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悲しみは純白  作者: 翼 翔太
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第1話

 ジョキンッと真っ黒な裁ちばさみが新雪のように真っ白な布を切る。はじめは不安だったこの裁ち音が、今ではどこか心地よいものになっていた。

「尾上さん」

 はさみを走らせながら狼獣人、尾上ジロウは「なんだ」と返事をした。声をかけた部下は遠慮がちに続けた。

「えっと、唐藤さまが最終確認に来られました」

「もうそんな時間か」

 尾上は作業を一度中断して、マネキンに着せてある別のドレスを持って試着室へ向かう。

 オーダーメイドウエディングドレス専門店『ラナンキュラス』

 そこが尾上の職場だ。試着室にはひと組のカップルがソファーに腰掛けて、ウエディングドレスを待っていた。唐藤さまは花嫁のほうだ。

 尾上はカップルの側に立っている女性プランナーに手伝ってもらい、ドレスをハンガーにかけた。袖つきのプリンセスラインで何枚も重ねたレース生地とビーズで彩られた首周り。綿菓子のように甘い雰囲気。

「わあ……!すっごく素敵!」

「ありがとうございます」

 花嫁のこの幸福に満ちた輝く笑顔を見ると、尾上はこの仕事をしていてよかったと思えるようになっていた。職人人生四十年にしてようやくである。

「細かい調整もいたしますので、試着してみましょう」

 女性プランナーが唐藤さまをカーテンの内側へ行くように促した。唐藤はとてもうれしそうにうなずいた。いっしょに来ている婚約者に声をかけた。

「ちょっと着てくるね」

 くるりと背中をむけたときだった。突然婚約者が立ち上がった。その場にいた全員の視線が彼にむけられる。

「やっぱり無理だ……」

 尾上だけでなく皆がその言葉を理解できなかった。唐藤さまは首を傾げた。

「ねえ、どうし……」

「俺はやっぱりきみとはいっしょになれない!」

 唐藤さまが言い終わる前に婚約者がさえぎるように訴えた。空気が凍る、などという言葉があるがそんなものでは甘い。どこか冷静な尾上はなんとかこの状況にぴったりの言葉を探してみる。このあいだテレビで見たグルメ番組を思い出した。……液体窒素。そう、液体窒素で瞬間的に空間を凍らせてハンマーでたたき割ったような空気。もう修復できない、取り返しがつかない。時計の針は動こうとしなかった。

「ど、どういうこと?」

「俺……やっぱりあいつが忘れられない。タケヒコのことが!すまない、みさと……」

 相手男性は力強く走り去った。名前から察するにタケヒコとは男性だろう。つまりこの婚約者はタケヒコという男性とかつて特別な関係だったらしい。

 彼自身からすればこの状況はさながらドラマのワンシーンのようだろう。しかし尾上たち『ラナンキュラス』の者たちからすれば、この空気をどうしたものか内心頭を抱えていた。そんな中尾上は唐藤さまを見た。

 かつての自分と同じ、状況を理解できない絶望する直前の表情をしていた。


 その日から一週間、『ラナンキュラス』では唐藤さまの話題で持ち切りだった。当然のことだろう。その場にいた者はどれだけ冷や汗をかいたかを少し盛りながら語り、それを聞いた者は仲間と唐藤さまに同情した。その後唐藤さまからキャンセルの連絡が入ったらしいので、尾上がデザインし作ったドレスは店頭で見本として展示されることとなった。

 それが決まった日の夜、尾上は行きつけの店である『バー アングラ』に寄った。地下への階段を下り、ドアを開けるとカウベルが来客を知らせる。

「いらっしゃいませ」

 マスターのモグラ獣人は糸のように細い目でこちらを見た。尾上はカウンター席に腰を下ろす。

「おひさしぶりです」

「どうも。ようやく仕事が一区切りつきまして。ああ、いつものおねがいします」

「かしこまりました」

 マスターがいつも注文するウィスキーのロックを用意している中、尾上の目の端に人の姿が入った。何杯も飲んだのかコースターは水滴でふやけ、顔を真っ赤にしている。まぶたはどこか重そうだ。よく見ると涙のあともある。ひと煽りしてグラスを飲みきる。

