私と青年と泉
これは以前、私が出会った青年との会話の記録である。
ある晴天の昼下がり、青年は泉のほとりで苦虫を噛み潰したような顔で佇んでいた。
私は仕事中だったが気になって青年に話しかけてみた。
「こんないい天気に、そんな不景気な顔をしてどうしたんです? 魚でも取り逃がしましたか?」
青年は見ず知らずの人間に話しかけられて動揺していたようだが、
「魚を取り逃がした方がまだマシでしょう。僕には2つに1つを選べと言われても選びきれない、大問題があるのです」
「大問題? いったいどんな大問題なのです?」
初対面の人間に話すかどうか、青年は迷っていたようだが、
「実は姉が嫁ぐことになりまして……」
「それはおめでたい!」
「めでたくなんかありませんよ! それが大問題の引き金となっているのだから……」
「お姉さんの結婚が大問題? うーん、それはわからないな……、あ、相手の男の家が貧しいから、それが大問題?」
「いいえ、相手は海山商事の御曹司なのです」
「え! 海山商事と言うと、今、飛ぶ鳥落とす勢いの!」
「はい。滅多なことがない限り、姉は安泰した生活を送ることが出来るでしょう」
「じゃ、大問題とはなんだろう……、あ、今までお姉さんが家事をしてきてくれてたから、これから家事をする人間がいなくなるのが大問題?」
「勝手に父子家庭や姉弟2人きりの設定で考えてますね……、うちはまだ両親ともに健在です。母が家事をしてくれますよ」
「お母さん任せじゃなきて、自分でやんなさいよ……、あ、そうか、ご両親が嫁に行くな、嫁に行くなとダダをこねてるのが大問題?」
「いいえ、むしろうちは嫁に行くのを大賛成しています」
「そうか、そんなに見てくれが悪いと……」
「失礼な! 姉はこの辺では美人で有名なのです。石原さとみが10人いても敵わない、と言われています。今じゃ、石原さとみ10人分を略してイシジューと呼ばれています」
「イシジュー……。あまり色気がない呼び方ですね。でも、そんな美人な娘さんなら、ご両親も嫁に出すのが惜しいような気がしますが……」
「実はこれを機に海山商事から仕事を回してもらえるようになったのです。うちも恩恵を受けているのです」
「そうですか、娘を売って仕事にありついたのですね……」
「言い方!」
「あ、わかった! 今まで引きこもってて、お姉さん一筋のあなたが、お姉さんを取られて悔しいのと淋しいので、1週間は夜も眠れず、寝不足で頭が痛くてイライラがおさまらないのが大問題。これだ。間違いない。これしかない。決定。ケッテーイ!」
「偏見で随分自信ありげに話しましたね。誰がシスコンの引きこもりなんですか?」
「違うんですか?」
「その通りですよ」
「そうなんだ……」
「そうなんですが、私もこれを機に海山商事の本社で働けることになったので、仕方ありません。職と姉と天秤にかけたら、職を取るに決まっています。姉との仲はどうにも発展させられませんが、職を得れば姉と同等、ひょっとしたらそれ以上の女を得られるかもしれません。この選択は正しいのです」
「随分、ゲスいことをさらっとおっしゃいましたね。……うーん、じゃ、大問題はなんだろう……。姉のお風呂を覗けない、姉の着替えを覗けない、姉の下着を拝借できない……」
「あの、僕、シスコンは認めますが、そこまで変態じゃないです。プラトニックなシスコンなので」
「それが一番ややこしいような気がしますが……。じゃ、なんだろう?
なんだろう? ……なんだろう?」
「実は今までの中に正解が出ています」
「うそ!」
「うそです。しかし、ヒントはあります」
「ヒント⁈ え、どれだ? 姉のお風呂、姉の着替え、姉の下着……」
「絶対にそこにはないです」
「すみません、石原さとみで妄想しだしたら、ニヤニヤが止まらなくなって……」
「僕の姉を汚さないでください。……頼むから」
「ご、ごめん。そんな泣きそうな顔で真剣に言わなくてもいいじゃない。……本当にごめんね」
「いいんです。……ちょっと涙を拭いていいですか? ……その間にシンキングタイムです」
「え、なんだろな。……あ、わかった。『異世界への扉は開かれた。さぁ、魔獣たちよ。好きなだけ人間たちを喰らうがいい!』のところかな?」
「そんなくだり、ありましたっけ?」
「そうなんだよ、ないんだよ。これ、誰と話したかと思ったら、午前中、真っ黒なマント羽織った、暗そうなにいちゃんと話したことだった」
「あなた、ひょっとして、病院行った方が……」
「現実と非現実の区別くらいついてるよ! 読んだ本のことで盛り上がったの。フィクション。フィクションの話。これが面白い話でさ、仲間かと思ったやつが実は魔王の側近だったという……」
「あなた、僕の悩みはもういいんですか?」
「あぁ、そうだった、そうだった。えぇと、あ、『姉から黙って拝借した下着の返し方』だっけ?」
「違いますよ! その変態嗜好は何度も否定してるでしょ! そうじゃなくて、なんで、姉の結婚で、浮かない顔をしてるのか、ってこと!」
「あぁ、そうだった、そうだった。ちゃんと覚えてるよ。今のはジョーク。冗談。コミュニケーションの一部だと思って……ね? ほら、もう、こんなに打ち解けたじゃない。もう、冒頭のお互い敬語の段階が、嘘のようだ」
