十話:清冽なる蒼
最初にアカツキが感じたのは、力強い鼓動だった。
まるで心臓がすぐ近くにあって、それを耳元で聞いているかのような生々しさが伝わる。
次に感じたのは、魔力の高まり。
キーファから放たれるそれは、先程までの魔力よりもふた回りほども強力になっている。
最後に感じたのは――キーファが人間の姿を捨てた、ということ。
見れば、キーファの頭頂部からは小さな角が生えており、顔面を龍鱗が覆い始める。顔の半ばまで止まった"侵食"とも呼べる現象は、途中で止まっているせいで、龍と人とのちぐはぐさを余計に際立たせた。
次いで、魔法技師が仕立てた制服を突き破って、龍の羽らしきものが飛び出してくる。しかし、本物の龍のように飛膜はついておらず、ただ骨に赤黒い薄皮を貼ったような様子だった。
龍になれないヒトモドキ。醜悪なその姿は、龍人のそれとは程遠い。龍人が調和している存在だとすると、キーファの姿は競合しているようにも見える。
いうなれば、彼の存在は龍人ではなく――。
「――偽龍」
偽の龍、と呼ぶに相応しかった。
その呼び名が気に入らなかったらしく、口走ったラージャへと、キーファは敵意を向けた。
何かを言おうとしているようだが、口からは獣のようなうめき声しか漏れない。その様子に先程までの知性の影はなかった。
その様子を見て、まず慌てたのはアカツキでもなく、ましてラージャでもなく――観客だった。
「ひっ……」
「お、おい……やばいんじゃないか……?」
ざわざわと、闘技場内に声が響いていく。
キーファは煩わしそうな表情を浮かべて、敵意をざわめく観客へと向けた。
その瞳は赤黒く、瞳孔は縦長になっている。――その様子は、紛れもない龍族のそれだ。
そして、瞳には敵意が宿っている。勿論、体には尋常ではない魔力が循環していた。
その魔力を観客席へと向けられたらどうなるか――それは、観客の誰もに伝わった。
瞬間、各所から悲鳴が上がる。
「にげ……逃げろ!」
男の大きな声を皮切りに、観客達は我先にと出口へ走っていく。
普段の他者を慮る態度はそこに無く、ただ自分が生き残るために駆けていく姿は悲哀すら感じさせる。
しかし、知性を失っているキーファにとって、観客達は騒音をまき散らす有象無象に過ぎない。両手を観客席へと向け、極太の光線を放った。
雷魔法の中級程度の魔法だったが、込められている魔力が魔力だ。観客席へと着弾した暁には、着弾地点から半径10メートルに存在する物体は焼き焦げて消滅してしまうだろう。
幸いなことに弾速は遅い。だが、観客同士が押し合い、半ば詰まっている状態では、弾速の遅さなど関係なく、観客をたちまちのうちに焼き焦がしてしまう。
「まずい……!」
アカツキは、そんな光景を見てかつて無い焦燥に駆られた。
《Drei》を発射しようと、一方は確実に着弾してしまう。かと言って、威力を弱めて二連射しても、あの魔法と魔力を考えると力不足。
どちらか一方を救うために、どちらか一方を見捨てなければいけない状況だった。
「ははははは!! これは想定外でしたけどぉ……悩んでいるようですねぇ、勇者アマギの孫ぉ!」
喜悦に歪めた表情で、アカツキへと爆笑を送るアレン。人の心を逆なでするような態度に、アカツキは怒りを覚えた。
しかし、同時に彼の相手をする暇はないとアカツキのどこかにある冷静な部分が訴えかける。
しかし考え、考え、考え抜いても――アカツキはどちらかを救う手段しか見つけ出せない。そんなアカツキを、アレンは更に煽っていく。
「過去に貴方のおじいさんは言いましたよォ? 全てを救ってやる、と。ばっかじゃぁありませんかぁ?! 全てを救うことなど出来るはずもないのに、盲目的なまでにその実現に突き進んでいく!」
「黙れ」
「力を持っていたが故に、その言葉に希望を抱く存在は星の数ほど居た! しかし救えなかった! いくら強健だろうと、全てを救うことは不可能! それは貴方も同じですよォ!」
けたけたと、壊れた人形のように笑い続けるアレン。
言葉は鋭利に、アカツキへと突き刺さる。――それが、事実であるからだ。
「……喧しい。口を閉じる」
……海のような涼やかで凪いだ声がアカツキの隣で響いた。
全てを包み込み、あるいは阻む、海のような慈悲深さと容赦のなさを雰囲気としてまといながら、ラージャが一歩前に踏み出した。
「ラージャ、その目は……」
アカツキはその容姿を見て、怒りを忘れて指摘した。
振り返ったラージャの瞳は、珊瑚色ではなく――どこまでも眩い、金色へと染まっていた。
神々しさすら感じる雰囲気に、アカツキは戦場だというのに息を飲んだ。
