エピソードⅡ
エピソードⅡ
自分から死を望むことは、そんなに悪いことなのだろうか。
僕は教室の窓から空を眺め、いつもそう考えている。
子供だって嫌なことはたくさんあるのだ。人間関係に疲れ果てて、どうにか逃げたいと思うことだって一度や二度ではない、たくさんあるのだ。だけど、どれだけ悩んでも僕たちにはどうすることもできない。逃げる場所も、救いの手を差し伸べてくれるいいひとも、身近にはいないのだ。
そりゃあ、助けを求めたら何らかの手助けをしてくれるひとは少なからずいるのだろう。けれど僕のような人間にはそれができないのだ。心の中では必死に助けを求めて叫び回っても、現実ではいつも孤立し、黙り込んでいる。助けを求められるくらいの勇気があるのならば、初めからいじめられなどするはずがないのだから。
いじめなんてもの、どこの学校にでもあることだと思う。
僕が、僕だけが特別なわけじゃないんだと思う。
どこにいるだれにでも、ちょっとしたきっかけで起こり得ることなんだろう。
それはいじめる側にも言えることだ。些細なきっかけでターゲットを見つけ、軽い罪悪感を抱きつつも小さな攻撃を始める。それはゆっくりとだが確実にエスカレートし、よりジメジメとした悪意のあるものになってくる。その頃には、当初に感じた罪悪感なんてすっかり忘れ去ってしまっているに違いない。
これから僕は、数人のクラスメイトたちから、今よりもさらに酷いいじめを受けることになるのだろう。
窓からぽかんと浮いた雲を眺める。今ははっきりとした形のある雲だけれど、風に流されるうちにゆっくりと薄く小さくなっていくのだろう。あのように何も考えることなくただ消えてゆくことができればどれだけ良いだろうか。ただ生まれて、時間が経つだけで消えていくことができればどれほど楽だろうか。
あるとき、僕はクラスメイトの一人に「雲になりたいな」と呟いた。
クラスメイトの彼と僕は特別仲良しというわけではなかった。当時は僕へのいじめはまだ始まっていなかったし、クラス替えがあった直後でみんなよそよそしかったのは事実だ。だからそれは、そんなに意味のある会話ではなかったはずだ。僕はぼうっと空を眺めていただけで、ふわふわとした雲が少しばかり羨ましくなっただけなのだ。
だけど、僕が唐突にこぼしたその言葉がきっかけとなり、僕は本当に雲になることになってしまった。
もちろん、実際に雲になったわけではない。
雲と同じように、どうでもいい存在として見られるようになっただけ。
いや、「見られるようになった」、じゃない。
雲のように薄い存在にされてしまったんだ。
あれから数ヶ月経った今では、僕は教室の中にふらふらと漂う雲として扱われている。そのときしゃべっていた彼も、ほかの級友たちも、僕へ言葉を投げかけなくなった。授業中でも、休み時間でも、給食の時間でも、放課後でも、僕はほとんど誰とも言葉を交わすことがなくなってしまった。
たまに話しかけられることはある。だけどそれはただ僕をからかっているだけ。話題を僕に振って、僕が言葉を返そうとすると、彼らはそっぽを向いて他の友人たちと話し始める。僕はじろっと彼らをにらむのだけれど、雲ににらまれても彼らはなにも思ってくれない。怒りも、戸惑いもしない。反応がないというのは、とってもつらいことなんだとよくわかった。
どんなにいじめを受けていようとも、生きていればきっといいことがやってくるはずだ。僕だって、そういった甘い幻想にすがりたい。だけど現実はやっぱりそんなに簡単じゃないんだ。おまえのようなガキに何がわかる、と思うだろうけど、子供は子供なりに現実を見ている。そのくらいわかる。
きっとこのまま中学を卒業し、高校へ行っても僕はなにも変わらない。ふわふわした存在のままどうにか卒業するのだろう。その後、高校から大学へいくとする。これは僕の想像だけど、大学というところはとてもオープンな場所だ。仲の良いもの同士はさらに付き合いを深め、グループがより強いものへとなっていくのだろう。そうなるとグループに入り込めない人間はどうなる? きっと雲のような僕は誰とも付き合うことなく、一人ぼっちでぽつんと過ごすことになる。それに慣れてしまっていると自分では思っているが、やはり他の人たちを見ていると羨ましく思い、そうすることができない自分自身を深く呪うのだ。やがて他の人たちが楽しそうにしている光景が目に入るのすら嫌になり、僕は大学へ行かなくなる。けれど就職もできない。会社なんてさらに恐ろしく思えるのだから。そうなると、僕は自分の部屋に閉じこもることしかできなくなる。部屋の中で一日中。することも何もないので、きっと夢想するんだろう。どうしてこうなった? と。考えて行き着くのは、やっぱり自分自身を忌み嫌うことだ。そんな夢想を数年も繰り返すと、僕は最後には死ぬしかなくなる。
このシミュレーションはあくまでも僕の想像に過ぎない。だが、そうなる確率は決して低くないと確信している。
だったら今の段階で死んだとしても、それほど状況は変わらないのではないか。引きこもりのダメ人間というレッテルを貼られる前に、さっさと死んでしまったほうがいいのではないだろうか。
雲のように後腐れ無く、うっすらと消え失せてしまったほうがいいのではないだろうか。
そのように考え出してからというもの、僕は密かに死に場所を探している。ひっそりと誰にも見つかることなく消えていける場所を求めている。けれど僕なんかが行ける場所など本当に限られていて、基本的には常に誰かがいる。そんな場所でゆっくりと死ねるわけがない。
だから僕は、とりあえず生きている。窓から雲を眺めて、毎日毎日空気のように過ごしている。机に突っ伏して顔を横に向け、何も考えることなく流れる雲をただ目で追っている。ああなりたいと切に願いながら。
……こんな一人夢想も何度目だろう。もしかしたら毎日やっているのかもしれないな。とろけそうになった脳みそは昨日の昼休みに何を考えていたかすら思い出すことができないや。まあ、それはそれでいいか。必要のないこと、僕みたいに。
自分の考えで小さく吹き出してしまった。周りに妙な目で見られる心配はない。誰も僕なんか見ちゃいないんだから。
「……○○町の駅前商店街、知ってるか?」
少し前の席でたむろするグループの会話がふと耳に入ってきて、僕は少しだけ神経をそちらに向けた。
「ああ、あのシャッター通りだろ? 昔、何度か行ったことがあるような気がするぜ」
「俺も。確か真ん中くらいにおもちゃ屋があって、そこに何回かプラモを探しに行ったはず。……でも今はやってないんだろ?」
「商店街自体が無くなっちまったわけじゃない。ああいうのはいくつかの店舗が集まってるわけだから、いっぺんに全部が無くなりはしない。今でも数軒、営業してる店がある」
「ふうん。で、それがどうしたんだよ」
「その商店街の外れに、ちっこい旅行会社があるらしいんだ。小耳に挟んだんだが、どうもその旅行会社、……アブねえらしいぜ」
「なにがどうアブないんだよ」
「ヤバいツアーを組んでるらしい」
「わかんねえよ、だからどうヤバいんだよ」
「たとえば外国へのツアーだった場合、申し込んだ客は密かに地元のマフィアに売り飛ばされちまうんだ。国内もヤバいぜ? なんか廃墟に行くツアーとかやってるらしくて、好き者が申し込むだろ? そういうヤツらは周りに何も言わずにツアーに参加する場合が多いらしいんだけど、行き先の廃墟には旅行会社とグルの人肉屋が待っていて、やっぱり売り飛ばされちまうんだ」
「アホらし……。そんなの、すぐにバレちまうだろ」
「だから、参加者は誰にも言わずに行くんだからなかなかバレやしないんだ。その旅行会社のバックには暴力団とかがいて、殺されてバラバラにされて、ひとの肉が好きな変態どもに食べられるんだよ」
「……」
たわいもない馬鹿話に花を咲かせている彼らは、暴力団という単語を聞いて一気に怖じ気づいてしまったらしい。彼らの馬鹿さ加減には笑ってしまいそうだが、否定するほどのことでもない。それに、僕にはまったく無関係なのだから。
そう思ってぼんやりとしていたのだが、どうも話の流れがおかしくなってきたようだ。
「……なあ、行ってみないか?」言い出しっぺの辰也が不意に口を突いた。
「馬鹿野郎、行くわけねえだろ」
「あたりめーだ。そんな金もないし」
「おまえらそう言って、ほんとは怖いんだろう?」
「そ、そういうわけじゃ……。辰也こそ、まさか本気でそこのツアーに参加するわけじゃないんだろ? ああいう旅行って、何万円もかかるらしいし、俺らには無理だろ」
「まあ、確かになあ……」
辰也は少しばかり残念がっているようだった。おそらく自分がそれくらいのことでは怖じ気づかない、強い男であることを周囲にアピールしたかったのだろうが、ちょっとフリが悪すぎた。他の連中によって「恐がり」だというイメージは分散されてはいるが、さすがに尻すぼみになってしまっている。
本人もそのことを強く自覚しているらしく、腕を組んでうんうんとうなっている。
「そうだ!」辰也は大きな声を上げた。「……ふっふっふ、いいこと思いついた」
「なんだよ、気持ち悪い」
