絶望、終焉、そして希望
「あ……ァ、ァ……う……そ、だ……ッ」
大木から伝わる残り香。
赤色の血が残した生温かさ。
そこには間違いなく彼女が居ることだけは、分かっているのに。
息を、していない。
全身をズタズタにされ、赤い鮮血を辺りにぶちまけ、大木の根元部分にもたれ掛かる形で……ユリは息絶えていた。
「あなたは勇敢に戦いました。その勇気は後世にも語り継がれることになるでしょう……まぁ、その時は、この世界に人間は居ないのでしょうがねぇ?」
「レティ……シャ……ア、ァァ……ッ!!」
意識は、辛うじて残っていた。
今にも彼女へ噛み付いてやりたいのに……だが、身体は木の幹に絡み付いていて、指一本動かすことすらままならない。
それにも関わらず、かつては親友として助け船を出してくれた人物は、目の前で歓喜の声を挙げていた。
「素晴らしい……!ユスラ、感じていますか?その大木の大きさこそが、貴方の掻き集めた大いなる潜在物質の価値を示しています……あぁ、この時を、一体、一体どれほど待ち望んだことか……!」
狂っている。
こんな状況ででも、あんなに優しげな笑みを浮かべ、希望に満ちた明るい声を発することが出来るだなんて……。
本当に、そこに居るのは、自分の知るレティーシャではないのだろうか。
「何を、企んでいるんだ……君は、一体何を考えている……ッ!?」
「企む?とんでもない。これは、全人類の願いそのものです。そう、貴方達が、何よりも望んだ結末────フィーゼの完全消失ですよ」
「……ッ!?」
確かに。
確かに全人類が願い、その為に死力を尽くしてきた、と言っても過言ではないだろう。
しかし、今は違う。
全ての真実と、そこに翻弄された心情を知った自分にとって、フィーゼの完全消失は……絶望にしかならない。
「これだけの潜在物質が集まれば、あの凶悪的なフィーゼと言えども、一溜まりもありますまい。ふふっ、そうですねぇ……徹底的に、潰して切り裂いて砕いて焼き尽くしてバラバラにして殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して……跡形もなく、消し去ってやる……ッ!!」
ふと叩きつけられた、業火のような凄まじいまでの私怨。
これこそが、レティーシャ=ダナムを、残酷たらしめる理由。彼女を突き動かす、唯一の原動力なのだ。
だが、彼女は知っているのだろうか。
彼女の起こそうとする結末は、同時に一人の少年の不幸に直結することを。
「待っ、て……!感染体を消し去るって、それがどういう意味か、分かってそんなこと……ッ!?」
「武蔵栄志」
「…………え」
即答だった。
呼吸をするように、淡々と述べられたその名前。
まるで予め分かっていたと言わんばかりに、彼女の顔色は一切ぶれることはなかった。
「彼が、フィーゼなんですよね?それが、どうかしましたか?私が、それをぶっ殺すことに、何も変わりはありませんが?」
「……ユリだけじゃなく、彼まで、手に掛けるのか……辞めろ……冗談だろ……冗談だと、言えよォ……レティーシャァァ……ッ!!」
途端に、悲しみだけが込み上げてくる。
自分の知っているレティーシャは、何処へ行ってしまったのだろうか。
彼女はそんなことを言わない。
彼女はそんなに残酷な顔をしない。
縋るように願う想いも刹那に消え、レティーシャは本当に悲しそうな顔を浮かべると、囁くように口を開いた。
「……あぁ、ユスラ。貴方の苦しそうな顔を見ると、私も悲しくなります。だからどうか悲しまないで?悲しまないように……ここで礎になってくれるのでしょう?」
「……ッ!!」
視界が歪む。
心が歪み、感情が火を灯す。
それに呼応するように、瞳からは一筋の涙がこぼれ落ちた。
やめろ。
