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恋じゃないもの

作者: 歩く楽しみ

「まじ有り得ないよね、あんな女! ジョシコーセーの癖に、大学生に媚び売ってんじゃねーよ!」

 様々な感情と添え物程度の理性が折り混ぜられた口調で、チサトはチェーンのコーヒー店のテーブルをドンと叩いた。ひっくり返る程の力で叩いた訳ではなく、音の唐突さと大きさの余り周囲の注目を無意味に買ってしまうこともなさそうなので、内心私は安心する。

 チサトの主張の中で、許されるならば質問したい点は二つ。

 一つが、そもそも『あんな女』の方に怒っているのか、ということ。

 もう一つが、『ジョシコーセーが大学生に媚び売る』のはつい先日までチサト自身が率先して行っていたことではないか、ということ。

 共感と共通とそれに付随する束縛によって成り立つとされている女性的人間関係の中にその身を甘んじ、特に嫌と思っている訳でもない私は、その関係性の持続の為に、半ば本能的に浮かんだその疑問を口に出すだなんてする筈もないけれど。

 私はまだ何も言葉を返していないというのに、チサトはまるで一つの話題が完結したと言わんばかりに、もっと言えば一人で映画を観終わって劇場から出て来たときの顔色と、金曜日のバイトでスマイルと時給をゼロにした残業が長引いた日の表情を組み合わせたような顔で、はぁと溜息を吐いてはトールサイズのアイスキャラメルラテのストローに口をつけた。いかにも甘そうな色の液体がストローを徐々に染めていき、やがてはチサトの口の中へ到達する。そんな様子を見ながら、私も自分のサクララテに口をつけた。シーズン限定であるそれは、いかにも春らしい風味を存分に主張してきて、油断すれば一瞬で頭の中まで花の色になってしまいそうですらあった。

「っていうか、私が高校卒業した途端に、高校生と浮気とか……女子高生なら何でもいいの? って感じ」

 その独り言のような会話の続きに、私は『ちゃんと彼氏さんの方を責める気もあるんだ』と恐らく望まれてはいないであろう感想を抱く。つい先程は、浮気相手である一つ年下の女子高生に責任と罪を押し付けていたときは、何故そうなるのかという疑問が尽きなかった為に話に共感しづらかったので、こちら側に話が進むのはありがたいといえばありがたい。

確かに、聞いたことはある。『男は浮気されたとき、浮気した女を責める。女は、浮気相手を責める』と。

――有り得ないだろう、と、私はそれを初めて聞いたときに思った。力づくで、とか脅されて、とかではなく、断ることもできたのに、唯一愛すると誓った筈の相手を裏切る行為に手を染めるのは、誘った相手が悪い訳もなく、本人が悪いと。人間の理性を、恋愛感情の中での理性を、最大限に求めた結果としての私の結論。

 しかし、実際に浮気された側の立場に立たされたチサトの言葉を聞くと、どうやら先の格言(経験則?)自体は嘘ではないということは解って、しかしやはり自分の体感としては納得できないままだった。

(どっちにしろ、浮気された側が悪いなんてことは、ないんだろうけど)

「ねぇアイぃ、私、どうしたらいいんだろぉ……」

「うーん、ほんと大変だねチサト」

 全く質問に答えていないけれど、恐らくもっともこの場に適した回答であろう。

「何で浮気なんてしちゃうのよ……あー最低」

 予測通り、質問に答えていない事に対する抗議はなく、そしてまだ会話になっていない会話が続く。

そういえば、昨日の夜にチサトからメールが送られてきたときまでは、チサトは随分錯乱していて、何を言っているのかも解らない状況だったが、今はもう、少なくとも口調は落ち着いているようだ。思考回路の冷静さは、万全とは言い難いが、そもそもチサトは平時からしてこんな感じだったかもしれないし、つまり彼氏の浮気発覚から一晩空けて、チサトは未来に向けての姿勢を整え終わっているようだ。

 と、私は誰の得になるのかも解らない分析をしながら、僅かながら心からの同情をチサトに注ぎ、それの表明とばかりにテーブルに視線を落とすチサトの頭を撫でた。チサトはいつもそうだ。良い意味でも悪い意味でも『女の子らしい』クセに、実は無邪気で、だからちょっとの悪意に傷つけられてしまう。我が友人ながら、とても哀れで、放っておけなくなってしまう。