「誰か、他のやつに行かせればいいんだよ! どいつかいなくなっても不思議がられないようなヤツに、行って確かさせればいいんだ。そうすればオレたちは事件の真相を確かることができるし、もしうわさが本当だったとしてもそいつにしか被害は及ばないんだから」
彼らに向けている頭のてっぺんあたりに猛烈な視線を感じた。満場一致で、「いなくなっても不思議がられないヤツ」イコール僕、ということになったらしい。
すぐさま僕の周りはむさ苦しい熱気で包まれた。
「よお、優ぅ」辰也が低い声で僕を呼んだ。「おいって、顔を上げろよ」
まったく、めずらしく話しかけられたと思ったら、これだ……。僕は何も悪いことはしていない。ただ、雲のようにひっそりとしていたかっただけなのに。
「……なに?」
黙っていても状況は酷くなるばかり。僕はとりあえず顔を起こし、辰也を見上げた。
「おまえ、部活もやってねえし、放課後ヒマだろ? ちょっとさあ、○○町の駅前商店街に行って、そこの旅行会社について調べてきてほしいんだよ」
「……なんで?」
「なんでもだよっ おまえがその理由について知る必要は、まったくない。嫌だって言うのか? 意気地なしめ」
僕は彼らの顔をジッと眺めた。にやにやと下品な笑みをそろって浮かべている。これは単純に、僕にその旅行社のことを調べさせようということだけを目論んでいるわけではない。もっと陰湿な、別の目的があるな。
それはきっと、僕が断ることだ。僕が断り、泣いて謝ることを期待している。そうして自分たちよりも力が弱いことを確認することにより、優越感に浸るんだ。僕なんかにはなにもできないということを改めて確認させ、苦悶している姿を見ることが目的なんだ。
「よお、どうすんだよ。まさかおまえ、友達のオレたちの頼みが聞けないってのか? あーあー、悲しいなあ。ボクたち、友達のマサルくんに助けてもらえないのかぁ!」
「……いいよ」
「ボクたちは優秀なマサルくんなんかにとっちゃ……、え?」大げさな身振りで悲しい演技を見せようとしていた辰也は動きを止め、びっくりした顔を僕に向ける。「おまえ、今なんて言った?」
「だから、いいよ。行ってきてやるよ」
彼らは一様に引きつった顔を見せた。
「○○町の駅前商店街でしょ? わかった。今日の放課後にでも行ってみるよ。そこで何をすればいいんだい? どういうツアーを組んでるのか聞いてきたらいいの? なんだ、簡単なことじゃないか」
「お、おまえ……、本気か?」
「うん。ちょうど、どこか旅行へ行きたいと思っていたところなんだ」
僕が強気に出ると、彼らはこぞって不満げな表情になった。求めたリアクションが見られないとわかると、フンと鼻を鳴らし、僕の机から去っていった。
……まったく、意気地がないのはどっちだよ。まあ、僕には彼らが何を求めようが、そんなことどうでもいいのだけれど。
僕がこの話に乗ったのにはわけがある。単に彼らに一泡吹かせてやろうと思ったわけではない。自分の弱々しい姿を見せたくなかったからでもない。
彼らの話の中で出てきた単語。
『廃墟』という言葉。
僕は密やかに死ねる場所としていくつかの候補をリストアップしていた。たとえば樹海。一度入ったが最後、二度とは出てこられないという魔の森。だが、そんなものこの近隣には残念ながら存在していない。ちょっとした山中に入っても、確実に死ねるということはなさそうに思える。
そういった場所の一つに、『廃墟』があった。人知れずひっそりとたたずむ廃墟ならば、僕は誰にも見つかることなく死ぬことができるかもしれない。
ツアーとやらに参加することができれば、もしかしたらほとんどひとの訪れることのない廃墟に連れて行ってもらえるかもしれない。仮にそれができたとしたら、経路を覚えておいて、後に僕はその場所を訪れる。そしてそこでゆっくりと死ぬ。
辰也たちは愚かだが、僕に有益な情報をもたらしてくれた。その点に関しては、彼らに感謝しなければならないだろう。僕が彼らの要求を呑んだのには、彼らへの恩返しの意味もあったのかもしれない。
結果的に仇で返すことになってしまったようだけど。
そしてそんな話を振ってきた彼らと言えば、すでに怪しい旅行会社などどうでもいいらしく、もうすぐ発売されるテレビゲームの話に夢中になっていた。
隣町だというのに、僕はほとんど○○町を訪れた記憶がない。決して遠いわけでもないのに、どんな街なのかすら知らないのだ。
だから自転車で一時間ほどかけて○○町駅へ到着したとき、僕はあまりの光景に言葉を失ってしまったのだ。
そこは絵に描いたようなゴーストタウンだった。この街に住んでいるひともたくさんいるはずだから、それはとてもひどい表現だけど、正直言ってまともな人間が生活している場所とは思えなかった。
この地域は他と比べてもかなり田舎なほうであるから、駅舎に駅員が一人も見当たらないということはどうにか納得できる。駅前のバス停代わりとなっているロータリーに駐車しているタクシーが所在なげにしていることも、まあわからなくはない。
だけど、駅からまっすぐに伸びる、おそらくはこの街唯一の商店街に、まったく人通りがないというのはどういうことなのだろうか。三台駐まっているタクシーの運転手、その人たちは三人とも寝ているのだけれど、彼らと僕以外には人影は見当たらない。
民家やお店はあるのだから、ひとがいないわけではないらしい。この時間は一日のうちでもっとも人通りの少ない時間であるのか、誰も見当たらないのだ。
僕らの街では、駅前ともなれば常に誰かが歩いている。少し離れた商店街には今でも活気があふれているし、もう少し行けばショッピングセンターだってある。そこはいつでもひとがたくさんいる。
ひとがたくさんいる場所ははっきり言って苦手だけれど、○○町のようにまったくひとがいないという場所もあまり居心地のいいものではないと思った。なんというか、映画の中に無理矢理放り込まれてしまったかのような居心地の悪さがあった。ひとがいるはずであるのに見当たらない、ということはどこかしらに隠れているはず。隠れたひとたちは僕のような部外者をこっそりと観察し、間の抜けたコメディー映画の主人公であるかのように不安がっている情けない様子を楽しんでいる。
被害妄想だと理解しながらも、僕は無数の視線に脅えながら商店街に入っていった。
小型の車二台が停止寸前のスピードでならどうにかすれ違えるほどの広さの道路に、くすんで半透明になってしまっているアーケードに覆われた歩道。枯れた植物の残骸らしきものがそのままになっているプランター。吸い殻があふれた灰皿や座面のないベンチも置かれていた。買い物をしにきたお客さんに友好的な商店街でないことは明らかだった。晴れているというのに、光の透過率が低いアーケードによって曇っているように思えてくる。でこぼこの歩道は足を出すたびにつま先が引っかかり、派手に転んでしまいそうになる。
いつからこの商店街がお化け屋敷となってしまったのか知らないが、僕でも判るのは、ここを訪れた人たちはだれでも最悪な気分になる、ということだ。
そんな最悪な気分のまま、自転車を押して百メートルほど歩き続けた。信じられないことに、商店街はまだ先へと伸びている。とりあえずこの時点までに確認できた、営業しているらしい店舗は三つ。しなびた野菜をぽつぽつ列べた八百屋さん。空っぽの水槽だけが置かれた魚屋さん。いつの時代のものだか判断できない雑誌を店頭に列べた本屋さん。いずれの店でも、通りから覗いた限りでは店員は見当たらなかった。客など来るはずもない、だから店に出る必要もない、そんな店員さんの声が聞こえたような気がした。
さらにいくらかの距離を歩いた。途方もなく無意味なことをしているような気になって引き返そうかとも思ったが、僕は気力を振り絞って歩き続けた。辰也に大口たたいた手前、何の収穫もなく帰るわけにはいかない――そんな考えは毛頭なかった。奴らはきっと、僕に依頼したことすら覚えていないだろう。僕は奴らから知り得た情報を元に、僕自身の欲求に従って行動しているに過ぎない。
『忘れ去られた廃墟』
これこそ僕を突き動かす、たった一つの目標。僕はそこへ行かなくてはならないのだ。そのためには奴らに話を合わせてやるし、見知らぬゴーストタウンを歩いたりもする。たとえそれが無駄になってもかまわない。求めていれば、いつかはきっと手に入るはずだ。
そう思ったとき、一つの窓が目に留まった。僕は立ち止まり、その窓を眺めた。
一見しただけでは、それはこぢんまりした住居のようにしか見えない。歩道に面した壁には控えめな窓、そして入り口であろう木製の扉。だが、ここはまだアーケードの途中だ。おそらくは商店街中であるはずだ。ドアノブには「closed」と書かれたプレートがぶら下がっているし、ここは何らかの店舗なんだろう。
商店街のさらに奥に目をやった。細い道路と交差しており、その先はアーケードがなくなっている。ということは、ここは商店街の端っこなのか。
窓と扉のある壁に向き直り、僕はゆっくりと顔を上げていった。すると、とても商売する気があるようには思えない、小さな小さな看板が目に入ってきた。
「……てん、じょう? ……旅行案内所」
ふがいないことに、僕にはその漢字が読めなかった。天国の『天』に、お城の『城』。『天城』。テンジロ? アマジョウ? 考えても考えても、答えは出てこない。
