に新横浜から新幹線で京都に入り、土曜日に現地の高校で早々に用事を片付けて、日曜日の今日は市内観光する予定だった。

 ここ数日、梅雨入りした京都では珍しく晴天が続いていた。晴天が続けば、盆地特有の蒸し暑さが日に日に増していき、夏の暑さになっていた。初夏にも入らない梅雨明け前でも、日中は少し外に出れば汗ばんでしまうほどだ。活動するなら朝か夜がもっとも効率がいい。

 そう判断した那智は、朝早くからもう一度訪れたいと思っていた大覚寺を向かった。新緑が見事で大沢池に映えて見応えがあると兄から聞かされ勧められたからだ。注意点として、京都観光は基本徒歩だと告げられた。有名な神社仏閣は最寄りまでバスでも、そこから徒歩がほとんどだ。坂道に石畳や砂利道が多く、踵がある靴やサンダルなどではすぐに足が疲れてします。

他にも訪れたい神社や禅寺もあり、助言を考慮して運動靴にズボン、カットソーに薄手の上着、小さめのリュックといった服装を那智は選んだ。肩まである黒茶色の髪を後ろにまとめ、首元は涼しくするなど、見た目はちょっとした散策姿だ。

京都市内から路線バスに四十分ほど揺られ、市内とは違いひっそりとした閑静な場所に大覚寺はある。最寄りのバス停から徒歩一分の場所にあり、実際に停留所には案内板が立っていた。

梅雨晴れの空の下、人影のほとんどない道を進めば鮮やかな緑に覆われた塀が見えてくる。道なりに進めば入口の門にすぐに辿り着いた。

丁寧に手入れをされた木々に掃除された道から、この場所が大切にされているのがよくわかる。

普段目にする建物や庭とは違う、昔ながらの日本建築や庭園に期待を弾ませて寺の敷居を跨いだ。本来なら石畳が入り口まで伸びているが、眼前に広がる光景は那智の期待をすべて裏切った。

 鬱蒼と茂った木々のせいで周囲は薄暗く、足元は雑草に覆われている所もあれば剥き出しの地面もある。鳥の囀の代わりに時折吹く風で枝が擦れ、ざわざわと不気味な音を立てている。

「え、う、うそ!」

一瞬何が起きたのか理解できず固まっていた那智だったが、すぐに我を取り戻し慌てて背後を振り返った。本来ならあるはずの潜った門はどこにもない。あるのは周囲と同じ薄暗い林だ。

じっとりとした冷や汗が背中を伝うのを那智は感じた。心臓を鷲掴みにされたような恐怖と不安に体が萎縮しそうになるのをなんとか阻止するため、ぎゅっと両手を握り締める。

落ち着かせるようにゆっくりと息を吐き、近くに人家がないかと慎重に周囲を見渡した。

林の左奥に壁面が崩れ中の土や骨組みが見えている壁に気づいた。視線を壁伝いに進めれば、崩れた岩灯篭や石階段がある。ここがどこかの庭だと考え、注意深く周囲を見渡せば、石階段の先に建物が見えた。

那智は周囲に注意しながら建物に近づいた。どうやら使われなくなった茶室のようだった。使われなくなってから数年が経つのか、壁も屋根もぼろぼろで崩れている箇所がある。障子も傾き、貼られた障子紙は破れてしまっている。

那智は背中に背負っていたリュックから通信端末を取り出し、画面を点けてみたが『圏外』と左上に表示されていることにため息を吐いた。

「やっぱり、こういう場所は圏外だよね」

 電波が入るような場所なら随分と親切な場所だ。電話して救援を求めるなり、ネットで情報を集めることもできる。だが、外部と完全に遮断されたら後は自分の判断次第だ。孤立無援とはまさにこのことだ。

念のため、電話などの通信機器がないか壊れた障子の隙間から茶室内を覗いたが、変色した畳と埃まみれの床の間があるだけで、通信機器の類は見当たらない。

那智はそっと息を吐くと、その場に座り込んだ。通ってきた道とは違う苔や雑草に隠れた石畳を見詰め考え込んだ。

誰かがここに来るのを待つか、または出口を自力で探すか。それとも別の建物を探し、何か手がかりがないか探すか。どれにしても危険なのは間違いない。一番危険なのは別の建物に行くことだろう。化け物が住み着いている可能性が高い。林の中も似たようなものだろうが、逃げ回れる範囲を考えたら断然屋外の方がましだ。

