抗体の日常
人通りが一切見受けられない、町の裏路地。
太陽の光も差し込まずに、薄暗い石畳の道が続き、時々ネズミの集団の大移動が見られるような廃れた通りだ。
そんな入り組んだ通りをしばらく進んだ場所の脇に、木製の立て看板が配置されている。
『RIS』と英語で赤、青、黄と色付けられた看板は、裏路地の雰囲気には似付かわしくない物として、不思議な存在感を放っていた。看板の傍には奥へと続く通路があり、そこを更に奥へと歩いていくと、建物と建物でプレスされたような細長い建物がある。
その建物の入り口扉の前に立っているのは、ガスマスクを装着した少年、武蔵栄志だった。
彼は何も躊躇することもなく、異様な怪しさだけが漂う扉を開き、中へと足を踏み入れる。
すると、中からのんびりとした口調の、甲高い声が聞こえてきた。
「……おやぁ?いらっしゃい、ムサシ君。今日もこの『リジュアル・ショップ』へお買い物に来てくれたのかい?」
入り口から見て正面奥にレジカウンターがあり、その机の上に腰を据えて本を読む、行儀が悪い少女。
一見すると小学生並みの幼さだが、大人の魅力が滲み出たような、落ち着き払った雰囲気を漂わせている。
白いロングヘアをたなびかせ、白い肌の上に白いローブを身に纏い、白いズボンと白い靴を履き、全身が白に染まった奇妙な外見をしている。足が悪いのか、普段は脇にある車椅子に座って移動しているも、本人はそんな不自由さは一切感じさせない妖艶な笑みを見せてくれていた。
「あのだな、レジダプアさんよ?何度も言うが、俺はムサシじゃない。いや、訓読みで読めばそうだけど……俺の苗字はタケクラです!」
ガスマスクの下で呆れた表情を浮かべる。
すると、向かい側に座るレジダプアは、首を左右に振りながら笑った。
「そういう君こそ、その仰々しい格好はいい加減に辞めたら?今どきガスマスクを着けて町中を徘徊するやつなんて一人もいないよ?新兵器がはこびる世界大戦の最中って訳じゃないんだからさ」
一般的な観点から見れば、冗談にしかならない装備をしているとしか思えないだろう。
しかし、正直のところ、それは笑い返せるような話題ではなかった。
何故なら自分の場合、常時ガスマスクをしていないと、激しい苦痛を味わう危険性があるから、である。
「今どき?今、この世界に生きているから、こんな格好をすることになったんだが?」
すると、何が面白いのか、彼女は手を叩いてケタケタと笑い始めた。
「あはは!そうだったねぇ。うん、違いないや。まぁ、そもそもそのガスボンベを売ったのは私だし?イノヴェミック以降は、普通の品物は売れなくちゃったから、正直のところ大助かりではあるんだけれどもねー」
それ以前に、こんな裏路地に店を構えていることが問題な気がするが……彼女の尊厳に気を遣ってあえて言わないようにしていた。
カントリー風な店内を見渡してみれば、アクセサリーや装飾等の雑貨品、エアコンやテレビ等の電化製品に、お菓子等が陳列されている。裏路地という場所の割には綺麗な品物ばかりで、品揃えも豊富である為、ここだけ見れば客がいない方がおかしく感じるくらいだ。
「確かに、俺もあんたに会わなかったら今頃どうなっていたかって思うよ。ところで、スマン。借りてた木刀が粉砕したわ。どうすれば許してもらえる?」
「代金は百万円です。お支払い下さい、ムサシ様」
気付けばいつの間にか背後に立っていた人物が、異様な金額を請求してきた。
振り返ると、半開きな瞳で無気力そうな顔を見せる、ウサギ耳頭に付けメイド服を身に着けた少女が、こちらに手を差し出している。
払えと?
払えと言うのか?