「別にいいんですよ、僕は話さなくても。あなたから聞いてきたことだから」
「わかったわかった、ちゃんと聞く。で、正解、そろそろ教えてくんないかな?」
「……実は、姉が美人すぎるんです」
「あれでしょ? 10人分なんでしょ? ギザジューなんでしょ?」
「なんなんですか、ギザジューって?」
「ギルバート・オザリバンが10人分」
「それを略するならギルジューでしょ! そうじゃなくて、石原さとみ10人分で、イシジュー!」
「そう、イシジュー、イシジュー。それがどうかしたの?」
「実は姉が美しすぎるのには、秘密がありまして……」
「秘密? ……ここは手堅く『実は整形だ』に1票」
「違います。そんなありきたりな秘密じゃないのです」
「じゃ、どんな秘密?」
「姉の美しさは、作られたものなのです」
「やっぱり整形じゃない」
「違うのです。メスを入れた訳ではないのです。実はこの泉の水を飲むと美しさが上がるという言い伝えがあり、姉は毎日この泉の水を飲んだ結果、イシジューとなったのです」
「お前、頭、大丈夫か? そんな非科学的なことが起こる訳ないだろう」
「そうおっしゃるのも無理はありません。実際に僕が飲んでみましょう。ゴクゴク、ゴクゴク……。どうです? 僕の顔、変わってませんか?」
「そう言えば、石原さとみにどことなく似てるきたような……」
「ちょっと、ヘンな眼で見ないでください!」
「すまんすまん……、なるほど、よくわかった。こんなことって、実際にあるんだな。……そしたら、この水をペットボトルかなんかに入れて、定期的にお姉さんに送ってあげれば済む話じゃないか?」
「そう思って、実際に試しました。ところが、この泉の水は腐りやすく、また沸騰させたら美人になる成分は失われることがわかりました。つまり、ここで直に飲まないと意味がないのです」
「あ、こうしよう。この泉の水から、その美人になる成分だけを抽出して、送るというのは……」
「どれだけ時間とお金がかかると思ってるんですか。……あぁ、泉の水を飲まなくなった姉は、そのうち元の不美人がバレてしまう。バレたら、旦那である御曹司に捨てられてしまう。捨てられたら、僕たち一家は生きていけなくなる。どうしたらいいんだ!」
「なら、こうしたらどうだ?」
「それはダメです」
「まだ言ってねぇよ」
「すみません、ちょっとこう言うベタなやり取りをしてみたくて……」
「こっちは真剣に考えてやってるんだ。真面目に聞け! ……で、その方法はだな、まず、お前もガブガブこの水を飲む。そうすると、お前も石原さとみみたいになってくるだろう」
「なるでしょうか?」
「ちょっと飲んだだけで、似てくるんだ。姉と同じDNAを持ってるんだろうから、石原さとみみたいになってくると思う」
「で、それから?」
「お姉さんに泉の水の効果がなくなる頃に、石原さとみみたいになったお前が、お姉さんのフリして、お姉さんと入れ替わる。お前はお姉さんとして、御曹司と暮らす。お姉さんはこっちに戻ってきて、泉の水を飲んで、また美人度をアップする。そして、またお前とお姉さんが入れ替わる。これを繰り返したら、どうだ?」
「そんな、言うのは簡単でしょうけど、上手くいく訳ないじゃないですか。すぐバレますよ」
「大丈夫。意外とバレない」
「何故この人は根拠のない自信に満ちてるんだ? ……あのね、第一、男と女の違いがあるじゃないですか」
「喋らなきゃわかんない」
「それをクリアしたとしても、その、……夜に求められたらどうするんですか?」
「いろいろ理由をつけて、かわせ。体調が悪いとか、気分が乗らないとか……」
「いずれ、かわせなくなりますよ」
「そん時は、……身を委ねろ」
「え!」
「一家のためだろ」
「何より、僕の就職が……」
「就職よりも気持ちいいことになるかもしれないし」
「また変態的な発想になってるし……」
「とにかく、やるもやらないも、お前次第。男はここだよ! 根性だよ!」
「はぁ……」
と、青年はトボトボと帰っていった。
その後、青年がどうなったかはわからない。ただ、海山商事の御曹司が盛大な結婚式を挙げ、その花嫁が石原さとみ似のたいへんな美人で、その後、離婚したとか言う話は聞かないし、彼の実家が倒産したと言う話も聞かない。むしろ繁盛しているようだ。ひょっとしたら私の案を採用したのかもしれない。
さて、美人になる泉の水だが、私は信憑性にかけると思う。その理由は、会話の最中に彼以外の周辺の住人が何人か通りかかったが、お世辞にも美男子や美人はいなかった。美人になるという泉の水、周辺住人なら知らないはずはないのだから、飲んでいるだろうと思われるが、効果がないのか、効果がないと知って飲んでないのか、いずれにせよ、泉の水に美人になる効果をもたらす根拠にはならない。
では、私が彼を石原さとみに似ていると錯覚したのはなんだったのか。おそらく、それまでの会話で幾度か石原さとみの名前が出てきたことからの思い込み、錯覚だったように思う。
しかし、私はこの泉を近くを通るたびにあの青年のことを思い出す。そして、以前からの習慣通り、泉に向けて立ち小便するごとに、泉の水をがぶ飲みする青年の姿を想像せざるを得ないのである。