漢字の問題を解くことを諦め、僕はもう一度窓を見た。
旅行案内所ということは、よく解らないが旅行を案内してくれるところなんだろう。なんとかツーリストとか、そういった旅行会社の一つとみて間違いないはずだ。だとすれば、ここは僕が目指した旅行会社なのだろうか。
内部の様子を確かようと、窓に顔を寄せた。
「こんにちわ」
突然真後ろから声が聞こえ、僕の体はビクンと跳ね上がった。そして自分でも信じられない早さで振り向いた。
そこには買い物袋をぶら下げたお姉さんが立っていた。真っ黒のスーツで全身を覆った背の高いお姉さんだった。テレビに出てくる女優さんのようにキレイで、顔を見続けることができなくなるくらいの笑顔を僕に向けていた。けれど、どういうわけかお姉さんはこの商店街によく馴染んで見える。商店街が背景ではなく、お姉さんが商店街の一部であるかのように溶け込んで見えてしまう。なぜか背中がぞくりとした。
「キミ、旅行に行くの?」お姉さんは小さく首をかしげながら僕に聞いた。「いいわねえ。お友達と行くのかしら? もしかして卒業旅行?」
「あ、……いえ」僕はうつむいてぽつりとこぼした。
「そっか、まだ卒業旅行の計画を立てるには時期的に早すぎるよね。あ、じゃあ彼女と初めての旅行だ!」
「……」
「……違うのかぁ。それじゃあ、一人旅かしら?」
僕はお姉さんの問いに答えず、小さく頷いた。
「あら、それはとっても素敵ね。わたしも若い頃はよく一人で旅に出たものだわ……。ああ、こういうトコって、普通は見えるところにツアーのパンフとか置いてるもんね、それを取りに来たのか」
そう言うとお姉さんは扉につかつかと近寄っていった。何をするんだろう、と眺めていると、彼女は鞄に手を突っ込んで、可愛らしいウサギのキーホルダーを取り出した。
「……?」
お姉さんはなんのためらいもなく扉の鍵穴にキーを突っ込み、手首を捻った。鍵を開けた扉を開け放ち、僕にまぶしい笑顔を向けてくる。
「さあ、入って! わたしがそこいらの旅行会社じゃ扱っていないような、とっておきのプランを考えてあげるから」
「ごめんね。ちょっと仕事で隣町まで行ってたの。ほら、ここってお客さんなんか来そうにないでしょ? 実際に来ないんだけど……」お姉さんは上着を椅子の背に掛けながら嬉しそうに話す。「だからわたし、他の旅行会社でもちょっとした仕事してるんだけど、その打ち合わせでね。さあ、座って」
お姉さんはカウンターの席を勧めた。今更逃げ出すわけにもいかず、僕は無抵抗に腰を降ろした。
「それじゃあ、改めまして、ようこそ『天城旅行案内所』へ」
深くお辞儀するお姉さんの言葉を聞いて、僕はようやくこのお店が何という名前なのか知ることができた。恥を忍んで訪ねる前に教えてくれて本当に助かった。
「わたしはこのお店をやってる、天城弥美と申します。どうぞよろしくお願いいたします」
「あ……。こ、こちらこそ」こんな時どうしていいのかわからず、僕もお姉さんにならって頭を下げた。
参ったな……。家族以外とまともな会話をするなんて久しぶりだから、何を話していいのかわからない。それに、目の前にいるのはとっても綺麗なお姉さんだ。決して下心があるわけではないのだけれど、どうしても緊張してしまう。
「ところでキミは、高校生かな?」
「あ、いえ、中学生……二年生です」
「うそ! 大人びて見えたから、高二くらいだと思った。これは失礼」
天城さんはチラリと舌を出した。可愛らしい仕草についついドキッとしてしまい、僕は慌ててうつむいた。
店に入ってみると、天城さんは普通の綺麗なお姉さんだった。おもての荒れ果てた風景とは、やっぱりどう見てもかみ合わない。ゴーストタウンの雰囲気があまりに色濃く、きっと店の外では天城さんさえも浸食されて見えてしまったのだ。彼女からは僕も同じように見えているに違いない。ジメジメとした、陰気な少年に。
「そうかあ、中学生かあ。それじゃあ、やっぱり楽しいところよね。う~んと、××ランド……はちょっと時期外れかな? 今は特になんにもイベントやってないだろうし。あ、温泉旅行……って年寄りじゃないんだから」
腕を組んで目をつぶり、天城さんはうんうんとうなり始めた。
「やっぱり絶景の場所かしら。となればあそことあそこに行って、ついでにおいしいもの食べて、その後あっち方面に行って……、そうなると一週間はかかっちゃうしなぁ」
「あ、あの……」
「いやでも、一人旅となるとやっぱりロンリーウルフな旅よね……。地元の人たちとのぎこちないふれあい、そこで少年は一人の少女と出会うの。一目見ただけで恋に落るけど、それは相手も一緒だった。でも少年は帰らなくてはならなくて、限られた時間の逢瀬……。夕日が落ちる海岸で語らう少年と少女、やがて言葉少なになり、二人はじっと見つめ合う。どちらともなく顔を寄せていき、少年は初めての……」
天城さんはうっすらとほおを赤く染めて、どこか別の世界に旅立っているようだった。僕のように荒んだ夢想ではなく、乙女チックな愛らしい夢想にふけるその姿はとっても可愛らしくもっと見ていたいが、放っておいてはいつまでも戻ってこなさそうだ。
「あ、天城さん?」僕は勇気を振り絞って、少しだけ大きな声で彼女を呼んでみた。
僕の声が無事に届いたのか、天城さんははっと目を開け、やがてはにかみながら笑った。
「あらやだ、ごめん! わたしったら」
僕も天城さんにつられ、少しだけ笑みをこぼした。自然と笑みが出るのは久しぶりだ。僕はいったい、どれくらい笑っていなかっただろうか。
「そうよ、ここはやっぱり、キミのご希望を聞かないとね。わたしの仕事はキミの希望に添う場所を探し出してプランニングすることなんだから。べつに具体的な地名でなくても大丈夫よ、ぼんやりとしたイメージでもオッケー」
罪悪感を感じた。こんなにも楽しそうに僕のことを考えてくれる天城さんに対して、僕はドロドロとした薄汚れている希望を伝えなくてはならない。それはなんだかとっても非道いことのように思えてしまう。僕はうつむいて、グッと唇をかみしめた。
……大丈夫だ。彼女は僕のことを何も知らない。たとえ僕が『廃墟』に行きたいと申し出ても、そこで何をしたいのか、天城さんには知るよしもない。僕はただ、廃墟マニアのふりをしていればいい。
それに、こんな素敵な女性が裏でヤバいツアーを紹介しているなんてこと、あるはずがないじゃないか。僕のためにあれこれと楽しそうな行き先を考えてくれているのに、そんなひとが客に非道いことをするはずがないじゃないか。
よし、言ってみよう。
「えっと、僕が行きたいのは……」
「うんうん」
身を乗り出して聞き耳を立てている天城さんに、僕は言い放った。
「……廃墟」
「えっ」天城さんの顔色が変わった。「……どこでそれを?」
この反応。辰也が言っていたことは本当だったのか。
「クラスの友達から聞いたんです。こちらで廃墟に連れて行ってくれるツアーがあるって」
「……」天城さんはスッと体を起こした。
天城さんの顔からは笑みが消えていた。それどころか、すべての表情が消えているように見えた。僕の顔をジッと見据えて、まるで僕の心の中を読み取ろうとしているかのようだった。店の外に広がる煤けた世界、それがこの優しい空間をすべて飲み込んでしまったかのように、天城さんの目は冷たく凍り付いているようだった。僕はその目に見つめられることに耐えきれなくなり、顔を背けてしまった。それでも彼女の観察は続いてるような気がしてならなかったから、ぎゅっと目をつぶった。
どれくらいの時間が経っただろうか。天城さんは唐突に訪ねてきた。
「……どうして廃墟に行きたいの?」
僕の心臓はどくんと跳ね上がった。大丈夫だ、わざわざ本当のことを言う必要なんてないんだ。天城さんを騙すことには気が引けるけど、それもちょっとの間の辛抱だ。望んでいる廃墟さえ見つけられれば、僕は静かに死ぬことができる。そうすれば雲のように消え失せ、何も考えず、何も心配することなどなくなるんだ。……今だけの辛抱だ。
「ぼ、僕……、実は廃墟マニアなんです!」カッと目を見開いて、思い切ってはき出した。
これでもう後戻りはできない。この何の罪もない、優しい女性を騙しながら、利己的な死を追い求める――僕はもう、そんな最低なことしかできないんだ。
僕の言葉を受けた天城さんは、訝ることもなくジッと僕を見つめ続けた。嘘がばれてはならないと、僕はその視線をどうにか耐え、受け入れた。それは恐ろしく苦痛を伴い、とてつもなく長い時間だった。すでに死んで地獄に落ちてしまったのではないかと思ってしまうほどまでにつらかった。
そして、天城さんの顔がまた少しずつ変化していった。
ゆっくりと口の端が上昇していき、目はうっすらと細められる。その目は青白い満月のように不吉な光を宿している。無機質の上に貼り付けにされた悪魔の笑みだ――なぜだかそんな印象を受け、僕はゴクリとのどを鳴らした。
怖かった。すぐにでも店を飛び出して、家に帰りたかった。誰でもいい、知った人間に抱きついて、泣き叫びたかった。辰也でもいい。助けてほしかった。
これが『死』というものなのか。