「……これからの出来事は、出来れば見られたくない。目を閉じて貰えると、助かる」
「……え?」
「全部救ってみせる。その心、私は尊いと思った」
静かに語るラージャ。いつになく、饒舌になっている。
「その心、勇者に相応しいと私は断言する。――アカツキ、全部を救いたい?」
「……無論さ」
「……本当の色」
ラージャは金色の瞳を、観客席を襲う雷魔法へと向ける。
今の会話の隙に、着弾まではもう間もない。行動に移すならすぐに移すべきだろう。
「目を、閉じていて。ちょっとで終わる」
ラージャは微笑んで、アカツキの目を柔らかな手で覆った。
何がどうなるのかさっぱりわからなかったが、ラージャの言葉には確信の響きが感じられた。
きっと、あの魔法を両方とも打ち消し、観客を救ってくれる。
自分で観客達を救えないことに、アカツキは一瞬だけ歯を噛み締めて悔しさを堪える。そして、決然とした心を抱きながら、目の前のおとぎ話の存在に、願いを委ねる。
絶対に、強くなると心に決めて、目を閉じる。
「……お願いだ、ラージャ。全部を救って欲しい」
「……委細承知。汝の正義のために、私は力を振るおう」
口調が変わった。そう思った瞬間には、アカツキの目をおおっていた手は離れていた。同時に、何かを巨大なものが自分の近くに降り立ったような、絶大なまでの存在感を感じる。――そして、雷魔法が掻き消えた。
狂乱に陥る観客の声がアカツキの耳に響く。
キーファの咆哮が耳に轟く。
アレンの驚愕の声が、怒号混じりに響く。
閉じた視界の中で、アカツキは克明に響く声と音を全て捉えることが出来た。
様々な思いがあった。様々な声もあった。すべてが違う声の中で、しかしアカツキはそれらに共通する唯一の感情を見つけた。
――恐怖であった。
「なぜ……なぜここに……!」
ひときわ大きく、アレンの声が響く。焦燥に彩られた声は、先程まで言葉を弄してアカツキを追い詰めていた存在だとは思えない。
その声に応えるべき存在はラージャであるとアカツキは理解する。しかし、ラージャは答えない。声すら漏らさず、気配すら感じない。
しかし、アカツキはなんとなく感じていた。
隣にいる巨大な何か。その魔力の色は――清冽な蒼。
共感の効力はまだ続いているらしく、瞼の裏でも魔力の色を灯らせた。
「大地の精霊:ジンレイよ! 我が魔力を代償に、かの巨躯を封じる大地の檻を顕現させよ!」
瞬間、アレンの方から茶色の魔力が迸り、巨大な青を封じ込んだ。しかし、巨大な青はそれを歯牙にかけることなく振り払い、悠然とそこに佇んでいた。
一瞬。明らかに実力が違いすぎた。
アレンもそれは理解しているらしく、それでも必死になって呪文を唱えていた。しかし、巨大な青は動じることなく、すべての魔法を無力化する。
アレンの後ろあたりにある赤黒い魔力――キーファは動くこと無く、むしろその身を小さくしていた。
「はは――ははは! しかし、お前がここにいるということは、龍王様はお目覚めあそばされたという訳だ! もはやこの世は終わりだ! 混沌と暴力が支配する世界になる!」
「――ならぬよ」
初めて、巨大な青が口を開いた。
言葉一つ一つに魔力がこもっており、発した言葉すら魔法になってしまうのではないだろうか、とアカツキは震えた。
荘厳極まりない声は、聞いているものに平伏を余儀なくさせるような響きを有している。
しかしアカツキは、平伏してしまえば何かが終わる気がして、ぐっとこらえる。
「――偉大なる治世は終わらぬ。我が腕に終焉を告げることは、何人にもできぬ法則なり」
「だが、龍王様は力を蓄えておられるぞ! いかにお前のような存在であっても、止められぬ事は出来ない!」
その声を最後の言葉として、巨大な青は捉えたらしい。膨大な魔力が……それこそ世界を滅ぼすことが出来るほどの魔力が、巨大な青に循環する。
アカツキの視界いっぱいに、ほかの何色をも塗りつぶして、清冽な青が塗りたくられる。一瞬、また一瞬。時を重ねる毎に、色は濃く、深くなっていく。
その魔法で何をするのか。よもや世界を滅ぼすのではないか。アカツキは恐怖に駆られそうになり、目を開けかける。
「……駄目だ」
開いてしまえば、終わる。
そして、ラージャの言葉を、アカツキは裏切ってしまうことになる。
何よりも、アカツキを信頼してくれたラージャを、疑うことになってしまう。
――アカツキは目を開けない。開くことは許されていない。
「解けよ」
そして、魔法が発動する。たった一言で。
アカツキの視界いっぱいに広がっていた清冽な蒼が一気に色をひき、世界は再び暗黒に包まれる。そして浮かび上がるように、巨大な青と茶色と、そして赤褐色が視界に浮かんだ。
