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悲しみは純白  作者: 翼 翔太
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第3話

目が覚めたみさとが最初に覚えたのは違和感だった。

「なんだこの……よくわかんない感じ」

 ふと頭をかくと、いつもなら絡まっていながらも指がとおる髪が今日はずいぶんと引っかかるのだ。それにごわついている気がする。

「なんかきしきしいってるし……」

 みさとは体の下半分だけ布団に入ったまま、なぜこんなことになっているのか考えた。昨日はそれほど特別なことはしていない。料理、掃除、食器などの片付け、入浴……。

「あ、そうだリンスしてないわ……」

 いやきっと昨日のせいだけではないだろう。このところ髪のケアなどしていない。そんな余裕などなかったのだから。この家にきた初日は結局二日酔いでずっと寝ていたのでわからなかった。言い方は悪いが尾上に拾ってもらって衣食住がどうにかなると、少し心に余裕ができたのか気になってしまう。

「どうしよう……。買ってもいいのかな?」

 みさとはブラシがないことも気になっていた。自身がかつて当たり前に使っていたものがずいぶんとないことに気がついた瞬間だった。化粧水、乳液、服、筆記用具などその他諸々……。

「あ、うん、買わないとやっていけないわ」

 みさとは起き上がり、簡単にごわごわな髪を整えてキッチンに向かう。尾上はまだ起きてこない。朝食の準備をする。尾上はご飯派なのでいくつかおかずを用意しておかなくてはいけないのだ。冷蔵庫に残っている塩鮭二切れをグリルで焼き、そのあいだに味噌汁を用意する。時計を見ると尾上が起きる時間は過ぎていた。

「あれ?」

 みさとはどうしようか迷った。今日に限って出勤時間が遅いのだろうか。しかしなにも言われていない。

「起こしていいものかどうか……。でも寝坊とかだったら起こしたほうがいいもんなあ」

 みさとは尾上の部屋の前に立った。遠慮がちにノックをする。

「あの、尾上さん……起きてらっしゃいますか?尾上さん」

 何度かノックをすると尾上が出てきた。目は半分も開いておらず、全身の毛は好き勝手にはねている。眼鏡はかけていない。

「どうかしましたか……?」

 油断している尾上の姿はどこにでもいる言葉は悪いが……気の抜けたおっさんだった。

「え、えっともう出勤の時間は過ぎてますけど……」

 三拍ほど間が空く。そして尾上は「ああ」と頭を掻きながら答えた。

「今日は休みなんです。すみません、言っていなくて」

「いえ、そうかもしれないとは思ったんです。こちらこそすみません」

 それがわかるとみさとは申し訳なくなった。みさとだって独り暮らしのときは休みのときは一日中寝ている日も多かった。ゆっくりしているところを邪魔されるほど不愉快なことはない。尾上は再びベッドに戻るだろうと思っていたが、むくりと部屋から出てきた。

「朝ごはんのにおいもしますし、起きましょうかね」

「いや、また起きたころに作り直しますからお気になさらず……」

「いえいえ。おいしいものはおいしいうちに、が家訓でして」

「変わった家訓ですね……」

 尾上は大きくあくびと伸びをしながら顔を洗いに行った。ふとみさとの頭にしょうもない疑問が浮かぶ。

「あの人、狼だよね?顔洗ったらどんな風になるの?タオルで拭くの?それとも犬みたいに顔めっちゃ横にふるの?っていうかどうやって洗うの?」

 好奇心の芽がぐんぐん膨らむ。みさとはこっそりと洗面所へ向かうことにした。

 尾上はちょうど顔を濡らしていた。まず頬と顔の上半分だけ洗い、次に鼻や口まわりに水をかけている。それをあと一回繰り返しハンガーに掛けているタオルで拭いた。それでも拭ききれていない一部の毛はいくつもの少量の束となりぺたりとしている。

