その名は、『抗体』
人々が行き交う街道。
その真ん中に、人々の視線を集める異常事態が発生していた。
「あぁ、私の可愛い息子……お願い、お母さんの声を聞いて……?」
女性が涙を流しながら諭す目の先に、何かが居る。
女性を遥かに上回る巨体に、真っ黒に染まった肌。まるで巨木のように肥大化した筋肉と、鰐のように裂けた大顎には、刃のような鋭利な歯が並んでいる。
そこに居るのは、人間ではない。
見た目通り、ただの化け物だった。
「大丈夫よ……恐くない……恐くないから。もう少しすれば、『イムニティ』が駆け付けてくれる。それまでの辛抱よ……ね?」
「……ア……ァ……」
尚も化け物に語り掛ける女性。
傍から見れば異様な光景だが、周りの群衆は何かを期待するように、固唾を呑んでそれを見守っている。
そして遂に……化け物が動き始めた。
「どうしたの?苦しいの?あぁ、遊んで欲しいのね?」
化け物の大きな顔が女性へと伸びる。
それがじゃれ合いの合図だと思ったのか、女性は笑みを浮かべながら両手を、その大きな顔に差しだした。
その時だ。
「……ガァウ」
化け物の大口が、上下に開き、女性を中に捉えると……。
「え」
閉じる。
ミシミシミシミシッ!!と、何かが千切れる不気味な音が鳴り響き、女性はその大顎の中へ放り込まれていった。化け物はただ無心に女性だったモノを咀嚼し、呑み込んでいく。
その光景を目の前に、今まで沈黙を守っていた群衆も、悲鳴と共に逃げ始めた。
「キャアァァァァッ!!」
「おい!イムニティはまだ来ないのかよ!?」
「逃げろ!逃げろォォッ!!」
飛び交う悲鳴。
鳴り響く足音。
誰もが身の危険を感じて、大急ぎで化け物から離れていく。
そんな慌ただしい修羅場の中。
一人の人物が群衆の波に逆らって歩いていた。
「…………」
ジーンズと黒いパーカーを着たその人物は、顔が見えないくらいにフードを深く被り、パーカーのポケットに両手を入れて歩く。
その足の先には、口元が真っ赤に染まった化け物が佇んでいた。
化け物の視線は、フードの人物を真っ直ぐに睨んでいる。
「お、おいあんた!何処に行くんだ!?そっちは危ないぞ!!」
群衆の内の一人がその無謀な行動に気付き、慌てて声を掛けるが、もう遅い。
化け物は雄叫びを挙げて、フードの人物に飛び掛かっていた。
「ガァルルゥゥアアアアッ!!」
また一人、犠牲者が増える。
それが終われば、また一人、また一人と、化け物の餌になっていくのだ。
誰もが自身の身を案じ、恐怖に支配されていった。
……しかし。
「────うるさい」
フードの人物が、一喝。
同時にポケットの中から、木製の棒らしきモノを三本取り出し、一本の長い棒へと変化させる。
その棒を手にして、目の前にまで迫った化け物に向かっておもむろに振るう。すると、棒は化け物を大きく弾き飛ばし、爆発するように砕け散ってしまった。
「ギャウゥッ!?コ……コ……ッ」
有り得ない光景だった。
あの巨体と、人間を貪り食う化け物を、ただの棒切れと人間の腕力だけで、殴り飛ばした。
恐怖から一変。
驚愕の顔で立ち尽くす人々の前で、その人物の深く被られたフードが風圧で脱げ、彼は溜め息を吐きながら砕けた棒を投げ捨てた。
「……ヤッバイ、借り物なのに折れちった。木刀じゃあ、やっぱ駄目か」
その声は、曇っていた。
その顔は、見えなかった。
何故なら、フードの下に隠されていた顔には、顔面を覆い隠す……ガスマスクが取り付けられていたからだ。
人々が彼のガスマスク姿を目撃した瞬間、その場は一斉にざわめき始める。
それは決して、歓喜の声ではなかった。
「お、おい……あれって……!」
「フードの下に、ガスマスク……ま、まさか……!」
「イムニティの言っていた奴……!?」
動揺、焦燥、悲哀……そんな様々な感情が入り混じったグチャグチャな心境を胸に、人々は少年に狙いを定める。
その視線に気付いた少年は、慌ててフードを被り直してから……。
「ん?あ、やっば……っ!」
一目散に逃亡した。
すると、それに釣られるように、人々は一斉に動き始める。
その集団行動は、まるで餌を求める獣のようにも見えた。しかし、人々にはそんなことを考えている余裕はなかった。
「間違いないぞ!!捕まえろッ!!あいつが『抗体』だァッ!!」
人々は身を粉にして、彼の後を追う。
────この世界を救うことが出来る、と予測された、ただ一人の少年を求めて。
─────世界革新まで、残り七日。