蛍合戦
小さな光の群れが沢の上を飛び回っていた。
青白く光るその光は時に離れながら、時に近づきながら沢とその周りの草むらを自由自在に駆け回る。
日没後の宵闇の中を数多の光が乱舞するその光景に、俺は思わず呟いていた。
「いやあ、やっぱり夏は蛍合戦だよなあ」
蛍合戦というのは多数の蛍が飛び回る様子を表した言葉だ。穏やかな淡い光が舞い踊る幻想的な光景に『合戦』とはどうにも合わないような気がするが、蛍の目線で考えれば意外と的を射た表現なのかもしれない。蛍の集団乱舞は交尾の相手を探すための行動だ。ならば、蛍たちにとってはこれもまた子孫を残すための立派な『合戦』なのだろう。
「ま、昔の人もそういう意味で『合戦』って言ったんじゃないんだろうけどな」
自分で自分の考えにツッコミを入れながら、俺は自分が座っている岩の横に置いた、小さめのクーラーボックスのフタを開けた。中には氷水に漬けられてキンキンに冷えた数本の缶ビールや日本酒の一升瓶が浮かんでいる。
「飲むのはやることやってからにしろ、とか言われそうだが・・・まあ、ちょっとくらいなら良いよな?」
そう言って自分を正当化しながら俺はボックスの中に手を伸ばした。誰も見ていないのに正当化も何も無いような気がするが、そこはそれ、気分の問題である。
ボックスの中から500ml入りの缶ビールを取り出す。日本酒のほうはこの後の仕事に必要なので飲むことはできない。手で缶についた水を軽く拭ってからプルタブを引くと、プシュッという心地良い音と共に飲み口から白い泡が噴き出した。
「おっとっとっと」
慌てて缶に口をつけて、よく冷えた中身を口に含む。鼻からホップの苦みが抜けていくのを感じながら飲み込むと、まるで炭酸飲料を飲んだような軽い痛みと熱さが喉に残った。
「ぷっはぁー!たまらん!」
冷たさと熱さが一緒になって胃へと降りていく感覚に思わず声が漏れる。蛍の光を眺めるのも風情があって良いが、やはりこれだ。これがあるから氷水でいっぱいのクーラーボックスを担いで山の中腹にある沢まで歩いていくという結構な労働を毎年続けていられるのだ。そんなことを考えながら缶ビールを傾けていると、耳元でプーンという甲高い羽音が鳴った。どうやら蚊が飛んでいるらしい。
「・・・そういえば酒を飲むと蚊に刺されやすくなるって何かで言ってたな。虫よけスプレーでも持ってくれば良かったか?」
うろ覚えの豆知識をうっかり思い出してしまい思わず苦々しい表情になる。どこで聞いたかは忘れたが、酒を飲むとアルコールの臭いに惹かれて蚊が寄ってきやすくなるらしい。いかにもありそうな話だがそもそも虫にアルコールは効くのだろうか?そのあたりを考えると、我ながら眉唾な話である。
「でも案外当たってるかもしれないな」
再びビールを口に運びながら俺は考えを巡らせた。確か近畿地方には、その昔退治された酒呑童子という悪鬼の怨念が人の血を吸う蚊になったと語る伝説があったはずだ。
死んだ鬼が虫になるというと突飛な話に思えるが、鬼に限らず死者が虫になる話は結構多い。例えば番町皿屋敷の怪談で有名な幽霊のお菊さんにはその怨念が「お菊虫」という虫になったという後日談が伝わっているし、合戦中に稲に躓いて転んだせいで敵に討ち取られた武将の霊が稲を食いつくす害虫となって祟ったという「実盛虫」の伝説は日本中に伝わっている。現代でもお盆の時期になると死者の霊が蝶や蜻蛉になって帰ってくると言われている。
こういう事例から考えれば、酒好きで有名な酒呑童子の怨念から生まれた蚊がアルコールを含んだ血に惹かれてもおかしくはないのかも・・・?