「そっか、正面からだと鼻に水が入っちゃうからか」

 水が入ってなんともいえない痛みに悶えている尾上を想像すると、みさとにとっては思わず吹き出しそうになった。なんともおかしく、ぜひとも見てみたい絵面ではある。好奇心の芽が花を咲かせ、閉じてきたたところでみさとは鮭を焼いている途中だったことを思い出し、慌てて台所に戻ったのだった。

 そんなことなど露知らず尾上は食卓にやってきた。

「いやあ、やっぱり温かい食事はいいですね。惣菜やレトルトばっかりだったから」

「そう言っていただけると作り甲斐があります」

 みさとは味噌汁をそれぞれの椀に盛り付け、尾上と向かい合って座る。

「いただきます」

「いただきます」

 箸を運び続け、そろそろたがいに食事が終わるだろうというときにみさとは尾上に頼んだ。

「あの……必要最低限でいいんで、生活用品を買わせていただけないでしょうか?その、もちろん仕事が決まってお給料が入ればお返ししますっ」

 どのような反応をされるかみさとは不安になった。やはり居候の身では自分の要求を訴えるのは抵抗がある。しかし尾上の返事はみさとの気が抜けるほどあっさりとしたものだった。

「いいですよ。それくらい。女性ならいろいろ物入りでしょう?」

「は、はい。ありがとうございます……」

 朝ごはんを味わい終えた尾上はすくっと立ち上がり、自分とみさとの食器を下げた。

「準備しててください。すぐに洗ってしまうので」

 どうやら尾上も一緒に来るつもりのようだ。本音を言えばみさと独りで行くほうが気楽なのだが、さすがに「お金だけくだされば結構です」というのも如何なものか。

「でも尾上さんはせっかくのお休みなのに……」

「いえ、いつもゴロゴロしているだけなんで。それに」

 尾上は洗い物の手をとめてみさとのほうをふり返った。

「だれかと出かけるのは、とても久しぶりなんです」

 その顔はどこか悲しそうで、解き放たれたいのにずっと過去に囚われているような表情だった。そんな尾上にみさとは「わ、わかりました」としか言えなかった。

 みさとは部屋に戻った。後ろ手にドアを閉める。

「なんであんな顔してたんだろう……」

 みさとはまだ知らない尾上の顔に戸惑いを隠せなかった。しかしそれを探るには二人の仲はまだまだ浅いのだった。


「それでは行きましょうか」

「はい」

 それぞれ準備を終えて尾上がドアの鍵を閉める。尾上はどこかうきうきしているようだ。尻尾が左右に揺れている。犬はうれしいときに尻尾を振るということを思い出した。尾上には失礼だが今度から彼の心境を知りたいときにはそれの動きを参考にすることにした。顔は澄ましているのに誤魔化しきれていないということに気がつくと、目の前の狼獣人がなんだか少しかわいく思えてしまい、小さな笑い声を隠せなかった。そんなことなど知らない尾上は不思議そうにこちらを見ていた。

 エレベーターの中で尾上がみさとに確認してきた。

「どこに行きましょう?」

「ええっと、ドラッグストアと洋服屋に……あと文房具が買えたらいいんですけど、そういうお店ってありますか?」

「それならドラッグストアの隣に大きめのスーパーがあるんでそこにしましょう。洋服のメーカーもいくつかテナントに入っていますし」

 エレベーターを降りて二人は西へ進む。前住んでいたところは電車でここのひとつ前の駅だった。駅のそばにはちょっとしたスーパーやバスのロータリーはあったが少し離れると個人経営の居酒屋やスナックなどが並び、さらにそこを抜けると十五年以上のハイツなどの住居やそれらに混じって五年以内にできたような新しいウィークリーマンションが建っていた。ここのような華やかさはないが静かなところだった。

