WINGS episode.1
ガールズラブ+魔法バトルの現代ファンタジー小説です。
エブリスタさんとの同時掲載になります。
序章 レクイエム 《Requiem》
七月十九日 〇二時〇三分
――雨が、静かに降っていた。
夜の海が、黒々と、目の前に広がっている。その海を抱くように伸びた海岸線に沿って、一本の道が、闇の彼方に向かって走っていた。
雨の中、街灯に照らされて、闇の中に浮かび上がる湾岸道路。それが、三浦半島東部を縦走する幹線道路であることを示す標識の下で、レインコートを着た数人の警察官が動き回っていた。
投光機の光が、路上の一角を照らし出している。その光の輪の中に、黒のBMWが一台、浮かび上がっていた。
「こいつはひどい……」
投光機の下で、警部補の階級章を付けた警察官が呻いた。
銃弾が、車体の至る所に食い込んでいる。数十発の弾丸が貫通したフロントガラスは蜘蛛の巣のような亀裂が走り、ボンネットからは、血のようにどす黒いエンジンオイルが流れ出していた。
「……まるで、軍隊か何かに襲われたみたいだな。いったい誰が、こんなことを……」
警部補がそう呟いた時、近くでばたばたと車のドアの閉まる音がした。そして、闇の中から、数人の人間の近づく気配が伝わってきた。
やっと、本署から応援が来たか。
そう考えながら顔を上げた警部補の目に飛び込んできたのは、警察官とはまったく違う、異様な姿の一団であった。
黒いスーツにサングラスの、大柄な外国人の男たち。彼らは、中央に立つ一本の傘を護衛するように、こちらに近づいてくる。
――その傘の下に、異形の人影が立っていた。
まだ若い娘で、齢は十八歳くらい。長い黒髪が匂やかにそよぎ、ノンフレームの眼鏡の奥で美しい切れ長の目が光っている。
白いブラウスに暗い色の上着をまとい、同じ色の長いスカートを穿いていて、胸には十字架のペンダントが吊るされている。
――それは、深夜の殺人現場にはまったく不似合いな人物。神に仕える、修道女の姿であった。
「な、何だ、あいつらは!?」
奇怪な一団は光と闇の境界を越え、まっすぐこちらに向かってくる。
「止まれ!現場の保存中だ、立入禁止だぞ!」
警部補が、手を振り上げて制止する。
それを見て、傘を差しかけていたアフリカ系の男が、端正なクィーンズ・イングリッシュで男たちに命令した。日本の警察と面倒を起こすな。そう言っているのが、警部補の耳にも聞こえてきた。
「勝手に現場に入るな!公務執行妨害で逮捕するぞ!」
「どうぞ、好きなようにしたまえ、警部補」
幹部らしいアフリカ系の男が、流暢な日本語に切り替えて言った。
「ただし、逮捕する前に、一度君の上司に相談することをお勧めするがね。――でないと、君の首がなくなるぞ」
「な、何だって!?」
「これは、親切心からの忠告だ。警部補」
アフリカ系の男が、唇の端を歪めて笑った。それを待っていたかのように、パトカーで待機中の若い巡査の声が聞こえた。
「警部補、本部長からです。至急、大事なお話があるそうです!」
「……!」
警部補が、慌てて無線にかじりつく。それを尻目に、男たちが車に歩み寄り、ドアを開けた。
運転手らしいスーツの男が、血だらけでハンドルに突っ伏している。そして後部の座席には、異形の物体がひとつ、置かれていた。
闇の中、胸に手を当てて、祈りを捧げる修道女の金の像。――いや、髪の一本一本まで精密に表現されたそれは、生きている女がそのまま像と化したと言ったほうがふさわしかった。
破壊された車内で、かろうじてラジオだけが生きている。そこから聞こえるモーツァルトの「レクイエム」が、雨音に混じって、静かに車の外に流れ出してきた。
「シスター・ベルナドット、これは……」
「『機関』の長、シスター・テレジアの、最期のお姿です」
傍に立つ男の問いに、ベルナドットと呼ばれた女が静かに答えた。
「シスター・テレジアは、私たち同様、特別な能力をお持ちでした。手で触れたものすべてを金の像に変える、具現化能力『マイダスの女王』。
――ご覧なさい、手の中に、機密情報のディスクがあります。シスター・テレジアは自分とディスクを物言わぬ像に変え、敵から機密を守り抜いたのです」
男たちが、思わず顔を逸らす。眉ひとつ動かさず像を見つめる修道女の目から、涙がひとしずく、こぼれ落ちた。
「安らかにお休みください。――死者の魂に、平安のあらんことを」
ベルナドットと呼ばれた修道女が、静かに十字を切った。そして、男たちのほうを振り向いて、毅然とした態度で命令した。
「前機関長シスター・テレジアは、殉職されました。総本部の命により、現時刻をもって私が『機関』の指揮を執ります。
そして、これが最初の命令です。――彼女を死に至らしめた犯人を探し出し、生死に関わらず、その身柄を確保するのです。よろしいですね?」
「了解しました、ベルナドット機関長」
男たちが、不動の姿勢で敬礼する。満足したように頷くと、シスターがスカートの裾を翻して、ふたたび、闇の中へと姿を消した。
――その光景はさながら、光と闇に彩られた、一枚の宗教画。その強烈なコントラストに圧倒されるように、警官たちは、いつまでもその場所に立ち尽くしていた。
第一章 夏への扉 《The door to summer》
約六時間後 七月十九日 〇八時二十七分
「のえる、急がないと遅刻するわよ!!」
雨が上がり、夏の太陽が降りそそぐ通学路に、少女の大きな声が響いた。
三浦半島東部、舘須賀市の南端に位置する港町、万里浜町。そこにある聖陵学園付属中学校の正門に向かう並木道を、ふたりの少女が自転車を引きながら走っていた。
ひとりは、眼鏡をかけた、のんびりした感じの娘。そしてもうひとり、彼女を励ましながら、黒髪の少女が並んで走ってくる。
艶やかなショートの髪に、深い輝きを放つ黒い瞳。眉は意志の強さを示すようにまっすぐで、桜色の唇と真珠のような歯が朝の光に輝いている。
「ほら、のえる、頑張って!八時半まであと二分、急がないと遅刻するわよ!」
黒髪の少女が、茶髪の娘の肩を叩いて励ました。
「薫、そんなこと言ったって、あたしもう駄目よぉ〜。あんたと鍛え方、違うしぃ〜」
「何言ってるの、のえる!だいたい、あんたが待ち合わせに二十分も遅れるからこうなったんでしょ!?」
「そ、それを言われるとメンボクない」
のえると呼ばれた茶髪の娘が、肩で息をしながら言った。
「それよりさぁ、薫、こんな時魔法が使えたらいいのになぁ〜って、思わない?」
「魔法?何よ、藪から棒に。あんた、魔法を使ってどうする積もりなの?」
「だってさぁ、魔法が使えたら、魔女みたいにほうきに乗って学校までひとっ飛びで行けるじゃん。それだったら遅刻もないし、こんなふうに走らなくてもいいしね」
黒髪の少女――薫が、肩をすくめながら呆れた表情で言った。
「あ〜、分かった!あんた、夕べ深夜劇場でやってた『マリー・ウォーターと十二人の魔女たち』観てたんでしょ!?確かあれ、深夜二時までだったわよね。――さては、それで今朝起きられなかったのね!?」
「えへへ、ばれたか」のえるが、舌をぺろりと出した。「実はそうなのよ。それで、ちょっと寝坊しちゃってさぁ……」
「しょうがないわねぇ、もう。急いで、あと一分よ!」
のえるの腕を引っ張りながら、薫が正門に顔を向け、そして叫んだ。
「やばっ!今日はシュトラウス校長がいるわよっ!」
「ま、まじ!?ひい――っ!」
学園の正門が、前方百メートルほどのところに迫っている。その前に、壮年の男がひとり、立っていた。
音楽室のドボルザークの肖像画を思わせる、眼鏡と髭の端正な顔。背は高く、夏だというのに黒の三つ揃いをきちっと着込んだ様は、貴族の屋敷に勤める一流の執事を思わせる。
きれいに整えられた髪と髭は銀色で、彫りの深い顔立ちとともに、その男がヨーロッパ系の外国人であることを物語っていた。
ミッション系の名門校・聖陵学園付属中学舘須賀校の名物校長、リヒャルト・シュトラウス。穏やかな風貌とは正反対の厳しい指導で、全校生徒から恐れられている校長であった。
ふたりが全力疾走に移り、正門に駆け込んでいった。
「こ、校長先生、おはようございまーす!!」
「はい、お嬢さん方、おはようございます」
シュトラウス校長が、微笑みを浮かべながら言った。その手には、金の鎖の付いた年代物の懐中時計が握られている。
「八時二十九分五十七秒。あと三秒で遅刻でしたが、今回は何とかセーフでしたね。
しかし、遅刻ぎりぎりの滑り込みというのは、感心しませんね。特に、君たちは三年生。もっと落ち着きを持って、後輩のお手本になるようでなければいけません。
そうじゃありませんか。三年B組十一番、十文字のえる君。――それから」
シュトラウス校長が、黒髪の少女を顧みながらその名を呼んだ。
「――三年B組十九番、間宮薫君」
「す、すみません、校長!」
のえるともう一人、薫と呼ばれた少女が声を合わせて言った。腕組みをして説教を続けようとしたシュトラウスが、ふと視線を上げて呟いた。
「おや、また一人走ってきました。今度は完全に遅刻ですね。後で生活指導の先生に厳しく注意してもらわなくては……。
君たちも、早く行きなさい。ホームルームが始まりますよ」
「はっ、はい!」
そう言って、自転車置き場に向けて駆け出そうとした、その時。薫の目に、見慣れない人影が映った。
校門の正面に立つ、三階立ての本校舎。
その右側には、瀟洒な円柱状の建物「本部棟」が立っている。その前に黒い高級外車が止まっていて、後部座席からひとりの人間が降り立とうとしていた。
金色の髪をした、外国人の少女。歳は十五歳くらいで、制服ではなくゆったりしたドレスをまとっている。その髪が朝の風にふわりと舞い、それを押さえようした少女がゆっくりとこちらを振り向いた。
大輪の薔薇の花のような、美しい少女。整った顔立ちの中で、青い目が宝石のように輝いている。
(えっ、あの子……誰?)
少女の背後に、黒い背広の男がふたり、立っていた。彼らに護衛されるように、少女はそのまま玄関の奥へと姿を消していった。
(……誰だろう。学園には、あんな子いなかったわよね。着ていたのもうちの制服じゃなかったし……)
「何してるの、薫!ホームルーム始まるよ!」
のえるの声。見ると、彼女はすでに数十メートルほど先で手を振って待っている。
「ああん、待って!置いてかないでよ、のえる!」
薫が慌しく彼女のあとを追う。――そして遠くから、静かに予鈴の鐘の音が聞こえてきた。
「今朝は、ホントにピンチだったわねぇ」
そう言いながら、のえるがコッペパンにかじり付いた。トレイの上に並べられた昼食のセットメニューが、美味しそうな匂いを漂わせている。
聖陵学園の学生食堂は、洒落たカフェテリア形式になっている。その中央部に設置されたテレビからは、ちょうど昼のニュースが放送されていた。
画面には「財団法人幹部、銃撃され死亡」というショッキングな見出しが映し出されていた。
……本日未明に発生した、財団法人幹部殺害事件の続報をお伝えします……。
テレビから、アナウンサーの声が流れてくる。
……本日未明一時半頃、神奈川県舘須賀市の国道の路上で、英国に本部を持つ法人組織ワイズマン財団所有の乗用車が銃撃を受け、乗っていた運転手と、同財団幹部テレジア・サエッタさん三十七歳が死亡しました。ふたりは病院に搬送されましたが、数十発の銃弾を受け、すでに死亡していたということです……。
画面が切り替わって、舘須賀市を南北に縦走する湾岸道路の映像が現れた。
……神奈川県警は舘須賀署に捜査本部を設置、捜査を開始しました。現場は見通しが悪く、捜査本部はテレジアさんが待ち伏せを受けて銃撃された可能性もあると見ています。
事件の動機や犯人像については現在捜査中ですが、現場からは関東に勢力を持つ広域暴力団のバッジが発見されており、警察では暴力団が対立する組関係者の車と間違ってテレジアさんの車を銃撃した疑いがあると見て、捜査を続けております……。
「ねぇ聞いた?人違いで撃たれて死亡だってよ。同じ市内じゃない」
のえるが野菜ジュースのパックを啜りながら呟いた。
「銃弾数十発を撃ち込まれて即死だって。まるでマフィア映画ねぇ」
「本当、怖いわねぇ。明日から夏休みだし、早く犯人が捕まるといいけど……」
そう言って、薫が紅茶のカップを口へ運びながら、外に視線を向けた。食堂の窓の向こうでは、きらめく夏の陽射しが、芝生の上に降り注いでいた。
「お疲れ様でした、お嬢様」
部屋に入ってきた人物を見て、シックな制服を身につけたメイドが恭しく挨拶をした。
本部棟最上階にある、学園理事長室。校長のシュトラウスに導かれて、金髪の少女が部屋に入ってきた。
「お嬢様、――いや、ここでは理事長とお呼びしなければなりませんな。いかがでしたか、シャルロット理事長様」
「いつもどおりの呼び方でかまいませんよ、執事シュトラウス」
微笑みながら、シャルロットと呼ばれた少女が、豪華な椅子に腰を下ろした。
「十分見学させてもらいました、シュトラウス。素晴らしい学園です。
優秀な生徒たち、よく整備された教育環境。誰が見ても、理想的なミッション系の名門学園だと思うはずです。
――まさかここが、特殊な『力』を持った子どもを保護するための施設だとは誰も思わないでしょう」
「恐れ入ります、お嬢様」
メイドが、慣れた手つきでテーブルの上に茶器を並べた。白磁のティー・ポットから、淹れたての紅茶の香りが漂ってくる。
「そうそう、今朝は生徒指導、ご苦労様でした、シュトラウス。あなたも校長の仕事が板についてきましたね」
「恐縮です。私も、お嬢様に学園をお見せすることができて嬉しゅうございます」
「今日の授業も、もうすぐ終わりでしょう。あなたも一息ついてお茶になさい」
「恐れ入ります。ご一緒させていただきます」
長身のシュトラウスが、腰を曲げてシャルロットの向かいに座った。
「それよりシュトラウス、今日私が直接出向いてきた用件については、すでに承知していますね?」
「はい、ここで見つかった新たな『幼子』の件。そしてもうひとつは、亡くなったシスター・テレジアの件でございましょう?