「……いいでしょう」天城さんが呟いた。「これまでの失礼をどうかお許しください。あなたはわたくしの大切なお客様。この天城弥美、全身全霊をもって、あなたがご希望される廃墟にご案内いたしましょう。ではまず、こちらのアンケート用紙にご記入願えますでしょうか」
天城さんの口調はひどく変わっていた。丁寧な敬語を使い、先ほどまでの子供扱いともとれるようなフランクさが微塵も感じられなくなった。まるで違う人物になってしまったかのように、冷たく突き放すような言葉遣いだ。それは果たして、本当に彼女が言うように、僕を客として迎え入れてくれたからなのだろうか。
僕は震える手でアンケート用紙を拾い上げた。いくつかの質問事項が書かれている。
最初は『どのような廃墟をご希望ですか?』とある。僕は素直に自分の望む場所を書き込んだ。次は『あなたにとって廃墟とはどのような存在ですか?』という質問。しばらく固まったあげく、「観光地」と書き入れた。
それ以降の質問は僕にとって答えようのないものばかりだった。なるべく嘘はつきたくなかったけれど、嘘を書くことしかできなかった。できる限り矛盾は生じないようにと気をつけながら、ガタガタの文字を書き連ねていった。
僕が書き終えるのを、天城さんは黙って見つめていた。
ペンを置くと、無言で僕の前からアンケート用紙を引き寄せ、天城さんはじっくりと眺めていった。品定めされているような、不思議な気持ち悪さがあった。
「……この『廃墟ホテル』というのは、具体的にはどちらですか?」顔を上げずに天城さんが聞く。
「えっ? ええと、母方の実家近くです。A県の××っていうところなんですが……」
僕の記憶に残る唯一の廃墟。川沿いにたたずむ、煉瓦のように真っ茶色のホテルだった建物だ。確か、建築途中で事業放棄されてしまい、それ以来撤去されることもなく残された、という話だったはず。『廃墟』というイメージからはほど遠くきれいな建物だけど、僕はあいにくそういった建物をそこしか知らないのだ。『思い出に残った廃墟』ではないが、記憶には確実に残っている。
「ご希望の廃墟は、『美しい廃墟』とありますが、どのように美しい場所をご希望ですか?」
「……え?」
「荒らされず、良い状態のまま存在している廃墟。ロケーションが素晴らしい土地にある廃墟。大自然に取り込まれている廃墟。幻想的な光景を見せる廃墟。……『美しい』と言いましても、実に様々です。あなたのご希望に添った廃墟を探すためには、ご面倒でも断定していただかなくてはならないのです」
僕は希望する廃墟を聞かれ、安易に『美しい廃墟』と書いてしまった。確かにそれでは、天城さんが言う通り、曖昧すぎるだろう。
僕の望む廃墟。人知れず、そっと死ぬことのできる廃墟。本来ならばそれだけで充分だが、欲張っても良いのだろうか。良いのであれば、どうせなら美しい場所、といってもただ保存状態の良い場所ではなく、まるで天国に近いような感覚に浸れる場所がいいと思った。具体的な例が思い浮かばず、僕は仕方がなく『美しい』と書いたのだ。天城さんの言葉を借りると、……そう、幻想的な光景を見せる廃墟。それがもっとも死に場所として『美しい』だろう。
「あの、幻想的な場所、で……」
「なるほど、よくわかりました」天城さんは顔を上げる。「それではツアーのほうですが、いつ頃、どの程度の期間をご希望でしょうか」
「えっと、週末に……。学校もあるので、できたら日帰りで行けるところがいいです」
天城さんは壁に掛けられたカレンダーにチラリと目をやった。
「それでしたら、今週末ではいかがでしょう?」
今週末? 土曜日としたら、明後日じゃないか。そんなに早く準備できるものなのだろうか。
「……それでお願いします」渋ると怪しまれるのでは、と思い、僕は何も言うことなくただ頷いた。
「それでは土曜の朝、出発といたしましょう。……このツアーの必須条件とでも言いましょうか、申し訳ないのですが、ツアーにはわたくしも同行させていただきますので。それと、このツアーには一切の保険は適用されません。何か問題が起きましても、お客様ご自身の責任となりますのでご了承ください。……以上の事項を了承いただけるのであれば、こちらの誓約書に署名および捺印くださいませ。印鑑をお持ちでなければ拇印でも結構です」
事務的にまくし立てる天城さんは僕の前に新たな紙を押し出した。内容もろくに確認せず、僕は名前を書き、朱肉で真っ赤に染まった親指を押しつけた。
「……これで契約は成立となりました」
「あ、あの……」
「何か?」
「その、料金のほうは……?」
「ご安心ください。当ツアーにかかる費用は交通費、その他消耗品などの購入に関わる実費だけでございます」不意に天城さんは、少しだけ表情を柔らかくさせた。「……大丈夫。あなたのお小遣いでもおつりがくるくらいの、安いお値段だから」
天城さんは小さく笑みをこぼした。僕にはなぜか、その笑顔がとても寂しそうに見えた。
翌日の金曜日。僕は学校を休んだ。
べつに体調が優れなかったというわけではない。なんとなく、行きたくなかっただけのことだ。両親は僕のことにうすうす感づいているらしく、ズル休みと知っていながら特に何も言うことなく了承してくれて、担任に電話をかけてくれた。
親からしてみれば自分の子供がいじめられているかどうかなんてすぐにわかってしまうことなのかもしれない。僕はなるべくそういった感じを出さないようにはしているものの、僕のもって生まれた雰囲気というか、「きっとこの子はいじめられているんだな」とわかるのだろう。彼らは僕のことを必要以上に心配したり、学校での様子をつぶさに聞いてきたりはしないが、その日の朝の態度は少なからず僕にとって衝撃的なものだった。
金曜日、僕はずっとベッドの中に潜り込んで、これから自分が死ぬであろう場所をあれこれと想像した。天城さんに頼んだ『幻想的な廃墟』。どんな場所なんだろう。
僕が現物を見た事実を覚えている廃墟は例の廃墟ホテルしかない。そこは建設途中というのもあり、工事が中断してすぐさまバリケードが築かれることとなった。事業者は後々、再び工事に着手できる日が来ると信じていたのだろう、だからこそバリケードを築くことによってひとの手による破壊を阻止しようとした。茶色い建物を覆い尽くす金網を見た僕は
勝手にそう判断していた。
以前、テレビでとある心霊番組を見た。その番組には芸能人が数人と自称霊能力者であるおばさんが出演していて、どこかひと気のない場所にある廃墟に深夜、訪れるというものだった。確かつぶれたドライブインと、ショッピングセンターだったと思う。どちらの場所も確かにひと気はなさそうだったけど、僕の見た廃墟ホテルと違い、決してひとが訪れない場所、というわけではなかったようだ。ドライブインもショッピングセンターも、どちらでも建物内に入る前、入り口付近で霊能力者が「ここはとても危険だ」などと言っていたのだけれど、彼らが見上げる建物にはたくさんの落書きがしてあった。色とりどりのスプレーで、派手な模様のような文字が描かれていた。たまに町中の壁や橋げたなんかに見かける、あの落書きだ。きっと肝試しとかにやってきた、怖い不良たちが行った悪戯なんだろう。
もしも僕が天城さんによって連れて行かれる廃墟がそのようにたくさんの落書きによって荒らされていたとしたら、きっと僕はがっかりしてしまうと思う。落書きがあるということはいくらかひとの出入りはあるということだし、そんな場所で最後を迎えるというのはどうなんだろう、と考えてしまう。もしもその落書きが壁一面に描かれた、有名な画家の作品を模倣した素晴らしいものであっても、きっと僕は幻滅してしまうに違いない。
それよりも、よくよく考えれば『幻想的な廃墟』、っていったい何なんだ? 廃墟にどうやって『幻想的』を求める? そもそも廃墟なんてもの、すでに現実から切り離れ、忘れ去られた存在なのではないか。それはもはや空想の世界であるとも言えるんじゃないか。マイナス方向で、だけれども。僕みたいな凡人からしてみたら、廃墟そのものがファンタジックなのだ。だとすれば天城さんが僕の要望を叶えようとするならば、べつにどんな廃墟であってもかまわない、ということになる。落書きがあろうが建設途中であろうが、廃墟ならなんでもよくなってしまう。
……それ以前に『廃墟』って実際はどういう建物を言うのか。言葉だけでイメージするのは、ボロボロに朽ちてしまい、壁や屋根のそこら中に穴が開いてしまって、じとじとと湿っぽくて、とても気持ちの悪い建物だ。ひとが住まなくなって何年も経ち、その間なんの手入れもされることなく風化していった、元建物。それならば僕が見た廃墟ホテルは、決して『廃墟』ではないと考えられる。内部がどうなっているのか知らないが、あのホテルはもう少し工事を行えばキチンと営業できそうな気さえする。そうなると、やっぱりあそこは『廃墟』とは言い難い建物であるのかもしれない。
『廃墟』に幻想を求めること自体が間違っているのかもしれない。所詮はただの不要になった建物。美しく死を迎えるために作られた場所ではないのだから。
混乱する頭でイメージする。
荒れ果てた建物の残骸の中、様々なゴミに覆われながら横たわる自分。やがては僕の体は虫に喰われ、粉々になり、周囲のゴミと同化する。