「・・・いや、ないない」
頭に浮かんだ考えを振り払うように俺は頭を横に振った。確かに酒呑童子の怨念が蚊になったという伝説はあるが、全ての蚊が酒呑童子の怨念から生まれたというわけではない。酒呑童子が酒好きだから蚊も酒を飲んだ人間に寄ってくるというのはあまりにも突飛な考えだ。我ながら相当酒が回っているらしい。そう思って手に持った缶を振ってみると、飲み始めて10分もたっていないというのに中身がほとんど空になっていた。飲むのはやめてそろそろ仕事に移った方がよさそうだ。
俺は座っていた岩からおもむろに立ち上がりクーラーボックスから日本酒を・・・麓の神社で用意してもらった御神酒が入った一升瓶を取り出す。そして、フタを開けると瓶の中の御神酒を沢の周りの地面に撒き始めた。
一応断わっておくと、これは酒に酔って奇行に走っているのではない。この後の仕事のために御神酒で場を清めているのだ。
水たまりにならないように気を付けながらまんべんなく撒いていくと、辺りに芳醇な酒の香りが漂い始める。
「よし、このくらいで十分だろう」
瓶の中身が半分ほどなくなったところで酒を撒く手を止め、残った御神酒を近くの岩のお椀状にへこんだ窪みに注ぐ。これで準備は完了だ。額に滲んだ汗を拭いながら目の前の沢に目をやると、蛍たちの『合戦』の勢いが明らかに増していた。
「ちょうど寄ってきたみたいだな。じゃあそろそろ始めるか」
誰に言うでもなくそう呟くと、俺は仕事を始めた。
***
「仏説摩訶般若波羅蜜多心経、観自在菩薩、行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄、舎利子・・・」
誰もいない沢に俺が読経する声だけが静かに響く。
読経の間にも蛍たちの『合戦』は勢いを増していき、沢の周辺を青白い光で周りから浮かび上がらせていた。
「・・・色即是空、空即是色、受想行識亦復如是、舎利子・・・」
読経が進むにつれて蛍たちの動きはより激しさを増していき、その輝きも強さを増していく。青白く尾を引きながら互いに衝突するスレスレの位置を飛び交うそのさまは、まるで数多の人魂が戦っているかのようだ。
「・・・是故空中、無色無受想行識、無眼耳鼻舌身意、無色声香味触法・・・」
そして読経が三分の一ほどまで進んだとき、変化が生じた。蛍たちのうち一匹が纏う青白い光が形を変え、馬に乗った武者の姿をとり始めたのだ。変化は他の蛍たちにも次々と起こり、あっという間に沢は青白く光る騎馬武者が争う合戦場へと様変わりする。
その光景を前にして、ひたすら読経を続けながら俺は心の中で呟いた。
(始まった!)
蚊や蝗、蝶や蜻蛉など死者の霊が化したとされる虫は多いが、蛍もまたそういった虫の一種だ。特に、蛍になる死者には戦で死んだ武者の霊が多く、蛍が集団乱舞する時期になるとそれに乗じてこのように生前の合戦の続きを始める。これが『蛍合戦』という言葉の由来だ。
俺の仕事は毎年この時期になると起こる、この本当の『蛍合戦』を鎮めることなのだ。
(さて、ここからが本番だ)
俺は一年ぶりに見る『蛍合戦』を前に気を引き締める。
『蛍合戦』を鎮める方法は単純だ。まず御神酒を供えた後、今唱えているお経、『般若心経』を全く途切れず、言い間違えずに十遍繰り返すのである。もっとも、単純であっても決して簡単ではない。もし途中で途切れたり言い間違えたりすれば再び最初からやり直さなけらばならないし、そもそも読経は地味な見た目の割に体、特に舌と喉を酷使する過酷な作業だ。普段から慣れていなければ最初の二、三回は平気でも五回、六回と繰り返すうちに疲労が溜まり、舌が回らなくなったり咳き込んだりするようになる。
毎年この仕事をやっているとはいえ普段から読経している訳ではない俺にとっては、気を抜ける作業とはとても言えない。
「・・・三世諸仏、依般若波羅蜜多故、得阿耨多羅三藐三菩提、故知般若波羅蜜多、是大神咒、是大明咒・・・」
もうすぐ一遍目が終わる。合掌する手が汗で湿るのを感じながら、俺は光る騎馬武者が駆け回る合戦場を見つめた。
***
「・・・故説般若波羅蜜多咒、即説咒曰、掲諦掲諦、波羅掲諦、波羅僧掲諦、菩提薩婆訶、般若心経」
最後の一節を唱え終えたところで、俺は安堵のため息をついた。
一遍目が終わった後、ところどころ危ないところもあったがどうにか途切れることも間違えることもなく読経を続け、今ようやく十遍目が終わったのだ。
「・・・よし、どうやら成功したみたいだな」
額の汗を拭いながら沢を見れば、そこにはもう青白く光る騎馬武者はおらず、ただ蛍たちが草の間や沢の上を飛びながら穏やかに点滅を繰り返していた。
今年も無事『蛍合戦』を鎮めることができたらしい。
「さて、それじゃあ、改めて・・・」
本日の仕事が無事終了したことを確認すると、俺は再びクーラーボックスの横の岩に腰を下ろした。
今夜は新月。宵闇の中で蛍の光がよく映える。
本日二本目となる缶ビールを取り出しながら、俺は月見酒ならぬ蛍見酒を味わうのだった。
拙作をお読みいただきありがとうございました!
今作は「とりあえず何か妖怪関係の文章を書きたいなあ」という思いから出来上がった作品です。
最初は虫の妖怪についてダラダラと語るエッセイのようなものを書くつもりでいたのですが、私の脳内で一体何が起こったのか、気付いた時にはこうして小説になっていました。
そのため、全体的に強引な話運びとなってしまいましたが、今後精進していくつもりですのでどうか笑って許していただけると幸いです(ちなみに、途中強引な流れで酒呑童子や実盛虫の話が出て来るのは今作がエッセイだった頃の名残です)。
何はともあれ、拙作をお読みいただき本当にありがとうございました!もしよろしければこれからもよろしくお願い致します。
汗牛屋高好