大好きな君がくれた宝物
ある日、僕の家の犬が逃げた。
お父さんの友達からもらった、小さな子犬。
毎日散歩にも連れていったのに、エサもあげたのに、一緒に遊んだのに、『ごん太』と名前を付けた彼は家に来てたったの三週間でどこかに消えてしまった。
ねぇ、ごん太。どうして君はこの家から逃げたの?
ごん太は僕たちのことが嫌いになったの?
嘆き悲しむ僕たち家族。しかしある日、警察から電話が来た。『行方不明になっていたごん太君、見つかりましたよ』って。
僕たちは急いでごん太を迎えに行った。
ああ、ごん太が無事で良かった。
また散歩も行ける。また一緒に遊べる。
期待でふくらむ僕の胸。でもそれは数時間後にシャボン玉のようにパーンとはじけてしまった。
警察に行くと見たこともない犬がいたんだ。
ごん太は柴犬なのに、目の前にいる子犬は薄茶色を混ざらせたような白い犬。
え? この犬は何? ごん太はどこに行ったの?
混乱する僕達家族、でもそんなことはお構い無しに子犬は尻尾を振って近付いてくる。正直『可愛い』と思ってしまった。ごん太は噛んでくることもあったけど、この子は僕の手をペロペロと舐めてくる。妹もお母さんも『可愛い』と何度も言いながら笑顔を浮かべて。
このままこの子を飼うことになるんじゃかいか──そう思った時だった。
「この子は飼わないぞ! ごん太に対する裏切りだ!」
鬼のような剣幕で言い放ったのはお父さんだった。
お父さんは頑固だった。『ごん太が見つからないからこの子を飼うなんて考えはおかしい』『家族に対する裏切りだ』って何度も反対し、新しい子犬には見向きもしなかった。
泣く泣く警察に返そうとしたけど、『貴方達が引き取らなきゃ保健所に連れて行かされてしまいますよ』と言われてしまった僕達。結局お父さんの反対を無理矢理押し切る形でこの子を飼うことになった。
子犬の名前は『チロ』にした。色が白っぽいから名前は『チロ』。
チロは本当に可愛かった。名前を呼べば直ぐに飛んできてくれるし、お座りもするし、お手だってする。あ、伏せはまだ出来ないみたい。何故か伏せって言うとお手をしてくる。まだまだ修行が足りてないんだな。
お父さんは全然可愛くなかった。チロを飼うことにまだ反対してるのか、名前を呼べばムスッとするし、腕も足も組んで座るし、『お父さんのご飯』と言ってお茶碗を差し出しても手も出さない。あ、ビールを差し出す時はちゃんと手を出すみたい。何故かおつまみを求める時は手を無言で差し出してくる。まだまだアルコールが足りてないんだな。
勿論、お父さんはチロの散歩も行かなかった。いつも散歩に行くのは母さんか僕と妹のどちらか。
チロは立派な家族の一員。このままの関係で良いはずが無かった。チロとお父さんをどうにか仲良くさせたい──そう思った矢先、ある事件が起きた。
「チロがいなくなっちゃった」
散歩から帰ってきた妹達を玄関に出迎えに行くと、そこにチロの姿は無かった。妹は首輪だけ繋がれたリードを握り締め、目の下を真っ赤にさせて今にも泣き出しそうな顔で告げる。何があったのか聞くと、妹は『ごん太が使ってたボールで遊ぼうと思って、チロにそれを投げたら、匂いを嗅いだあと、チロがリードから抜け出しちゃった。逃げちゃった』とその場に泣き崩れた。
僕達は急いでチロを探しに行った。家の周り、よく行く公園、散歩コースを念入りに探した。でも結局見つからないままその日は夜を迎えた。
「ほら、言っただろう。他に犬を飼うなんて薄情なことをするからこうなるんだ」
仕事から帰ってきたお父さんは怒りもせず、笑いもせず、淡々と答える。僕達は何も答えなかった。答えられなかった。
僕は泣いた。チロを逃がしてしまった妹に対してではない。チロのことを良く思っていなかったお父さんに対してでもない。
お父さんの通り、僕はごん太を見捨てた。裏切ったんだ。薄情者だ。最低な人間なんだ。だからチロも逃げ出したんだ。
いなくなったチロに悲しむ僕達の傍ら、お父さんは無表情で黙々とご飯を食べていた。
次の日。
朝起きたらお父さんがいなかった。いつもこの時間はソファーで新聞を読んでいるはずなのに。お母さんにお父さんがどこにいるか聞いたけど「分からないわ」と首を振った。
結局お父さんが家に帰ってきたのは僕が学校に行く寸前。息を切らしながら玄関で靴を脱ぐお父さんに、どこに行っていたか尋ねたら「運動がてらに走ってきただけだ」と目を合わさずに答えた。
お父さんが『走ってきた』日はこの日だけじゃ無かった。次の日も、その次の日も、またその次の日も。しかも朝だけじゃなくて会社からの帰りも走りに出掛けてしまった。
僕はお父さんが『走る』理由を知りたかった。だから、僕はこっそりお父さんの跡をつけることにした。
早朝五時。お父さんは物音を立てないようにこっそりと玄関から外へ向かう。僕もお父さんに気が付かれないようにこっそりと後を追う。
一体お父さんはどこに行くんだろう──疑問に思いながらこそこそと追いかけること数分。お父さんはとある大きな家の前で足を止めた。
ピンポーン──
お父さんが家のチャイムを鳴らすと、女の人が家の中から姿を現した。不機嫌そうな顔をしたその人はお父さんを睨んでいる。
「○○さん、しつこいですよ。帰ってください」
「帰りません。大事な家族を返して貰うまでは」
女の人は深いため息を吐いて首を横に振る。
「娘も喜んでるんです。お友達が出来たって」
お友達……?