シスター・テレジアは、お優しい方でいらっしゃいました。共にワイズマン家にお使えしてきた者として、本当に残念でなりません」
「その気持ちは、私も同じです。
そこで、あなたにお願いなのですが、これからしばらくの間学園を『機関』のほうで使わせてもらいたいのです。ここの施設を使うに当たっては、学園長のあなたの許可が必要ですが、構いませんか?」
「ここに司令部を立ち上げて、シスター・テレジアの弔い合戦をやるのですな?」
老執事の穏やかな目が、きらりと光った。
「分かりました。ご自由にお使いください。夏休み中も部活で来る生徒はおりましょうが、『機関』の存在が彼らの目に触れないよう、十分に配慮しておきましょう。
それで、学園の管理権をお渡しするに当たってお尋ねしたいのですが、シスター・テレジア亡きあと『機関』を率いるのはどなたですか?」
「ベルナドットです」
「シスター・ベルナドット様で……」
ティー・カップを持つシュトラウスの手が、一瞬止まった。
「……『灰色の女枢機卿』が、直々に指揮を……。なるほど、この仕事にあの方ほどの適任者はおられますまい……。
……しかし、ベルナドット様は、お嬢様のお側役としてこちらへ派遣されたと伺っておりますが?」
「仕方ありません。ロンドンの総本部の決定ですから」
金髪のシャルロットが、小さくため息をついた。
「私は、反対したのです。彼女に側を離れられると困りますからね。かと言って、総本部が決定した人事を一蹴するわけにもいきません。
……日本に行けば、私とベルナドットのことをうるさく干渉されないで済むと思ったのですがね……」
「は?」
「いえ、何でもありません。こちらのことです」
「それで、ベルナドット様は、どちらに?」
ドアのほうをそっと窺いながら、シュトラウスが言った。「いつもはお嬢様に影のように付き従っておりますのに、今日は姿が見えませんな」
「彼女だったら、すでに最初の任務に就いています」
「任務?」
「死の直前にシスター・テレジアが処分した機密ディスクには、もう一枚、バックアップ・コピーがありました。
それを『財団』とは別のルートで、市ヶ谷のラボからこの町に運び込んだのです。彼女はそれを受け取りに行ったのですよ」
「機関長自らですか。念の入ったことで……。それで、今度はどちらの伝手をお使いになられたので?」
「ローマの法王庁のルートですよ。この町にある、彼らの出先に預かってもらっているのです。
『財団』の要請なら彼らもノンとは言いませんし、彼女も目立たずに行動できる。いちばんいい選択肢だと思いましたのでね」
そう言って、シャルロットがそっと紅茶に口をつけた時、部屋の隅の柱時計が午後三時を指した。オルゴールがゆっくりと動き出し、部屋の中を「アヴェ・マリア」の旋律が静かに流れていった。
穏やかな午後の陽が、部屋の中を照らしていた。
万里浜町中心部、京浜急行線万里浜駅前にあるカトリック教会。その敷地内に、教会関連書籍を取り扱う小さなショップが建っていた。
店内には、客はひとりもいない。店番の小柄な老シスターが、カウンターに座って暇そうに本を読んでいる。
隅に設けられたスピーカーからは、賛美歌の「アヴェ・マリア」が静かに流れ出していた。
――と、入口で、チャイムの音がした。
自動ドアが開き、人影がひとつ、足音を忍ばせるように店内に入ってきた。気配に気づいた老シスターが、本を置いて顔を上げた。
――そこに立っていたのは、尼僧服に身を包んだ若い女。
モデルのようにすらり伸びた、細身のシルエット。形のいい鼻の上でノンフレームの眼鏡がきらりと光り、黒い瞳が星のように輝いている。
深夜の湾岸道路に現れた、シスター・ベルナドットであった。
老シスターが、軽く頷いて会釈をする。ベルナドットが会釈を返しながらカウンターに近づいて、そこに並べられた宗教音楽のCDに目を落とした。
「何かお探しですか、シスター。賛美歌のCDをお求めで?」老シスターが、穏やかな口調でベルナドットに話しかけた。
「それでしたら、これなどいかがでしょう。シューベルトのミサ曲第六番。心が落ち着きますよ」
「ありがとうございます」
ベルナドットが、にっこりと笑った。笑顔の中で、紅い唇が妖しい艶めかしさを漂わせている。
「実は、予約していたCDを取りに参ったのです。――ジョヴァンニ・ペルゴレージの賛美歌のCDですが、ございますか?」
彼女の言葉に、老シスターがさっと顔色を変えた。あたかも、情報員が見知らぬ相手から突然合言葉を囁かれた時のように。
「では、あなたがシスター・ベルナドット……。――え、ええ、それでしたら、もちろんございますとも」
棚から一枚のCDを取り出しながら、老シスターがベルナドットに訊いた。
「念の為、タイトルを伺ってよろしいですか?」
「はい」
ベルナドットの紅い唇が動いて、合言葉のようにその名前を告げた。
「――曲の名は、『聖母哀傷』」
頷きながら、老シスターがCDを差し出した。白い指が優雅な動作でそれを受け取り、そっとハンドバックの中に押し込んだ。
「お代はいただいております。どうぞお持ちください」
「ありがとう(グラシアス)」
異国の言葉で感謝を告げると、ベルナドットが出口に向かった。その彼女の背に、老シスターが別れの言葉を投げかける。
「ごきげんよう、シスター・ベルナドット。――あなたに、神のご加護がありますように」
ベルナドットが振り向いて、恭しく挨拶を返した。
「神のご加護を。――さようなら(アディオス)」
自動ドアが開き、夏の風が一迅、颯と店内に吹き込む。その風にスカートを翻しながら、灰色の娘がドアの向こうへと消えた。
――再び、静寂が訪れた。
何事もなかったように、老シスターが読んでいた本を手に取った。賛美歌の低く静かな歌声が、終わることなく店内に流れていた。
――その、十分ほど前。
「ねぇ、薫、夏休みの予定は決まった?」
駅から海の方角に向かって伸びる、万里浜町商店街通り。その一角にあるファミリー・レストランの賑やかな店内では、薫とのえるの二人がおしゃべりに花を咲かせていた。
「いよいよ明日から夏休みだけどさ、どこに遊びに行こうか?」
「あんた、それ本気で言ってるの?」薫が呆れた様子で親友の顔を見る。
「まさか、もう暑さで頭がやられたちゃったわけじゃないわよね?」
「え、何かあったっけ?」
「あのね、のえる、私たち三年生なのよ。年明けには、高校受験があるでしょう?今年の夏休みは、勉強するに決まってるでしょ!」
「うーん、まぁ、そうなんだけどさぁ」
のえるが面倒臭そうに頭を掻いた。
「でも、うちは幼稚園から大学まで一貫教育の学校じゃん。大丈夫よ。年末の推薦が通れば、何とか付属の高校に上がれるって」
「だから、その推薦が難しいんじゃないの。推薦枠だってそんなにいっぱいあるわけじゃないのよ!」
「薫、こないだの中総体までずっと剣道やってたんじゃん。スポーツ万能だし、内申はばっちりでしょ?成績も私よりいいしさ、大丈夫だって」
「それで、あんたはどうするのよ?」
「知らない。何とかなるんじゃない?」
薫が、深くため息を吐いた。
「――ねぇのえる、お父さんやお母さんは何て言っているの?」
「うーん、何だか、もう諦めているみたい」
薫が、ふたつ目のため息を吐いた。
「だからさぁ、どっか行こうよぉ!夏だもん。あたし、遊びに行きたい!行きたい!とっても遊びに行きたいの〜!」
「しょうがないわねぇ……」
薫が根負けしたように言った。
「それじゃ、近いところならいいわよ。あと、午後の半日だけね。涼しい朝のうちに勉強しないといけないから……。それでいい、のえる?」
「そう来なくっちゃ!やっぱり、持つべき物は友よね!
じゃあさ、まずは海に行こうよ!この町に住んでいて、夏、海に行かないなんてあり得ないもん!どう、薫?」
「いいわよ」
「よっしゃ。それじゃ、明日、さっそく万里浜海水浴場に行こうよ!
そうね、お昼食べたらあんたの家に迎えに行くわ。あそこなら、あんたの家からも近いしね」
のえるが、ほっとしたような表情を浮かべる。
「実はさぁ、こないだ、オキニの水着衝動買いしちゃったのよ。着ないうちに夏が終わったら、どうしようかと心配でさぁ……」
「呑気よねぇ、あんたは。年明けには人生の大きなハードルが待っているっていうのに……」
薫が、大きく三つめのため息を吐いた。
「――ああ、そうだ、忘れてた。今日は、あんたにいい物持ってきたのよ」
店を出たあと、のえるが思い出したように一枚のCDを取り出した。
「あんた、確かヴォーカル・グループの『東方天使』のファンだったわよね。はい、これ、先月リリースの最新アルバム。あんたに貸したげる」
「うわぁ、ありがとう、のえる!これ、聴きたかったんだ!」
「良かった。きっと喜ぶと思ってたわ。――実は姉貴のなんだけど、気に入らなかったみたいで部屋に放り出してあったのよ」
「い、いいの?あとで怒られない?」
「大丈夫だって。気にしないで、夏休みの間ゆっくり聴いてちょうだい」
薫が、CDを手にとって眺めた。四人の美形ヴォーカリストがポーズを決めた写真が、ジャケットを飾っている。
それに見入る薫の横を、自転車がベルを鳴らして走りすぎた。夕方の商店街は、ともすると肩がぶつかりそうなほどの混み具合だ。
「薫、危ないよ。家に帰ってから見なよ」
「そうするわ。――あっ!」
バッグに戻そうとした瞬間、薫の手からCDのケースが落ちた。向こうから足早に歩いてきた女と、肩がぶつかったのだ。
その拍子に、女のハンドバックからも、ケースが一枚落ちて、そのふたつが商店街の石畳の上で重なった。
あっと叫んで、女が驚きの表情で振り向いた。外国人の若い修道女。その目が、はっとするほど鋭かった。
「あっ、……ど、どうも、すみません!」
理由もなく、薫の胸がどきどきと鳴った。CDを拾って鞄に押し込むと、薫が自転車を引いて駆け出した。
――間もなく商店街の通りが切れ、町を流れる川沿いの道に出た。追いかけてきたのえるが、息を切らしながら話しかける。
「どうしたのよぉ、薫。急に走り出して……」
「びっくりしたのよ。さっきの女の人、何だか怖い目をしていたから……」
「怖い?そうかしら、普通のシスターのように見えたけど……」
「そ、そうかな……?」
ふと、誰かに呼ばれたような気がして、薫が背後をそっと振り返る。そこには、いつもの商店街のたたずまいがあるだけだが、薫の胸は得体の知れぬ不安にざわめいていた。
「それじゃあ、明日の昼一時に迎えに行くからね。水着、忘れるんじゃないわよ」
のえるの声に、薫が上の空でうなずいた。夕方の陽射しが、コンクリートに囲まれた川面できらきらと輝いていた。
約四時間後 二十時二十分
万里浜町は、舘須賀市の南側に位置する海沿いの町である。
中心部には、京浜急行線万里浜駅を中心とする商業地域が拡がっている。そこから東へ移動するとやがて海岸線に至り、その先には太平洋の青い海が広がっていた。
町の南側には、海を見下ろす低い山がある。そしてその頂上一帯の広大な私有地には、ヴィクトリア調の壮麗な屋敷と三千坪の庭が広がっていた。
英国に本拠を置く財閥、ワイズマン家が所有する別荘であった。
その庭の一角に、五百坪ほどのドーム状の大温室があった。周囲が宵闇に包まれる中、そこだけは内部の灯りがガラスの壁に反射して、クリスタルの城のようにきらきらと輝いている。
――その中の、庭園の石畳の小道の上に、ひとりの女が跪いていた。
「……申し訳ございません、お嬢様」
女――シスター・ベルナドットが口を開いた。
「私が直接ディスクの受け取りに赴いていながら、それを身元不明の女学生に持ち去られてしまった失態は、どのように償っても償いきれるものではありません。
……いかなる罰でも、お受けする覚悟でございます」
「そう悩むものではありません、ベルナドット」
低木の木立の奥から、若い娘の声がした。昼間、学園でシュトラウスを執事と呼んだ少女、シャルロットの声であった。
「そもそも今回の人事は、あなたに役目を押し付けて私から引き離そうという、総本部の思惑から出たものです。それを拒みきれなかった私にも、責任があると言えるでしょう。
これも、神が私たちにお与えになった試練なのかも知れません。ならば、私たちふたりで解決すればいいことです」
「もったいないお言葉、恐れ入ります。
――ですが、機関長のお役目を拝命した以上は、私も粉骨砕身の覚悟で取り組む所存でございます」
深く頭を垂れるベルナドットに、立ち上がるようシャルロットが目で促した。
「まずはご苦労でした、ベルナドット。
――さぁ、こちらにいらっしゃい。お茶にしましょう。あなたのために最高のダージリンを用意しておきましたよ」
ベルナドットが一礼してテーブルに付くと、向こうに座るシャルロットが言葉を継いだ。
「あなたの記憶を元に作ったモンタージュで、『機関』が該当者を探しています。あなたの言うとおりその子が学園の制服を着ていたのなら、数日中にディスクを回収できるでしょう」
「ありがとうございます」
「それより、死亡したシスター・テレジアの件ですが」少女が話の矛先を変えた。
「あの車は、事件の三時間前に、私が市ヶ谷のラボで乗り換えたものでした。彼女はそれを受け取って、こちらに戻ってくるところを襲われた。
敵の本当の狙いは、私です。そして敵はこちらの動きを相当詳しく把握している。
暴力団のバッジを現場に残して、捜査の攪乱を狙うような手口に引っかかるほど私たちは愚かではありません」
「御意。すでに『機関』の人員を最優先でそちらに振り向けております。明日には、最初のご報告ができるかと存じます」
「結構です。頼みましたよ、ベルナドット」
そう言って、シャルロットが白磁のティー・カップを取り上げた。頂戴いたします、と言ってベルナドットもダージリン・ティーを啜る。
――つかの間の静けさのあと、ベルナドットのハンドバッグから携帯電話の呼び出し音が鳴り響いた。電話を耳に当てた彼女の顔が、みるみる緊張した表情になっていく。
「失礼します、お嬢様」
「何ごとですか」
「学園に配置した『機関』の者から緊急連絡です。
『敵と思しき分隊規模の武装兵力が学園内に侵入。攻撃の許可を求む』。――如何致しますか、お嬢様?」
「どうやら、マナーを知らない客が来たようですね」
小さくため息を吐いて、シャルロットが言葉を続けた。
「夜中にレディーの家に押しかけるとは、心得違いもはなはだしい。
――ベルナドット、悪いのですが、あなたが行って応対してください。そして、お客様のオーダーを訊いてほしいのです。
『おもてなしか、然らずんば死か(トリート・オア・デス)』。お客様には、お好きなほうを召し上がっていただくことにしましょう」
「夏休みの宿題、結構たくさんあるわね……。何よ、英語の問題集のこの厚さ。毎日やらないと終わらないじゃない」
同時刻、店舗兼自宅の二階にある、薫の勉強部屋。学校から渡された夏休みの宿題と受験用問題集を見ながら、薫が不満そうに呟いた。
「英語の勉強かぁ……。勉強したって、こんな小さな町で外国人と話すことなんてないんだけどなぁ……」
そう言いながら、薫はふと商店街で出会ったシスターのことを思い出した。
(あのシスター、何だか怖い目をしていたわね。海軍基地のアメリカ人とは違う感じだったけど……)
取り留めのないことを考えながら、薫がCDを取り出した。
「さ、勉強は明日からにして、今夜はのえるから借りたCDを聴こうかな」
プレイヤーに挿入したCDが、ゆっくりと回転を始める。そして、男性ヴォーカル・グループのビートに乗った熱い歌声が……
……聴こえてこなかった。
聴こえてきたのは、すすり泣くようなヴァイオリンの前奏。そして、それに導かれるように始まった、深い哀しみの歌声であった。
悲しみに沈める聖母は
涙にくれて、たたずみたまいぬ
御子が掛かりたまえる十字架のもとに……
「な……何よこれ!?」
薫が慌ててベッドから起き上がり、CDのケースを取り上げた。
それは、のえるから借りたものではなかった。ジャケットには大きく白い十字架が描かれ、その上には、曲の名前が書き込まれている。
――ジョヴァンニ・ペルゴレージ作曲、「聖母哀傷」。
薫の脳裏に、夕方の商店街での出来事がふたたび蘇った。
「そうか、あの女の人のディスク、間違えて持ってきちゃったのね。……どうしよう、のえるから借りたCD、取り返さないと……」
頭を抱えながえらも、薫はその旋律から耳を離すことができなかった。どこまでも哀しく、そして美しい歌声。言い知れぬ胸騒ぎを感じながら、薫はいつしかその歌声に引き込まれていった。
肉体が死する時
魂が天国の栄光に捧げられるよう、なしたまえ。
アーメン。
――アーメン。
蝋燭の灯りに照らされた学園の礼拝堂に、賛美歌が静かに流れていた。
「聖母哀傷」。それは、祭壇の前にぬかずく人影が、祈りとともに捧げる哀しみの調べ。
――やがて、賛美歌の奉唱が終わった。
「さて、今宵の晩?(就寝前のお祈り)も終わりました。そして、これから私が犯す罪のお許しを、父なる神に乞うお祈りも」
呟きながら、ベルナドットが灯りの中に立ち上がった。
「主は言われました。『汝の隣人を愛せ』と。そして『汝、殺すなかれ』とも。しかし、どうやら今宵はそうもいかないようですね。
……出ていらっしゃい、罪深き方々。私たちに用があって、お出でになったのでしょう?」
その言葉とともに、礼拝堂の椅子の陰から六つの人影が現れた。
全員が迷彩服に身を包んだ兵士で、夜間迷彩のドーランを塗り、暗視ゴーグルを装着していた。その手には、小型だが殺傷力の強いイスラエル製ウージー・サブマシンガンが光っている。
「――あなたたち、恥を知りなさい」
修道女の瞳に、怒りの炎がひらめいた。
「ここは神の家、神聖な祈りの場所です。そのような物を持ち込んで、いったい何の積もりですか」
「知れたこと」
隊長らしいがっしりした体格の男が、どすの利いた声で言った。
「お前の主人、シャルロット・ワイズマンの居場所を聞きに来た。すでにこの町に入っていることは、我々の情報機関が調査済みだ。ここがお前たちの拠点であることもな。
さぁ、教えてもらおうか、シスター。『薔薇の園の死神』は、どこにいる?」
「存じません」
「素直に話したほうが身のためだぞ」
隊長らしい男が、口もとに残忍そうな笑いを浮かべた。
「言わないなら、この世にも地獄があることを体で思い知ってもらうことになる。女だからといって、我々は容赦はしない」
「――ふ、地獄ですか」
ベルナドットが、口もとにそっと笑いを浮かべた。その白い手が、懐にそっと差し込まれる。
「地獄でしたら、もう見飽きるほど見て参りました。あなたのような愚か者たちが堕ちていく、暗黒の無間地獄をね」
そう言うと、ベルナドットが手を振り上げた。目にも留まらぬ速さで何かが空を切り、壮麗な礼拝堂の空間で爆発的な輝きを放った。
「な、何だ!?照明弾かっ!」
激しい輝きに、兵士たちが思わず視線を逸らす。――その瞬間、祭壇からベルナドットの姿が消えた。
「気をつけろ、女が消えたぞ!」
指揮官の声に、兵士たちが慌てて銃を構え直す。
しかし、すべては遅かった。
照明弾が炸裂した瞬間、ベルナドットが礼拝堂の天井へと一気に飛び上がった。そして首に下げた十字架を握ると、張りのある美しい声で叫んだ。
「具現化能力、秘剣『聖母哀傷』!!」
その声とともに光が走り、ベルナドットの手の中に一振りの剣が現れた。
華麗な装飾を施した、美しい細身の剣。その柄に手をかけたベルナドットが、飛び降りざま最前列の兵士を抜き打ちで斬り倒した。
剣が肉と骨を断つ、ずしゃっという音。悲鳴を上げる暇もなく、兵士のひとりが絶命した。
「貴様ぁぁぁっ!!」
隣に立っていた兵士が、怒りの形相で銃の引鉄を引いた。修道女に向かって銃弾が殺到する。
しかし、それがベルナドットの体を引き裂くことはなかった。着弾0.1秒前に彼女の姿が消え、気がついた時には兵士の背後にベルナドットが回り込んでいた。
「き、貴様!」
「悔いあらためよ!」
まさに疾風。二人目の兵士が背後から心臓を貫かれ、断末魔の絶叫を上げて倒れた。
その後ろに立つふたりの兵士が、悲鳴を上げながら彼女に銃を向けた。
跳躍したベルナドットがふたりの間に飛び込むと、パニックを起こした兵士が、彼女に向かって引鉄を引いた。
数十発の銃弾が、ベルナドットへ向かって突進する。
しかし、そこに立つ彼女はすでに残像。それを虚しく突き抜けた銃弾の嵐が、背後の兵士に襲いかかった。
絶叫が響いた。三人目の兵士が銃弾に引き裂かれ、血まみれになって床に叩きつけられた。
「ちっ、畜生!!」