 そういうところに、もしかしたら彼氏……ユウキさんも惹かれたのだろうか。恐らく、そうなのだろう。男には、弱さを魅力として捉える人が多いらしい。ユウキさんがその内の一人だとしたら、そして元からチサトのことをよく知っていたという前提も含めれば、ほぼ確実にそうだと断定していい。ユウキは、チサトの弱さに惚れたのだと。

 尤も、チサトの話を信じる限りでは、ユウキさんはチサトの弱さを浮気という形で傷つけてしまったようであるだけに、若干苦々しく顔を歪めざるを得ないのだけど。

「……ねぇ、チサトはユウキさんと復縁したいの?」

「復縁? って、まだ付き合いたいかってこと?」

「あぁうんごめんね、そういうこと。浮気されても付き合い続けたいのかなって」

 その質問は、私の率直な疑問だった。他にも色々飲み込んだ質問はあったけれど、これなら気分を害さないだろうということで、慰められるべき立場であるチサトに対して申し訳ないと思いつつも、自身の好奇心を優先して、チサトの答えを待った。

 一度浮気されても、付き合えるのか。付き合いたいと思えるのか。要するに、一度の裏切りを許せるのか、という質問。意地の悪い訊き方だっただろうか、と困り迷い惑う様子を隠そうとしないチサトを見ながら、反省した。

「そういうの、今は考えられないかな」

 チサトのそんな言葉には、拒絶の色が混じっている気がした。これ以上、そんなことを訊くなという。いつものチサトだったら絶対に混ぜないような感情だけに、恋愛、特に浮気されたという状況は人を大変ナイーブにさせるのだろうと、私は考えてみれば当たり前のことに思い当たった。

 ――された側であるチサトが『今は考えられない』と言うのであれば、した側であるユウキさんは、どう思っているのだろう。私は次に、そんな疑問にぶつかった。尤もこんなことをチサトに言ってみたら、先程とは比べ物にならないくらい、それこそ激昂されてもおかしくないくらいに気分を害するであろうけれども、寧ろ私としてはこちらの方に興味が湧いてはいる。

「あーもうヤダ! ユウキなら絶対ないと思ってたのに、マジムカつく!」

 仕切り直すように、チサトはもう一度憤慨の情を顕わにした。自分に近しい者に限っては、様々な『そういうこと』――主に良くないことをしないと、特に根拠もなく決めつけるなんて実によく聞く話ではあるけれど、ユウキさんについて、そして浮気という事についてだけ言えば、私もチサトと同意見だ。

「ユウキだけは信じてたのに……男の人ってやっぱりみんなそうなのかなぁ。私もう男の人信じられる気がしないよ」

「そう、だね。ユウキさんは、うん。でも、大丈夫だって」

 何がどう大丈夫なんだ、と自分に突っ込みを入れつつ、チサトを慰める。

 ユウキさんという男性は、自分が浮気するどころか、相手に浮気されても上手く怒れないような、なんなら言い訳と共に謝られたらそのまま許してしまいそうな、そういう雰囲気の男性だ。普段の様子ではいかにも普通の男性のようではあるが、二人だけで話したときなど特に、全く様子を変えた、無条件無際限の優しさが滲み出ていて、なんというか、ずっと二人だけで話していたいような……いや、こういう表現をすると誤解を招きかねないからこれ以上詳細な描写は控えるが、とにかく大切な女性に対して簡単に悪意を持った裏切りを行えるような人物には、とても見えない。

 いや、だからこそ逆に言えば、もし何らかの理由でユウキさんに好意を持った女性と二人きりになって、そしてもしその女性が同情を誘いながら関係を迫ったとしたら、ユウキさんはその優しさ故に、強く断ることができなさそうだ、と捉えてもいいかもしれない。

 つまり、なんだ、私は結局、『浮気はさせた側も悪い』という理屈を今肯定したのだろうか。迫られたら断れないだろうから、迫る側が悪いと。まさかそんな、とも一瞬思ったが、しかし実際に考え直してみればなんとなくユウキさんが悪いように思えないのも、事実だ。これでもし、チサトと付き合っている男性が、そしてチサトが高校を卒業し、女子高生という属性が消えた直後に別の女子高生と浮気した、という表記するだけで最低な男が、ユウキさん以外なら、私は迷うことなく浮気した男側を糾弾するであろうだけに、なんとなく複雑、というかバツが悪い。

