一話:出会い
「……という時代もありました。しかし、ええ。生徒の皆様もご存知の通り、勇者アマギ――その息子がその認識を完全に塗り替えたのです」
少しだけ暖かい空気の中、女性が教鞭を振るっていた。対する生徒は、法律学と表紙に書かれている教科書を開き、熱心にその話を聞いていた。
張り詰めた雰囲気だった。ペンを走らせる音とページを走らせる音以外を上げようものなら、即座に険悪な目線を向けられることは、誰にでも理解できるほどだ。
そんな教室の中で、唯一物憂げな表情を浮かべている生徒がいた。
黒の髪を風に遊ばせつつ、じっと、寝るでもなく、何をするでもなく、下を向いている。
当然注意されるべき授業態度だったが、担任である教師は何かしらの注意をすることは無かった。
「――このように、このアルザーノ皇国憲法第六条……奴隷に関する条文ですね。それを破ったアマギ侯爵は、勅令によりお家取り潰し。首謀者である勇者アマギの息子夫婦は斬首刑という結果になりました」
その言葉を合図に、担任が手元のベルを鳴らした。
それは授業終了の合図。制服の袖に腕章を付けた男子生徒が起立の号令をかけ、挨拶をする。
「フラン先生、ご指導ありがとうございます! 礼!」
その合図を皮切りに、生徒達は帰路へつくことになる。太陽は地平線に近づきつつあった。
黒の髪をした男子生徒も、そんな生徒に混じって校舎からゆっくりと出ていく。
校舎から出た瞬間、花の香りが混じった風が吹きつけて、その匂いを辺りへ残した。
「はぁ………」
ゆっくりと、大きく深呼吸をする男子生徒。胸元の「アカツキ」と刻まれた名札がその拍子に外れ、小さく音を立てて石畳へと転がる。
それを拾おうとしてアカツキが腰を折ろうとすると、横から腕が伸びてきて、名札をひょいとつまみ上げた。
「……アカツキくん」
「フラン先生。どうしました?」
ダークブラウンの髪の毛を耳にかけながら、女教師フランは、アカツキの顔を心配そうに覗き込んだ。
黒の目に反射するフランの姿は、三十五歳という歳の割には若々しく見える。
「……今日の授業、ごめんね」
「いえ、いいんです。法律学を学ぶ上で、これ以上ない教材となる出来事ですから」
「それでも――」
「では先生、すみませんが僕はここで。魔法の修練があるので」
暗い色がアカツキの瞳に宿る。それ以上の言及をされる前に、フランの発言を遮る形でアカツキは早歩きでその場所から離脱する。
その歩き方には、校舎から出るときとは打って変わって、暴力的な感情が見え隠れしていた。
流石に、これ以上会話を交わすのは悪手だと判断したのか、寂しそうな表情を浮かべてフランは離れゆく背中を見送っていた。
アカツキの男性平均程まである身長が、何故かその時だけ子供のそれよりも小さく見えるような気がした。
「アカツキくん……」
フランがアカツキのことを気にかけるようになったのは、一月前――入学式の時からだ。
その小さな、悲哀が漂う背中。他者との関わりに問題はないにしろ、どこか壁を感じるような態度。そして何よりも、その生まれと経歴。あまりにも悲しくて、可哀想な生徒だろう、と思った。
だから、彼の傷を先生として取り除いてあげたいと思っていた。
……そして一か月。アカツキの、好意の光すらも飲み込む、深い闇を知った形で今に至る。
「せめて誰か、彼の隣に立てる人がいたらいいのだけれど」
そう呟いた言葉は、誰に聞き届けられることもなく風に巻かれて消えていった。
◇
「持つべきは明確な意識……。使うべきものは……魔力。今!」
アカツキが、その魔力を心臓から手へと伝播させる。
真紅の魔力が集結した手で魔法陣を描くと、その中心からぬるりと何かが出てくる。赤く、四角形のそれは、やがて完全に魔法陣から現出する。
息が乱れるアカツキ。魔力は空中に霧散し、後には細い円形に四角形が乗ったような形の物体が存在するばかりだ。
四つある面の一つの中央に、穴が空いているそれを見て、アカツキは手元の資料を見る。
「これが、『ポスト』……!」
汗を拭いながらそう呟くアカツキ。確かに、目の前には、アカツキの手元の資料にある『ポスト』という絵に示されたものと全く同じものがある。
アカツキの魔法によって魔道具と化したポストには、何かを投じれば特定の誰彼に届くという効果が存在していた。
「……じゃあ、試しにこれを」
おじいちゃんへ、と書かれた手紙を懐から取り出すアカツキ。それを震える手つきでポストへと投じる。
先の見えない闇に投函されたそれを、アカツキは緊張の面持ちで見つめた。