何処かのたちが悪いブラック金融に詰め寄られている気分だ。
「あからさまなぼったくり!?ちょ、あんた……貸すときにこの木刀埃被っていただろ!?奥の方ではたき使ってペンペンやっていたの知っているんだからな!?」
彼女の名前は、星霜クロク。
このリジュアル・ショップのお手伝いさんとして、足が悪くて働かない店主の代わりに、常時雑務をこなしている少女だ。
フリフリな黒と白のメイド服を身に纏い、レジダプアと同じ白髪の頭には、黒色のウサ耳を装着している。可愛らしい容姿であることは間違いないが、何故これがこの店の制服みたいな風潮が出来上がっているのだろうか。
前にレジダプアに聞いてみたら、私の趣味だ、とか暴言をしていたし。
「知りませーん、そんなの知りませーん。ソレハ代々コノ店二伝ワル伝家ノ宝刀デース」
「棒読みだよ!!面倒臭がり屋か!!騙すなら騙すでもっとやる気だしてからにせんか!!」
「んで、払うのですか?」
「払わねぇーよッ!!」
彼女の差し出された手を、折れた木刀で、軽くスパーンと打ち払っておく。
「むー……」
クロクは無表情のまま頬を膨らませると、助けを求めるようにレジダプアへ視線を送った。
すると彼女は両手を叩いて、真っ直ぐにクロクを指差して言った。
「あらら、じゃあ仕方が無いね。クロク君、必殺技だ!」
「なっ!?必殺技、だと!?」
こんな状況で必ず殺す技とか、どんな脅しを繰り出すつもりなのか。
思わず身構えてクロクの出方を窺っていると……。
「ピョーンピョン、払って欲しい……ピョン?」
彼女はウサ耳を付けているにも関わらず、自身の両手を頭に乗せて、可愛らしいウサギのポーズを繰り出してきた。
少々意外な悩殺ポーズに、心臓が大きく高鳴る。
「うぐっ!?普段大人しいから、この可愛らしい仕草がギャップに……!?」
「ふぅっふっふっ……チョロい、チョロいねぇ、ムサシ君。男は女の振りまく魅力から逃れられないものなんだよぉ~」
なるほど、彼女の入れ知恵か。
クロク本人も満更ではない様子で、両足で可愛らしく飛び跳ねながらこちらに近付いてくる。
「ピョーンピョン、最早口癖です。とっとと払えやピョーンピョン」
「口悪ッ!!いや、払わんけど、ちょっと頭撫でさせてもらっても……」
犬、猫等々、家庭の愛玩動物を見ると、ついつい撫でたくなる……それと同じ感覚だ。
本能的に、衝動的に、クロクの頭の上に手を持ってくると、彼女は首を傾げながらこう言った。
「ガスマスクを被った変人に撫でられる女の子って構図が、最早あれですが……構いませんよ。一撫で一億円になります、毎度ありです」
「がめつッ!!」
女性は高い。
まさか木刀をへし折った弁償代よりも、更なる高額なお金を要求されるとは思わなかった。
反射的に手を引っ込めるものの彼女は、ほれ触れやれ触れ、と言わんばかりに身体にギリギリ密着しない位置で、誘惑してくる。
その度に彼女の柔らかい感触を実感している気がしてしまう為……つまり、とてもやり辛い。
「あはは!相変わらず、からかいやすい性格をしているなぁ。あぁ、そうだ。木刀で太刀打ち出来ないなら、一応別の物用意しておいたよ。表に置いてあるから、後で勝手に持っていってね」
「まさか、それもまた別料金とか言わないよな、おい……あぁもう!次来るまでにはこの子に恥じらいってものを教えてやっておいてくれよ!」
ここまでが、武蔵栄志という人物の日常だ。
ガスマスクを被って町に降り立つと、人々に追いかけ回され、この店で馬鹿みたいな会話を繰り返し、買い物をしてから去っていく。
しかし、今日は違った。
まさか、この日常を変える運命的な出会いを果たすとは……彼自身は予想だにしていなかったのである。