何の話をしているのか全く分からない僕だったが、次の瞬間、驚いて思わず目を大きく見開いた。
お父さんが土下座をしたのだ。
地面に額を擦り付けて、普段僕達の前では絶対に見せない姿で。
「お願いします。チロもごん太も大切な家族なんです。お願いします。お願いします」
チロとごん太……?
お父さんの口から聞こえた家族の名前に僕は思わず隠れていた木の影から身を乗り出す。僕の足元から微かに鳴った草むらの音にお父さんは驚いて後ろを振り向いた。
「お前、何でここ……」
まずい。お父さんに見つかっちゃった。
どうしよう……
その時だった。
玄関の扉がゆっくりと開いて、女の人の後ろから僕と同じくらいの年齢の女の子が姿を現した。彼女の腕にはチロと少し大きくなった柴犬が抱かれている。
「多嘉子! まだ寝てなきゃ……!」
「お母さん。もういいよ」
多嘉子と呼ばれたその女の子はチロ達を抱いたまま僕の目の前へと近付く。そして僕にチロ達の顔を近付けるようにして見せた。
「タローはね、二ヶ月くらい前に道路で怪我をしていたから私が勝手に拾ってきちゃったの」
「タロー?」
「うん。でも本当の名前はごん太だったんだね。貴方のお父さんがここ数日この家に毎日来て、この子達の名前を呼んで『返してください』って必死に叫んでたから」
「そうだったんだ……チロはどうしてここに?」
「多分タローを探しに来たんじゃないのかな。数日前からこの家の前でずっと鳴いて座ってたの」
多嘉子ちゃんはそう言いながらどこか名残惜しそうにチロ、そしてごん太の順番に僕の腕に抱かせた。チロは抱っこされるなり僕の顔を嬉しそうに舐め回した。
しかしごん太は違った。僕の腕の中で落ち着かない様子で動き回り、目の前にいる多嘉子ちゃんの元へ戻ろうと必死に顔を伸ばす。
「ダメだよ。タロー……」
多嘉子ちゃんの瞳から大粒の涙が流れ、それを隠すように彼女は自分の手で顔を覆う。
……そっか。
この子はもう『ごん太』じゃなくて、『タロー』なんだ。
僕は『ごん太』の背中に顔を埋めた後、『タロー』を多嘉子ちゃんに差し出した。
「タローは君と暮らせて幸せだったんだね。これからもタローをよろしく」
「え……でも……」
「また、遊びに来てもいい? タローと君に会いに」
多嘉子ちゃんは再び涙を流し、何度も頷いた。タローを潰れてしまうのではないかと言うほどに強く、強く抱き締めながら。
匂いを嗅ごうと鼻を近付けてくるタローの頭を最後に優しく撫で、呆然と立ち尽くしていたお父さんの元へ駆け寄った。
「お父さん。帰ろう」
「え? あ、ああ……」
腕の中にチロを抱きながら、僕達は彼女に背を向けて歩き出した。家に帰るために。
チロはいなくなったごん太を懸命に探してくれていたんだね。
お父さんはチロ達を取り戻すために僕達の知らないところでこんなことをしていたんだね。チロのこと、ちゃんと大切な家族だと思っていてくれてたんだね。
「お父さん」
隣で目線を何度も此方へ向けるお父さんに、チロを両手で差し出す。しかし、お父さんは困ったような表情を浮かべてその場に戸惑いを見せた。
「チロが帰ってきたんだよ。抱っこしてあげて」
「え? あ、ああ……」
お父さんは恐る恐るチロの身体に触れ、腕の中に抱いた。チロはとっても嬉しそうにお父さんの手を、何度も何度も舐める。
「……可愛いな」
「うん」
「……飼うって決めたなら、しっかり最後まで世話するんだぞ」
「うん!」
朝日が僕達の影をゆっくりと繋いでいく。
この日、チロは本当の家族の一員となった。
それから十年以上の月日が流れた。
高校に行き、大学に行き、妹は結婚。僕も付き合っていた彼女との結婚が決まり、家を出る事になった。
「チロ。元気か?」
チロはもうおじいさんになっていた。身体は骨と皮しか残らない程に痩せ細り、ご飯も食べれず水を飲むのがやっと。立つ時も歩かせる時も身体を支えてあげないと、直ぐによろけてしまう。
