潜む悪意
「……ふふっ、うふふふふ……ふふっ、うふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふ……ッ」
誰が笑っている?
そう疑ってしまう程に、不気味な笑い声だった。
だが、その場には自分とレティーシャしか居ない。
だからそれは……あのレティーシャが顔面を手で押さえながら漏らした笑い声であると、必然的に確定された。
「レ、レティ……?どう、したの……?」
「いえいえ、嬉しいのです。少々意外だったものですから。まさかあなたが、こうまで────私の思い通りに動いてくれるだなんて」
「え……ぁ、がぁッ!?」
足元、太股、腰、腕、胸……と、度重なる痛みが、瞬く間に身体を立ち上ってきた。
反射的に視線を落とす。
すると。
自身の身体に、木の枝らしきモノが巻き付き始めていることが分かった。
いや、違う。
この木の枝は、巻き付いているのではなく……“自分の身体から生えている”のだ。
「世界の為に礎になる、ですか……あぁ、何と美しく甘美な響きなのでしょう。“あなた方”の潜在物質は、紛れもなく“あなた方”自身の意志で、自らが犠牲になることを選んだ……あぁ、あぁ、何と素晴らしい。ユスラ、今の貴方の輝きは、かのダイヤモンドにも劣らないことでしょう。流石は、この私が見込んだ────可愛い操り人形です」
レティーシャの声は、優しい。
いつも通り、人を癒す柔らかい言葉である筈なのに……そこに秘められた感情は、明らかに侮蔑の意だった。
理解出来ない。
意味が分からない。
彼女へと問い詰めようと口を開くものの、自身の身体の変貌に伴う激痛が襲い掛かり、思考を働かせること事態が困難だった。
「なにを……言って……あ、ぁぁ……ッ!ねぇ、レティ……これは、何……?こんなの……聞いてない……」
「えぇ、ですが、貴方の意志は尊重されることは約束致します。これから貴方の『桜の力』を最大限に増幅させて、全世界へ根を張り巡らせ、全人類の潜在物質をこの場に集結させます。潜在物質を搾取された人間は、一人残らず例外なく朽ち果てますが……まぁ、世界を守る為の尊い犠牲です。構いはしないでしょう」
衝撃だった。
まさか、あのレティーシャ=ダナムの口から、そんな残酷な言葉を聞く日が来るだなんて。
彼女は、世界を救う手立てがあると言った。
ただ、それには自分が命を懸ける必要があると言った。
だからこそ、協力すると言った。
だが、全世界の人間を犠牲にするだなんてことは、一言も聞いていない。
「何、言っているの……ッ!?やめて……そんなこと……私、望んでいないッ!!」
そう反感するものの、変貌は止まらない。
自身の身体から生えて伸びる木の枝は、辺り一面に根を張り、イムニティ支部を呑み込んでいく。
そんな中、レティーシャは平然とした様子で両手を広げながら、一歩、また一歩、ゆっくりと後ろに下がっていく。
「うふふ、うふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふ……残念ですが、“私の前に立つ以上”、潜在物質が一度意志を定めたら最後、その意志が覆ることはありません。お喜びになって下さい、ユスラ。貴方は、貴方の望み通り、世界を守る礎となるのです。但し……その世界に生命体は一人も存在はしませんが、ね?」
「ふざ、けない……あ……ッ!」
心臓が跳ね上がり、全身が痙攣した。
身体の何処かが熱い。
それが身体のどの部位か、と認識するよりも前に、また、また、またまたまた……止め処なく、全身の体温が増し続けていく。
気付けば、全身から生えた木の枝は、建物全域に張り巡らせられ、身体を動かすことすら出来なくなっていた。
「あぁ、来ました、来ました来ました、続々と来ていますよ……全世界の潜在物質が、続々と貴方の元へ……うふ、うふふふ……」
これが、潜在物質の存在感。
まるで全身の穴という穴から、熱湯を注ぎ込まれている感覚だ。
それほど、一つ一つの力が自らの存在を主張するかのように、凄まじい熱量を秘めていた。
だからこそ、怖ろしい。
本当に自分の中に、人間の生命の源が流れ込んできていると、実感出来てしまうから。
「あ、ぁ、ぁぁ……何か、流れ、込んで、き……ひ、ぃ……や、あ、ぁぁぁ……やめ……壊れ、ちゃ……が、あ、ぁぁぁぁ……ッ!!」
やめて。
やめてやめて。
やめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめて。
受け入れたら駄目なのに。
受け入れたら最後、皆の命が朽ち果ててしまうのに。
これではまるで……自分のせいで世界が破滅に突き進んでいるかのようではないか。
「何と愛らしい悲鳴……何と痛々しい喘ぎ声……あ、ん……うふふ、興奮が止まりません。さぁ、全てをその身体に取り込み、全てをこの私に注ぎ込むのです。それこそが、私の望み……」
最早、その言葉は届いていなかった。
激痛に伴う罪悪感が、涙を滲み出し、全身を痙攣させ、意志と思考を削り取っていく。
「いえ、これがこの世界の望み、と……?やはり、人とは素晴らしい生命体です……名の知らぬ者へ、力を貸すことを厭わないだなんて……」
そして。
新実ユスラの身体は、自らから派生した木の枝に呑み込まれ、巨大な大木と化しかけた……その時だ。