……嫌だ。僕はそんなふうに死にたくない。それではきっと、死んでも雲になれることはない。そんなことでは死を選んだことに後悔してしまう。それではダメだ。
僕は一日中、このようなことを考えていた。たったの一日で一生分の「廃墟についての考察」を遂げてしまったかというくらい、長時間、集中して考えていた。だが、結局なにも解らないままだった。考えることを諦め、後は天城さんに託すことにし、僕は翌日に備えて早めに寝た。
翌日、親には「友達と魚釣りに行く、帰りは遅くなるかも」と伝えておいて、僕は自転車を飛ばして○○町へ向かった。薄寒い朝の空気の中、考えることを諦めた僕の足取りはそれほど重くなかった。天城さんの元へ行けば、きっとうまくいく。あのひとが僕を助けてくれる。そんな期待だけがあった。
次第に人影もまばらになり、やがて誰ともすれ違わなくなった。ゴーストタウンの色合いが強く濃くなってくる。○○駅に着くと、やっぱり駅前ロータリーにはタクシーが三台並んでいた。一昨日と違うのは並んでいる順番だけだ。運転手は当然のように居眠りをしていた。もしかしてずっとあの場所でああしているのではないだろうか、などというあり得ない想像すらしてしまう。
商店街を駆け抜け、『天城旅行案内所』の前で自転車から降りた。小さい窓から見える店内には明かりが点っていて、すでに天城さんが出勤していることが伺える。
ドアノブに手をかけたところで、不意に先日の光景がフラッシュバックしてきた。僕が廃墟ツアーに参加したいと申し出たときの、あの天城さんの表情。帰り際に見せた、あの意味深な笑顔。どういうわけか僕は、彼女のそんな様子をすっかりと忘れてしまっていた。この店を出て、○○町から自宅へ戻ってから、再び天城旅行案内所へと訪れるまで、まるっきり忘れ去ってしまっていた。
天城さんはとても良いひとだ。すごく綺麗で、優しくて、楽しいひとだ。だが、ひとたび『廃墟』と口にした瞬間、まるで他の誰かと入れ替わってしまったかのように豹変した。それからの天城さんは非常に恐ろしく、荒んで見えた。
店に入るのが急に怖くなった。またあの青白く頼りない月明かりのような目で見つめられるかと思うと、足が動かなくなってしまった。これだけ自ら死を望んでおきながら、どういうわけか何よりも死に近く見えてしまう天城さんのあの姿はとても怖かった。
そんな僕の躊躇をあざけ笑うかのように、突然扉が内向きに開かれた。
「……あら」
天城さんが中から扉を開けたのだ。僕を確認した彼女は小さく目を見張った。
「おはよう。いいお天気ね」天城さんはにっこりと笑った。
腰から崩れ落ちそうになった。天城さんが優しく僕を迎えてくれた安心感から、たまらず泣き出しそうになってしまった。
「お店の中で待っていて。車を回してくるから」
立ちすくむ僕を店内に押しやり、天城さんはどこかへと向かっていった。数分後、店の前に車が止められた気配がした。緊張しながら待っているところに天城さんが戻ってきてくれたのだが、改めて見てみると、彼女の姿にどこか違和感を覚えた。
上からじっと眺めていき、違和感の元を探していく。綺麗なストレートの黒髪に、濃い紺色のスカートのスーツ。スカートから伸びる足は黒いストッキングに覆われ、黒いゴツゴツとしたブーツを履いていた。
……ブーツ?
僕の視線に気づいた天城さんは、僕と同じように自分の体を上から眺めていき、僕がいったい何を見つめているのか理解したようで、少し恥ずかしそうにしながら笑った。
「ああ、このほうが運転しやすいの」
その笑顔は、下級生のように幼く、可愛らしく見えた。
「それじゃ、行こっか」
「あ、はい」
店の前には真っ白な車が駐まっていた。流線型の、スポーティーなRV車だった。天城さんのような優しそうなひとはもっと可愛らしいこぢんまりとした車に乗っているとばかり思っていたのだが、そんなことはなかったようだ。かなり大きなタイヤには深い溝が刻み込まれ、どのような僻地でも平気で走れてしまいそうだ。これから僕が連れて行かれる場所は、いったいどんな悪路の先にあるのだろうか。分厚いタイヤに押しつぶされる姿をイメージし、僕は小さく身震いした。
後部座席に僕を押し込むと、天城さんは運転席に乗り込みエンジンを始動させた。小さな振動とともに車が嬉しそうな音を立てる。少し遅れてカーステレオから音楽が流れてきた。ゆったりとした、大人な感じのする音楽だった。
天城さんはダッシュボードを探り、なにやら僕に差し出してきた。
「それでは、こちらをご着用ください」
広げてみると、それはアイマスクだった。チェック柄の、香水でも振りかけてあるのだろうか、良いにおいのするアイマスク。
「……ごめんね、規則なのよ」
呆然としながらアイマスクを眺めていると、天城さんが小さく言った。
なんだか、本当にこのまま拉致されて人肉屋に売られてしまいそうだ。そんなことを思いながらも、僕はアイマスクを着けた。真っ暗闇の僕の世界には、ゆったりした音楽にハミングする天城さんの小さな鼻歌だけが存在していた。
優しく肩を揺すられて、僕は目を覚ました。
「米田さん、到着しましたよ」天城さんが呼びかけてくる。「大丈夫ですか? 車に酔ったりはされていませんか?」
「あ、はい。大丈夫です」目をこすりながら答えた。
いつの間にかアイマスクは外されていた。車内から見回すと、どこかの森の中のようだった。僕は天城さんに手を取られ、車から降りた。
すぐそばに鳥居があった。おそらくかつては朱色だったのだろうが、塗料ははげ落ちて見るも無惨な姿になっている。鳥居からは森の奥に向けて石畳の小道が続いているが、敷石の隙間から伸び放題になっている雑草によってそのほとんどは覆い隠されていた。
「ここは……」
「元、神社です」ふらふらと鳥居に近づく僕を、天城さんは手を握って静止させた。「ちょっと、お待ちください」
僕をその場に残し、天城さんは鳥居に向かった。手には何かの瓶を持っていた。
「……は……に……」
鳥居の真正面でひざまずいた天城さんは、なにやらブツブツと独り言を言っているようだった。僕にはその声が小さすぎて、内容は聞き取れない。独り言が終わるとしばらくじっと押し黙り、その後すっくと立ち上がった天城さんは手に持った瓶のふたを開けた。そして瓶を逆さにして液体を地面に注いでゆく。ツンとした、甘い香りが僕の元にまで漂ってきた。日本酒か焼酎のようだが、僕にはわからない。
「お待たせ。それでは参りましょう」
振り返って呼びかける天城さんに、僕は小走りで近づいていった。鳥居をくぐる時、先ほど感じたアルコールのにおいよりもさらに強烈なにおいが僕の鼻を刺激した。相当強いお酒だったようだ。
雑草だらけの小道をゆきながら、僕は天城さんに質問をぶつけた。
「あ、あの。さっきは何をしていたんですか?」
「鳥居の前で? そうね……なんて言うか、お祓い? ……いや、違うな。お供えかな」天城さんは上を向いて考え込みながら言う。「まあ、儀式ですね。わたくしたちがこの廃墟へ入ることに許可をいただく、そのためのお願いと、言わば入場料です」
なるほど。それはやはり、ここが神社であるからなのだろうか。廃墟になってしまっているといえども、神社は神社。もしかしたら今でも神様がいるのかもしれない、だから何の信仰心も持たずに入り込む愚かな僕たちを許してもらうために、ということなのだろう。
一人で納得しながら、僕のために雑草をかき分けてくれる天城さんの後ろ姿を眺めた。
獣道のような参道は途中で右に曲がっており、そこを過ぎると建物が目に入ってきた。周りの樹木にことごとく浸食された、中規模の神殿。鳥居と同じように色は枯れてしまい、黒ずんだ木材が複雑に絡まり合った建物。屋根を覆い尽くすようにあちこちの木が枝を伸ばし、日の光は建物にほとんど届いていなさそうだった。参道の脇には石でできた、僕の肩くらいの高さの台座があった。たぶんこの上には狛犬が鎮座していたはずなのだろうが、ずいぶん昔に逃げ出してしまったのか、今は見当たらない。かつては手を清める場所だったらしき石盆もあったが、水は涸れ果て、落ち葉が堆積している。これでは神様も逃げ出してしまうだろうな、と思った。
それでもきちんと儀式をする天城さんは、きっと信心深いひとなのだろう。
だが、いったいこれのどこが『美しい廃墟』なのだろうか。『廃墟』という言葉を絵に描いたような荒れっぷりではあるが、肝心の『美しい』という部分が抜けてしまっている。ましてや幻想的な部分などどこにもありはしないように見える。
正直、がっかりしてしまった。
「お楽しみは最後にとっておいて、まずは周りの建物から見て回りましょうか」天城さんは本殿を見つめながらぽつりと言った。「足下が悪いので、お気をつけくださいね」
落胆したことがばれてしまったのかと思い、僕は思わず顔を赤らめてしまった。
天城さんが雑草を踏みしめて成らしてくれたお手製の通路を歩きながら、本殿を回り込んで社務所だったらしき建物へとやってきた。外からでも見て取れるほと崩壊し、ぐちゃぐちゃになっていた。