罵声を上げたもうひとりの兵士の目に、長椅子の間を突進してくる黒豹のようなシルエットが映った。どこに隠れていたのか、一瞬で間合いを詰めると、ベルナドットがいきなり抜刀した。
次の瞬間、兵士は上半身をばっさりと斬られ、血を噴き上げながら床に倒れ込んでいった。
「く、くっ……!あの女、いったい何者だ!」
……仕方がない、礼拝堂ごとあの女を焼き払えっ!!」
命令を受け、指揮官の傍に立つ兵士が、手に持った火炎放射器のトリガーを引いた。勢いよく噴き出した炎が、祭壇に舞い降りた彼女を一瞬で呑み込んだ。
「やった!」
祭壇が炎上し、炎が天井へと激しく燃え上がる。指揮官が喜悦の表情を浮かべた瞬間、礼拝堂に厳かな声が響き渡った。
「――旧約聖書『詩篇』第七編。『神は正しい審判者。悔い改めない者には剣を研ぎ、弓を張って狙いを定められる』」
「!?」
その言葉とともに闇の中から黒い影が躍り出て、火炎放射器を持った兵士に襲いかかった。
兵士が絶叫を上げて倒れ、指揮官の男がサバイバル・ナイフを構える。しかし、すでにベルナドットの姿はない。
「どこだ、女!どこに隠れている!」
「お探しですか。――私でしたら、ここに」
月明かりが差し込むステンドグラスの窓から、冷たい声が響いた。――次の瞬間、黒い影が男の背後へと舞い降りた。
「!」
男が振り返ろうとして、その動きを止めた。
男の首には、すでにベルナドットの剣が食い込んでいた。このまま手に力を込めれば、男の喉笛は易々と切り裂かれてしまうだろう。
「き、貴様っ……」
「言うことを聞いていただければ、お命までは頂戴しません」
ベルナドットの声はあくまでも落ち着いていて、氷のように冷たい。
「その代わり、質問に答えていただきましょう。――あなたは、『鉄槌』の方ですね?」
「う……、し、知らん!」
「昨夜、私たちの関係者を襲って死に至らしめたのも、あなたたちですね?」
「…………」
「五百年前、あの恐るべき大殺戮を引き起こし、何万という人びとを犠牲にしながら、今もなお惨劇の再現を画策する秘密結社『鉄槌』。
そのあなた方が動き出したということは、あの恐ろしい計画『魔女狩り』が再開されるということでしょう。――違いますか?」
「…………」
「仰っていただけないのならば、お命を頂戴いたします」
ベルナドットの剣が、男の首にぎりっと食い込んだ。
「く、くっ……!」
一か八か、男がナイフを逆手に持って振りかぶる。――しかし、ベルナドットのほうが一瞬速かった。
首筋に閃光が走り、男が膝をついて倒れた。その喉もとから鮮血が噴き出して、床に血だまりを作っていった。
――最後の痙攣が男の体を覆い、やがて動かなくなった。転がる死体を見つめながら、ベルナドットが携帯電話を耳に当てる。
「私です。ベルナドットです」
闇の中、彼女の眼鏡が炎を反射してきらりと光った。
「終わりました。至急、消火と後始末のための人員をこちらに遣しなさい。それからシャルロットお嬢様にお伝えするのです。
お屋敷の警戒体制を最高レベルにお上げください。『鉄槌』の闇の司祭たちが、この町にも手を伸ばして参りました、と」
第二章 冬の旅 《Winterreise》
七月二十日
夏休みが、始まった。
万里浜町、間宮薫の自宅。薫は朝起きて、朝食の前に祖父と一緒に日課の鍛錬をこなした。内容はもっぱら体操と木刀の素振り、そして一通りの「型」の練習である。
祖父・林一郎は刀剣商で、海岸に面した家の前の通りに「天馬堂」という店を出している。通常は刀剣や骨董品としての武具を商っているが、いっぽうで武術師範としての顔も併せ持っていた。
剣道七段の祖父は当然ながら剣の達人で、週末は市内の少年剣道会や剣道愛好会へ出かけて指導に当たっている。また、剣術のみならず古武術全般にも通じており、とりわけ弓術は剣術同様達人の域と言われていた。
薫も、幼い頃から祖父に剣術と弓術を叩き込まれて育った。
稽古はいつも厳しく、暑さ寒さが厳しい季節もその厳しさは変わらなかった。しかし稽古が終われば祖父は面倒見のよい好々爺で、薫もそんな祖父が大好きだった。
薫には、祖父以外に家族がいない。両親は、薫が六歳の時に航空機事故で死んだと聞かされている。彼女の記憶には、父と母の面影はほんのわずかしか残っていなかった。
両親が死んだあと、薫は祖父の林一郎に引き取られて、この町で生活を始めた。その時にはすでに祖母も亡くなっていたから、薫にとって肉親は祖父ただひとりであった。
午前中宿題と受験勉強に取り組み、その後昼食を食べながら待っていると、昼一時ちょうどにのえるがやって来た。
「おじいちゃん、出かけてくるわね」
店にいるはずの祖父に声をかけたが、返事がない。店先を見ると、祖父は真剣な表情でテレビを見ていた。
昨日未明に発生した、財団幹部殺害事件の続報。依然犯人を絞り込めていないらしく、情報提供を呼びかけるアナウンサーの声が聞こえてくる。
薫がもう一度呼びかけて、やっと祖父が振り返った。
「おお、出かけるのか。今日はのえるちゃんと海に行くんだったな。
遊びに行くのはいいが、こういう物騒な事件も起きている。犯人もまだ捕まっていないし、危険そうな場所には近づくなよ」
「大丈夫よ、お祖父ちゃん。私も子供じゃないんだし、安心して」
そう言って出かけようとする薫に、思い出したように祖父が声をかけた。
「ああ、そうだ。薫、すまんが、今日は五時までに帰ってきてくれんか。お使いに行ってもらいたいんだ」
「お使い?いいわよ、じゃ、五時までね」
「ねーえ、薫、まーだぁ!?」
玄関で薫を呼ぶのえるの不満そうな声に、薫がついくすりと笑った。
「何よ、のえるったら。学校に行くときはしょっちゅう遅れるのに、遊びに行く時は絶対遅刻しないんだから……。じゃ、お祖父ちゃん、行ってくるわね」
薫が、弾むような足取りで裏の玄関へと向かった。祖父が微笑みながら見送る店先には、明るい夏の陽射しが差し込んでいた。
「ねぇ、あそこに座っている兄ちゃん、どう?結構イケてない?」
「そうねぇ……。ちょっと、カッコイイかもね」
薫の家から自転車で十五分ほどの、市営万里浜海水浴場。ビキニ姿で砂の上に寝そべりながら、薫とのえるが監視塔に座るライフ・セイバーの青年に目をやった。
すでに二時間以上も海で泳いだり、ビーチボールで遊んだりして、さすがのふたりもいまはぐったりとしていた。
「ああ、それにしても今日は暑いわねえ。薫、喉乾かない?」
「そうねぇ、ジュースがほしいわよね。自動販売機、近くにあったかしら?」
そう言いながら薫が上体を起こそうとした時、ふたりの間にそっと缶コーラを差し出す手があった。
「ほえ?」
「あっ、コーラ!」
薫が、後ろを振り向いた。そこに立っていたのは、先ほどまで監視塔に座っていたハンサムな青年だった。
「お二人さん、よかったら、ジュースどう?」
「え……ええっ!?これ、くれるんですか?」
「うん、僕からのプレゼント。よかったら、ふたりで飲んでよ」
「あ、でも、何だか悪いような……」
「ありがとうございます!いっただっきまぁ――す!!」
ビニルマットの上でのびていたのえるが、急に元気になって起き上がった。そして青年の手からコーラをひったくると、我慢できない様子でプルトップの栓を抜いた。
「ど、どうもすみません。あの……お名前伺ってもいいですか?」
礼を言いながら、薫がおずおずと質問する。いい男と向き合うとあがって言葉が出なくなるのが、薫の弱点なのだった。
「ああ、僕かい?僕の名前は、安永白っていうんだ」青年が白い歯を見せて笑った。
「白黒の白って書いて『あきら』って読ませるんだ。変わった名前だろ?
県内の大学に通っているんだけど、いま夏休みなんでね。ここでアルバイトをしているのさ」
薫とのえるが自分の名を名乗ると、白がにっこり笑って言った。
「薫ちゃんとのえるちゃんか。君たち、聖陵学園の生徒だろ?」
「えっ、し、知ってるんですか?」
「君たち、いつも一緒に帰っているだろ?ぼくは先週の海開きからずっとここにいるけど、この前の通学路で何度か姿を見かけたからね。
聖陵って、ミッション系の学校だったよね。あそこは制服がお洒落だから、すぐ分かるんだ」
そう言って、青年が海水浴場の前を走る一本道を指差した。その筋肉質の腕と胸に目を細めながら、のえるが薫にそっと囁いた。
「ねぇ、薫、どう思う?」
「どうって、何を?」
「鈍いわねぇ。あんた、ラブチャンス逃がすわよ」
のえるが、じれったそうに言った。
「単に通学路で見かけたくらいで、男は声なんかかけてこないって。――あたしの見た所、あのイケメン、あんたに気があるわね」
「またぁ、止めてよ、のえる」
「いや、本当。あたしの勘はFB?超能力捜査官並みに当たるのよ。ここはあたしに任せなさいって」
そう言うと、のえるが楽しそうに白とおしゃべりを始めた。内容は、町のことや学園生活のことなどありふれたことではあったが、合間に親友の薫のプロフィールを織り込むことを忘れない。授業中には見られない、世話好きなのえるの姿だった。
――十分ほどお互いのことを話したあとで、白が立ち上がりながら言った。
「もう戻らないといけないけど、この仕事は夕方五時で終わりなんだ。よかったら、このあとお茶でも飲みにいかない?」
「ほら、キター!――あ、あたしはいいですよ。薫も、もちろんOKよね?」
「あ、あの、私……」薫が、おずおずと口を開いた。「嬉しいんですけど……、実はこのあと、家の用事で帰らなくちゃいけないんで……」
「何言ってるのよ、薫!」のえるがじれったそうに囁いた。「デートのチャンスじゃないの!私、あんたの出会いを応援してるのよ!」
「だって、お祖父ちゃんから用事、頼まれてるし……」
「いいから、そんなのうっちゃって行きなよ!」
「ああ、薫ちゃんは何か用事があるんだね」
ふたりのひそひそ話に耳を傾けていた白が、残念そうな表情で言った。
「そうだよね。いきなり誘っても、君たちにも予定があるよね。
……じゃあ、またの機会にするよ。僕はお盆まではずっとこのビーチにいるから、気が向いたら声をかけてよ」
すみません、と頭を下げる薫に手を振りながら、逞しい赤銅色の背中がゆっくりと遠ざかっていった。
節くれた指がボタンを押し、プレイヤーの中のCDがゆっくりと回転を始める。
舘須賀市に隣接する、横浜市内の高層マンション、最上階の一室。遠くに海が見えるリビングルームのソファで、ひとりの男がくつろいでいた。
年齢は五十代半ば。撫で付けた髪は、半ば白くなっている。広い額は知性的な印象を与えるが、いっぽうで大きな鼻とがっしりした顎、落ち窪んだ灰いろの眼は、どこか獰猛な穴熊を思わせた。
横浜市内の大学に勤務する、歴史学客員教授グレゴリー・エルガー。それが、男の名前であった。
夕陽に赤く染まったリビングに、ドイツ語の歌が流れている。その歌の深い寂寥感が、男に感動をもたらすのだろう。目を瞑って、男はじっと歌声に聴き入っていた。
――と、テーブル上のノートパソコンが、軽やかな電子音を立てた。男が不快そうな表情でスイッチを入れると、サングラスをかけた髭面の男が、モニターの中に現れた。
「おお、君か。グッド・アフタヌーン、フィリップス君」
グレゴリーが、貫禄を感じさせる声で言った。
「遅かったな。それで、ワイズマンの娘のほうは、予定どおり片付けたのかね?」
「申し訳ありません。グレゴリー『審問官』」
フィリップスと呼ばれた男が、サングラスを外しながら頭を下げた。
「昨夜、聖陵学園内に潜入させた偵察班ですが、交戦中という報告を最後に連絡が途絶えました。現在に至るも、全員が生死不明の状況です。
残念ですが、学園内の敵に殲滅されたものと思われます」
「またか。不手際だな、フィリップス君」
グレゴリーが、ため息をつきながら言った。
「昨日も、首尾よく襲撃に成功したと思ったら、車の中で死んでいたのは替え玉だった。我々は、まんまとワイズマンの娘があの町に入り込むのを許してしまったわけだ。……そうだな、フィリップス君?」
「重ね重ね、申し訳ございません」
「まずいことに、警察が捜査に本腰を入れてきた。あの町も警戒の目が厳しくなってきておる」
テーブルの上の水割りをひと口啜ると、グレゴリーが続けた。
「我々『鉄槌』にとって、ワイズマン一族の抹殺は最も重要な任務だ。わしもサルファー大審問官から命令をいただいた時は武者震いしたものだが、さすがに連中は一筋縄ではいかん」
からん。グラスの中で、溶けかけた氷が透き通った音を立てた。
「しかし、今回の襲撃で、ひとつはっきりしたことがある。
『聖陵学園』。やはりあれは、ただの学園ではない。奴らの日本での活動拠点のひとつに違いない。ワイズマンの娘は、あの学園か屋敷のどちらかに潜んでいると考えて間違いなかろう」
「同感です。それでは審問官殿、もう一度偵察員を送り込んでみますか?」
「止めておけ。潜入は困難だということが分かったし、屋敷のほうとなれば、尚のこと迂闊に手は出せん。今後は、ワイズマンの娘を外に引きずり出す方向で作戦を再検討してみよう」
グラスを戻しながら、グレゴリーが新たな命令を下した。
「フィリップス大尉、次の命令だ。学園に貼り付けている情報員に、監視を強化するよう指示を出せ。いまは夏休み中ということだが、何か動きがあるかも知れん」
「はっ」
「奴らが動き出したということは、この日本で新たな『幼子』が見つかったか、ここに新たな拠点を作る積もりなのか、そのどちらかだ。どちらにしても、我々の活動に重大な支障が出る。その前に奴らを潰さねばならん」
「承知しております」
「頼んだぞ」
ノートパソコンのスイッチを切ったグレゴリーが、プレイヤーの演奏を再開した。限りなく純化された哀しみの調べが、ふたたび部屋を満たしていく。
――シューベルト作曲「冬の旅」。愛も夢も、そして希望すらも消え果てた人生を、終わりなき冬の旅路になぞらえたドイツ歌謡の名曲。
「――そう、人生とはすなわち『冬の旅』なのだ」
グレゴリーが、ひとり言を呟いた。
「若者は、人生の行く手に、愛や、夢や、希望の輝きを見る。しかし、それらはすべて幻に過ぎない。それら輝かしいものは失われ、やがて人生は、涙も凍る絶望の旅路となる。
『絶望』。それこそが人生の真実の姿なのだ。そして、これほどあの娘たちにふさわしいものはない」
そう言って、グレゴリーが愉快そうに笑った。その目が残酷な光に輝き、大きな手がふたたびノートパソコンのスイッチを入れる。
「ふふふ、いいことを思いついたぞ。あの娘たちに、魂が凍りつくような絶望を味あわせてやる。
――ああ、フィリップス君、私だ。先ほどの件だが、夏休み期間中、課外活動で学園に出入りする生徒がいるだろう。その情報をまとめて、今週中に私のところに上げてくれないか。
……そうだ、学園の生徒を利用して、ワイズマンの娘を引きずり出すのだ。よろしく頼む」
「きれいな刀ね、値が張るものなの?」
海水浴から帰ってきた薫が、店先で刀の手入れをしていた祖父に訊いた。
「そりゃあそうだ。これは、店でいちばんの名刀だからな」
「いくらくらいするの?」
「値などつけられん」祖父がいくぶん声を潜めながら言った。「訳ありの刀だが、元は国宝級の品だからな」
「国宝級?」
おかしそうな表情を浮かべながら、薫が訊き返した。祖父は時々、嘘か本当か分からないような話をする。それを笑いながら聞くのが、薫の習慣になっていた。
「実はな、これは吉光の逸品だ」
「ヨシミツ?」
「室町時代の名工、粟田口吉光が作った刀のことだ。
いま残っているものは脇差などの短刀がほとんどだが、実は吉光は太刀も作っておった。これはその中のひとつ、極めて稀な吉光の太刀だ」
「またぁ、お祖父ちゃんたら」
薫が、祖父の大げさな話に思わず噴き出した。
「冗談でしょ?そんな珍しい刀、うちの店にあるわけないじゃない」
「それが、あるんだ。これは秘密だがな」
祖父が、店内をそっと見回してから続けた。
「これは、キリシタン大名として知られた明石全登、洗礼名明石ジョアンが豊臣秀頼から拝領したと言われる幻の名刀だ。
大阪夏の陣の折、ジョアンは聖ヤコブのいくさ旗を押し立てて家康の本陣に斬り込んだと伝えられておる。もしかすると、全登がこの刀を手に家康を追い回したという一幕があったかも知れんぞ」
「まさかぁ」
「いや、それが本当らしいのだ。ここを見ろ、薫。
十字架を組み込んだ、珍しい形の鍔だ。こういう物を作らせるのは全登のようなキリシタン大名しかおるまい」
薫が、祖父の手もとを覗き込んだ。丸に十字の形を意匠した鍔が、夕方の陽の中で静かに光を放っている。
「よく見ろ、消えかけておるが、鍔の四隅に羽根を持った人の像が刻まれておるのが見えるだろう。
これは想像だが、ミカエルなどのいわゆる『大天使』を意匠したものではないかとわしは考えておる」
「へぇ。それじゃこれは、『天使の剣』ということになるのかしら?」
「まぁ、そういうことになるのかも知れんな。
これは内緒だが、この刀は夏の陣のあと、さる名家が家宝にしておったものだ。それが戦後、訳ありでそっと世間に出てきた。こうして店に飾ってはおるが、わしも売る気はない」
「ふぅん……」
祖父が、ふふふ、と低い声で笑った。
「信じておらんな、薫。
まぁ、突拍子もない話だからな。わしもこの齢になるまで、こういう刀はこれ一本しか見たことがない。それだけに、本当に全登拝領の吉光なのかわしも自信がない。名刀であることは確かなのだがな」
「それでお祖父ちゃん、何か用事があるんじゃなかったの?」
「ああ、そうだった。歳を取るとどうも忘れっぽくなっていかん」
歴史ミステリーの世界から現実に戻ると、祖父が市内の地図を取り出して言った。
「朝にも言ったが、実はお使いを頼みたい。
町外れの山の上のお屋敷のことは知っているな?あそこに、刀をひと振り届けてほしいんだ」
「知っているよ、行ったことはないけど……。何でも、お金持ちの外国人の別荘だって話だよね?」
「そうだ。あのお屋敷の持ち主は英国の実業家の方でな、そこのご主人から脇差の鑑定と研ぎを依頼されたんだ。ご先祖が明治時代に手に入れたものらしいが、それが終わったので持っていってもらいたい」
「別にいいけど、何でお祖父ちゃんが行かないの?いつもはお祖父ちゃんが渡しに行っているでしょう?」
「そうしたいのはやまやまだが、今日は夕方から町内会があるんだ。わしは班長だから、さぼるわけにいかんのでな」
「分かったわ。――じゃ、今から行ってくるわね」
微笑みながら、薫が袋に入った脇差を受け取った。鍛え上げられた鉄の重みを、手のひらにずしりと感じながら。
愛用の自転車にひらりと飛び乗って、薫は店から屋敷に通じる一本道を走り出した。
すでに、辺りは薄暗くなっている。
背中のバックパックには、刀と財布と学生証のほかに、昨日間違って持ってきてしまった賛美歌のディスクが入っていた。帰り道で警察に届けるためである。
(あの女の人、警察に届けを出しているといいな。のえるから借りたCDも早く見つけないといけないし……)
そう考えながら、薫は町外れの小高い山に向かう一本道を走っていった。この道を十五分ほど進むと、三つに分かれた分岐路に行き着く。
左へ行けば、海岸線に沿って走る湾岸道路の続き。
右へ曲がれば、薫が通う「聖陵学園付属中学舘須賀校」への通学路。きれいな桜の並木道で、そこを百メートルほど進むと学園の正門に行き当たる。
そして、真ん中の坂道を真っ直ぐ上っていった突き当りが、「山の上のお屋敷」と呼ばれる洋館であった。この分岐路からは徐々に勾配がきつくなり、自転車を引きながらでないと登っていくことはできない。
……十分ほど歩くと、敷地の灯の中に浮かび上がる屋敷が見えてきた。にじみ出る汗をスポーツタオルで拭きながら、薫はようやく屋敷の正門にたどり着いた。
広大な敷地が、薫の眼の前に広がっていた。
先端に百合の花の装飾をあしらった鉄柵が、三千坪の敷地をぐるりと取り巻いている。青い芝生の中に一本の道が走り、その向こうに堂々とした英国風のお屋敷が見えた。
――その敷地の広い庭の片端に、木立に囲まれた不思議な建物があった。
壁のすべてがガラスでできた、半円形の透明なドーム。点された灯りがガラスに反射して、宵闇の中にきらきらと光っている。
(……何だろう、あれ)
漠然と考えながらお屋敷の門まで来ると、哨所から警備員らしい男が出てきた。薫が用向きを伝えると、男が小型の電気自動車で屋敷の玄関まで運んでくれた。
「しばらくお待ちください。いま、屋敷の者が参ります」
男にそう言われて待っていると、玄関の重々しい扉が開いて、ひとりの少女が姿を現した。
黒いシックな制服にエプロンをまとった、愛らしいメイド。金髪碧眼のヨーロッパ人で、背も年齢も薫と同じくらいである。
(ち、ちょっと、いきなり外国人のメイドさん!?)