チロの頭を優しく撫でる。すると、チロは目を細めて微かに尻尾を上げてみせた。
チロはもう長くない。
そんなことは犬を飼うことが初めてだった僕でも分かる。
でも、でも。出来る限り、最後まで、チロの最期まで側にいてやりたい。
汲み上げてくるように熱くなる目頭。嗚咽を呑み込もうと片手で口を覆ったその時、ソファーに座っていた父さんが突然立ち上がった。
「散歩に、行こう」
今までチロを散歩に連れていくのは僕か妹、母さんの役割だった。飼うって決めたのは僕達だったから、父さんは『飼うことを決めた責任を持ちなさい』って。
だから驚いたんだ。まさか父さんが散歩に連れていくって言い出すなんて。
リードを持った父さんを見て、チロは足をふらつかせながら何とか自力で起き上がる。ゆっくりと、ゆっくりと。
父さんはチロの首を優しく撫で、リードを首輪に付ける。色素の落ちた毛の間から覗かせるチロの瞳の光が微かに揺れた。
チロのゆっくりとした足取りを急かすことなく、父さんはチロに歩幅を合わせて歩く。リビングから廊下、廊下から玄関、そして玄関から外へ。
僕と母さんはチロと父さんを距離を少し開けて追いかけた。チロは何度も父さんの顔を見ながら、上がり切らない尻尾をゆっくりと振っている。
母さんはそんなチロ達を目を細めて眺めた。
「お父さん、貴方達に隠れてこっそり何度も散歩に行ってたのよ。『散歩が足りないんじゃないか』とか『トイレに行きたそうだぞ』とか自分で言い訳してね」
「え?」
「言い訳なんかしなくてもいいのにね。お父さんとチロも家族なんだから」
母さんの言葉にもう一度父さんに視線を戻す。父さんのチロを見る目はとても優しいものだった。
そうか、父さんはチロのことを気にかけてくれたんだ。
チロのことが大好きだったんだ。
チロのことを心から家族だと思ってくれてたんだ。
堪えきれず瞳から流れる液体の感触を頬に感じながら、僕達は夕日に染まる父さんとチロの後ろ姿を見つめた。
父さんとチロの散歩はこの日が最後となった。
一週間後、僕が実家から出る日。
チロは天国に旅立った。
父さんが「水、飲むか?」と言って、チロを膝に抱っこして、スポイトでゆっくり水を飲ませた時、チロは目を細めて笑ったような顔をしたんだ。そして、そのまま、そのまま──
父さんの腕の中でぐったりとしたチロ。触れたチロの身体は冷たく、石のような感触だった。
「チロ、チロ」
何度呼んでもチロは目を開けない。
尻尾は振らない。
動かない。
僕は泣いた。
母さんも妹も泣いた。
父さんも泣いていた。
僕は父さんが泣いているのを始めて見た。涙と鼻水で顔を歪めて、声に出して泣いていた。僕はそれを見て更に泣いた。
親愛なるチロへ。
初めて僕達の家族になった黒い犬のチロ。
名前を呼べば飛んできて。
頭を撫でれば尻尾を振って。
手を差し出せば温かい舌で何度も舐めて。
大好きな、大好きなチロ。
お空に行ってしまった今でも大好きだよ。僕も、妹も、母さんも、父さんも皆、思ってるよ。
僕達がチロの元に行くのはまだまだ時間がかかるけど。待っててね、きっとチロならすぐに友達が出来るから、ほんの少しだけ待っててね。
心の中からだけど、最後の言葉を伝えさせて。
僕達の家族になってくれてありがとう。
僕達に命の尊さを教えてくれてありがとう。
僕達は心からチロを愛しているよ。これからもずっと。
以前私が執筆させて頂いた作品『一生かけて、恋をして。』にNOV様より感想を頂きました。
その中でNOV様の飼っていた『チロ』君の物語を是非、とのことで執筆に至りました。
私も実家で飼っていた犬のことをふと思い出してしまいました。
ペットはいつでも側にいてくれる大切な家族だということを再認識させて頂きました。
心より感謝申し上げます。