「この神社は、かつては八坂神社から勧請された素戔嗚尊を奉っていたとのことです」社務所を眺めながら天城さんが言った。「所々、牛のモチーフが見られることから、牛頭天王だと思われます。仏教に近い神社であったのかもしれません。おそらくは七月の祇園祭も盛大に執り行われていたことでしょう」
神社や仏教の知識がまったく無い僕にとって、天城さんのその説明は意味不明なものばかりだった。
ふと、手の届く場所に見たことのある物体が転がっていることに気がついた。おみくじ箱だ。手に取ってみたが、残念なことにその箱は割れてしまっていて、中身は入っていなかった。その代わりに、黄ばんだ古めかしいおみくじが一枚くっついていて、僕はそれを箱から引きはがした。
開けてみるべきか、やめておこうか思案していると、「ご覧になられてはいかがです?」と天城さんが助け船を出してくれた。
おみくじは風雨にさらされ、そのほとんどの部分が判別不可能だったが、「小」という文字だけは読み取ることができた。それが「小吉」なのか、「小凶」なのかは判らない。
「……まあ、ここにはもう神様はいらっしゃいませんから。仕方のないことかもしれませんね」僕の手の中にある紙切れをのぞき込んだ天城さんはそう呟いた。
社務所を通り過ぎると、先ほど僕たちが見ていた建物のさらに奥に、ひときわ大きな建物があることがわかった。てっきり本殿だと思っていた建物はどうやらそうではなかったようだ。
「手前側は拝殿になります。後ろにあるのが、かつてご神体が鎮座された本殿ですわ」僕の心を見透かしたように天城さんが言う。
それは非常に大きな建物だった。幾本もの太い柱によって地面から一段高くなっており、見上げただけでは屋根がどのような状態になっているのか判別が付かないくらいに背の高い建物だ。重そうな屋根を支えているのは、整然と並べられた角材。パズルのようにしっかりと組み合わさり、芸術的にすら見える。
「拝殿は床が腐乱して危険ですので、入るのはやめておきましょう。あまり見るものもありませんし。では本殿へと向かいましょうか」
天城さんはにっこりと微笑んだ。その顔を見た僕は、そこで死に場所を見つけられるような気がした。
拝殿や社務所と違って、本殿は比較的よく残っているな、と思えた。色あせた木材がひしめきあう大きな建物は、それだけで神々しくも見える。最後まで神様はここに居座ろうとしていたに違いない。
入り口の石段から上を見上げると、精巧な細工が為された部分があった。本堂へと続く開口部のすぐさま上、そこには二匹の牛らしき動物が向かい合っている姿が掘られている。これがさきほど天城さんが言っていた、牛頭天王のゆかりというやつなんだろうか。石段の先にある階段のさらに奥、廊下らしきスペースが左右に伸びているらしいが、真正面に観音開きの大扉があった。中に重大な秘密を隠しているかのように、その扉は堅く閉ざされているように見えた。
わりときれいな状態であるとはいえ、そこはやはり廃墟。いつ崩れ落ちてもおかしくないような木の階段を上り、僕たちは本殿へと踏み入った。
数段の階段を上ると、僕は一度背後を振り返った。目の前には拝殿の背中がデンと構えているが、そこはおもて面以上に荒廃が進んでいるようだった。半ば崩れ落ちた屋根がまるで雪崩の途中の雪山を想像させる。押しつぶされそうな感覚があり、小さく身震いした。
「残念ながら、こちらの廃墟はすでに死に絶えてしまっています……」
唐突に、天城さんが呟いた。小さい声だったので、それは独り言だったのかもしれない。
「もう、何の声も聞こえない……」あちこちに目を向ける天城さん。
確かに、この場所に存在する音といえば虫の鳴き声と、まれに吹く風によって揺すられた木々の音くらいなものだ。誰の声も聞こえるはずがない。僕たち以外に、こんな場所に来ようだなんて思うものはいない。
天城さんをじっと見つめていると、首を巡らせてきた彼女と目が合ってしまった。澄んだ瞳の奥では、哀愁のようなどこか悲しげな感情を押し殺しているように見えた。その目は何となく、この廃墟に似ているな、と思った。孤独に苛まれながら、じっと崩壊する日だけを待ち続けている廃墟。それはとてもつらく長い時間なのだろう。
見続けているとこちらの気分まで浸食されてしまいそうだったので、僕はなるべく無作為を装って天城さんから目を背けた。
「お気に召されませんか?」
「え……」
「こちらの廃墟。確かにあなたがご希望の美しい、幻想的な廃墟とは言い難い場所かもしれませんね」
「そ、そんなことは……」
「あなたは先日のアンケートにおいて、『あなたにとって廃墟とは』という事項に、『観光地』と書かれていた。ここはあなたのご希望に添う廃墟ではないかもしれませんが、それでも決して他と比べても見劣りのない廃墟です。ですが、あなたはあまり観察しようとなさっていない」
「……」
天城さんは僕を見つめている。優しい口調だが、その目が笑っていないことは明らかだ。僕の内心を見透かしたように、チクチクと突き刺さってくる。決して彼女は僕を責めているわけではないということはわかっているが、どうしても足がすくんでしまった。
「一般的に考えると」天城さんは一本の柱に手を添え、ゆっくりと語る。「……廃墟というものは、とある歴史の終着点であると言えるでしょう。数年、数十年、数百年の昔、当時の人々の手によって作り上げられた、様々な事象を目的とした建物たち。居住のための家屋、商店、娯楽施設、ここのような信仰の対象、実に様々です。
ですが、それらは時間とともに古くなってゆきます。ひとや動物でたとえるならば、『老い』てゆく。それは決して抗うことのできない、言わば建物における摂理なのです」
天城さんは柱から壁に手を這わしていった。板の壁に鋭く走る亀裂を吟味するかのように、そっと指先でなぞっている。
「『老い』た建物は人々にとってもはや不要となります。それらは取り壊され、その場所に新たな建物ができあがる。そうして一つの歴史が終わり、新しい歴史が誕生します。
ですが、時折そのサイクルから逸脱してしまった建物が現れる。老いて不要になり、しかし取り壊されることなくただ存在だけしている建物――それが廃墟です。むろん、建物はひとの手によって作られたものですが、そのサイクルからひとたび離れてしまうと、それはひとの世界のものではなくなってしまいます。特にここのような郊外の廃墟ではその傾向は顕著であり、周囲の自然と一体化し、やがて悠久の時と共に土へと還ることになります」
天城さんが歩き出したので、僕も黙って彼女の後を追った。数歩進んだところで、床板に大きな穴が開いていた。穴から覗く暗闇の中、底の乾いた土がかろうじて確認できた。シロアリらしき虫が何匹も這い回っている。
「俗に言われる『廃墟マニア』という人たち。もちろんわたくしもそういった種類に分類されるのでしょうが、彼らは廃墟という存在に実に様々なものを求めています。刺激だったり、癒しだったり、感傷だったり、ひとそれぞれです。中には『勝手に他人の土地に入り込んでいる背徳感がたまらない』という不遜な方もおられますが、まあそれも一つの目的ですね。そして、あなたは廃墟に『観光』、すなわち訪れて楽しむことを求めている。かつての栄華を極めた日々に思いを馳せ、憂いに浸るのならばここはまさに絶好の場所です。ですが、あなたはそうなさらない。失礼ながらわたくしには、あなたが別のものを求めている気がしてならないのです」
天城さんは振り向いて僕を見た。僕はたまらずうつむいて唇をかんだ。
「ぼ、僕は……」
「申し訳ありません。べつに責めているつもりではないのです。……口が過ぎましたね、先へ行きましょう」
それからしばらくの間、僕たちはほとんど無言で歩いていった。時折天城さんは僕を気遣う言葉――足下に気を付けて、など――をかけてくれたが、それはまるで、僕を叱責しているかのように思えた。たぶん、天城さんには微塵もそんな気持ちなんてなくて、僕が勝手に被害妄想しているに決まっているのだけれど。
本殿の中心にある大きな空間を回り込むようにして通路があり、僕たちはそこを巡った。所々床は抜け落ちており、屋根が倒壊して空が見えている箇所もあった。多少日の光は入り込んできているものの、薄暗く、暗がりの中に何かが潜んでいるような恐怖に駆られることも少なくなかった。歩行に困難を極めるほどのことはないが、天城さんがスーツにブーツ姿という奇妙な格好をしているわけも、ようやく理解することができた。
……僕と言えば、Tシャツの上に羽織った薄手の上着、安物のジーンズ、スニーカーというなんとも気安い格好だった。確かにこれでは、こんな廃墟を訪れるのには不向きであると解る。もしかして天城さんは、今朝店で僕の姿を見た瞬間から、僕が『廃墟マニア』でもなんでもないことを見抜いていたのかもしれない。……いや、もっと以前から、それこそ僕が彼女の店を初めて訪れた時から、天城さんにはすべてが解ってしまっていたのかもしれなかった。
回廊には様々なものが落ちていた。崩れ落ちた木材であったり、神具らしきものだったり、白骨化している死体もあった。大きさから考えて、おそらく野良猫の死体なのだろう。床の穴から見えた地面に這い回るシロアリなどの虫はおろか、生き物のたぐいは一切見当たらなかった。歩みを進めるに従って色濃くなる『死』の色が、僕を徐々に恐怖へと陥れていった。天城さんがいてくれなかったら、僕は発狂していたかもしれない。