慌てた薫が、片言の英語で挨拶する。
「ハッ、ハロー!あ、あのう……プリーズ……」
「いらっしゃいませ、お客様」
流暢な日本語で挨拶すると、メイドの少女が落ち着いた声で尋ねた。
「『天馬堂』の間宮様でいらっしゃいますね。お待ちしておりました。私は屋敷の主人付きのメイドで、カーリン・シュトラウスと申します」
「は、はぁ……」
「主人は、いま別用で温室のほうにおります。ご足労をおかけして申し訳ありませんが、そちらまでお出でいただけますか?」
「お、温室に?」
「ご案内します」
カーリンと名乗ったメイドの少女が、先に立って歩き出した。
(カーリン……シュトラウス?
シュトラウス……どこかで聞いたような名前ね……)
取り止めのないことを考えながら木立の中を歩いていくと、視界の先にガラスのドームが見えてきた。
その入口まで来ると、カーリンが中に入るように促した。扉をくぐった薫は、驚きのあまり言葉を失った。
(す、すごい……)
温室の中は、五百坪はあるだろう広いガーデンになっていた。曲がりくねった小道に沿うように英国風の庭園が造られ、背丈の低い草花から二メートル近い低木まで、様々な植物が植えられている。
すでに外は薄暗いが、温室の中は照明が灯されていた。その柔らかい光の中、薫は小さなあずまやへと案内された。
いつの間に用意したのか、テーブルの上には白磁のティー・ポットが置かれ、淹れたばかりの紅茶が瑞々しい香りを漂わせていた。
「間もなく主人が参ります。しばらくお待ちください。」
メイドの少女が一礼して去り、薫はその場に取り残された。
柔らかな光の中で、ゆっくりと時間が過ぎていった。
(遅いなぁ……)
腕時計に目を落とすと、すでに十五分ほどが経過していた。ティー・カップの紅茶はすでに飲み終わって、ポットの中のものもすでに半分ほどになっている。
(もしかして、私、忘れられちゃったのかな……。こんな場所でトイレに行きたくなっても困るし、こっちからご主人を探しにいこうかしら……)
薫が、立ち上がって歩き出した。小道に沿って、無数の花やハーブが植えられている。その中を進んでいくと、やがて温室の中央部らしい場所にたどり着いた。
そこは、濃い緑の低木に覆われた場所だった。針のような不思議なかたちの葉に覆われた異国の植物が、神秘的な香りを漂わせている。
(何だろう、この木……。いい香りがするけど……)
――その時、かすかに水音が聞こえた。茂みの向こうに人の気配がし、わずかに息遣いが感じられる。
(誰かいるのかしら……)
薫が、茂みの切れ目からそっと中を覗き込んだ。
ガーデン用のドームに薔薇が絡みつき、甘い香りを漂わせている。そしてその下には、湯を満たされた小さなバスタブが置かれていた。
そのバスタブに脚を浸して、心地よさそうに身を反らせている人影があった。
薫と同じくらいの年齢の、白人の少女。チュニック・ドレスの裾から伸びる輝くような脚が、バスタブの湯と戯れている。
髪は豊かな金髪で、襟足のところで優雅な形に編まれている。顔は鼻が高く彫りの深い顔立ちで、その容貌は明らかにヨーロッパ系の外国人であった。
(うわぁ、綺麗な子……。お祖父ちゃんの言っていた、お屋敷の英国の人かしら……)
長い睫毛に縁取られた眼を閉じて、少女は気持ちよさそうにカウチに横たわっていた。肌は透けるように白く、ドレスの下の乳房がゆるやかに起伏を繰り返している。
天使のようなその姿に、薫は時を忘れて見蕩れていた。
(……嫌だ、私、女の子に見蕩れるなんて……。どうしよう、起こしちゃ悪いし、かといってこのままだと覗きをしているようだし……。さっきの場所に戻ろうかな……)
そう思って、薫が背を向けた、その時だった。
「――お待ちなさい」
背後から、呼びかける声がした。
「私に用があって、ここへいらっしゃったんでしょう?」
優雅で、そして威厳を秘めた少女の声。振り向くと、身を起こした少女が薫をじっと見つめていた。
異国の海を思わせるような、澄んだブルーの瞳。吸い込まれてしまいそうな少女の目を見返しながら、どぎどきする胸を押さえて薫が言った。
「あっ、ご……ごめんなさい……。メイドさんから待っているように言われたんですけど、誰もいなかったものですから、つい歩き回ってしまって……」
「メイドから?」
「ええ、ご主人に品物を届けに来たんですけど……」
「ああ……」
少女が思い出したように声を上げ、うふふっ、と天使の羽を思わせる柔らかい声で笑った。
「ごめんなさい、ついうっかりして、忘れていましたわ。今日は天馬堂さんが刀を持ってくる日でしたね」
タオルで湯を拭き取りながら、少女が傍にあった革のサンダルを履いた。そして白く長い脚を動かしながら、薫にゆっくりと近づいてきた。
「いいお湯でしたわ。薔薇のお風呂に入ると、本当に気分がすっきりします。
……それで、あなたは天馬堂のご主人のお使いでいらっしゃるのかしら?」
「はい、お祖父ちゃん……じゃなかった、店主の孫で間宮薫といいます。今日は祖父の代わりに、研ぎと鑑定の終わった刀をお届けに参りました」
「薫……」
少女の薔薇色の唇が動いて、呪文を唱えるように薫の名前を呟いた。
「間宮薫さん、ですね。――お待たせしてすみませんでした。さっそくですが、その刀は私がいただきましょう」
「え、でも、私はご主人に渡すように言われているのですが……」
「ええ、いいのです。私がこの屋敷の主人なのですから」
薫が、一瞬言葉を失った。不思議な威厳を感じさせはするが、少女はどう見ても自分と同じ位の齢にしか見えない。
「ああ、私が主人だと言っても、すぐには信じられないかも知れませんね。
でも、そうなのです。私の名はシャルロット・ワイズマン。このお屋敷も私が両親から与えられている物なのです」
「……」
「立ち話も何ですから、座ってお茶にしましょう」
そう言って、シャルロットがサイドテーブルのコードレス・フォンに手を伸ばし、白い指でアンティーク調の受話器を取り上げた。
「私です。カーリンをお願い。
――ああ、カーリン?フット・バスが終わったから、バスタブを下げてちょうだい。それから、お茶とカウチをもうひとつ持ってきて。あなたのお手製のフルーツケーキも一緒にね。
それと、夕食はあとにするように執事のシュトラウスに伝えてちょうだい。今からお客様とお茶を楽しむことにしましたからね」
数分で、カーリンとメイドたちが紅茶とカウチを持って現れた。
そのてきぱきとした仕草、彼女に対する恭しい態度を見ているうちに、まさしくシャルロットがこの屋敷の主人なのだということが、薫にも分かってきた。
「カーリン、この刀をロンドンのお父様に届けるよう、シュトラウスに伝えなさい。もちろん、保険付の航空便でね。骨董品好きのお父様からのたいせつな預かり物ですからね」
「承知いたしました、お嬢様」
そんなやり取りをしてメイドたちが屋敷に引き上げたあと、シャルロットが広い温室の中を示しながら言った。
「ここは、私の自慢のガーデンなのです。植えられているのは、もっぱらハーブと薔薇。薔薇もハーブの一種ですから、ここは丸ごとハーブ・ガーデンになっていると言っていいでしょう。
薫さん、あなた、ハーブはお好きでいらっしゃる?」
「ええ。興味はあるんですけど、あまり詳しくなくて……」
「そうですか。それでは少し、ハーブについてお話しましょうか。おいしいお茶を飲みながら、ね?」
その時、「お嬢様、よろしいでしょうか」と背後の茂みの中から女の声が聞こえた。声だけで、忍者のように姿はどこにも見えない。
「ああ、ベルナドット、ご苦労でしたね。いまお客様とお茶を楽しんでいたところです。あなたも一緒にお上がりなさい」
「は、恐れ入ります」
そう言って、薔薇の茂みから現れた人影に、薫は驚いた。それは、昨日商店街でぶつかった、あのシスターだった。
「あっ、あなたは!」
「あ、あの時の女の人!」
薫とシスター・ベルナドットが、同時に声を上げた。
「どうしたのです、ベルナドット?」
「この方です。私が運んでいたディスクを持ち去ったのは……」
答えながら、ベルナドットが血相を変えて薫に近づいてきた。石畳の上で、革靴がかつかつと緊張した音を立てる。
「ご、ごめんなさい!」
慌ててバックパックからディスクを取り出すと、薫はそれをベルナドットの前に差し出した。彼女が立ち止まり、手を伸ばしてゆっくりとそれをあらためる。
「ま、間違いない……。紛失した極秘情報のディスクだわ……。良かった……」
神よ、感謝します、とベルナドットが呟いた。そして、薫に視線を移すと、おずおずとシャルロットに質問した。
「……お嬢様、この方はどなたです?なぜ、ここにいらっしゃるのですか?」
「ああ、ベルナドット、あなたにも紹介しておきましょう。
出入りの刀剣商『天馬堂』の店主のお孫さん、間宮薫さんですよ。以前お父様から鑑定と研ぎを頼まれていた、骨董品の刀を持ってきてもらったのです」
「間宮……薫さんですか。もしかして、聖陵学園の生徒でいらっしゃる?」
「はい、三年生です」
「道理で……。ぶつかった時、学園の制服を着ていたようにお見受けしましたので……」
ベルナドットが、そっと俯いた。――そして彼女がふたたび顔を上げた時、その目にはすべてを見通すような鋭い光が宿っていた。
「薫さん……と仰いましたね、あなた、このディスクの中を見ましたか?」
「え?」
ベルナドットの眼光にどきっとしながら、薫が言った。
「……い、いいえ、私はてっきり友達から借りたポップスのCDだと思ったんです。それがいきなり賛美歌に変わっていたんで、びっくりして……」
「聴いたのですか。それで、中身のファイルは?」
「見ていません。まだ自分のパソコンを持っていないので、見ようがなくて……」
「……」
ベルナドットが厳しい表情のまま、シャルロットに向き直った。
「……薫さんはこう仰っていますが、私はもう少し詳しく事情をお伺いしたいと思います。今からお屋敷のほうにお出でいただきたいのですが、よろしいですか?」
「それはいけません」
それまでの穏やかな態度から一転、ぴしゃりとした口調でシャルロットが言った。
「お控えなさい、ベルナドット。薫さんを尋問する積もりなら、それは認められません」
「しかし……」
「考えてもみなさい、あなたは彼女がディスクをすり替えたのではないかと疑っているようですが、それならば彼女はとうにこの町を出ているはずです。いま頃のこのこと私たちの前に姿を現すと思いますか?」
「は……それはそうですが……」
「彼女は身元のしっかりした、信用のできる人です。私が保証します」
「……分かりました」
ベルナドットの口調が改まった。
「お嬢様がそう仰るなら、私から申し上げることはございません。失礼致しました」
ふたりのやり取りを薫は驚きながら聞いていたが、ふと大事なことを思い出して、おずおずと口を開いた。
「あの……ベルナドットさんていいましたっけ。あなたの大事なディスクを間違って持ち帰ってしまって、どうもすみませんでした。……それで、私もお願いがあるんですけど……」
「何でしょう?」
「その、私が取り違えたCDを返してもらえますか。友だちから借りた、大事な物なので……」
ベルナドットが、ちらりと薫の顔を見た。その切れ長の目から、修道女らしからぬ艶やかさがこぼれ落ちる。
「――そうでしたね。自分のことばかり申し上げてすみませんでした。私もあなたの物を持ち帰ってしまったのですから、お互い様ですね」
穏やかに表情に戻ったベルナドットが、ハンドバッグからCDを取り出して薫に手渡した。そんな彼女に興味をそそられて、つい薫は思いついたことを訊いてみた。
「あの、ベルナドットさんは、これをお聴きになったのですか?」
「いいえ、私が聴くのは賛美歌と宗教音楽だけです。世俗の音楽は心を乱しますので、聴かないようにしているのです」
「……」
「まぁ、ベルナドット、あなたも座ってお茶にしなさい」
二人の立ち話を見かねたように、笑いながらシャルロットが言った。
「さもないと、せっかくのダージリンが冷めてしまいますよ。音楽の話は、それからでもいいでしょう?」
「シャルロットさんは、このお屋敷のご主人なんですね」
紅茶をふた口ほど飲んだあとで、薫が興味を隠しきれない表情で訊ねた。
「そうですよ。やっぱり、信じられませんか?」
「いえ、そういうわけじゃないんですけど……。シャルロットさんは私と同じくらいの齢なのに不思議と威厳があるから、ちょっと訊きたくなって」
うふふっ、と笑いながらシャルロットが答える。
「そう、私はこの屋敷の主人。そして、屋敷を所有する『ワイズマン財団』の日本支部長でもあります」
「ワイズマン財団……?」
「そう。あなた、ワイズマン・グループという名前を聞いたことはあるかしら?」
「ええ、名前くらいは……」
英国に本部がある、世界有数の財閥グループ。いくつもの超一流多国籍企業が名を連ね、それらの年間収益は天文学的な額に達すると言われている。
「私の名前は、シャルロット・ワイズマン。ワイズマン・グループは、私の一族が経営する企業集団です。ワイズマン財団は、その中で文化・教育事業を担当しています」
「はぁ」
「その財団のトップが、私なのです」
「はぁ……って、え!?」
「正確に言うと、トップのひとりというべきでしょうか。財団は、私を含めたワイズマン家の七人姉妹によって運営されていますのでね」
「は、はぁ……」
「驚くのも無理はありません。財団の理事などというのは、だいたいがいかめしいお爺さんばかりですからね」
シャルロットが、自分でもおかしそうに笑った。