「あ」

 どこかで見覚えがあると思ったら唐藤様、噂で持ち切りとなっている彼女だ。察するにやけ酒だろう。

「ますらー、おかーり」

「飲み過ぎですよ……」

 マスターは注文していたものを尾上に差し出した。礼を言いつつも飲む気になれなかった。唐藤様が気になって仕方がない。

「うっらいなあ、のむのお!」

「……どうぞ」

 そう言ってマスターが置いたのは水であることを尾上はよく知っている。そんなことなど知らず唐藤様は一気に流し込む。それどころか「おかーり!」と空になったグラスをずいっと前に出し、ピクリとも動かなくなってしまった。

「あーあー……つぶれちゃいましたねえ」

「はい。いつもはあのような飲み方はなさらないのですが……。よほどショックなことがあったんでしょう」

 ショックどころではないだろう。婚約者にフラれその上ゲイだった、という事実をすぐこの場で笑い話にできる者がいるのなら見てみたいものだ。

 尾上は中身の減っていないグラスを置き立ち上がった。唐藤様の荷物を持ち、力の抜けた体を担ぐ。

「マスター、チェックおねがい。ちょっとこの人送ってくる。知り合いなんだ」

「そうなんですか。じゃあタクシー呼びますね」

 正確に言えば知り合いではないが、元顧客と言うわけにもいかない。よく見ると化粧はしておらず、泣いたせいか目がずいぶん腫れている。

「唐藤様、家までお送りしますから。お住まいはどこですか?」

「……そんなもんない」

 自棄気味に答えが返ってきた。本人の言うとおり、住むところがないとなると厄介である。路上に放り出すわけにもいかない。放っておけないのは、彼女を知っているからというだけではないのだが。

「はあ……」

 尾上は大きな溜息を吐いた。選択肢は限られていた。


 唐藤みさとは世の多くの人が言う幸せを手に入れるはずだった。結婚式が近づくにつれ恋人の表情が曇っていくことには気がついていた。しかし気にしていなかった。近ごろは男性もマリッジブルーになると聞いていたから、そうだと思っていた。いや思いこむようにしていた。そのツケが回ってきたのである。

 この一週間はまるでマンガかドラマのようだった。

 突然の婚約解消。相手の両親は額を地面にこすりつけるように土下座して、みさとや両親に謝った。本人はいなかった。どうやらずっと連絡がとれないらしい。もちろん父は激怒していた。みさとは父が声を荒げるのを初めて見た。母も怒っていたがどこか冷静に状況を見るように心掛けていたように思える。

 住んでいた部屋に戻るとなにもなかった。家具どころか食料や、結婚資金をすべて入れていたみさと名義の通帳もだ。暗証番号は相手も知っていたのですべて引き下ろしているだろう。すでに仕事を辞めていたことだけが不幸中の幸いか。憐みの目で見られることも、裏で話のネタにされることもない。家もお金も、幸せな未来すら失ったみさとが酒に逃げるのは自然なことだと言える。

 そんな彼女が目を覚まして最初に見たのが見知らぬ天井というのは、はたして自然なことなのだろうか。

「……あれ、ここどこ?」

 上半身のみを起こし部屋を見回す。もしや警察のお世話にでもなったのだろうか。まるで警察特番に出てくるお父様がたではないか。

 そんなときドアが開いた。入ってきたのは見知らぬ狼の獣人だった。

「ああ、起きたんですね。朝ごはんはパンにしますか、ご飯にしますか?」

「……え、あ、じゃあパンで」

「では焼き始めておきますね」

 狼獣人はこれといった説明もなしにドアを閉じた。当然みさとの頭の中はぐるぐるといろんな憶測が飛ぶ。まずは服の確認。さほどの乱れはない。下着も無事である。みさとは小さく安堵の溜息を吐いた。自分の鞄も傍らにある。中身も盗まれた形跡はない。

 一通り確認を終えると当然の疑問にたどり着く。

「だ、だれ今の?」

 とにかく髪を手櫛で整え、服のしわも簡単に伸ばす。

「……なんか武器っぽいものってあるかな?」

 相手は男、それも人間より力のある獣人である。もしもに備えておくために鞄の中を探した。しかし一銭も入っていない薄っぺらい財布とハンカチにポケットティッシュ、化粧ポーチしかなかった。