天城さんは淡々と歩き続けていた。それが彼女の流儀だと言わんばかりに歩き、時折思い出したかのように壁や柱にそっと手を触れていた。まるで小さな頃住んでいた家に久々に訪れ、思い出を懐かしんでいるかのようだった。彼女は間違いなく、僕なんかよりもこの廃墟を楽しみ、慈しんでいた。
やがて、僕たちは再び本殿入り口へと戻ってきた。
「それでは、最後の場所へと参りましょう」
そう言うと天城さんは大扉の取っ手金具を握りしめ、少しだけ力を込めた。ギギギと錆び付いた音がし、扉は左右に開かれていく。
「……」
回廊で植え付けられた『死』のイメージ。それはこの本殿の中央部から発せられているような気がしていた。神社のもっとも中枢、神々がかつて鎮座していた場所。ひとに見放されてしまった神が怒り狂い、死をまき散らしている――そんな気がしてならなかった。きっとそこはどす黒い空気で満ちているに違いない。神の怒りが、絶望が未だに渦巻いているに違いない。僕は顔を背け、堅く目を閉ざした。
いつまでそうしていたのだろうか。しびれを切らしたのか、天城さんがそっと声をかけてきた。
「……さあ、お入りください」
僕は覚悟を決め、目を開けた。そして、その光景を目の当たりにした。
そこは死の世界などではなかった。それどころか、何よりも力強い生命が繁茂していた。
「……」僕はその光景にすべての言葉を失った。
巨大な樹が床を突き破って上空へと伸びていた。天井は大樹の生長とともに抜け落ちてしまったのか、ほとんど原型を留めていなかった。その代わりに大樹の広げた無数の枝が葉をなびかせ、屋根のようにその場を覆い尽くしていた。いくつもの枝が分かれて伸び、中には壁を突き破っているものもある。青々とした葉っぱの隙間からきらきらと木漏れ日が降り注ぎ、僕たちの足下を優しい光で煌めかせていた。
そこはまさに別世界だった。外の拝殿も社務所跡も、まさかそれらと同じ敷地内に存在しているとは到底思えない姿だった。この場所を取り囲む死の回廊、それがまるで遠く離れた異世界だったように感じる。それほどにまで力強い生命力をあふれされる大樹だった。
僕は大樹に見とれながら、フラフラと近づいていった。
分厚い床板のさらに下から威風堂々と立ち構えている大樹。世界を丸ごと飲み込んでしまいそうなくらいに広がったたくさんの枝たち。あまりに圧倒的であるのに、それはとても優しく見えた。
そっと幹に触れた。ゴツゴツと堅い感触がするが、暖かく、内部でかすかに水が流れているような感覚があった。
「……いかがです?」
天城さんの声が聞こえ、僕は我に返った。振り向くと、彼女も大樹を愛おしそうに見上げていた。
「す、すごいです……」僕は心の底からその言葉をはき出していた。
「ここはね、ゆりかごなの」天城さんは慈愛に満ちた穏やかな声で告げた。
「ゆりかご?」
「ええ。この神社が、この樹を育ててきた。雨の日も風の日も、ずっとずっとこの樹を見守り続けてきた。ひとが訪れなくなって、自分の生き方を失ってしまって、この神社は一度、歴史に幕を下ろそうとしていたの。
けれど、この一本の樹がその運命を変えた。彼が生まれたことより、神社は新たな歴史を手にすることとなった。それはこの樹の母親になる、という歴史。いつか大きな樹になるその時まで、その身を彼だけに捧げるという、大いなる母性。小さな幼木の命を失ってしまうことのないようにと、自らがゆりかごとして生きるという、過酷な運命……」
天城さんは大樹の幹にそっと触れ、そして顔を寄せていった。愛おしく幹を抱きかかえながら、愛するわが子の成長を心から喜んでいるように優しい顔を見せていた。
「……そして、幼木は若木となり、やがて大樹へと成長した」
「……廃墟の愛で育った、大樹」
僕が呟くと、天城さんは幹から顔を起こし、びっくりしたように僕を見つめた。そして、ふと、嬉しそうな笑顔を浮かべた。
「そう、そうだね」天城さんのほおを、きらりと光る水滴が伝った。「大きくて、深い愛だね」
天城さんの言いたいことは、僕にもよく解った。
そして、これもよく解る。
究極の自己犠牲、究極の母性を見せつけられ、そのあまりに大きすぎる衝撃によって、僕のほんの小さな欲望はすっかりと消え失せてしまった。
本当に、空を流れる雲のように、細切れになって霧のように消失してしまった。
僕と天城さんは並んで大樹を見上げていた。しばらく眺め続けていて、僕はやがて決心した。
「天城さん……」
「はい?」
「ごめんなさい」
天城さんは僕に顔を向けた。
「僕は……、僕は死ぬつもりでした」
こぶしを握りしめ、天城さんからの返答を待ったが、言葉は返ってこなかった。僕は天城さんに向き直り、彼女の顔を見つめた。彼女はなぜだかとても穏やかな微笑みを浮かべていた。
「僕は、その、学校でいじめられています。そこまで非道いものじゃなくて、でも、僕にしてみればとても嫌な気持ちになることで……」
「……」
「それはたった一つの言葉が始まりだったんです。僕があまりに妙なことを言ってしまったから」
「なんて言ったの?」
「『雲になりたい』、って……」
天城さんは笑みを深くした。「あら、とても素敵じゃない」
「ありがとうございます。でも、僕たちみたいな子供には、ちっとも素敵なんかじゃないんです。意味の分からない、言ってはならない言葉なんです。
僕はいつも思っていました。あの空に浮かんでいる雲みたいに、自由で、何も考えずにいられればな、って。本当に、ただそれだけなんです。
そのたった一言で、僕はクラスメイトにとって、彼らにしてみれば意味のない雲と同等にされてしまったんです。初めのうちは、みんなに無視されることが嫌で嫌で仕方がなかった。けど、僕がどうあがいたって、彼らの態度は変わらなかった。それ以上にエスカレートしていったんです。そんな状態が何ヶ月か続いて、きっと僕もおかしくなってしまったんだと思います」
「……どうなってしまったの?」
「『雲のように、消えて無くなってしまいたい』と思うようになりました」言いながら、握りしめたこぶしが震えてくることがわかった。
自分ではどうにか耐えることができていると思っていた。けれど、やっぱり僕の精神はそんなにも強靱ではなかったんだ。強がって、泣き叫んで誰かにすがりつきたいことを必死に隠していたけど、それは確実に積もり積もっていた。そして僕は、今こうやってその鬱積を天城さんにぶつけている。このひとなら助けてくれるはずだ、そんな淡い期待を抱きながら。
「死にたいと思い始めたんです。でも、僕は雲じゃないから、待っていても勝手には消えやしない。だからどこかでひっそりと死のう、と思いました。そんな時、クラスメイトが天城さんのお店のうわさを聞いてきて、僕に様子を見てこいと言ってきたんです。僕は正直言って、チャンスだと思いました。
……『廃墟マニア』だなんて言ったけど、僕は全然廃墟なんてわかりません。アンケートに書いたホテルを一度見たことがあるくらい。でも、彼らが言っていた『廃墟ツアー』で、もしかしたら自分の死ぬべき場所が見つかるんじゃないのか、って期待したんです。それで『美しい、幻想的な廃墟』をお願いしたんです。
……天城さん、本当にごめんなさい!」
深々と下げた僕の頭の上から、ふう、と小さなため息が聞こえた。そして、肩にポンと手が置かれた。
「……知っていました」
「え?」僕は顔を上げ、天城さんを見る。
「あなたがわたしのお店にやってきたときから、自転車を降りて、窓からお店の中を覗いている後ろ姿を見つけたときから、なんとなくそんな気はしていました。もちろん、確信はありませんでしたから、通常の手順通りに話を伺っていましたけど、あなたはやっぱり『廃墟ツアー』を希望なされた。ちょっぴり残念に思ったけど、わたしも仕事だからね……」
「天城さん……」
悲しげに笑う天城さんは、「弥美でいいよ」と付け加えた。そして再び大樹に目を向けた。
「……建物にはね、いろんな姿があるの。誰かの頭の中にイメージされただけの姿、紙の上に描かれた姿、施工途中の姿、新築の姿、ひとが暮らしている姿、ひとがいなくなった姿……。
でも、ひとがいなくなっても、建物は決して死なない。彼らはその場所で新たに生活の場として活躍できる日がくることを夢見ている。新しく入居者を得た建物は、入ってきたひとたちから多くのエネルギーを貰うわ。そして、命を延ばしてゆく」
「新しく入居者が入らなかったら?」
「『廃墟』となる。だんだんと、ね。ゆっくり、ゆっくり、自然に溶け込んでいって、やがて自然そのものに還る。さっきも言ったよね、それが建物の歴史の終焉。廃墟っていうのは、正確にはその終焉のすぐ手前、ってことになる。だからこそ、もっとも生への執着が強くなる。時としてひとを怨み、牙を剥くことだってあるの」
天城さんは悪戯っぽく笑う。
「この廃墟は、わたしが見つけた中でも特殊な廃墟だね。かつて神様がいたところだからかもしれないけれど、とても慈悲深いの。訪れるひとも、奉られていた神様もいなくなってしまったというのに、ほかの何も欲しようとはしなかった。自然の流れに任せ、自らの身が朽ちていくのを受け入れ、その悠久を楽しんでいた。
