嫌悪感
「……え?」
ありのまま、起こったことを説明しよう。
エレベーターを突き破って、フェイズ2が内部へと侵入しようとしてきた。
しかし。
突然、そこへ立ち塞がる形で、見覚えのない人物が現れた。
次の瞬間、フェイズ2は弾かれるようにエレベーターの外へと吹き飛ばされてしまった。
それは、布地一枚だけで身を包んだ一人の少女。腰辺りまである薄い橙色の髪の頂点には、まるで犬耳のようなものが生えており、尾骨があると思われる場所には柴犬等によく見られるような、丸まった尻尾が生えている。
明らかに人外な外見をしたその人物は、何やら硬っ苦しい台詞と共に、こちらを振り返った。
「────ご主人様の為ならば、例え火の中、水の中、いずこでも駆け付ける性分であります。さぁご主人様!あなた様のライムがいざ、けん、ざ、ん……」
「……えぇっ、と……助けてくれてありがとう、ございます……?」
自分でも珍しいことだが、テンションに付いていけなかった。
だが、助けてくれた事実に違いはない。
動揺しながら彼女と目を合わせると、その顔は途端に歪み……。
「何だよ、ハズレの方か……チッ」
衝撃な発言。
出会い頭に舌打ちをしてくれました。
「ちょっとぉ!?今舌打ちしたよね!?ハズレってあれか!?助ける必要もないって意味のハズレなのかな!?」
「ご主人様とライムの聖域に土足で踏み込んだ挙げ句、ご主人様を懐柔しようとしたクソビッチなんざ助ける義理もありゃしませんねぇ」
一瞬、彼女が何を言っているのかが分からなかった。
だが。
今この地で、彼女が助けようとする人物は、自分を覗けば一人しかいない。
しかも彼女自身が口にした、ライム、という名前も聞き覚えがある。
山奥に位置する家……そう、武蔵栄志の自宅だ。
「ご主人……ライム……犬……あ、あぁぁぁぁッ!!ま、まさか……あの時、私の足を噛んだ犬ぅ!?犬から人間の姿になっているってまさか……君もクロクと同じ、適合者なのぉ!?」
今思い出してみれば、あの時の柴犬は、自分が栄志のことを無理矢理連れて行こうとした時に足に噛み付いてきた。
あれは、適当に噛んだ訳ではない。
明確な敵意を持ち、標的を定めた上で、攻撃してきたのだ。
「うるっさいなぁ……ご主人様は私が人間になれることは知らないし、私からも言うつもりはない。それよか、こんな狭い空間で大声出さないでくれませんかねぇ?つーか、耳が腐る」
「う、ぐぐ……何か栄志君と出会った時と同じ空気を感じる……」
飼い主と飼い犬はよく似る、という話はよく聞くが、それを忠実に再現したような人物が目の前に立っている。
栄志はここまで口は悪くなかったが、彼女の場合は何故か敵意だけを向けてきている為、それが更に悪化して現れ出ているようだ。
「あのさぁ、一応助けてやったんですから、言うべきことがあるのでは?あぁ、自分を傷付けた奴に助けられたのは癪ですか?悔しいですか?ムカつきますか?はっはっはっ、超快感」
カチン……ムカつく。
彼女の言動、彼女の姿に、怒っている訳ではない。
ならば、何故?