「壁伝いに出口を探してみるか」

 塀があるということは門も何処かにあるはずだ。ただし、どれほどの敷地なのか不明な以上、歩き回ることでの体力消費は避けられない。

「雨風凌げる場所は見つけたし、動くなら日のあるうちだよね」

 足が靴の中で動かないように靴紐をしっかりと絞り結ぶと、那智は通信端末をリュックにしまい背負って立ち上がった。

 来た道を少し戻り、塀が見える場所まで来ると道を逸れ、塀伝いに進んだ。凸凹した地面から木の根や石が飛び出しかなり足場が悪い。足元に気を付けながら進むと塀が折れ左手側に伸びていた。頭の中で地図を描きながら進んできたが、それほど茶室から離れてはいない。そのまま塀伝いに歩くと、門の屋根が木々の合間から見えた。

 林から抜け門の前に立つと、那智は顔を顰めた。

 京都でよく見るりっぱな邸宅や別邸の門だったが、茶室や塀と違い門の扉は手入れがされているのか傷んだ箇所がなかった。閂を支える金属や蝶番も定期的に手入れがされているのか腐食した様子もない。それどころか、雨風に晒されているはずなのに腐った箇所も土汚れも見当たらない。

 閂がかけられていないことから開いている可能性がある。那智は恐る恐る扉に触れ押してみたが微動だにしない。今度は引いてみたが、扉は軋みもしなかった。

「これは、別の建物行き決定か……」

 益々嫌な予感を感じながら、那智は門から伸びる石畳の先を見た。掃除も手入れもされていない道は歪んでいる。

 何にも遭遇しませんように、と祈りながら那智は石畳を進んだ。歩いてきた距離を考えれば、それほど広い敷地ではない。すぐに母屋らしき大きな建物が見えた。

 周囲に警戒しながら足を進めていたが、ふと右の視界の隅に何かが入った。平時なら何もなかったと無視できたが、この状況でそれは命取りだ。

 ぐっと、腹に力を入れて那智は勢いよく右手の方を向いた。木々と茂った雑草の先、影の中に何かいる。影に潜むそれが、梢の合間から差し込んだ陽の光に照らされる。人であることを認識したが、何かが同時に鈍く光を反射した

 途端、那智は勢いよく母屋に向かって駆け出した。冗談じゃない、と内心毒突きながら母屋の玄関扉に飛びついた。引き戸を力いっぱい横へ押したがビクともしない。開かないなら別の場所で身を隠してやり過ごすしかない。

 ふっと、自分の上に影が落ちた。那智は反射的に左手に転がるように飛ぶ。

 ガシャン、と硝子と木材を破壊する音が背後で響いた。

 那智はすぐさま立ち上がり振り返った。

 立っていた場所に刀が振り下ろされていた。ビクともしなかった引き戸を見事に破壊した切れ味と力に、那智はゾッとするような恐怖に総毛立った。

 のそりとそれが緩慢に動き、首を傾げるように動かして那智を見た。小面の能面で表情はわからないが、はっきりと自分を見ているのだけはわかる。藍色のぼろぼろの戦装束や破損した具足から手負いであるはずなのに俊敏な動きを見せる。右手に握った刀が陽光を受けて鈍く光った。

 逃げるなら林の中だ。障害物が多い中で刀を振るうのは難しいはずだ。林へ駆け込もうと一歩を踏み出したところで、那智はとっさに足を止めた。

 林の中に別の何かがいるのが見えたのだ。木漏れ日の中にはっきりといるそれは宙に浮いていた。右側上部が欠けた翁の面が、ふらふらと揺れながらこちらに近づいてくる。

 全身から血の気が引き、体は何かに縫い付けられたように動かないのに、意識だけが逃げろと叫んでいる。体と意識が乖離している状態で、明確な死が目の前に立っている。小面の面の化け物に斬り殺されるか、それとも翁の面の化け物に殺されるかの二択だ。

何か方法はないか、と考えた時だった。

 地を這うような唸り声が聞こえたかと思うと、小面を被った化け物は翁の面に斬りかかったのである。

 那智が突然の事態に呆気に取られていると、唐突に右腕を強く引かれた。


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