「こういうときに限って持ち歩き用の制汗スプレーがないんだよなあ。あれならいざというときに目くらましになるんだろうけど」

 枕元にあった自分のスマートフォンだけを持ち、みさとは意を決して狼獣人がいるであろう隣の部屋へのドアを開けた。

 モノクロ調のテーブルと椅子、テレビという最低限しかないリビングだった。そこにはパンと味噌汁、目玉焼きが二人分用意されていた。

「お加減はいかがですか、唐藤様。二日酔いがひどければ別の献立にしますが」

「あ、いえお構いなく……」

 確かに頭は割れそうなくらい痛いが、それよりも目の前の狼獣人がなぜ自分の名前を知っているのか気になる。するとそんな考えが伝わったのか狼獣人は「ああ」と別の部屋になにか取りに行った。そして差し出されたのは一枚の名刺だった。

「わたくしオーダーメイドウエディングドレス店『ラナンキュラス』の仕立て人の尾上ジロウと申します」

 みさとは名刺を受け取るとすぐに自分がウエディングドレスを注文した店だとわかった。そしてあの惨劇と言わんばかりの出来事も同時に思い出す。

「行きつけのバーで酔い潰れているのを見かけまして……家の場所を尋ねても家はないとおっしゃったので、申し訳ないとは思ったんですがわたくしの自宅にお連れしたんです」

「うっ、す、すみません……」

 みさとは自分の昨夜の行動と尾上を疑った自分を心の中で叱った。そんなみさとに尾上は「ああ、冷めてしまいますね。どうぞおかけになって召し上がってください」と勧めた。ありがたく頂くことにする。

 席についたみさとは、毎日朝食に味噌汁を出すとゆるんだ顔で飲むかつての婚約相手を思い出した。あのときの笑顔も偽りだったというのか。

「……どうぞ」

 尾上にティッシュを差し出されてみさとは、ようやく自分が涙を流していることに気がついた。これでもかというほど泣いたのにもかかわらずまだ涙が出てくることに、みさとは少し驚きつつもそんな自分に呆れていた。ティッシュを受け取る。

「ありがとうございます……。ははっ、あんだけ泣いたのに」

「そうすぐに乗り越えられるものではありませんよ。まだまだ涙は流れます」

 尾上はみさとが落ち着くまで待ってくれた。朝食が冷め切ったころ、ようやく涙がとまった。

「温め直しましょうか」

 レンジで温め直して二人は改めて朝食を食べることにした。

 久しぶりにまともに食事をしたみさとは思わず「おいしい」とこぼした。尾上はなんとなくうれしそうだった。

 食後のコーヒーはインスタントではなく、きちんとコーヒーメーカーで淹れられたものだった。まだどこかぎこちない雰囲気で先に口を開いたのは尾上だった。

「あの立ち入ったことで非常に聞き辛いのですが……今後はどうされるんですか?住むところとか。ご実家に……戻られるんですか?」

 みさとは静かに首を横に振った。

「実家は小さな港町なんですけどとても閉鎖的で……。私が出戻ったってわかると両親は肩身の狭い思いをします。だから、戻れません」

 みさとは溜息を飲み込むようにマグカップに口をつけた。これからのことを考えようとしたとき、尾上が予想していないことを提案した。

「でしたら……しばらくうちに住みませんか?」

「はい?」

 みさとは彼の言った意味が理解できなかった。そんなみさとのことなど気にせず尾上は続けた。

「部屋は余っているし、自分も独身の身なので気を遣う相手はいません。ああ、もちろん『そういう』女性も今はいません」

 かつて通っていた店の店員とはいえ、会ったばかりの男性の家に転がり込むのはやはり恐怖とためらいがあった。なんとか穏便に断ってみる。

「で、でもご迷惑では……」

「いいえ。無一文の女性がひとりで出歩くほうが危ないですよ」

 曇りのない目から下心から言っているわけではないとわかる。善意であるとわかっているが故にはっきりと断りにくい。尾上の好意にずるずると引きずられる。

「で、では……しばらくお世話になります」

「はい。ふふ、実は独りで食事をするのにも飽きてきたところなんで、少し楽しみです」

 尾上はそう言って子どものように笑った。

 こうして、二人の奇妙な同居生活がスタートしたのであった。


                                   続く


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