「密約」にできなかったこと
「密約」にできなかったこと
早稲田大学卒業を控えた1984年1月13日夕、町田は新宿区南元町の伯父の家を訪ねていた。須賀町の下宿から徒歩で3分ほどの距離だ。呼び鈴をならすと、子供のころから何かと町田のことを気にかけてきた小島平八郎が玄関のドアを開けた。
「ご無沙汰しています。おじさん」
「おお、よく来たな。まあ、上がれ」
そう言って、客間に案内してくれた小島は、初老の割に若く見える。張りのある大きなダミ声が特徴だ。町田から見て小島は、父親のいとこで、夫人が母親のいとこという二重の親戚関係にあたる。地元でスーパーを経営する町田の父親は毎年1回、温泉地などを巡るバスツアーに親族を招待し、家族ぐるみで交流を深めていた。小島もその「いとこ会」のメンバーの一人だった。
小島は、三重1区選出の衆議院議員だった木村俊夫元外相の第一秘書を30年務めた。佐藤栄作内閣の5年間の大半を官房長官・副長官としてずっと首相官邸で過ごし佐藤を支え続けた木村の下で党内の根回しに奔走し、長く自由安心党の秘書会長の任についていた。田中角栄の早坂茂、福田赳夫の横手征夫と並んで「秘書会三羽カラス」と称された時期もあった。
木村は外相退任後、党内にアジア・アフリカ問題研究会(AA研)というハト派の議連を立ち上げ、PLO(パレスチナ解放機構)のアラファト議長やリビアのカダフィ大佐の来日を実現するなど、対米関係に配慮して外務省ができない外交人脈作りを議員外交の形で補ってきた。町田も小島に誘われて、学生時代に参加した歓迎パーティーでカダフィ大佐と握手したことがある。「緑の革命」という故カダフィ大佐のサイン本は今でも持っている。
小島が持ってきたお茶を受け取って、町田が話し出す。
「おじさんの紹介のおかげで、東洋経済新聞に入社することに決まりました。面接で副社長が、『君か。平さんから聞いとるよ。希望は政治部か?』と聞いてきたので、『はい』と答えたら、『よし、分かった』と。それで面接が終わったので、たぶん政治部になると思います」
「そうか、新井さんは佐藤内閣ができた時は官邸キャップだったからな。優秀な甥がいると紹介しておいてよかったよ」
自分もお茶に口をつけ、一拍おいたあと、少し姿勢を正して口を開いた。
「それなら君には話しておかなければいけない。日米外交の本当のところを。佐藤内閣で木村が担当したのは、沖縄返還交渉だというのは知っているね」
いつもと違う空気に、町田もいくぶん改って答えた。
「ええ。例の密約とかの話ですか? 陸揚げは認めないが、核兵器搭載艦船の寄港は認めるという密約・・・」
「密約は、いっぱいした。報道されているものは全部その通りだ。報道されていないものもある。核兵器搭載艦船の寄港を8つの港について認めるという密約も結んだ。その後の日米交渉で今は13カ所の港に増えているがな」
「横須賀、佐世保、那覇軍港とかですか?」
「そうだ。だが、一番大事なことは密約じゃない。密約にできなかったことの方なんだ」
小島は、少し思い詰めたように、ゆっくり経緯を話した。それによるとーー。
第二次世界大戦後の連合国による占領統治からサンフランシスコ条約で日本が独立を回復してからも20年間米国の統治下にあった沖縄の返還は、吉田茂元首相以来の保守本流の悲願だった。
1971年6月16日、翌日のニクソン大統領との日米首脳会談に臨む佐藤首相らの一行はワシントン入りした。外交ルートで調整が終わった沖縄返還協定に両首脳が調印すれば、首相が公約した「核抜き・本土並み」の沖縄返還が実現するという触れ込みだったが、実際には外務官僚では調整できない政治課題をいくつも残していた。核兵器搭載艦船の寄港問題は、その最たるものだった。
ホテルで同行記者団へのブリーフィングを終えた木村官房副長官は、「明日は大事な首脳会談だから、今夜はよく寝ておけよ」と番記者に声をかけると、ホテルをあとにした。向かった先は国務省。地下の小部屋に入ると、待っていたのは安全保障担当大統領補佐官のヘンリー・キッシンガーだった。マジックミラーの奥の小部屋では、会談の監視と音声の記録が行われている。
ここで密約の文言調整が行われ、木村は事前の佐藤との打ち合わせ通り、キッシンガーの要求をほぼ丸呑みする。密約の文言調整が終わり、翌日の首脳会談で沖縄返還協定に両首脳がサインする前に、別室に入って密約文書にサインをし、その部分は議事録に残さないことで合意したのは、もう夜半をすぎていた。
そこで、木村はおもむろに一つの提案をした。
「これだけそちらの言い分を呑んだのだ。一つだけこちらの要求も呑んでくれ。密約の形でもかまわない。」
「なんだ?」
キッシンガーは訝しげに問うた。木村は短刀直入に言った。
「沖縄返還後に駐留を続ける米軍は、沖縄の人に銃口を向けないと約束してほしい。『沖縄再占領計画』は、放棄してもらいたい」
「答えは、ノーだ」
キッシンガーは、即答し、続けた。
「ダレス・ドクトリンは今も生きている。(Dulles Doctrine is still intact.)」
木村は、キッシンガーの口から飛び出した「ダレス・ドクトリン」という言葉に、一瞬目の前が暗くなった。
ジョン・フォスター・ダレスは、戦後の占領時代に当時の吉田茂首相と対日講和交渉を行った米国の外交官で、日米安保条約の「生みの親」といわれる。アイゼンハワー政権では、国務長官を務めた。反共産主義の闘士として知られ、ワシントンのダレス国際空港に今もその名前が残っている。米国内の超党派のジャパン・ロビーの創設者でもある。そして、対日講和交渉で、地政学的要地である沖縄を米国統治下に置くことにこだわった張本人だった。
「ダレス・ドクトリンは、一言で言えば、絶対に日本の核武装は認めない。朝鮮戦争を機に再軍備までは認めたが、自衛隊も日米安保条約により駐留する米軍の監視下に置くというものだ。そのために、日本が核武装をすれば、大統領命令でただちに動ける海兵隊(陸海空軍を動かすには憲法上米議会の承認が必要)が沖縄を再占領し、沖縄の米軍基地から東京を空爆する。『沖縄再占領計画』を米側が持っていることが外務省の調べでわかったので、議題にした。しかし、いくら木村が日本は『非核三原則』を国是としていくんだと言っても、取り合ってもらえなかった」
小島は、悔しそうに続けた。