そんな彼の中に、やがて一つの命が帰ってきた。それがこの樹。
彼は樹に気づいた時、自分の役目を知った。それはこの樹の『ゆりかご』として生を全うすること。大切に育み、成長を見守ること。それこそを自らの糧とした。
この子はそんな素敵なお母さんによって育てられた、素敵な大樹。だからこそ、この子を見るわたしたちにもその優しさが強く伝わってくる。お母さんから受け継いだ慈悲を、大きな身体の中にたくさん持っているから」
天城さんはゆっくりと僕の背後に回った。ぼくの肩越しに腕を回し、そっと抱きしめてくれた。ふわりと気持ちの良い空気が僕を包み込んだ。
「この子を間近で見たキミになら、もう解るはずよね。……生きているということは、それだけでとても素晴らしいこと。それは何事にも代え難い、もっとも価値ある事象。
『廃墟』は生と死の両面を司っているわ。そしてひとは往々にして『死』の側面が強く見えてしまうものなの。けれどそれは、何よりも廃墟への冒涜となる。だって彼らは強く生きたいと願っているのだからね。……キミはここで、『廃墟』が持つ生命力を見た。それはきっと、今後の人生で大きな助けとなってくれるはず」
天城さんの暖かい腕に抱かれ、僕は小さく「はい」と答えた。
「これからキミには、今よりももっともっと大きな困難がたくさん訪れる。それがどんなものなのか、どれほど強烈なものなのか、わたしには判らない。けど、あなたはこの大樹と同じ。かつての幼木。いつかきっと、この大樹のように、強く、たくましくなれる」
もう一度、はい、と呟いた。
目を閉じ、天城さんの鼓動に耳を傾けた。優しいリズムが僕に流れ込んでくる。
ありがとう、天城さん。僕はもう死にたいなんて思わない。
今でも雲に憧れる気持ちはある。けれど、それは「雲のように消えてしまいたい」ということではなくなった。
僕は大樹と天城さんの優しさに抱かれて、大いなる力を手に入れた。
「あの、ひとつ聞いてもいいですか?」
帰り際、天城さんのご機嫌はすこぶる良好そうだったので、僕は不思議に思っていたことを思い切って聞いてみることにした。
「ん?」
「天城さんは、『廃墟』のことをひとにたとえてお話していましたけど、まるで本当に会話して聞いたかのようでした。僕でもわかるように、あえてそう話してくれたんだと思うんですけど、それでもやっぱり不思議で……」
「う~ん、そうね……」天城さんはあごに手をやり、空を仰いで考えた。「こんなこと信じられないと思うけど、わたし、廃墟の声が聞こえるのよ」
「廃墟の声……」
「あ、やっぱり信じてないでしょ!」天城さんは小さくほおを膨らませる。
「い、いえ! そんなことは」
「声が聞こえるってのはちょっと違うかな。なんて言うか、わたしの頭の中に流れ込んでくるの。たとえばこの廃墟は寂しがっているな、とか、ああ、強がっているんだな、とかわかるんだ。
でも、どんな廃墟でも、あの樹の前で言った通り、生きたがっていることは確かよ。それは何よりも強い、彼らの感情なの。
わたしは彼らからこのツアーを通じて生きる糧をいただいている。彼らにはその対価として、わたしとともに訪れた人たちのエネルギーを少しずつ受け取ってもらっている。そうすることで彼らは時を得る。建物として生きながらえることのできる時を」
黙って天城さんの言葉を聞いていると、またもや彼女は少し怒ったようだった。
「ああ、やっぱり信じてない! ……まあ、無理もないか。こんなこと言ったって、気持ち悪く思われるだけだもん。ごめん、忘れて」
「そんなことないです。とても素敵じゃないですか」天城さんにならって、僕はぎこちない笑顔を向けてみた。
「ありがと。フフ」
「……この神社は、天城さんになんて言ってるんですか?」
天城さんは振り向いて神社を見上げた。
「ここはもうなにも語らないわ。すでに死んでしまっているから。わたしが彼の声を聞きつけて初めて訪れた時はまだかすかに語っていたのだけれど、もう逝ってしまった」
「そう、ですか」
「こら、そんな悲しそうな顔しないの。キミも見たでしょ? 彼の中でたくましく育つ樹。あの子はまさしく彼の子供なんだから。自分の子供があんなに立派に育つ、それは彼にとって何よりの願いだったわ。そんな一番の願いかなえられたんだから、彼は何も思い残さず逝くことができた。それは悲しいことではないの」
「確かに」天城さんがまるであの樹の母親に見えて、僕は思わず小さく吹き出した。「あ、それじゃあ鳥居のとこで呟いていたのは……」
「うん。彼へのご挨拶。まあ聞いてくれる相手はもういないのだけれど。……それと、お願いね」
「お願い?」
「キミのこと、救ってあげて、って」
天城さんのまぶしい笑顔に、僕は思わず苦笑した。
「こういうお仕事してるとね、キミみたいなひと、少なくないんだよ」
「僕みたいな? それってどういう……」言いかけて、僕は口をつぐんだ。そんなの、分かりきっている。
「廃墟ってのはどうあがいても、死のイメージが沸いてきてしまうもの。だからこそ、そこで自ら命を落とそうとするひとは少なくない。そしてどういうわけか、そういったひとはわたしのことを聞きつけて、死に場所を求めてくるの」
「それで……どうするんです?」
「ここに連れてくるわ。そうすると、あの子の力によって生きる気力を取り戻す。今のキミみたいにね」
「なるほど……」
僕は振り返り、もう一度神社の廃墟を眺めた。草が伸び放題の参道からは、拝殿と森に隠されて本殿は少ししか見えないはずだ。そう思っていた。
だが、よく見るとそれは違っていた。本殿の屋根を突き破り、上下左右とあらゆる方向に枝を伸ばし葉を広げている、あの大樹。彼が本殿を守るかのように覆っていて、まるで脇にある鎮守の森が被さっているように見えていたのだ。
年老いてしまった母親を優しく抱く息子は、風にその腕を細かく動かした。葉擦れの音色はまるで笑い声に聞こえ、穏やかなその姿の中に笑顔が見えた。
その笑顔は、不思議と天城さんの笑顔と重なって見えた。
月曜日、僕は晴れ晴れとした気分で学校へ行った。教室の扉を開けるなり、背後から僕を呼び止める声が聞こえてきた。振り返ると、辰也が廊下を走りながら近づいてきていた。
「やあ、おはよう」
「優っ! おまえ、大丈夫なのかよ」開口一番に辰也はまくし立てる。
「大丈夫って、なにが?」
「修司が、おまえが○○商店街を歩いていくのを見た、って言ってたんだ。まさか本当に行くとは思わなかったから、その……」
なんだ、僕のことを心配してくれていたのか。僕は小さく笑った。
「大丈夫さ。なんてことない、ただの旅行案内所だったよ」
席に着く僕に従い、辰也もついてくる。「っておまえ、マジで入ったのかよ」
「言っただろ? ちょうど、旅行に行きたかったところだ、って」
にっこりと笑うと、辰也は驚いたような顔を見せた。
「おまえ……、なんか変わった?」
「うん? そうかな……、そうかもしれないね」
「金曜学校休むし、マジでなにかあったんじゃないかって心配だったんだからなっ」
「ごめん、……ありがとう」
そこへ他の連中も登校してきて、話に加わってきた。僕が彼らの話題の中心にいることが珍しいようで、話に参加していない他のクラスメイトたちも僕たちに好機の目を向けている。……なんというか、なかなか気持ちのいいものだ。
僕はこの日、彼らに会ったら言いたいことがあった。自分から話題を振るのはやっぱり簡単なことではなかったけれど、先日の光景を思い出し、勇気を振り絞って言葉に出した。
「ねえ、みんな。旅行って好き?」
彼らは僕を心配する会話を止め、一斉にきょとんとした目を僕に向けた。
「……お、おう」辰也がポツリとこぼす。
「じゃあさ、今度みんなでどこかへ行こうよ」
彼らは顔を見合わせた。急に何言っているんだ、コイツは。とでも言いたげに。
「実はさ、あの旅行案内所、お姉さんが一人で経営しているんだけど、話を聞きに行ってみない? 僕、こないだ行った時、いろいろと話を聞いているうちに仲良くなったんだ。お姉さん、もしも旅行に行くならプラン考えてくれるって。それに、安くしてあげるって言ってくれたんだ」
「で、でもなあ」
「話を聞くだけでもけっこう楽しいものだったよ? それになんて言っても、……お姉さんがすごく美人なんだ」
最後の部分を小声で告げると、彼らは一斉に顔を赤くし、お互いの赤い顔を見合わせた。
「ま、まあ話を聞くだけなら、行ってやってもいいぜ!」赤らめた顔を隠すようにして胸を張る辰也が言い切った。
美人のお姉さんに釣られたことをどうにか隠そうとする辰也がおかしくて、僕は思わず吹き出した。
ツアーの後、帰り道の車の中で僕は天城さんにこう言ってみた。
「今度、友達と旅行に行ってみようかな」
天城さんはとても嬉しそうな顔を僕に向けてきた。
「まあ、それはとっても素敵! それじゃあ、この天城弥美が腕によりをかけてプランニングして差し上げますわ!」
お願いします、と告げると、天城さんは僕に軽く眉をつり上げた顔を寄せ、低めの声で呟いた。
「……ただし、廃墟はダメだからね」