今まではこんなに、他人に対して苛立つことはなかった。
それなのに、何故か、意味も分からないまま、彼女に対する苛立ちだけが沸々と沸き上がってくる。
だが、救われたこともまた事実。
そこには人として、ちゃんと礼儀を払うべきなのだろう。
「あ、あ、あ……ありがとう、ございまし、た……」
必死に自分の憤慨を抑えながら頭を下げると、ライムは満足げに尻尾を振りながら壁を叩き始めた。
「いえいえどーいたしまして。さて、用があるのは地下でしたっけ?エレベーターは止まっちゃいましたし、さっさと降りるとしましょ」
「ちょ、ちょっと待って!?降りるって……どうやって?まだまだ下はあるし、飛び降りるにしても高すぎるんじゃ……?」
すると、彼女は呆れた様子で頭を振ると、ゆっくりとこちらに近付いてくる。
「……はぁ、情けないですねぇ……仕方がありません。ここで見捨てるのは簡単ですが、そんなことをしたらご主人様に怒られてしまいます。仕方がありませんが?あくまでもご主人様の為ですが?心の底から不愉快ですが?まぁ、手助けしてあげるとしましょ」
「へッ!?ちょっと!?何で担ぎ上げて……ひゃわ!?」
こちらの返答を待つまでもなく……突然、自分を肩に担ぎ上げた。
それから、脆くなったエレベーターを軽々と蹴り破り、目の前に垂れ下がるメインロープを一瞥。
そして。
「よい、っしょっと!」
飛び移る。
片腕で自分を抱え、片手でロープを掴むと、そのまま一気に降下。
ライム自身は良いだろうが、こちらは訳の分からないまま落下している為……要するに、メッチャクチャ怖い。
「まァっ!?ままままま待ってまた落ちるのは嫌だぅぁぅぁぁぁぁぁぁッ!!」
噂に聞くジェットコースターとは、こんな恐怖心を抱くモノなのだろう。
噂に聞くバンジージャンプとは、こんな走馬灯を呼び起こすモノなのだろう。
それは何でも良いが、とにかくだ。
こんな地下深くに施設を設けるとかふざけた設計をした奴……マジで許すまじ。
圧倒的だった。
同じフェイズ2であるにも関わらず、ユリは近付く敵を次々と蹂躙していき、瞬く間に汚染者の山を築き上げていた。
それも、ただ殴る蹴るで倒したのではない。
彼女が他と比べて細身な黒い腕を振るうと、その先に立つ汚染者達が、まるで金縛りを受けたかのように止まっていたのである。
「何で、そんなことが出来るんだ?」
階段を登りながら、隣を歩くフェイズ2ならぬユリに尋ねると、彼女は首を小さく傾げた。
「オニーチャン、デキナイノー?コウヤッテ、ヒラヒラ~ッテヤルト、パァ~ッテヒロガルノー。トッテモキレイナノー」
うん、よく分からん。
とにかく、彼女が無意識の内に汚染者へ向けて、何かをやっているのは間違いなさそうだ。
昨日、イムニティで大暴れしていたフェイズ2も、同じ不可解な力を用いたと言っていた。もしかしたら、フェイズ2へと進化すると、特殊能力のようなモノも同時に授かるようになっているのだろうか。
それに、他と比べて、彼女だけがこんなにも人間らしい落ち着きを持って行動出来ている理由も、同等に気になる。
「でも、何でここに来たんだ?危ないから付いて来ちゃ駄目って、あれほど言っただろ?まぁ、それで助けられていたら何も言えないけどさ……」
そもそも、ユリの子守はレジダプアに任せてきた筈だ。
傍にはハカセも居た為、よっぽどなことが無い限り、こんな幼子から目を離すことはないだろうと思っていたが。
「ハカセガ、イイ、ッテイッテタノ。ダカラツイテキタノ」
「……あいつ、一体どういうつもりだ……?」
目を離したのではなく、保護者同意の上だったらしい。
何とも腹立たしい。
あの女には人情の欠片すらも残っていないのだろうか。
すると、こちらの怒りを察したのか、ユリがその場で立ち止まり、目線を軽く落とした。
「オニー、チャン……?ユリ、ダメナノ?ユリ、ワルイコナノ?ユリノコト……オコル?」
見た目は、頭の天辺から足先までフェイズ2だ。
しかしその言動は、まだ幼い年頃の娘の純粋な反応だった。悪いと思ったことは理解し、悪いことをしたと思ったら落ち込む。
そんな、純粋無垢で利口な、一人の少女の反応である。
「……いや、そんなことない。ありがとうな、ユリのお蔭で助かった」
今の彼女に、怒る意味は無い。
そのゴツゴツとした硬い頭に手を伸ばすと、ゆっくりと撫でる。
すると、彼女は嬉しそうに笑い声を溢した。
「……!エヘヘ、オニーチャンノテ、オネーチャンノテトオナジ、アッタカイノ……デモ、ナンダカ……」
「ん?」
「スッゴク、ゲンキガデルノ……!」
いきなり両手を上に掲げて、無邪気にはしゃぐ子供のように階段を駆け登っていった。
その様子を保護者のように、穏やかな笑みを溢しながら眺めていたが……あることに気付く。
「戦い以外だと、可愛らしい子供だな……って、あれ?今、俺……“触った”?触っていた、よな?」
喜びと共に、謎が再び拡散する。
ユスラを始め、イムニティの使用者に引き続き、ユリにまで接触が可能であると判明した。
一見すると共通点が無さそうだが、広い目で見ると……全員がイムニティと関わり合いがある……ということ程度だが。
「オニーチャン!ハヤク、ウエニイクノ!」
「そうだ。あいつに問いただしてみればハッキリする筈だよな……使用者が、何故俺の身体を捉えられるようになったのかを……!」
やはり、ハカセの言った通り、イムニティはイノヴェミックに関する、自分達の知り得ていない何かを握っている可能性が高い。
その正体を掴むことが出来れば……分かるかもしれない。
自分が、一体何者なのか、ということも。
高所恐怖症に陥ってしまいそうだ。
ライムに抱えられて、エレベーターのロープを伝って急降下を味わった後は、例の実験場へ向かう廊下をふらつきながら歩いていた。
情けない?