「でも、驚くのはこれからですよ、薫さん。実はあなたも、すでにワイズマン財団と関わりがあるのですよ」
「え、私も?」
「ええ。ワイズマン財団の傘下には、学校法人聖陵学園も入っています。あなたが通っている聖陵学園付属中学は、そのグループ校なのですからね」
そこまで聴いて、薫はふと昨日のことを思い出した。
慌てて教室へ向かう途中で見かけた、金髪の少女。まるで重要人物のような物々しい扱いを受けていたのも当然で、彼女こそ学園の最高権力者であったのだ。
「それじゃあ、シャルロットさんは……」
「そう。私は、あなたの学園の理事長でもあるのです。校長のシュトラウスも私の部下です。本当は、我が家に仕える執事なのですけどね」
「えっ……ええーっ?校長が!?」
「学園の運営は、彼に一任しているのですよ。いくら理事長といっても、たくさんある系列校の面倒をひとりで見ることはできませんからね」
そう言って紅茶を美味しそうに啜ると、シャルロットが表情を改めて言った。
「薫さん、私、あなたにお願いがあるのですが」
「な、何でしょう?」
薫が、思わずどきっとする。
「また、この屋敷に来てくださらないかしら?」
「え……?」薫が思わず聞き返す。「でも、もう品物はお渡ししましたけど……」
「お使いじゃありません。友だちとして来てほしいのです。――できたら、毎日ね」
「と……、友だち、ですか?」
「そうです。お嫌ですか?」
「と、とんでもない」
思わぬ申し出に、薫が上ずった声で答えた。
「そう言っていただいて、私、とても嬉しいです。でも、私みたいなのが、学園の理事長さんとお友だちになっちゃっていいのかしら。私、普通の生徒ですけど……?」
「いいのですよ。私があなたのことを気に入ったのですから」
そう言って、シャルロットが淋しげな微笑みを浮かべた。
「私は、つい最近外国から来たばかりで、日本のお友だちがいないのです。あなたとおしゃべりをしたり、お茶を飲んだりしたいのですけど、ご迷惑かしら?」
「い、いえ、そんな、迷惑なんて」薫が慌てて言った。
「私で良ければ、またお屋敷に伺わせていただきます」
決して強引さを感じさせない、シャルロットの柔らかい口調。しかし、その言葉には、相手にノーと言わせない不思議な威厳が込められていた。
薫も、そんなシャルロットに興味を感じ始めていた。それに、自分の通う学園の理事長じきじきの頼みとなれば、そう簡単に断るわけにもいかない。
「で、では、ありがたくお伺いさせていただきます。ただ、私は昼まで勉強がありますので、午後からでもよろしいですか?」
「結構です。私も毎日三時まで執務があって、そのあとこのハーブ・ガーデンで休みを取っています。
そうですね、四時頃に来てもらえるかしら。一緒にガーデニングをして、美味しいお茶を飲みましょう。それだとちょうど午後の紅茶の時間になりますからね」
「ハイ・ティー?」
「夕食の前にお茶を楽しむ、英国人の習慣ですよ。私の故郷の英国では、女王陛下も一般市民も午後のお茶を楽しみます。そのくらい馴染み深い習慣なのですよ」
シャルロットが、淑女らしい微笑みを浮かべて言った。相槌を打ちながら、薫はいつの間にか外が真っ暗になっているのに気がついた。
「あ、いけない。そろそろお祖父ちゃんが帰ってくる時間だわ。
……シャルロットさん、すみませんが、今日はこれで失礼します。お茶やケーキをご馳走していただいて、どうもありがとうございました」
「こちらこそ、大したおもてなしもできずに失礼しました。……薫さん、明日も忘れずに来てくださいね。待っていますよ」
「はい、それではまた」
温室を飛び出すと、薫はやって来た道を急いで帰っていった。
「素敵なお嬢さんですね」
薫の背中を見送りながら、シャルロットが嬉しそうに言った。
「初めての日本。初めての友だち……。ふふ、今年の夏は楽しくなりそうですね」
「お嬢様、お言葉ではございますが」
それまで黙っていたベルナドットが口を開いた。
「日本にいらっしゃったばかりでお淋しいのは分かりますが、外部の人間をみだりにお近づけになるのは感心いたしません」
「ベルナドット、分かっているでしょう。私はいま、財団の用事がある時以外は屋敷から出られません。以前のようにお茶会を開くことすらできないのですよ」
シャルロットがしなを作りながら、拗ねるような口調で言った。
「それなのに、あなたは友だちとお茶を飲むことまでだめだと言うのですか?」
「い、いえ、私が申し上げたのは、そういう意味ではなくて……その……」
気まずそうに首を振り、沈黙したあとで、ベルナドットが諦めたような表情を浮かべた。
「……そうですね、それくらいなら構わないでしょう。『機関』のほうには、私からうまく説明しておきます」
「ありがとう、あなたならきっとそう言ってくれると思っていましたよ」
欲しいものを手に入れた子供のように満足した表情で頷くと、シャルロットが話の矛先を変えた。
「それよりベルナドット、私に何か用事があったのではありませんか?」
「ああ、そうでございました。実は、ご指示のあった作業が終わったことをお知らせに上がったのです。
学園本部棟のホスト・サーバーに入っている、全校生の個人情報データをお嬢様のノートにダウンロードしておきました。これにそのディスクを挿入しますと、該当する生徒のファイルが自動的に検索されて開くように設定されております。
――さっそくですが、今からご確認いただいてよろしいですか?」
「結構です」
その言葉に頷くと、ベルナドットが黒いノートパソコンを主人の前に置いた。
「これが、この日本の地で新たに見出された、私たちの同胞『幼子』のデータ・ファイル。お嬢様だけがアクセスできる、『財団』の最高機密でございます。
――どうぞご覧くださいませ、シャルロットお嬢様」
第三章 スカボロー・フェア 《Scaborough Fair》
七月二十一日
抜けるような青い空の下、一本の道がどこまでも伸びていた。
ひぐらしの声が響く、真夏の白い道。海岸線を南北に縦走する湾岸道路は、薫の家の前から学園前の三叉路までまっすぐに続いている。
舘須賀市の南側に位置する万里浜町は太平洋に面した町で、年中爽やかな海風が吹き、真夏でも内陸の街よりずっと過ごしやすい。
夏休みの二日目、薫はシャルロットに言われたとおり、午後四時ちょうどに温室に顔を出した。温室には、穏やかな午後の陽射しが降り注いでいる。
広いガーデンの中心部はドームが設けられた円形の空間になっており、そこを一メートル半ほどの高さの低木が取り巻いている。その真ん中に洒落たテーブルと椅子が備えられ、ドームに絡みついた薔薇の花が柔らかな芳香を漂わせていた。
「薫さん、私の可愛いハーブたちをご紹介しましょう」
お茶のあとで、待ちかねたようにシャルロットが薫に言った。
「このガーデンには二十種類ほどのハーブが植えられていますが、主だったものをいくつかお教えしますね。
――まず、入口の周辺に植えられているのがミントです」。
そう言って、シャルロットが高さ五十センチほどのハーブの一群を指差した。三十センチ間隔で生えている赤い茎に、鮮やかな緑の葉がついている。
「ミントは『薄荷』とも呼ばれていて、甘くて強い香りが特徴です。ハーブ・ティーやアイスクリームでもお馴染みのハーブですね。
このミントは、古代ローマでは税金の代わりとして徴収されていたのですよ。そうですね、ベルナドット?」
「はい、お嬢様」背後に控えるベルナドットが口を開いた。
「新約聖書、マタイ福音書第二十三章第二十三節。――『律法学者とファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。薄荷、いのんど、茴香の十分の一税は捧げるが、律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしているからである』……」
ベルナドットが、聖書の文句をさらりと暗誦してみせる。それを聞きながらシャルロットがにっこりと笑った。
「さすがですね、ベルナドット。
このように、ハーブというのは単に食品や香料としてだけでなく、時には税金代わりともなって、古代から人びとに大切にされてきたのです」
そう言って、シャルロットが別のハーブを薫に示した。ひょろりと伸びた茎から枝が伸び、その先に流線型の長い葉がいくつも生えている。やや薬めいているが、すっきりした香りが気持ちいい。
「これはセージ。くっきりした強い香りが特徴のハーブです。
古代ローマ時代から人々に愛されてきたもので、治癒力や殺菌効果で知られています。かつてヨーロッパでは『庭にセージを植えれば老いることなし』と言われ、不老長寿のハーブとしても評価されてきたのです」
そこから数歩歩いて、シャルロットが大きな鉢に植えられているハーブの一群を薫に示した。小さな可愛らしい葉が無数についている枝が、蔦のように地面を這っている。
「これはタイム。古代から芳香剤などに使われてきたハーブで、ヨーロッパの詩人たちはこぞってその香りを讃えてきたものです。香辛料としてもよく使われますし、セージ同様脂っこい肉料理の消化剤として使うと効果的なのですよ」
そんな調子でいくつかのハーブを説明すると、シャルロットは最後に薫を中心部のハーブの木立に案内した。
――それは、不思議な姿をしたハーブであった。葉は針のように鋭い形で、あたかも上質の革細工のような艶やかな光沢を放っている。
地中海の青い水のような、優雅な青い花がいくつも枝を飾っていた。それはあたかも、革のサンダルを履いてチュニックのドレスをまとう、異国の少女の姿を思わせた。
「そして、これがローズマリー。『海のしずく』の名前を持つ、地中海地方が原産のハーブです。
このローズマリーは、古代から世界で最も愛されてきたハーブのひとつです。ほら、嗅いでご覧なさい。何ともいえない素敵な香りがするでしょう?」
シャルロットが、青々とした枝を薫の鼻先にそっと突き出した。不思議な香りが、薫をそっと包み込む。
「本当ですね。とても神秘的な、いい香りがします……」
薫が、その芳香にうっとり目を細めながら答えた。
「このガーデンには、他にも素敵なハーブがいっぱいありますが、それらについてはおいおい説明していきましょう。
――それでは、今からハーブたちに水と肥料をあげましょう。薫さん、ちょっと手伝ってください」
エプロンをつけながら、シャルロットとベルナドットが、薫をハーブの植え込みへと案内する。金色の光を浴びて、薫の前にどこまでも美しい庭が広がっていた。
七月二十三日
「ハーブの手入れは結構気を使うものです。水やりや施肥、雑草取りや虫への注意。特に地中海性のハーブは、水や肥料のやり過ぎに気をつけなくてはいけません」
夕方の陽だまりの中で、シャルロットが言った。
屋敷に通い始めてから三日め、庭仕事を終わって中央部のテーブルに戻ってくると、メイドのカーリンがお茶を用意して待っていた。
「今日は、紅茶ではなくてハーブ・ティーにしてみました。もし紅茶のほうが良ければお好きなものを持って来させますが?」
「あ、いえ、これで結構です」
ティー・カップから、ミントのいい香りが漂っている。ふとあることに気づいて、薫はシャルロットに問いかけた。
「今日は、ベルナドットさんの姿が見えませんね?」
「ええ、彼女は私の家庭教師なのですが、他の仕事もやってくれていましてね。忙しくてここに顔を出せないことも多いのです。
――彼女は、私のだいじな相談相手なのです。屋敷の者は『灰色の女枢機卿』なんてあだ名をつけて呼んでいますけどね」
「女枢機卿……」
呟きながらハーブ・ティーをひと口飲んだ薫の顔に、驚きの表情が浮かんだ。
「あっ、これ、美味しいですね。いつもの紅茶に負けないくらい……」
「そうですか、気に入ってもらえて良かった。――それ、何のハーブか分かります?」
「ミントのような気がするんですけど、スーパーで売っているティー・パックのものとは少し違うような……」
「そうです。ワイズマン家自慢のスペシャル・ハーブティーです。
ベースはミントですが、それにレモンバームと蜂蜜、少々の隠し味を加えてあります。どうです、お気に召しましたか?」
「いいですね。すっきりしたミントの味の中にレモンのような不思議な甘さがあって……。とても素敵な感じがします」
シャルロットが、ティー・カップを引き寄せた。薔薇色の唇に琥珀色の液体が吸い込まれていく。
「昔から、ハーブはお茶としても愛用されてきました。より洗練された味わいの紅茶や中国茶が広まった現代ではそれだけを飲むというわけにはいきませんが、それでもハーブ・ティーには捨てがたい味わいがあります。
そうそう、このミントもレモンバームも、このハーブ・ガーデンで採れたものを使っているのですよ」
「それにしても、ここ、いろんなハーブがありますねぇ」
ぐるりと視線を廻す薫にシャルロットが応える。
「薫さん、ハーブの歴史はヨーロッパの歴史と言っていいくらい、人びとの生活と深く関わってきたのです。古代ギリシャやローマ、ヨーロッパの詩人たちは、その名を詩や歌に謳ってきたものです。
――ああ、そうそう。歌で思い出しましたが、あなたは『スカボロー・フェア』いう歌を知っていますか?」
「スカボロー・フェア?」薫が首を傾げた。「いいえ、初めて聞く名前です」
「そうですか。スカボローというのは、私の故郷イギリスにある町の名前です。古くから交易の中心地として栄え、この町で開かれる定期市はスカボロー・フェアと呼ばれていたのです。
まずは、ちょっと聴いてみてください。こんな感じの歌です」
スカボローの市場へ出かけるの?