その顔で、慰めるような言葉を吐くな。
「そしてありがとう。貴方のお蔭で、貴方の愛しい方を抹殺する準備が整った。私にとって、貴方とフィーゼが仲良く姿を見ているだけで────死ぬほど吐き気がしていましたよ」
自分の生きる意味を。
この弱い心を支え続けた希望の光を。
まるで嘲笑するように、ここまで愉しそうに踏みにじることが出来るのか。
それが、レティーシャ=ダナムの本性と言うのならば……それが、彼女の生き方だと言うのならば……。
「幾ら君でも……それ以上言ったら、絶対に許さないぞッ!!」
残された力を全て振り絞り、吐き出した怒号。
すると、途端にレティーシャの顔から笑みが消える。
「ならば貴方の潜在物質ごと、私に譲渡して死んで下さい。言っておきますが、反抗は意味を成しませんよ?先程も言いましたが、“それが私達の潜在物質の本質”なのですから」
最早、逃げ場はないのだろうか。
このまま、あの残忍な人物に、利用され、笑われた挙げ句、無惨に死ぬしか……他に道はないのだろうか。
「さぁ、もう一度言いますよ、ユスラ────その力を私に寄越しなさい」
レティーシャの言葉が響く。
同時に、心の楔が抜け放たれた。
熱されたように熱く重い涙が、止め処なく、溢れ、溢れ、溢れ……感情の塊が爆発する。
「何で……何で、何で何で何で何で何で何で何で何で何で、だ……ッ!私は……何で、いつも、いつも……間違えて、ばっかりなんだよォ……ッ!!」
良かれと思ってやったことも。
我慢して胸の奥にしまい込んでいたことも。
結果的に何もかも、悪い方向に傾いて、誰かを傷付けて……成功した試しなんかなかった。
誰でも良い。
一度だけで良い。
気遣いの言葉ででも良い。
新実ユスラの信じ歩んだ道は間違っていないと、誰か、誰か、誰か……。
「────間違えてなんかない」
救いの言葉が、透き通るように鼓膜を打つ。
「え……?」
「……ッ!!」
異様に大きく響いた、柔らかい声色。
反射的に顔を挙げた先に、彼は居た。
こっぴどく引き離し、誰よりも深く傷付けてしまった、ガスマスクを被った少年の姿が。
彼は言う。
思い出すように、いつも通りの口調で……心の底から安心することが出来る、あの頃から何も変わらない、ぎこちなくも優しい言葉と共に。
「そりゃ、たまにはどうしようもないことを、しでかすかもしれないけれど……今、この時において、あんたは何一つ間違っていない。その真っ直ぐな正義に救われた者の一人として、断言するから」
武蔵栄志。
新実ユスラが、この世界に現れるきっかけを作ってくれた人物が、そこに立ってくれていた。
「……栄志、君……ッ!」
「あ~、ガッチガチだナァ……こりゃ引き出すのかなり苦労するゾ……」
大木の脇では、幹を叩きながら訝しげな顔を浮かべるハカセの姿があった。
彼女はこちらの視線に気付くと、陽気に手を挙げて反応してくれる。
「ハカセ、まで……!どうやって、こんなところまで……」
「今やこちらの味方は種別を問わナイ、ということサ。ユリも、頑張ってくれたんダロ……?加えて現状は、あまり芳しくはない、ときたカ……」
ハカセは自分の白衣を脱ぐと、ユリの亡骸の上にゆっくりと被せた。
「…………」
そして、栄志が睨む方向。
そこに立つのは、事変を引き起こした張本人だ。
だが、何かがおかしい。
彼女の顔は、気配は、声色は……自分の知っている彼女ではなかった。
顔面を大きく歪め、息つく暇すら忘れさせる張り詰めた気配を漂わせ、異様に低い威圧的な声を口にしながら……目の前の彼だけを睨んでいたのである。
「そうですか、そういうことですか……今度こそ、その形で立ち塞がる訳ですか……体感時間で言えば十年……時空間で言えば数百年ぶり……かつての統合戦争以来ですねぇ……フィーゼェェェェ……ッ!」