弱々しい?
そんなこと言う人は、自分の身体をハンマーと同等に扱われた挙げ句に、ビルの上から地下へ落とされる恐怖を味わってみると良いだろう。嫌という程、高いところが嫌いになる。
「なっさけなぁ~。そもそも、それは死ぬ思いをした人の台詞でしょ?自分の身体を地面に叩きつけられて、高いところから落とされて、ほぼ無傷で生きている人が、トラウマだか何とか言って恐怖心へ逃げるとか……それって、弱く短い命を持って懸命に生きている人間への冒涜に他ならないと思いますがねぇ?」
「……むぅ……私だって人間なんですけど……」
先程から、前を歩くライムの発言が嫌というほどに癪に障る。
彼女がこちらのことを嫌っているのは、彼女の言動を目にすれば明らかだ。
だが、それでも彼女の口にする言葉は……あまりにも辛辣過ぎた。
「人間……はぁ?あんた、それマジで言ってます?」
瞬間、電撃が頭の上に落ちた。
それは、触れてはならない逆鱗。
イムニティの面々でも無意識に避けていたであろう、禁断の言葉だった。
「……何が言いたいのかな?」
今まで、決して誰にも向けたことが無かった敵意に満ちた視線を、目の前のライムへと突き立てる。
すると、彼女も立ち止まり、その場で反転。
どこまでも冷え切った表情で、互いで互いを睨み始めた。
「私には分かりますねぇ、これでも鼻が効くから。あんたは────ラムと同じ匂いがする」
「……!同じ、匂い……?」
「いや、違いますね。それに加えて、色々なモノが混じり合って、各々が己の存在を主張して……クッソ気持ちが悪い匂いになっている」
「……違う……」
強く、耳を押さえ付ける。
しかし、彼女の声は浸透するように、手をすり抜けて鼓膜を揺らしてきた。
まるで、どこまでも追ってくる悪夢のように。
「例えるならば、美味しいスープを作ろうとしたのに、砂糖、塩、唐辛子の分量をミスって、結果的にマッズイ代物になったような……そんな感覚でしょーかねぇ?」
「……やめて……」
違う。
違う、違う。
否定したいのに、頭の中では否定の言葉が渦巻いているのに、胸の奥に眠る一つの感情がそれを許してくれない。
それは、焦燥。
自分という醜い存在を閉じ込めた殻を外側から破る音が、不気味に響き渡ってくるからだ。
「外見上は取り繕って、偽善に満ちた笑顔を浮かべて、えぇ、確かに綺麗ですよ。だけど、内面は反吐が出るほどに気味が悪い。そんな失敗作がご主人様のことを救おうだなんて……そんなの、ライムが死んでも認めな……」
「……君に、何が……」
「は?」
我慢は、簡単だ。
今までもずっとそうして生きてきたから、今回も同じように我慢して事は収まる……筈だった。
しかし。
殻の中に閉じ籠もっていた自分の焦燥は、痺れを切らし、遂に自らの殻を破って、外へと這い出てしまったのである。
その焦燥は、悲痛な叫びとなって、廊下に響き渡った。
「────君なんかに何が分かるッ!!」
「……!」
「私だってこんな色んなモノが混じり合った身体に生まれたくなかったよッ!!こんな身体で生きるくらいならッ!!意思なんて持つべきじゃなかったッ!!化け物として殺された方がよっぽど良かったッ!!」
何で、こんなに怒っているのか。
自分では最早判断の付きようがなかった。
ただ、ライムの指摘が……あまりにも辛辣で、あまりにも的確で、“あまりにも的を得ていたから”……どうしても、聞いていられなかった。
だからこそ、自分の中にある本能が、強い拒絶反応を起こしたのかもしれない。
しかし、そんなこちらの豹変に気圧される様子もなく、ライムも真っ向から対峙してきた。
「はぁ?笑わせないでくれますかねぇ?意思を持つべきじゃなかった?殺された方が良かった?この世界のどれだけの存在が、意思を持ちたいと願っていると思う?どれだけの存在が、長生きを願っていると思う?あんたの言っていることは、不幸な運命を背負った全ての人々に対する冒涜だッ!!」
気付けば、声は大きくなり、胸を締め付ける痛みは増していく。
もう、嫌だ。
止まれ、止まってくれ。
痛い、苦しい、痛い苦しい痛い苦しい痛い苦しい……こんな想いをしたくないから、“ずっと耐え忍んできたのに”。