「ダメナノ、ダレモ、ハメツナンテ、ノゾンデイナイノ」
「……!」
視線の先に、一人の汚染者が立っていることに気付いた。
しかし。
その口調、その体格、その面影……全てに見覚えがある。
「……おやおや、可愛い取り巻きの登場ですか?」
「オネエチャンヲ、イジメルノハ……ユリガ、ユルサナイノ」
ユリ。
彼女はいつも気配もなく現れて、自分の前に立ち塞がってくれる。
誰よりも早く、まるで常に自分と共に居るかのように……そして、今回も。汚染者フェイズ2の姿になりながらも現れた彼女は、私の親友と対峙していた。
「あぁ、悲しい……実に悲しい話です……時に、人の勇気は、他者の悲劇を呼ぶ……大人しくしていれば────死ぬ事なんてなかったのに」
「…………どういう、ことダ?」
ハカセが走りながら、驚愕した顔を浮かべる。
それに受け答えするのは、彼女の隣を走る人物、武蔵栄志だった。
「レティーシャ=ダナムの目的は一つ。それは、この世界に存在する生物が必然的に秘めたる力、潜在物質を一つに集結させること。そう……あの時出来なかった偉業を、こちらの世界で果たすのが……あいつの悲願なんだ」
「あの時……?こちらの世界……?」
今までは教授する立場だったハカセが、不可解だと言いたげに首を傾げていた。
当然だろう。
それは、この世界の出来事ではない。
つまり、この世界の住人には知り得ない事実なのだから。
しかし。
その事実を、武蔵栄志はまるでその目で見てきたかのように、淡々と口にしていく。まるで、別人に成り代わったかのように。
「俺の身体は感染体で構成されている……だから、かな?俺は自分の気付かない内に眺め続けていたんだ。この、感染体と呼ばれる存在が見てきた、記憶ってやつを」
意思を持つ力、とはよく言ったモノだ。
力そのものが、意思を持ち、記憶を保ち、こうして形となって現れるだなんて……数時間前までだったら絶対に信じなかっただろう。
だが、それを踏み越え、ようやく共有という領域にまで辿り着くことが出来た。
「その口振りだと、レティーシャはこことは別の世界でお前ト……いや、感染体と遭遇していた、という風に聞こえるガ……?」
「あぁ、そしてその別世界は滅び、生き残ったあいつはこの世界に逃げ延びた。だから多分あいつは、俺のことを……」
そこまで言い掛けて、言葉が詰まる。
夢の内容を鵜呑みにして、彼女の本性を他者が決定付けるのは容易い。
だからこそ、会わなくてはならない。
想像だけで人が真実とならないように。
「……今のお前は、どっちなんダ?感染体カ?それとも、武蔵栄志カ?」
緊張した面持ちで、ハカセはそう尋ねてくる。
正直のところ、答えがたい質問だった。
だが、悩む必要はない。
何故なら、今の自分には、彼女達に対して、取り繕う必要も、わざわざ嘘を付く必要もないのだから。
だから、包み隠さず、自分の言葉で、自分の現状を口にした。
「俺は……感染体の殻を被った武蔵栄志だ」
「そうか……分かっタ。そう言うことならば、アタシはお前のことを信じられル」
通じ合った、と言えば大袈裟だろう。
だが、伝わった、のは間違いない。
それだけで充分に肩を合わせることが出来るのが、とても心強かった。
「……!これは……」
路地裏を出て街道を走っていると、とある物体が目に入った。
木の根らしきモノに足を巻き付かれた、人間の形をした灰色の何かだ。
「灰色の銅像……いや、こんなところに銅像なんてなかっタ……まさか、これは人間カ……!?何で、こんなことニ……!?」
それだけではない。
何という、おぞましい光景なのだろうか。
辺りを見渡してみれば、一人どころか、十人、二十人……視界に入る限り、全ての人間達が灰色の彫刻品のような形に成り果てている。
そんな異様な空間の中で、直感的に彼ら全員に共通する何かを感じていた。
それは、武蔵栄志としてではなく、感染体としての直感だ。
「魂の根源……そうだ、潜在物質の気配が感じられない」
「ハ?」
「潜在物質は、人間が必然的に持つ力……それは逆説的に、人間の生命機関を司っている、とも言える。潜在物質を抜き出された人間は、自身の生命機関を失い、こんな風に抜け殻のようになってしまうって訳だ……」
自分でも驚くほどに、分析力と知識が身に付いている。
これも恐らく、感染体の記憶による恩恵なのだろう。
どうやら、ハカセ達が見出した、感染体と潜在物質には密接な関係がある、という事実に間違いはなかったようだ。
問題なのは、人々を犠牲にしながら潜在物質を集めるレティーシャが、何を考えているのか……その一点だけだが。
「それは、つまり……レティーシャの思惑は既に始まってイル……ということか……!?」
「足元の木の根みたいなモノを踏むなよ?多分、それが原因だ。これが何処から伸びているか……あそこ、あの大木か!」
イムニティ支部ビルがあった場所。
そこには建物呼べるモノは存在せず、天高く伸びる大木がそびえ立っていた。
「潜在物質を抜き取ル?こんな町中に大木ダト?……チッ、段々と現実味が消えていきやがるナ……この事変の裏側には、こんなぶっ飛んだ思惑が潜んでいやがったのカヨ……ッ!」
同情出来る言葉だ。
ハカセの吐き捨てるような言葉を耳にしながら、彼女と共に大木の元へと、脚を急がせるのだった。