 その静けさを元婚約者とみさとは気に入っていた。二人でスーパーに買い物に行った日もあれば、居酒屋に入り箸をつついて酒を飲んだ。

「……どうぞ」

 思い出から現実に帰ってきたのは尾上に声をかけられたからだった。彼にハンカチを差し出されてみさとは自分が泣いていたことにようやく気がついた。

「あ……すみません。前住んでいたところとかを思い出しちゃって」

「気になさらないでください。そういうものです」

 涙を拭きながら謝るみさとに尾上は言った。尾上が急にきょろきょろとなにかを探しはじめた。そしてみさとの肩を指先で小さくたたいた。

「ちょっと寄っていきませんか?」

 尾上が指さしたのは一軒のカフェだった。縞模様が目印のチェーン店だ。みさとは黙って首を縦に振った。

 店内はいくつか席が空いているくらいで、みさとが泣いていることに気がつく人がいないくらい混んでいた。尾上の「カフェオレでいいですか?」という問いにみさとはうなずいた。尾上が注文している間、みさとが席を確保することになった。一番奥の四人席に腰を下ろす。自身の目元に触れるとまだ熱を持っている。

「……涙なんか枯れてなくなっちゃえばいいのに」

 みさとは黒いテーブルに突っ伏して動かなくなった。


 知らない間に眠ってしまったみさとが目を覚ましたのは、尾上がコーヒーを飲み終え紙ナプキンに新しいドレスのデザインを描き始めたころだった。

「おはようございます」

「うあっ。すみません!なにやってんだろ私……」

 みさとは自己嫌悪で今度は額からテーブルに倒れこむ。しかし尾上は気にした風もなく、ドレスのデザインを描いた紙ナプキンを折り畳み、チノパンのポケットにねじ込んだ。

「大丈夫ですよ。カフェオレ、冷めちゃいましたけど新しいの買ってきましょうか?」

「いえいえ!こっちいただきます」

 みさとはカフェオレを口に運んだ。尾上の言うとおりすっかり冷めてしまっている。みさとはカフェオレを飲みながらこの数日で自分がどれだけ尾上に失態を晒しているか考えると、顔から火が出てきそうだった。それも家なら二、三軒焼けそうなくらい大きなものが。そんなみさとの様子を見て尾上は優しい言葉をかけた。

「いいんですよ。何度も涙を流して腹を立てて、それでようやく乗りこえられるんですから」

 みさとが落ちこむたびに向ける尾上のどこか遠くを見るような眼差し。その理由は果たしてなんだろうか、と思う前にみさとは口を開いていた。

「あの……どうしてそこまでしてくださるんですか?元客だった私に」

 泣きやんでまだ心が落ち着いていない、完全に勢いで尋ねてしまったことをみさとはすぐにやってしまった、という気持ちに襲われた。

「あ、その、私は尾上さんのこと存じ上げてなかったのにって。あ、あのお気を悪くしたならすみませんっ。無理に言っていただかなくっても……」

「当然の疑問ですよね」

 みさとが言い終わらない内に尾上はさらりと答えた。

「あなたと同じ体験をしたからですよ」

「……はい?え、ま、まさか……」

「ええ。まだ若いころ婚約者にフラれました。『ごめんなさい、あたしやっぱりあの子が……ユメカのことが忘れられない』って。頑張って縫ったドレスも出来上がっていたんですがねえ」

 みさとは驚いてなにも言えなかった。尾上がフラられたときのセリフが実に似ていたせいだけでなく、こんな体験をしたのは自分くらいだろうと思っていた部分がどこかにあったからだ。尾上は続ける。

「まあその経験があってか、長い間女性という存在を憎んでいました。彼女以外の女性に八つ当たりすることで気を晴らそうとしていました。その結果が今、一度も結婚しないで独身です。……あなたにはそんな風には生きてほしくなかったんですよ。

 囚われ続けるのはなかなか苦しい」

 尾上は自嘲気味に笑い「まあつまりお節介ですよ」と締めくくった。尾上が今度はにっこりと笑みを浮かべる。

「それが飲み終わったら行きましょうか」

「は、はい……」

 カフェオレを飲みながらどれだけ考えても、このなんとも言えない気持ちを表す言葉をみさとは知らなかった。買い物のことなどどうでもよくなっていた。


                                     続く


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