パセリ、セージ、ローズマリー それからタイム
そこにいるあの人に、よろしく伝えてほしいの
むかし、私が本当に愛したひとだから
「へぇ、素敵な歌ですよね。ちょっぴり哀しい感じがしますけど……」
「そうでしょう?これは英国の古い民謡で、私の大好きな歌なのです。何番も続く長い歌なのですが、それぞれに共通しているところがふたつあります。
ひとつは、四つのハーブの名前が歌の中に織り込まれていること。どれも古代から愛され、そして特別な意味を持っていたハーブなのです」
「特別な意味……ですか?」
「そうです。花に花言葉があるように、ハーブにもそれぞれそのハーブに込められた意味があるのです。
たとえば、パセリには昔から、『苦味を打ち消す力』があると言われてきました。つまり、『人生の苦しみを和らげる力』という意味があるのです。また、セージには昔から『忍耐』――つまり、長い時間を耐え抜く力の象徴として知られてきました。
それから、タイム。このハーブには『勇気』という意味が込められています。昔からこのハーブは勇気をもたらすと信じられていて、貴婦人たちは自分を慕う騎士にこのタイムの枝の模様を刺繍した布を贈ったりしたのです」
そう言うと、シャルロットが立ち上がって周囲を取り囲む低木のハーブに手を伸ばした。
「そして、ローズマリー。このハーブに込められた意味は『愛』です。
かつてヨーロッパの花嫁は、永遠の愛を祈って自分の髪にこのローズマリーの小枝を挿したものです」
薫は、シャルロットの話にじっと耳を傾けていた。シャルロットの豊富な知識もそうだが、それ以上に、ハーブが古代や中世の人間にとって大切なものだったという話が薫には驚きだった。
「苦しみを消す力、忍耐、愛情、そして勇気――。これこそが、愛を実らせるのに必要なのだというのが、この歌に込められたメッセージです。それを、四つのハーブに託して歌ったのがこの歌なのですよ」
ティー・カップを傾けて茶をひと口啜ると、シャルロットが話を続けた。
「この歌のもうひとつの共通点は、歌い手が一度は別れた恋人に実現不可能な仕事を頼み、相手がそれを成し遂げれば愛が成就するだろうと歌っている点です。続きを歌ってみましょうか」
麻のシャツを作ってと あの人に伝えてちょうだい
パセリ、セージ、ローズマリー それからタイム
縫い目も、針仕事の跡もないものを
そうしたらあの人 私の本当の恋人になるでしょう
一エーカーの土地を探してと あの人に伝えてちょうだい
パセリ、セージ、ローズマリー それからタイム
打ち寄せる波と、砂浜の間にある土地を
そうしたらあの人 私の本当の恋人になるでしょう
「歌い手が恋人に要求するこれらの仕事は、常識で考えたらできないことばかりです。
でも、もしそんな不可能な望みを叶えることができれば、不可能な愛だって叶えることができるかも知れません。愛を成就させるためには、時に不可能と思えるようなことにも立ち向かう勇気が要る。この歌は、そういう謎を聴く者に投げかけているわけです」
歌の中に、愛の哀しみがそっと縫いこまれている。そう思って、薫はちょっぴり切ない気持ちになった。
「もし、薫さんにいつか好きな人ができたら、その人にそっと問いかけてみるのもいいかも知れませんね。そんな到底できないようなことでも、愛の力で可能にしてくれる人かどうかを」
思わせぶりなことを呟きながら、シャルロットが腕時計にちらりと目を落とした。
「おや、もうこんな時間ですね。もうすぐ暗くなりますから、その前に後片付けに入りましょうか」
「――どうやら、こちらの話に興味を示し始めたようですね」
薫の姿が出口に消えると同時に、薔薇のドームの陰からベルナドットが姿を現した。
「いたのですか、ベルナドット。
そうですね。話の糸口として、ハーブを出すのは悪くなかったでしょう?一緒にハーブの世話をしているわけだし、私たちの歴史も、ハーブや薬草と深いところでつながっているのですからね。
いずれ、私たちがこの町に来た本当の理由を話さないといけません。彼女が冷静に受け止めてくれるといいのですがね……」
そう言いながら、シャルロットがティー・カップを取り上げた。水鏡に、長い睫毛に縁取られた目が映っている
「――それにしても、薫さんは素敵な方ですね。最初に会った時、まさかあの方が新しい『幼な子』だとは思いませんでした。あの方を私たちの組織に迎え入れるのが私の仕事ですが、個人的にもいいお友だちになれそうな気がしますわ」
「は……」
シャルロットの言葉に、ベルナドットの眉がわずかに動いた。
「そう思いませんか、ベルナドット?」
「私のいまの任務は、お嬢様をお守りすること。そして、お嬢様のお為にならない者を排除することです。それ以上の判断は、分を超えます」
「あなたの任務に対する献身には、いつも頭が下がります」
誰にも聞こえないような小さいため息をついて、シャルロットが続けた。
「それよりベルナドット、あなた、今晩も屋敷に戻らないのですか?」
「はい。これから学園に戻って、引き続き捜査の指揮を執らなければなりません。
敵は、明らかにお嬢様を狙っています。今回は危険を免れましたがいずれまた襲って来るでしょう。速やかに犯人の身柄を拘束することが、お嬢様の安全を確保する唯一の道かと存じます」
「……分かりました。捜査のほうははあなたに任せます。よろしく頼みますよ」
「お任せください」
その言葉とともに、アーチの陰の人の気配が消えた。そっとため息を吐きながら、シャルロットが小さな声で呟いた。
「……私があなたに望んでいるのは、そういうことではないのですけどね、ベルナドット……」
冷めたハーブ・ティーの水面に、憂いの表情が映っている。淋しさに耐えかねたように、シャルロットが自分の肩をそっと抱きしめた。
七月二十四日
「いやぁ、海もいいけどさ、プールの雰囲気も捨てがたいのよねぇ」
万里浜町内、市営プールのプールサイド。ビニルマットに寝ころがったのえるが、気持ちよさそうに呟いた。
午後の陽射しを浴びて、大きな入道雲が白く輝いている。プールの事務所のラジオからは、カリビアン音楽の陽気なリズムが聞こえていた。
「ね、薫、あとで買い物に行きましょ。駅前のモールで、服とかアクセとか見ましょうよ」
「うん、それなんだけど……」
薫が口ごもりながら言った。
「……実は、三時になったら帰らなくちゃいけないの。その……四時から家の用事があるんで、それで……」
「え、何それ?」
のえるが、驚いたように薫の横顔を見た。
「三時って、あと一時間もないじゃん。何、お店の仕事?お使いは終わったんじゃなかったの?」
「それが……ちょっと……」
「何よ、外泊を親に隠す時のようなその話し方。アヤシイわね、誰かと遊びに行くの?」
「い、いや、そういうわけじゃなんだけど……」
「でもあんた、あたし以外に遊びに行く子はいないはずだしねぇ……。あ、もしかして、誰かいいオトコとデートとか?」
「いや、だから、そうじゃなくて」
自分でも知らないうちに、薫は思いついた嘘を口にしていた。
「あの、実はお祖父ちゃん碁が好きで、最近夕方になると碁会所に出かけるのよ。今日も友だちと打ちに行くので、私が代わりに店番をしなきゃならないの」
「なぁんだ、そうかぁ。そう言えば、駅前のおんぼろビルにあったわね、碁会所が」
のえるが拍子抜けしたような声を出した。
「つまんないの、もっと色っぽい話かと思ったのにさぁ」
「あるわけないでしょ、そんなの」
「まぁ、薫のところはお店やっているから大変だよね。――それにしても、せっかくの夏休みだってのにじじむさい骨董品に囲まれて留守番ってのは可哀相よねぇ」
中学生に刀剣や骨董品の店の留守番が勤まるの?という際どいところまでは気がつかなかったらしく、のんびりした調子でのえるが言った。
「まあ、それじゃしょうがないか。薫のお祖父ちゃん、武道家で厳しいしね。いいわよ、それじゃ買い物はまた今度にしましょう」
「悪いわね、のえる」
「いいって、気にしないで。――あたしたち、親友でしょ?」
のえるがサングラスを外して、無邪気そうに微笑んでみせた。
午後の陽射しが、広々としたキャンパスに降り注いでいる。
横浜市の一角にある、横浜国際大学の一角。すでに夏休みに入っていて人影はまばらだが、それでも図書館前の芝生の周りには補講やサークル活動に出てきている学生たちが思い思いに時間を過ごしていた。
その片隅にあるベンチで、本を読みふける壮年の男の姿があった。
歴史学の教授にして、裏の顔は秘密暗殺組織『鉄槌』の幹部、グレゴリー・エルガー。
その背後のベンチに三十代の男が歩み寄り、グレゴリーと背中合わせに座った。筋肉質の大男で、濃い髭を生やした顔にサングラスをかけている。
「――相変わらず、キャンパスが似合わない男だな、君は」
グレゴリーが本から顔を上げずに言った。
「見るからに傭兵だ。戦場の匂いがぷんぷんするぞ」
「は……。自分も、こういう場所は不得手で」
「まぁいい。それより、例の件はどうなっているのかね?」
背中合わせに腰を下ろしたフィリップスが、そっと後ろ手にファイルを手渡した。
「ご覧ください。これが夏休み中、部活動などで学園に出入りしている生徒のリストです。だいたいは夕方までに下校していますが、毎日遅くまで残っている生徒がひとりいます」
「ほう、どんな子かね?」
「三年生の女生徒です。どうも部活動に熱中しているらしく、帰りは毎日暗くなってからです」
「それはいい。今回は、あくまでも変質者が女学生を襲って殺したように見せかけたい。極力、人目につかない状態で始末したいのだ」
「分かりました。では、その件は私のほうで処理するということでよろしいですね?」
「いや、それは私がやる」
その言葉にフィリップスが思わず腰を浮かせかけるのを、グレゴリーが冷静な声で制した。
「落ち着きたまえ、フィリップス君。こっちを振り向くんじゃない」
「し、しかし、審問官殿が直々に動かれるのですか?」
「そうだ。今回の作戦を統轄しているサルファー『大審問官』は、とても厳しい方だ。しくじったら、夏休みどころか仕事や人生まで失いかねん。
それより君には、得意の課題工作のほうをやってもらおう。学園で花火を打ち上げて、生徒たちに夏休みを満喫してもらうのだ。永遠に続く、終わりのない夏休みをな」
「承知しております、審問官」
「結構だ。――情報をありがとう、フィリップス君」
グレゴリーが立ち上がって、ゆっくりとした歩みで立ち去った。芝生の上では、若者たちが相変わらず楽しそうにじゃれ合っている。
――ふと、周囲が暗くなったような気がして、フィリップスが空を仰いだ。先ほどまで抜けるように青かった夏の空を、いつしか灰色の雲が覆っていた。
「……ひと雨来るな。予報は確か晴れだったはずだが……」
眉をひそめながらバッグの中の傘を探すフィリップスの肩に、ぽつりと夕立の雨が降りかかった。
「心配することはありません。通り雨ですよ、すぐ止みます」
シャルロットが、温室の窓越しに外を見ながら言った。急に振り出した夕立が、囁く様な音を立てながら屋敷の庭に降り注いでいる。
「もうすぐ晴れますよ。それまで、もう少しここでくつろぎましょう。――カーリン、薫さんにもう一杯お茶を注いでおあげ」
「承知いたしました」
メイドのカーリンがティー・カップに紅茶を継ぎ足した。既に午後六時を過ぎ、薫は心配そうに外の様子を眺めている。
「そんなに急いで帰らなくてもいいでしょう。それとも、私といると退屈ですか?」
「い、いえ、そんな……」
慌てて否定する薫を見て、シャルロットがおかしそうにくすりと笑った。
「分かっています。薫さんは、お祖父さんとふたり暮らしなのでしょう?たった一人の肉親に心配をかけまいとする気持ちは、よく分かります」
「……え?」薫の目が、思わず点になる。
「シャルロットさん、私の家族のこと、ご存知なんですか?」
「ええ、知っていますよ。私、あなたに興味がありますから」
「興味……?」
「私、あなたともっと親密な関係になりたいのです。お友だちよりも、もっと親密な関係に……ね」
「え、……ええっ?」
思いがけない言葉にとまどう薫を見ながら、シャルロットがまたくすりと笑った。
「実は、理事長権限であなたの身上書を見せてもらったのですよ。小学生の頃から、お祖父さんとふたり暮らしをなさっていたんですね。ご両親がおられなくて、お淋しいのではありませんか?」
「ええ……。そう感じたこともありましたけど、いまは慣れました」
「そうですか……。実は、私も淋しいのですよ、薫さん」
シャルロットが顔を上げて、薫の目をじっと見つめた。
「私には両親はいますが、友だちがいないのです。仕事で世界中を飛びまわっている両親と一緒だったので、学校には行ったことがありません。家庭教師はいましたが、学校は勉強をするだけのところじゃないでしょう?
変ですよね、学園の理事長なのに、学校に行ったことがないなんて……。時々視察であちこち学園を見に行くのですが、楽しそうに遊んでいる子たちを見ると、何だかうらやましくなるのです」
「それなら、シャルロットさんも学校に来ればいいじゃないですか」
「え?」
驚くシャルロットに、薫が言った。
「シャルロットさんも、私たちと同じ教室で勉強したり、遊んだり、お昼を食べたりすればいいのよ。先生に頼んで席を隣にしてもらえば、私がいろいろ教えてあげられるし。そうよ、一緒に学校に行きましょうよ、シャルロットさん!」
一瞬、薫の言葉に目を丸くすると、シャルロットが大きな声で笑い出した。それは彼女が初めて見せる、心からの楽しそうな笑いだった。
「……そうですね。私も薫さんと一緒に学校に行きたい。そうしたら、きっと毎日楽しいでしょうね」
「あ……、でもシャルロットさんには、理事長としてのお立場がありますよね。ごめんなさい、調子に乗っちゃって……」
「いいんですよ、薫さん。そんなことを言ってくれたのは、あなたが初めてです。とっても嬉しいですわ」
シャルロットが腕を伸ばして、薫の手をぎゅっと握り締めた。
「薫さん、ありがとう。一緒に学校には行けないけれど、これからも、ずっとずっとお友だちでいてちょうだいね」
「え……ええ!」
頬を赤らめて薫が答えた時、ハーブ・ガーデンにさっと陽の光が差した。雨がいつの間にか上がって、広い庭の向こうに美しい夕焼けが見える。
「あ、晴れましたよ、薫さん!」
「ええ。――それじゃ、今日はこれで失礼します」
一礼して、薫が温室の外に出た。雨上がりの庭で、芝生の上に結ばれた露が夕陽を浴びてきらきらと輝いていた。
「お嬢様、お茶をお持ちいたしました」
数時間後、屋敷内のシャルロットの寝室。ぴかぴかに磨かれたトレイにミルク入り紅茶を乗せて、メイドのカーリンが現れた。
「ありがとう。どうもここのところ、よく眠れなくてね……。
――ところで、ベルナドットが屋敷にいないようだけど、また学園の『機関』本部に行ったのかしら?」
「そう仰っていました。何でも学園の周辺に、『鉄槌』の動きらしい兆候があるとかで……」
「そうですか。……ロンドンの屋敷にいた頃は、彼女にベッドの中で寝物語をしてもらうのが何よりの楽しみだったのですがね……」
「では、ベルナドット様をお呼びしましょう。学園におられるのなら、すぐお出でになると思いますが」
「いえ、いいのです。彼女も『機関』の仕事で忙しいし、私の都合で邪魔をするわけにはいきません」
「しかし……」
「カーリン。それは、あなたが心配することではありません」
失礼致しました、と従順にカーリンが頭を下げる。そんな彼女に女主人が優しく言葉をかけた。
「いいのよ、気にしないで。それより、代わりにあなたが書庫から本を持ってきて、私に物語を聞かせてちょうだい。
本は……そう、円卓の騎士の恋物語がいいわね。グィネヴィアが、ランスロットの帰還を待ちわびるくだりを聞きたいわ。
――よろしく頼むわね、カーリン」
七月二十五日
「薫さん、私の一族は、もともと森で薬草を摘む仕事をしていましてね」
その日、庭仕事の後でシャルロットはそんなふうに話を切り出した。テーブルの上では、注がれた紅茶がかぐわしい湯気を漂わせている。
「薬草商人だったのです。そこで蓄えた富をもとに事業を拡大して、こんにちのワイズマン・グループの基礎を築いたのです。そう、薬種商から身を起こして大富豪となった、イタリアのメディチ家のような一族だというと分かりやすいでしょうか。
ガーデニングが好きなのは英国人に限りませんが、ハーブや薬草に対する強い関心は我が家の伝統です。ロンドンの屋敷の図書室には、中世から伝えられてきた秘伝の製薬法などがたくさん書き残されているのですよ」
「へえ……。シャルロットさんの実家って、本当に由緒あるお家なんですね」
「ええ。――それより、私の故郷イギリスには『ハーブ・ウィッチ』という言葉がありますが、薫さんはご存知ですか?」
香り立つセイロン紅茶を口に運びながら、シャルロットが思い出したように言った。
「ハーブ・ウィッチ?」
「そう。『ハーブの魔女』という意味です。ハーブに造詣が深い人のことを、英国では敬意を込めてそう呼ぶのです」
「じゃあ、シャルロットさんも『ハーブの魔女』じゃないですか?」
「そうですね。私も、そういう魔女ならなりたいと思っています」
鈴の音のような愛らしい声で笑うと、シャルロットが薫の目をじっと覗き込んだ。
「薫さん、お伺いしたいのですけど、あなたは『魔女』という言葉を聞いて何を思い浮かべますか?」
「魔女…ですか?」
怪訝そうな表情で薫が訊いた。
「……そうね、子供の頃、絵本で読んだ魔女のイメージかしら。
その絵本に描いてあった魔女は、黒い服を着て、怖い顔をしたかぎ鼻のお婆さんでした。いつも家で怪しげな薬を作ったり、夜になるとほうきで空を飛んだり、恐ろしい魔法を使ったりするの」
雲の裂け目から、黄昏の陽差しがハーブ・ガーデンに差し込んだ。金いろの光、がシャルロットの笑顔に微妙な影を落とす。
「子供の頃、そんな本を読んで、怖くて眠れなかったことがありました。もし夜に窓の外を見て、恐ろしい魔女が空を飛んでいるのを見ちゃったらどうしようって。
――ふふふ、おかしいですよね。魔女なんてただのおとぎ話で、本当はどこにもいないのにね」
「おとぎ話ですか」