いつも静かなアカツキの部屋は、静かさを更に深くしていた。
焦りが限界に近づきはじめた、その時だった。
ぽん、と軽快な音を立てて手紙が吐き出される。アカツキはがばりと、覆い被さるようにその手紙を手に取った。
封蝋で閉じられていた、投函時となんら変わらない手紙を見てアカツキは落胆する。
はぁ、と一つだけ息を吐くアカツキ。その瞬間、ポストがまたも軽快な音を鳴らして消滅する。
その様子を見たアカツキは、やっぱり、と呟いて、カーテンを開ける。
部屋の中に茜色が溶けるように広がり、いくばくかの温かさを部屋にもたらす。
「……やっぱり失敗かぁ」
苦笑を浮かべて、ベッドへと寝転がる。制服がクシャクシャになるのを気にせずに、そのまま左右へゴロゴロと転がる。まるで悔しさを発散するように。
数分ほど左右にゴロゴロと転がって、ふと止まる。そして、何を思い立ったのかすくっと立ち上がり、カバンに数冊の本を詰め込んで外へと向かう。
「おや、アカツキ。どこかに行くのかい?」
「……ちょっと外に」
部屋を出たところで、ふくよかな女性に話しかけられる。
動きやすそうな服装の上にエプロンを着た女性が、この寮を管理する寮母であることをアカツキが知ったのは二週間前。
びくりと、アカツキは立ち止まる。そんなアカツキに、まるで太陽のような笑みを浮かべて、寮母は話しかけた。
「外に出るのはいいけどね、就寝時間までには帰ってくるんだよ。それ以上は、流石に扉を開けておくわけにはいかないからね」
「わかっています」
「あ、そうだ。夕食は食べてくるのかい? もし食べてこないなら、部屋に置いとこうか?」
「……お願いします」
その言葉を最後に、アカツキはゆっくりと歩き出す。少しの罪悪感を顔ににじませながら、軽く頭を下げる。
そんな生意気とも取れるアカツキに、寮母は笑って行ってらっしゃいと声をかけた。
胸がチクリとする感触を覚えながら、アカツキはいそいそと歩いていく。
向かう先は、校舎の方面。白亜の回廊を抜けて、階段を上がった先にある屋上だ。
扉を開けた先には、二つのベンチが備え付けられている広いスペースがあった。
そのうちの一つに腰を下ろし、バッグから本を取り出す。月光で照らされるその場所は、本を読むのには少し暗い。
「光の精霊:ジグスよ、我が魔力を代償に、ここに一筋の光を」
そう呟いた瞬間、アカツキの周辺に二つの光の玉が浮かび上がる。
それは、先程まで暗かったアカツキの周辺を3メートル照らすほどに明るくした。
本を読むのにも不便しないほどの明るさになったその場所で、本のページを一つめくる。
少しだけ古ぼけたその本は、龍の逸話が描かれた書物だった。龍の偉大さ、性質、恐ろしさ……様々な印象が文章からひしひしと伝わってくる。
『龍は偉大でした。人々を守護し、その力を分け与える存在でもありました。………同時に、人々の生活を脅かす存在でもあります。大海を制す、空に哭く龍、ネプトゥーヌスは前者。火を司り、海に臥せる龍、グランジークは後者でした』
雄大で、強靭な龍の物語に、アカツキは知らずのめり込んでいた。
ネプトゥーヌスと、グランジークとをめぐり、繰り広げられる物語。
神秘的な龍をたっぷりと満喫できる物語に、意識は本だけに向けられていく。
――りぃん。
魅入られていたアカツキは、一つ鳴った音に気が付かない。甲高く、鈴のような透き通る音色だった。
月夜に響く音は、長い間隔で鳴り続ける。
次第に間隔を短くしていく音色。まるで鼓動のように響く音色が、一際高まった瞬間。
一つ、りぃん、と大きく音が鳴った。
瞬間、アカツキの意識は物語から現実へと浮上する。物語の余韻に浸るアカツキは、ふと自分の出した光源が弱くなっていることに気がついた。
そのままゆっくりと辺りを見回す。夜の闇はすっかりと深まり、明確な時間の経過をアカツキに知らせる。その光景は、時計を見ずとも門限の時間スレスレ、もしくは既に過ぎていることを理解させた。
「……まぁ、入れないってことはないだろうし、いいか」
カバンに本をしまい込んで、ゆっくりと屋上から立ち去ろうとドアの方を見るアカツキ。
――瞬間、その表情は凍りついた。
月下に浮かぶ人の影。ひんやりとした空気の中で月の光を浴びると、その影は変容する。
空を思わせる瞳、海のような深い青の髪。夜風に吹かれて靡く長い髪は、うっすらと光っていた。
圧倒的な存在感を放つ、美しく整った容姿。頭頂部には二対の、黒く雄々しい角が生えていた。
その姿はまるで。
「ネプトゥーヌス……」
空に哭く龍――ネプトゥーヌスを、誰しもに想起させるものであった。