「じゃあ何!?私はこれからもずっと、あなたみたいな輩に蔑まれながら!!それでも自分の気持ちを押し殺して生きるしかないって言いたいの!?」
次の瞬間。
ライムがこちらの胸倉に掴みかかる。
その勢いで背後の壁に叩き付けると、今までで一番の大声で、こう言い放った。
「それがッ!!気持ちが悪いって言っているんだよッ!!あんたを初めて見たその瞬間からずっと思っていたことだッ!!」
「…………は、ぁ?」
「何で隠すんですか?何で押し殺すんですか?薄気味悪い笑みを浮かべて、自分だけで何もかも解決しようとして……それで何か変わりました?変わらなかったでしょ?」
「……ッ!これ、から……変えて……」
言葉が詰まる。
自分で何もかも変えようとして、何もかも解決しようとして……果たして何かが変わっただろうか。
いや、何も変化はなかった。
何も変えられなくて、自分の無力さが嫌になって……何度布団の中でくるまって涙を流したのか……今では数え切れない。
「いい加減に気付きなさいよ、このうすのろォ……ッ!あんたの言っている協力は、明らかに意味を履き違えているって言ってんですよ……力を合わせるってのは、神様みたいに誰かを引っ張ることじゃない……互いに手を取り合って足踏み揃えて前に進むことでしょうがッ!!」
「……ぁ……ッ」
ライムの手が離れ、その場で尻もちを付いて唖然としてしまう。
ようやく分かった。
こんなにも苦しいのは、焦燥、後悔の捌け口を作っていなかったから。
上手くいかなかったのは、誰かと協力することの意味を全く理解していなかったから。
それを、まさかライムは……教えてくれた、というのだろうか。
「……んで?どーなんですか?あんたの、本当にやりたいことって、何?」
ライムの言葉が、魔法のように自分の心情を言葉として引き出してくる。
その度に、熱さが滲む目尻からは、小さな雫がこぼれ落ちる。俯き加減で落ちる雫は膝を濡らし、床を握り締める拳にばかり力が入っていた。
「私、は……私だって……彼の傍に居たいんだ……彼が、“私のことを眺めていてくれたあの時”から、ずっと……でも、それは、駄目だから……彼は、絶対に私を拒絶するって、思ったから……だから、恐くて、恐くて……」
自分には、とある秘密がある。
誰かに、いや、彼にだけは決して知らせられない、大きな秘密だ。
それが露見されたら最後、自分達を取り巻く全てが革新してしまい、良くない現実が現れ出てしまう。
嫌だった。
世界が壊れてしまうことよりも、彼との関係が壊れることが、何よりも恐ろしかった。
何故なら、彼の存在は自分にとって────かけがえのない存在だから。
「……ほら」
「え……?」
それは、優しく差し伸べられたライムの手。
床に腰を下ろしたまま顔を挙げた目の前には、相変わらず冷たい目つきを突き立てるライムの姿があった。
だが不思議と、ほんの数秒前とは、明らかに印象が違う気がしていた。
「言っておきますけど、ライムはあんたのことが大っ嫌いですよ。誠に遺憾なことに、あんたと────全く同じ気持ちを抱いているから」
「……!」
あぁ、そうか。
自分と彼女は、似た者同士だったのか。
似たような境遇で、似たような気持ちを背負い、彼との関係が壊れることを恐れている。
まさに、同族嫌悪というやつだろう。
冷静に見極めても、彼女のことが気に入らなかった理由が、ようやく分かってきた気がする。
ならば、こちらもハッキリと断言しよう────“私も君のことなんか大っ嫌い”だ。
彼女の差し出された手を握り返して立ち上がると、互いで互いの気持ちを察し、小さく笑い合った。
「……行こう」
「ふん、少しは締まった顔になりましたか。まぁ?その度に?ライムのあんたに対する嫌悪感ばっかりが?沸々と増幅していくんですけどぉ?」
やはり、彼女は飼い主と似ている。
特に、言葉に反して積極的なお節介さが、本当にそっくりだ。
出会ったばかりなのに、自分の心の中に潜んでいた迷いと対峙してくれたお節介な悪友へ。
穏やかな笑みと共に、精一杯の感謝の意を込めて、お礼の言葉を口にした。
「うん、そうだね。ありがとう、ライム」
「……なにそれ、気持ち悪」