「寸止め抑止論」で原発を推進した中曽根元首相
「寸止め抑止論」で原発を推進した中曽根元首相
その正力を中心に自由安心党内に派閥を作り、総理大臣にしようとした政治家がいる。元首相の中曽根康弘だ。中曽根は正力がCIAのエージェントであることも知っていたが、むしろ自分の政治目的のためには好都合だと考えていた。そして、黄泉売新聞の中曽根番記者として正力との間の連絡役を務めたのが、ナベツネだ。
改進党から日本民主党の結党に参加した中曽根は、保守合同で自由安心党ができると、左右社会党の合同でできた日本社会党の松前重義衆院議員(東海大学の創設者)らと連名で議員立法を国会に提出し、共産党を除く圧倒的多数でスピード成立させた。それが原子力基本法と科学技術庁設置法だった。
1959年6月18日、中曽根は第二次岸改造内閣で第7代科学技術庁長官として初入閣し、第7代原子力委員長にも就いた。生涯原子力推進を貫いた中曽根は、党内の会合でその理由をこう語っていた。
「日本の安全保障のためには、原発を推進し、三、四カ月あればすぐに核兵器を作れるという寸止めの状態にすることが、抑止力になる」
中曽根の「寸止め抑止論」である。有事に際して日本の核武装を実質的に主張した中曽根は「危険思想の持ち主」としてCIAから徹底的にマークされた。
1984年4月、東洋経済新聞に入社した町田は、政治部に配属され、首相官邸クラブで記者生活を始めた。当時の官邸の主は中曽根で、首相の一日の動静を記録して原稿にする「中曽根番」記者が初仕事だった。番記者生活にやっと慣れたころ、町田は官邸キャップに尋ねたことがある。
「ジョンズホプキンス大学のセイヤー教授が毎月1回、1時間ぐらい首相に面会しているんですが、これは何なんですか?」
「ああ、CIAの定例の面接だとキャップ懇で中曽根が言っていた。俺は大物だからマークされているんだって」
CIAにマークされた政治家は、中曽根だけではない。