うふふっ、と柔らかい声を上げてシャルロットが笑った。
「でも、分かりませんよ。――『魔女』は、本当にいるかも知れない。普通の人のふりをしながら、どこかで私たちのことを見ているのかも知れませんよ」
「まさか」
薫が、堪えきれずに吹き出した。
「シャルロットさんて、おもしろいことを仰るんですね。
でも私も、魔女や魔法使いが本当にいたらいいなと思うんです。小学生の頃、よく魔法少女のアニメを見たし、今も魔法使いが出てくる映画とか大好きですから……」
「ああ、それはよかった。実は私、魔女や魔法に興味のある人が好きなんです」
「えっ、そうなんですか?」
澄ました顔で相槌を打つシャルロットに、薫がぱんと手を打って答えた。
「あ、分かった!実はシャルロットさん自身が、『魔女』だっていうんじゃないですか?」
「そのとおりです。よく気がつきましたね」
シャルロットが、大輪の薔薇のような笑顔を浮かべた。
「そう、私は、魔女なのです。
お屋敷の娘というのは仮の姿で、実は真夜中にこっそり魔法のお薬を作ったり、秘密のおまじないをしたりするのですよ」
薫がおかしそうに笑い、シャルロットもふふふっと柔らかい笑い声を上げた。
「冗談ですよ、薫さん。――さぁ、それでは後片付けをしましょう。もうすぐ日が暮れますからね」
笑いながら、シャルロットが最後にそう付け加えた。
――もしこの時、薫が彼女の表情を注意深く見ていれば、その目が笑っていないことに気がついたかも知れない。ローズマリーの花のような青い瞳が、神秘的な光をたたえて、薫の横顔をじっと見つめていた。
「どこ行くの、薫ちゃん?」
昼下がりの万里浜町商店街のスーパー・マーケット。いつものように買い物に来ていた薫に、声をかける男の姿があった。
「あ、あなたは、えーと……」
「白だよ、安永白」
陽に焼けた顔の中で、綺麗に並んだ白い歯が輝いている。夏休み初日に海水浴場で会った、ライフ・セイバーの安永白が薫の前に立っていた。
「ど、どうも。……ところで、今日はお仕事はどうしたんですか?」
「役所との取り決めで、土曜日は午前中で終わりなんだ。午後から暇なんだよ」
「そうなんですか……」
「今日は買い物かい?」
「ええ、お祖父ちゃんとふたり暮らしなんで、交代で食料品とか生活用品を買いに来るんです」
「ふうん、そうなんだ」
そう言って買い物を済ませた袋に手を突っ込むと、「あげる」と言って白がオレンジをふたつ薫に手渡した。
「い、いいですよ。悪いし……」
「いいって、あげるよ。それより、今からどこかに行かない?近くのカフェでお茶でもどうかな?」
「えっ、ええ……」
ハンサムな青年からの誘いに胸をときめかせながら、薫がOKの返事をしかけた時、壁の時計が午後三時を過ぎているのが目に入った。そろそろ帰って出かけないと、シャルロットとの待ち合わせに間に合わない。
「……実は、これから行くところがあるんです。せっかく誘っていただいたんですけど、都合が悪いので、今日は……」
「ああ、そうか、今日も都合があるんだね。それは残念だな……」
白が、少しがっかりしたような表情を浮かべた。
「まぁ、しょうがないさ。いつかまた誘うから、その時は一緒に付き合ってよ。好きなもの、おごってあげるからさ」
「えっ、ええ……」
曖昧な返事をする薫に「約束だよ」とおっ被せるように言うと、白が背を向けて歩き出した。ポロシャツとジーンズに包まれた、野性的な後ろ姿がスーパーの出口へと消えていった。
「やっぱりかっこいいわよねぇ、白さん。……いけない、早く帰らなくちゃ」
足もとの買い物袋を拾い上げて、薫がレジに向かって歩き出した。
「――お疲れ様でした、薫さん。根覆いも一段落つきましたし、今日はここまでにしましょう」
額にうっすらと浮かんだ汗を拭きながら、シャルロットが言った。薫も同じように顔の上でスポーツタオルを動かしている。
「根覆いって、どういう意味があるんですか?」
汗を拭いたタオルを首に巻きながら、薫が訊いた。
「ハーブを育てる土を守るための工夫ですよ。落ち葉や、伸びすぎて刈ったハーブを土の上に撒いておくと、侵食を防いだり土の湿気を保ってくれるのです。これも、ハーブの成長には必要なことでしてね」
いつものように、メイドのカーリンがふたりの茶器に紅茶を注いだ。キームン・ブレンドの高級茶の香りが、テーブルの周囲にゆっくりと拡がっていく。
「――それより薫さん、昨日の話の続きをしてもいいかしら?」
「昨日の話?……ええと、すみません、何でしたっけ……?」
「お忘れですか。魔女の話ですよ」
ティー・カップを持ち上げながら、シャルロットが言った。
「昨日、私は魔女だと言いましたが、実はあながち冗談でもないのです。魔女については、古代からその存在が伝えられています。よく分からないところもあるのですが、元々は森の中でハーブや薬草を摘んでいた女たちだと考えられています。
私の先祖も、そういう魔女の一族だったのですよ」
ちょっと長い話になりますが、と前置きして、シャルロットが話し出した。
「古代ローマ帝国では、すでにハーブの研究が盛んでした。ローマの医学や薬学、植物学の分野で、ハーブの研究は重要な意味を持っていたのです。古代ヨーロッパにおいて、ハーブは人びとの生活の中心にあった植物だったと言えるでしょう。
――そして、蛮族の侵入でローマ帝国が崩壊すると、その研究はいくつかの系統の人びとによって受け継がれていきました。
そのひとつが、キリスト教の修道士たちです。中世ヨーロッパは修道院を中心とした文化が花開いた時代ですが、彼らは失われたローマの科学や技術を、修道院の中で継承していきました。
その中には、もちろん自然科学の一分野であるハーブの研究も入っていて、修道士たちは庭でハーブを育てたりしたものです」
優雅な東洋ふうの香りのキームンを啜りながら、シャルロットが話を続けた。
「――そして、もうひとつの流れに属するのが、森の中でハーブを摘んでいた女たち。すなわち、魔女と呼ばれた女たちです。
彼女たちは、修道院のような村や町の中心ではなく、人里から離れた場所に住んでいました。彼女たちがかかわる仕事は広く、薬作りや病気の治療、占い、それから時には魔術を使うこともありました」
「魔術?」
「おまじないのことですよ。例えば、好きな人と一緒になるためのおまじないとかね。今でもヨーロッパには、ハーブを使った恋のおまじないがいくつも残っています。
ハーブの中には、古くから媚薬として効能を知られたものもありました。村の女に頼まれて、恋愛成就のおまじないをしたこともあったでしょう」
そう言って、シャルロットがにっこりと笑った。
「他にも、魔女が村人たちの相談に乗っていろいろな仕事をしていたことが記録に残っています。先ほど魔女が病気の治療に関わっていた話をしましたが、特に女には、生理や出産といった女性独自の問題があります。魔女と呼ばれた女たちは、そういった問題にも独自の知識や技術をもって関わっていたのです。
そういったものの中に、こういったハーブや薬草に関わるものも多数ありました。事実、彼女たちの摘んでいた薬草の中には、安産の薬や堕胎薬になるものもあったのですからね」
シャルロットが、ティー・カップをゆっくりとソーサーに戻した。無意識にその白い指の動きを追っていた薫の目が、顔を上げた彼女の青い瞳とぶつかった。
「中世というのは、科学と宗教と魔術の区別がなかった時代です。森の中に住んで薬草を取り扱っていた女たちは、誤解を受けることも多かったのです。深夜ほうきで空を飛び、怪しげな薬を作る老婆というイメージも、そういう偏見のひとつだったと言えるでしょう。
私は、そういった魔女たちの末裔なのです。こんなふうにハーブを育てているのも、魔女の血のなせる業といえるでしょう」
そこで言葉を切ると、シャルロットが薫の目を覗き込みながら言った。
「――薫さん、もし私が恐ろしい本物の魔女だったとしても、あなたは友だちでいてくれますか?」
シャルロットの目が底知れぬ光を湛えながら、薫の眼差しを捉える。その視線に薫はかすかな胸騒ぎを覚えた。
「でも、シャルロットさん、さっきも言っていたじゃないですか。恐ろしげな魔女というのは迷信に過ぎないって」
「ふふ……私はこうも言いましたよ。魔女は普通の人のふりをして、私たちの様子をじっと窺っているのかも知れないってね」
「…………」
どっちだと思う?と、シャルロットの青い瞳が訊いている。つかの間沈黙があって、薫がゆっくりと答えを返した。
「そんなこと、関係ありませんよ。だって、シャルロットさんが私のだいじな友だちであることに変わりはないんですから」
「なぜ?私は、恐ろしい魔法を使う魔女かも知れないのですよ?」
「だって……シャルロットさんは優しいひとですもの。もし魔女だったとしても、きっといい魔女なんでしょう?」
シャルロットは謎めいた微笑みを浮かべただけで、何も言わなかった。ただティー・カップを引き寄せて、残った紅茶を静かに飲み干しただけだった。
薫が立ち上がって、シャルロットにいとまを告げた。
テーブルを離れようとした彼女に、シャルロットが小ぎれいな青い瓶を手渡した。薔薇やジャスミンとは違う甘い香りに、心がうっとりとしてくるのを薫は感じた。
「ハーブや薬草から抽出した、特製のアロマ・オイルです。ワイズマン家に古くから伝わる方法で調合した特製品ですよ。
これを数滴お風呂に垂らすと、疲れが嘘のように取れて、ゆったりとした気持ちになれるのです。お勉強で疲れた時などに、ぜひ試してみてください」
「ありがとうございます」
「どういたしまして。――これも、魔女のお仕事のひとつですからね」
微笑むシャルロットに挨拶して、薫がゆっくりとガーデンを出て行った。
「ベルナドット、いつからそこにいたのですか?」
薫の姿が見えなくなるのを見計らって、シャルロットが背後の茂みに声をかけた。一呼吸置いて、ベルナドットの静かな声が返ってきた。
「つい先ほどでございます。仕事が一段落しましたので、戻って参りました」
「そうですか。聞いていたと思いますが、私たちの正体についてそれとなく謎をかけておきました。来週には、彼女にすべてを打ち明けることになるでしょう。
私たちの世界に新しい方をお迎えするのは、難しい仕事です。私がロンドンの総本部から派遣されてきたのも、この任務を成功させるためなのですからね」
「御意」
茂みの陰から、再び低い声が聞こえた。
「しかしお嬢様、ことは慎重に進める必要があります。万一彼女が私たちの仲間になることを拒否したり、あるいは不用意に私たちのことを洩らすようなことがあれば、『機関』を動かして必要な処置を取らなければなりません」
「彼女の身柄を拘束して、我々に関する記憶を完全消去――ですか」
シャルロットが、ふふっと低い声で笑った。
「それはありませんよ。彼女は、必ず私たちの仲間になります」
「それなら結構ですが、何か確信がおありなのですか?」
「もちろんです。私は、自分がほしいと思った子を、決して逃がしたりはしませんからね」
「はっ……?」
主人の言葉に、ベルナドットが目を丸くした。
「お嬢様、いま何と……?」
「冗談ですよ、ベルナドット。
それより、彼女がアプローチの対象となった以上、相応の警護体制を引く必要があります。そちらのほうは大丈夫なのでしょうね?」
「それでしたら、ご安心ください。すでに彼女の自宅周辺に『機関』の者を配置して警護に当たらせておりますし、何かあった場合は、私が現地へ急行して対処致します」
「結構です。頼りにしていますよ、ベルナドット」
そう言いながら、シャルロットは温室のガラス窓の向こうに目をやった。朔を間近に控えた下弦の月が、宵の空に輝いている。
それは、赤い月。あたかも血の色を思わせるような、不吉な予感を漂わせる月だった。
「――何だか、嫌な夜ですね。何事もなければいいのですが……」
シャルロットが呟いた時、ベルナドットの携帯電話が鳴った。それを耳に当てた彼女の表情がさっと緊張する。
「どうしました、ベルナドット?」
「『機関』の者から緊急連絡です。学園前で『鉄槌』のエージェント『審問官』の反応が確認された由にございます」
「何ですって?いま、薫さんが向かっている方角ではありませんか?」
「さようです。敵の目的は分かりませんが、いずれにしろ極めて危険な状態です。至急、私が出向いて、薫さんの警護に当たります」
「頼みましたよ、ベルナドット。あとから私も学園に向かいます」
薔薇の茂みの中のベルナドットの気配が消え、シャルロットが執事に車の用意を言いつける。そして窓の向こうでは、血に塗れた湾曲刀のような三日月が禍々しい輝きを放っていた。
「ああ、しまった……。すっかり遅くなっちゃったわ」
薫が屋敷を出てから数分後。坂道を下ったところにある聖陵学園正門前の並木道を、ひとりの女学生が足早に歩いていた。
ロングの黒髪が夜風になびき、肩から吊るした油彩絵具の箱がかたかたと鳴る。ぱっちりした目が特徴の美術部副部長、三年A組の星見沢のぞみであった。
「ああ、お母さん?私よ、遅くなってごめんなさい。
つい、学園祭の出展作の仕上げに夢中になっちゃって……。ええ、携帯を切っていたことは謝るわ。本当にごめんなさい」
ずり落ちたラウンドフレームの眼鏡を直しながら、のぞみが携帯電話に話しかけた。
「お父さん、まだなんでしょ?今日のことは内緒にして。お父さん、怒ると怖いから……。
分かった、今度から気をつけるわ。じゃあ、急いで帰るわね」
そう言って電話を切ったのぞみの背筋を、言い知れぬ悪寒が駆け抜けた。
学園が町外れにあるということもあり、夜七時を過ぎると学園前の並木道は一人で歩くには不安な場所になる。その道の行く手を、大きな影がさっと横切ったような気がしたのだ。
「な、なに、いまの……?」
のぞみが怯えた声を上げて振り向く。と、次の瞬間ざざっと音を立てて、頭上を巨大な怪鳥のような影が通り過ぎた。
「きゃっ!」
しわがれた声を上げながら烏がばたばたと羽ばたく音が聞こえ、のぞみの全身が恐怖で粟立った。
のぞみが、恐怖に駆られて並木道の出口に向けて駆け出した。――と、それを遮るように真っ黒な人影が空から舞い降りて、のぞみの逃げ道を塞いだ。
修道士のような、黒い服をまとった大男。顎の張った顔の中で、赤い眼が伝説の吸血鬼のように禍々しく輝いている
「い、嫌ああああああっ!!」
のぞみが自転車のハンドルを取り回して、大通りとは逆方向に逃げようとする。しかし自転車は、ぴくりとも動かなかった。
のぞみが背後を振り向くと、いつの間にか男が彼女のすぐ背後に立っていて、その太い腕でサドルをがっしりと捕まえていた。
と、次の瞬間、想像を絶する出来事が起こった。男につかまれた自転車が、爆発的に燃え上がったのだ
「きゃああああああっ!!」
のぞみが、その場にへたり込んだ。がしゃっという音とともに、絵の具箱が路上に落ち、油彩のチューブが散乱する。
「止めて!お願い、放してぇっ!!」
逃げようとするのぞみの腕を、大きな手ががっしりとつかまえていた。怯えるのぞみの瞳に、殺意に燃える赤い目が映っている。
「――君、知っているかね。古代の社会においては、神の怒りを鎮め、自分たちの村や町を守るためにしばしば犠牲が捧げられた。神に犠牲を捧げることは、とても重要で、そして神聖なことだったのだよ」
「あ、あ……」
のぞみの歯が、恐怖でかちかちと鳴った。
「時が移り時代は変わっても、人びとが、大いなる力を畏れる気持ちは変わらない。人間とはそうせずにはいられない、弱い生き物なのだ。
――我々の名は、『鉄槌』。そのように弱くて愚かな人間たちを導いて、世界の秩序を守ってきた者だ」
のぞみの腕を掴んだ男の手が、熱を帯びて徐々に赤くなっていく。気づいたのぞみが振り払おうとするが、男の逞しい腕はびくともしない。
「最近になって、我々はこの町に邪悪な者が侵入したことをつかんだ。その者は普通の人間に入り混じり、何食わぬ顔をして暮らしておるが、実は非常に危険な存在――『魔女』なのだ。
その魔女を速やかに見つけ出して抹殺せねば、この町が、ひいてはこの世界そのものが危険に陥る。
奴らを見つけ、おびき出すためには、生贄が必要だ。かつて中世の民が、魔女を責め苦に遭わせて、他の魔女を狩り出したようにな。
可哀想だが、君にはその生贄になってもらわねばならない」
男の手のひらから、炎が噴き出した。つかまれたのぞみの華奢な腕が火に包まれ、その耐え難い熱さにのぞみが絶叫する。
「きゃぁぁぁぁっ!……お願い、止めてぇぇぇ!!」
「ふ……、『審問』はこれからが本番だ。次の火炎放射で君の全身は炎に包まれ、黒焦げになって死ぬ。君は、魔女を狩り出すための、最初の犠牲となるのだ。
――では、最後の祈りを捧げたまえ」
男の目が赤く光り、大きな手が真っ赤に灼熱した、その瞬間。
「ぐ……ぐあっ!!」
宵闇の中、猛スピードで走ってきた自転車が男に体当たりを喰らわせた。意表を突かれた男が、無様に地面に倒れ込む。
「き、貴様!何をする!」
「ふざけんじゃないわよ!この変態放火魔おやじ!!」
宵闇の中に、少女の凛とした声が響き渡った。のぞみの悲鳴を聞いて駆けつけてきた、間宮薫の声だった。
「『死んでもらおう』だなんて、なにバカなこと言ってんの!人の命を何だと思っているのよ!!」
叫びながら、薫が自転車を頭上に振りかざした。
「おっ、おい!止めろ、止めろったら!」
まさに、火事場の馬鹿力。薫がそのまま腕を振り下ろすと、闇の中からぎゃっという悲鳴が上がった。
まさか、通りがかりの女学生がこんな攻撃を仕掛けてくるとは。倒れた男が自転車の下でじたばたともがいた。
「この隙に早く逃げましょう!えーと、A組の……星見沢さんだったっけ、しっかりして!」
「お……愚か者がっ!『鉄槌』の死の審問から逃げられると思うのかっ!」
怒鳴りながら、男がよろよろと立ち上がった。その手に、薫の自転車のフレームが握られている。
次の瞬間、ごぉぉーっという音がして、薫の自転車が爆発的に燃え上がった。
サドルとタイヤが、一瞬で灰になった。火は金属製のフレームをも燃え上がらせて、自転車はあっという間に黒焦げのスクラップと化した。