赤褐色の近くには赤黒い何かがあり、次に瞬間には巨大な青に包まれて消し飛ばされた。
「――目を、開ける」
耳元でラージャの声が聞こえ、咄嗟にアカツキは目を開く。
既に共感の効果は解け、アカツキの瞳には魔力の色など映っていない。
そこに映るのは、先程とは違った光景。
闘技場からは観客が全て居なくなっており、場に立っているのはアカツキとラージャ、そしてアレンとキーファのみ。私兵もいつの間にかどこかに消えていた。
静かさだけが、場を支配している。さながら、海のような。
「……終わったの?」
「ん。終わらせた」
ラージャはアカツキにしかわからない自慢げな表情を浮かべた。しかし、次の瞬間には、体が前に崩れ、アカツキの方へ倒れてくる。
「わわっ!」
「……疲れた」
ラージャは小さな声で呟く。驚いてアカツキがラージャを見れば、血の気が引いている。
魔力欠乏症。アカツキの脳内には、魔力が完全に底をついた時の症状が浮かんだ。
これを治すためには、魔力を注ぐか、自然回復に任せるしかない。
ただし、自然回復には約三日かかってしまう。だが、魔力を注ぐのにも倫理的な問題があり――。
「……アカツキ、魔力を……魔力がほしい……」
「………………えぇ?!」
「早く」
そう言いながら、目を閉じるラージャ。表情は険しく、非常に苦しそうである。
しかし、アカツキは魔力を供給することをためらう。
何故ならば、魔力供給には――粘膜接触が必要になるからだ。
魔力は体液を流れるため、体液を供給しなければならない。しかし、突然異なる質の魔力を供給すると、拒絶反応が起きてしまい、症状がさらに深くなる。
そのため、同等の質の魔力を供給するか、供給される魔力を供給される側の魔力に調律しなければならないのだが――この方法が大変に、倫理的な問題を有する。
魔力が放散しないように体内で二つの体液を交えなければいけない。つまるところは……。
――閨を共にするか、口付けしかないのである。
「……あの、その」
「早く」
「え、ええ……? 本当に、その、しなきゃいけないの?」
「私はアカツキの代わりに力を振るった。対価を貰わなければいけない」
「いや、そりゃそうかもしれないけど……」
言外に、アカツキは"いいの?"と問いかける。
ラージャはその意味がわからず、首を傾げていた。
「その……そう言うのって好きな人じゃなきゃダメだと思うんだ」
「私はアカツキのこと、好き」
「えっ……あ、そっか、そうだよね」
一瞬だけ頭が真っ白になったが、ラージャの抱く好意は友人間のものだとアカツキは判断して冷静になる。
接吻を迫るラージャに対して、アカツキは毅然と対応するべきだと考える。
「あの、その。確かに対価は必要だと思うし、魔力欠乏症は辛いと思うんだけど……他のじゃダメかな……?」
「……むぅ。じゃあ別の魔力供給」
「駄目」
それはもっといけない。アカツキは毅然として断る。
「……じゃあ、取っておく」
折衷案としては妥当な範囲に収まる提案に、アカツキは頷く。そして、少しだけ申し訳ない顔を浮かべる。
「その、ごめん。僕が至らないばっかりに、ラージャを辛い目に遭わせてしまって」
「ん。欠乏症は辛い」
「そう……だよね」
「だから、責任は取ってもらわないといけない。これ、常識」
話の方向が90度飛んだ気がしたアカツキ。
アカツキが呆然とする中で、ラージャはどういう形で責任を取らせるか、具体的な内容を提示する。
「ペアを組む」
「……へ?」
「行事とかがあった時、私とペアを組んでもらう」
一体そこにどんな意味が込められているのか困るアカツキ。そんなアカツキに、ラージャは不機嫌そうな顔を向ける。
「……むぅ。特に他意はない」
「つまり、その。合同授業とかで、ペアを組んでほしいだけ、ってこと?」
「ん。最初からそう言ってる」
ラージャは不機嫌そうな顔をアカツキへ向けたまま、辛そうに顔をしかめる。
ゆっくりと、アカツキへともたれかかる度合いが増していく。
おそらくは、生物としての本能が、体と頭を休憩へと導いているのだろうとアカツキは見当をつける。
「だから……次も……いっしょ、に……」
「う、うん」
「……んっ」
小さな声をあげて、ラージャは気絶した。
ラージャの肩を支えながら、アカツキは医務室へ行こうとするが――何故か足が動かない。
偶然、ラージャの氷魔法の欠片が近くに転がっていた。先程は反対側が透けるほどに透明だったのだが、少し純度が落ちているのか、アカツキの表情を鏡のように映す。
そこには、真っ青になった顔が映っており――。
「魔力……欠乏症……」
アカツキも、一緒に、綺麗に気絶したのであった。