 結局私は、チサトと話し色んな事を考える上で、『浮気はどんな状況であれ、した人が悪い』という揺らぐことのなかった筈の立場を失い、当人であるチサトよりも寧ろ混迷を深めてしまった、ということになる。全く私は、何をしているんだ。と、今にも泣きそうな顔で眉を曲げているチサトの様子を伺いつつ、本当に今同じ場所に居るとは思えないな、なんてことも思った。

 チサトのキャラメルラテの中の氷はすっかり溶けてしまっているようで、心なしか液体の色も薄くなっているようにも見える。そろそろこの場所も立たないと迷惑かな、次は何処に行こうか、なんてことに、恋愛について考えることを放棄した頭でぼんやり思いを巡らせた。

「アイ、私、別れた方がいいのかなぁ?」

 私が『どうするの?』と訊いたときには、今は考えられない、と拒絶した割に、チサトはもう一度その話題を掘り返してきた。別に不快になる訳ではないが、気分が変わりやすいらしいということは再認識した。それに、逆に言えば、突然気分を変えても大丈夫な相手だ、と信用されていると言えなくもない。だから不快になる訳がない、と誰に向けてかも解らない言い訳をしながら、私はチサトの質問に答える。

「本気で嫌だ、ってチサトが少しでも思ったなら、別れた方がいいと思う」

 何の本で読んだのだったかは忘れたが、少なくとも自分の考えではないし、自分の経験からは間違っても出てこない、けれども少しは深みがありそうに見える意見を、私は述べた。チサトは、何を言っているのだろう、と言いたげな顔をしていたが、まさか発言の薄さ浅さに気付いた訳ではあるまい。

「ごめんね、私はあんまりこういうの得意じゃないから、変な事言ってるかもだけど」

「うぅん、そんなことないよ。アイが私達のこと考えてくれるの伝わってくるし」

「そうかな、だったら良いんだけど……」

 伝わっているのか、と皮肉気味に内心の小さな驚嘆を隠して控えめに言う私にかけたチサトの言葉は、

「それに、アイってこういう経験なさそうだし」

 というものだった。

 思わず、『は?』と訊き返したくなったが、それをぐっと抑えて、『今日は天気がいいね』と言われたときと変わらない声で「そうだね」と返した。実際、チサトの言う通り、チサトのような目に遭った経験や、そもそも恋愛した経験すら薄い。それに、チサトもそれを事実として以前から知っていて、だからこそ何の他意もなくそんなことを言ったのだろう。

 そういう事実の積み重ねは理解できるが、しかしやはり、言われた瞬間の苛立ちまで否定することはできない。端的に、そして下品な言葉で言えば、ムカついた。

 尤も、チサトが突然こういうことを言ってしまうのは珍しいことではなく、チサトと最も仲が良く、関係も長い私にとっては慣れっこなだけに、すぐにその苛立ちも治まったのだけれど。

「まぁね。本で読んだ分はチサトより多いよ?」

 と、余裕のアピールとばかりに若干の自虐とウィットを交えつつ、私ははにかんだ。その裏で考えていることはと言えば、『しまった、結局飲み物もないのに長居してしまっているな』なんてことだったけれど。

「そうだ、アイは恋とかしないの? アイが恋愛したり彼氏居る方が私もこういうの相談しやすいしさ!」

「私? 私はまぁ……ねぇ」

 浮気の話をした直後に彼氏を作った方がいいだなんて、よく言えたものだ。なんてことも思いついたがが、本当に思っている訳ではない。それに、チサトの言い分はとにかく、そろそろ恋愛をした方が、というのも理解はしている。

「アイって好きな人とか居ないの? 昔から全然聞いたことないけど」

「好きな人……そうだね、居ない、かな」

「えー勿体無い! 絶対好きな人作った方がいいよ?」

 その好きな人に浮気されたのは誰だ。それに、好きな人は『作る』ものなのか。その二つの疑問については、思いついただけではなく、純粋に思ったことだった。チサトの無神経さは、穢れなき幼子の面影すら覚えさせる。