「大学教授のわしに向かって、変態だの放火魔だのと無礼な口を利き、挙句の果てに自転車を投げつけるとは、この学園のしつけはいったいどうなっておるのだ!」
燃え尽きた自転車を放り出すと、男が怒鳴りながら近づいてきた。自転車が顔面を直撃したらしく、鼻血が派手に流れ出している。
「私の名は、審問官グレゴリー。『鉄槌』から来た者だ。気の毒だが、お前たちにはこの学園に潜む連中をおびき出すための生贄になってもらう」
そう言って、グレゴリーが薫たちに襲いかかろうとした瞬間、
「お止めなさい!」
夜の並木道に、凛とした女の声が響き渡った。
「!?」
薫とグレゴリーが、同時に空を振り仰いだ。新月を背景に、すらりとしたシルエットが桜の樹の上に立っている。
「旧約聖書『創世記』第二十二章。慈悲深き神は、アブラハムとイサクを通じて、世の人びとに犠牲を捧げることを固く禁じられました。
――にも関わらず、あなたは罪もない少女たちを生贄に捧げようとしている。そのような暴虐無道を、神が許すとお思いですか」
「きっ、貴様は何者だ!?」
「私の名は、ベルナドット・バルタザール」
シルエットが月明かりの中に進み出て、シスター・ベルナドットが姿を現した。
「何だと。――では、貴様が最強の『魔女戦士』のひとり、『殺戮の野の百合』ベルナドット・バルタザールか」
「いかにも。――ここから先は、私がお相手仕ります」
その言葉とともに、彼女の姿が樹の上から消えた。
「『聖母哀傷』!!」
電光の速さで、彼女の剣が振り下ろされた。間一髪でかわしたグレゴリーの黒衣が切り裂かれて、ぱっくりと口を開けた。
「やるな……。そうか、ワイズマンの娘の護衛についていたのは、貴様だったのか。道理で、学園に送り込んだ特殊部隊の精鋭が、誰ひとり帰ってこなかったわけだ」
グレゴリーが、薄笑いを浮かべながら呟いた。
「ふ……。まぁいい、これ以上騒ぎを大きくするわけにもいかん。また改めて出直すとしよう……」
出し抜けにグレゴリーが後方に跳躍し、その姿が夜の闇の中に消えた。
「べ、ベルナドットさん、男が……」
「逃げたのです。当分は襲ってきますまい。――それより薫さん、手を貸してください。星見沢さんを学園の保健室に運びます」
薫とベルナドットが、気絶したままののぞみを誰もいない夜の保健室に運び込んだ。ベルナドットが携帯で救急車を呼んでいるうちに、シャルロットも姿を現した。
「ご苦労でした、ベルナドット。状況を教えてください」
「三年A組の星見沢のぞみが、『鉄槌』の審問官に襲撃されて重傷を負いました。けがのほうは大したことないようですが、問題はこちらです」
ベルナドットが、やけどに覆われたのぞみの腕にそっと触れた。うっと呻いて、のぞみが苦しそうに眉を寄せる。
「このとおり、右腕がやけどに覆われている状態です。手術をしても完治までには相当の日数を要するでしょう」
「そうでしょうね。これはひどい」
「審問官は、明らかに彼女を殺す積もりでした。薫さんが駆けつけて追い払おうとしなかったら、彼女は死んでいたでしょう」
「そんな、私は何もできませんでした。ベルナドットさんに助けてもらわなければ、私もいま頃はあの男に……」
「いえ、ベルナドットの言うとおりですよ。それにベルナドット、あなたもよくやりました。
それで、救急車はあとどれくらいで到着するのですか?」
「消防局の話では、あと十五分はかかるそうです」
「時間がかかりそうですね。火傷の治療は一刻を争うのですが……。
――いいでしょう、ではその前に、私のほうで処置をしておきましょう」
「では、お嬢様……」
「そうです。私の『力』を使います」
シャルロットの顔が引き締まり、その瞳が薫を見つめながらきらりと光る。
「薫さん、今から信じられないものを目にするでしょうが、驚かないでください。
――これが、私の力です」
シャルロットが腕を伸ばして、のぞみの右腕にそっと触れた。のぞみがわずかに眉を寄せて辛そうな表情を浮かべるが、意識を取り戻す気配はない。
「――具現化能力『治癒』!」
シャルロットの澄んだ声が、夜の保健室に響き渡った。
その言葉と同時に、シャルロットの手のひらが青白く輝いた。そしてその白い指で、のぞみの腕をそっと撫で始めた。
――そして、奇蹟が起こった。
のぞみの腕から、火傷の痕が急速に消えていった。痛々しい水ぶくれが消しゴムで消したようになくなり、真っ赤だった皮膚が艶やかな白い肌に戻っていく。
「あ……」
薫は、眼前の光景に圧倒されて声もない。
まさに奇蹟。彼女の腕が元通りになると、シャルロットは他の目立つ火傷や外傷に手を触れ、愛撫するようにそれらを消していった。
「――驚きましたか?」
呆然と立ち尽くす薫を、シャルロットがそっと振り返った。
「これが、私の能力のひとつ、『治癒』です。けがや病気を治し、短時間で回復させる能力なのですよ」
「で、でもこれ、まるで魔法みたいじゃないですか!」
「そう、これは本物の魔法です」
青白く光る手の向こうで、シャルロットの瞳が神秘的な輝きを放っている。
「私もベルナドットも、魔法が使えるのです。――前にお話したでしょう。私たちは『魔女』なのです」
そうやってやけどをすべて消滅させると、シャルロットがゆっくりと立ち上がった。心なしか、顔色がいつもより青い。
「お疲れでしょう、お嬢様。どうぞ、私の腕にお掴まりください」
「ありがとう、ベルナドット。
……驚いたでしょう、薫さん。この『治癒』は便利な力ですが、体力をいっぱい使うのが弱点でしてね」
ベルナドットに体を支えられながら、シャルロットが保健室の出口に向かった。
「私は、これで戻ります。
いいですか、薫さん。今晩見たことは絶対に秘密にしてください。今晩襲ってきた男は、私たちのような力を持った女を抹殺することを任務としている人間です。
誰かに話せば、あなたにも危険が及びます。あなたも見たように、無関係の人間を平然と巻き添えにする連中ですからね。
もし星見沢さんが意識を取り戻しても、今日のことは話してはいけません。いいですね?」
「わ、分かりました」
夢から醒めたような表情で薫が言った。
「それより教えてください。あの魔法のような力は、いったい何なのですか?」
「それは……」
話し続けようとするシャルロットを、ベルナドットが労わるように遮った。
「お嬢様、お力を使われたばかりです。お休みください。薫さんもどうかご遠慮を。お嬢様は、疲れておいでです」
「そうですね、ベルナドット。――ごめんなさい、薫さん。それについては、また明日お話しましょう。長い話になるでしょうからね」
遠くからサイレンの音が聞こえ、それが徐々に学園に近づいてくる。
「どうやら、救急車が来たようですね。ではベルナドット、あとはお願いします。
――そうだわ、あなたが薫さんを送ってきて、たまたま事件に遭遇したことにするのがいいでしょう。あなたのほうからうまく警察に説明して、薫さんが早く家に帰れるようにするのですよ」
「心得ております。どうぞご安心ください」
「では、気をつけて帰ってください、薫さん。――おやすみなさい、よい夢を」
翌二十七日、万里浜町は朝からただならぬ緊張に包まれた。
星見沢のぞみの意識が戻り、警察の捜査が始まった。しかし彼女への事情聴取も終わらないうちから、この奇怪な通り魔事件は町中の知るところとなった。
誰かが、新聞社やマスコミに犯行声明の手紙を送りつけたのだった。そこには、
――聖陵学園はいいところの子供たちが通う名門校だ。恵まれている子供たちが気に食わないから、待ち伏せして女生徒を襲った。襲うのは誰でもよかった。――
と書かれていた。
父兄たちが震撼したのは、その犯行声明の結びの言葉であった。そこにはこう書かれていた。
――これで終わりではない。これからも聖陵の生徒を無差別に襲ってやる。殺すのは、誰でも構わない。――
学園や警察が、パニック防止のための手を打つ暇もなかった。誰がやったのか、犯行声明はインターネットの掲示板にまで書き込まれ、昼前には学園の父兄全員が知るところとなった。
町はただならぬ緊張に包まれ、人びとの不安は頂点に達した。対応を迫る父兄の電話が学園に殺到し、その日のうちに翌日の緊急全校集会の開催が決定された。
しかし、それが新たな危機の始まりであったことを、この時誰ひとりとして知る由もなかった。
その電話がかかってきた時、薫は居間でテレビを見ていた。ニュースでは、昨夜の星見沢のぞみ襲撃の事件と、衝撃的な犯行声明が繰り返し放送されていた。
「嘘よ……。あの男は、明らかに星見沢さんを狙ってやったのに……。誰がこんなでたらめを……」
その時、薫の携帯電話が鳴った。のえるからだろうか、と思って取った電話の向こうから、秘密めいた少女の声が聞こえてきた。
「――薫さん、私です。シャルロットです」
「し、シャルロットさん、私の携帯電話の番号、ご存知だったんですか?」
「すみません。緊急事態でしたので、理事長権限で調べました。それで、ニュースはご覧になりましたか?」
「ええ、いま見ています。でもこれ、明らかに嘘ですよね?単なる異常者の犯行ではないはずです」
「そう、『敵』の情報工作です。事実を世間の目から隠すためのね。実はそのことで、あなたにお話したいことがあるのですが、今から屋敷まで来れますか?」
「ええ、大丈夫です」
「よろしければ、ご自宅に車を差し向けますが?」
「い、いえ、結構です。家族が変に思いますから。――じゃ、今から伺います」
薫が、電話を切って玄関を出た。仰ぎ見た空は、陰鬱な灰色の雲に覆われていた。
「急にお呼び立てしてすみませんでした、薫さん」
温室のいつもの場所で、シャルロットが待っていた。ひと晩経って体力が回復したのか、いつもの艶やかな顔色に戻っている。
「テレビを見たんですけど、どうしてあんな嘘が流れているんですか?いや、それより昨日、星見沢さんを襲った男は何者なんですか?」
「まぁ、そう慌てないでください。いまお茶を淹れますからね」
いつものようにメイドに紅茶を注がせながら、シャルロットがゆっくりと口を開いた。
「あの男は何者か、と仰いましたね、薫さん。――お答えしましょう。あれは『鉄槌』の人間ですよ」
「『鉄槌』?」
「一種の秘密結社です。五百年前から、私たちの所属する組織が戦い続けている相手です」
そこまで言うと、シャルロットが考え込むように口を閉じた。どこから話したらいいか思案している様子だったが、やがて思い切ったように薔薇色の唇を開いた。
「あなたは昨日、私たちの『力』について訊きましたね。それでは私から伺いますが、薫さんは超能力というものを信じますか?」
「超能力?」
「そう。例えば、何もない場所に、自分の欲するものを実体化させるような能力です。魔法や錬金術のようなもの、と言えば分かり易いでしょうか」
「信じていません……でした。でも……」
「昨日、その目で、私たちの力を見てしまった。信じたくないけど、信じないわけにはいかない……。そう思っておられるのでしょう?」
「……」
「そう、ご覧になった通り、超能力というのは実在するのです。
昨日、私が星見沢さんの火傷やけがを治した『力』。それに、ベルナドットが『剣』を具現化するのもご覧になったでしょう。
私たちは、この能力を『具現化能力』と呼んでいます」
「具現化能力?」
「そう、無から有を生み出す神秘の『力』。私たち『魔女』のみが持つ特別な能力です。
昨日お話ししたとおり、かつてヨーロッパには魔女と呼ばれた女たちがいました。そのほとんどは普通の人間でしたが、私たちのように特別な力を持つ、本物の『魔女』も混じっていたのです」
シャルロットが、優雅にティー・カップを口もとへ運ぶ。それにつられるように、薫も紅茶に口をつけた。
「しかし、そういった『力』は、得てして危険視されやすいものです。彼女たちは自らの力を隠し、薬草摘みの女たちと同じように薬作りやおまじないをして暮らしていました。そして本当に必要な時だけ、自らの『力』を使って人を助けていたのです。
中世の千年間、私たちはそうやって人びとと共存してきました。しかし中世末期になると、それを破壊する恐ろしい事態が発生しました。『魔女狩り』の発生です」
「『魔女狩り』……」
「前にもお話しましたが、中世というのは科学と宗教と魔術の境界が存在しなかった時代です。だから、村の中で不幸があったり、村が凶作に見舞われたりすると、『それは魔女の仕業に違いない』ということになった。災害や疫病が神の怒りだと考えられていた時代ですから、村の中に災いをもたらす悪魔の手先がいるはずだ、と考えられたのです。
迷信深い人たちによって魔女と疑われた女たちが捕らえられ、拷問や裁判にかけられて処刑されていきました。そうやってヨーロッパ全土で犠牲になった魔女の数は、数万人に上ると言われています」
夕陽が、金いろの炎のようにハーブ・ガーデンを照らしている。佇むシャルロットの瞳には、いつしか暗い影が宿っていた。
「そのほとんどは普通の女たちでしたが、中には私たちのような本物の『魔女』も混じっていたのです。
この危機に当たって、ヨーロッパの『魔女』たちは、魔女狩りに対抗するための組織を密かに作り上げていきました。そのひとつが、私たちワイズマン一族が率いる『ワイズマン財団』なのです。
全世界で、文化教育事業を展開する財団の裏の顔。それは、『魔女』である女たちを発見し、保護するための秘密組織なのですよ」
「じゃあ、私が通っている聖陵学園も……」
「そう、日本における『魔女』の保護機関のひとつです」
シャルロットの瞳が、夕陽を反射してきらりと光る。
「そして、私たちの祖先は、魔女狩りの嵐と戦ううちに、ある重大な事実に気がつきました。その背後で常に蠢いている、謎の組織の存在を突き止めたのです。
その組織の名は『鉄槌』。魔女狩りは、彼らが引き起こしたものだったのです」
「『鉄槌』……」
「『魔女への鉄槌』(マレウス・マニフィキウム)。魔女狩りの教義を説く彼らの教典の名前で、組織もいつしかその名で呼ばれるようになったのです。
彼らは教会や裁判所、あるいは民衆の中に紛れ込み、『魔女』に対する偏見と憎悪を煽り、人びとを駆り立てていったのです。彼ら自身は決して姿を現さずにね。
憎悪と恐怖を通じて人びとを操り、社会を支配しようとする秘密組織。
――それが、私たちの戦っている相手です」
「それが、私や星見沢さんを襲った組織なのですか?」
「そうです」
薫の問いに頷きながら、シャルロットが背後を振り返った。気配だけで分かるのか、シャルロットが薔薇の茂みに向かって話しかける。
「何ごとですか、ベルナドット。いま、大事な話をしているところです」
「申し訳ありません、お嬢様。緊急理事会の準備が完了しました。理事全員が、先ほどからお屋敷でお嬢様のお出でを待っております」
「ああ、もうそんな時間ですか。最近、どうも仕事の予定を忘れがちでいけません。
――物想いをすることが増えると、その分、忘れることも多くなるということでしょうか」
「え……?」
「いえ、こちらのことです。何でもありません」
シャルロットが微笑みを浮かべながら立ち上がった。
「ごめんなさい、お話の途中ですが、明日の全校集会の準備がありますのでこれで失礼します。続きは、また明日にしましょう。集会のあとで理事長室に来てください。お茶を用意して待っていますからね」
「分かりました」
「せっかく来てもらったのに、途中で話の腰を折ってしまって、本当にごめんなさい。お詫びといっては何ですが、これを差し上げましょう」
そう言って、シャルロットが銀の十字架のペンダントを手渡した。
「これは、お守りです。これを首にかけて肌身離さず持っていてください」
その十字架に、薫は見覚えがあった。ベルナドットがグレゴリーと闘った時、彼女の手の中で剣に変化した十字架。星見沢のぞみの火傷を治した時も、シャルロットの胸に同じものが輝いていた。
「特殊な銀で作られた、私たち『魔女』のお守りです。これを触媒として、私たち『魔女』は『具現化能力』を発動させるのです。
もし昨夜のような緊急事態が起きて、助けを呼ぶのが間に合わないような場合は、これを握り締めて『力が欲しい』と念じてください。そうすれば、きっとこれがあなたを守ってくれるでしょう。
私は、あなたのことをいつも傍で見守っています。それを忘れないでください」
立ち上がる薫の首に、シャルロットがそっと十字架のペンダントをかけた。、聖職者が、騎士に与える祝福のように。
「ありがとうございます、シャルロットさん」
「ごきげんよう、薫さん。気をつけて」
「ご機嫌ですな、審問官殿」
髭面のフィリップスが、モニター越しに言った。
「分かるかね、フィリップス君」額と鼻に絆創膏を貼ったグレゴリーが、本のページをめくる手を止めて、嬉しそうに呟いた。
部屋の中にはシューベルトの「冬の旅」が流れ、深い寂寥感が部屋を満たしている。
「ご機嫌の時は、いつもその曲をお聴きになっておられますから」
「ふふ……。邪魔が入ったのは残念だが、騒ぎの種は予定通り蒔いておいた。第一段階としては、まずまずだな。
――それより、現在の状況はどうなっているのかね?」
「シナリオ通りです。こちらでばら撒いた犯行声明に、マスコミがまんまと飛びつきました。
パニックを起こした父兄から電話が殺到し、それを鎮静させるため聖陵学園は緊急全校集会を開くことを決定しました。時間は明日の朝十時、理事長のシャルロット・ワイズマンも出席予定です」
「間違いないな?」
「工作員が父兄を装って学園から引き出した情報です。間違いありません」
「よし、でかした」
ぱたんと本を閉じると、グレゴリーが満足そうな表情で立ち上がった。
「いよいよ、第二段階だ。君の腕の見せどころだぞ。何人巻き添えにしてもかまわんから、確実にあの娘を仕留めるのだ。いいな?」
「ご安心ください」フィリップスが、口もとに冷たい笑いを浮かべた。
「明日の集会で、私の作った花火を閣下にお見せします。一生の思い出になるような、素晴らしい花火になることをお約束しますよ。
――それでは、準備に入りますので、これで失礼します……」
フィリップスの顔がモニターから消え、グレゴリーが大きな体をゆったりとソファに横たえる。夕闇が迫るリビングルームには、哀調に満ちた歌声がいつまでも流れていた。
(後編へ続く)