「必要ならその内できるよきっと。それよりもチサトの方が心配でそれどころじゃないし」

「もー、アイ、私のお母さんみたいなこと言わないでよ!」

「はいはい」

 と、こんな何度したかも解らないような会話を交わして、チサトの機嫌を損なわないようにしつつ、興味を私の恋愛事情から逸らすことに成功した。

「もうコーヒー無くなったし、別のとこ行こう? 大学に持っていくバッグ選びたいって言ってたよね」

「そうそう! 可愛いの、小さいのしか無くてさー、大学ってどれくらいのバッグで行けばいいのかな?」

「だよね、教科書とかレジュメ入れなきゃ、と思うけど道歩いてる大学生ってもっと小さいバッグだったりするし」

「授業じゃなくて遊んでるだけなんじゃない? 大学って自由っぽいしさ」

「なのかなー」

 いかにも『もうすぐ大学生です』と世間に喧伝するかのような会話を、恥じることもなく交わしながら、ゴミを片付けてカフェから出ていく。春休みの名にそぐわない肌寒さは、まるで私達を『浮かれるな』と戒めているかのようであった。




「あはは、やっぱりもうチサトから聞いてたか。ボロクソに言ってたでしょ、俺のこと」

「そ、そんなことは……」

 ユウキさんの、質問じみた確認を、私はなんとなく否定も肯定もできなかった。事実としては、ユウキさんが言うようにチサトがユウキさんのことをボロクソという程ボロクソに言ってはなかったし、寧ろ浮気相手の方に怒っていたような気がするけれど、私は何故かそれをそのまま伝えない方がいいかな、と思って、曖昧な返事をしてしまったのだ。

 というより寧ろ、ユウキさんとしてはこういう返答を望んでいるのではないかと、なんとなく思ってしまったというのもある。勿論完全な否定ができるのであれば、それに越したことはないのかもしれないが、事実を事実として伝えれば、ユウキさんは困惑してしまうだろうと。

「はは、まぁ、ボロクソ言ってくれた方がいいよ。実際、俺がやったことって最低なわけだし」

 自嘲気味な笑みを浮かべるユウキさん。この表情は、なんとなくチサトの惚気話をしているときのそれと似ているような気がして、しかしそこに含まれている感情は全く別の筈だ、と私は自分の感性を否定する。

 それはそうと、何となく母性本能をくすぐるユウキさんの表情を見ると、『そんなことはない』と言いたくなってしまう衝動にも駆られるが、実際ユウキさんのしたことを肯定することは、自身の理性が許さなかった。

「どうして、ユウキさんが浮気なんて」

「あ、それもう訊いちゃう? 何言っても言い訳にしかならないな、と思って、出来れば言わずに済ませたいんだけど。特にアイちゃんの前ではさ」

「言い訳でも気にしないので。チサトの事は関係なく、本当に気になっちゃうんですよ」

 ユウキさんの最後の言葉には敢えて触れないようにしながら、私は一切の偽りのない気持ちを率直に、自分で冷静であることを確認しながら、ぶつけた。ふと小細工をしようと意識を逸らしてしまえば、そして油断すれば、私はきっとユウキさんの良く言う、なんでもないような『なんでもなさそうな』言葉にやられてしまうだろうから。

「いや、本当に情けない理由だよ? まぁ、隠すのも変だし、言うけどさ。言っておくけど、言い訳だと思わないでね? どんな言い訳だろうと、俺が最低だってことは変わらないから、そのつもりで」

「……はい」

「簡単に言えば、そうだね、断り切れなかった、っていうのが一番かな。バイト先の後輩に、休日買い物手伝ってくださいって言われたのが最初で、そっからズルズル、って感じ。買い物くらいなら浮気じゃないよな、って思ってた俺を殴りたいね、今は」

 探偵小説で犯行を暴かれた犯人が犯行理由を語るときのような口調で、ユウキさんは何処か遠い所を見つめた。

「それって、前から、ですか」

「うん、そうだね。チサトは自分が女子高生じゃなくなったから浮気した、って思ってるみたいだけど、本当の所は全然違うよ。あれ? これじゃあ言い訳どころか、自分の悪事を自分でバラしてるだけだね」

 明るく、なんでもない風に話そうとしているけれど、内心、怯えのような落ち着かない何かを抱えていることが、彼女でも浮気相手でもない私にすら、簡単に見てとれた。今まさに事が起きている筈のユウキさんは、それをまるで昔の失敗談のように語ろうとしているのだろう。だから、口元が笑っていて、笑っているのが口元だけなのだろう。無理矢理歪められて、押し潰されそうな中で内心を吐き出そうとしているユウキさんの唇からは、一種の痛々しさすら覚えさせる。

「ごめんね? なんか、変な話ばっか聞かせちゃって」

「いえ、そんなことないです。ユウキさんのことですから」

「そう? まぁ俺もアイちゃんだからこんなことまで話せるんだけどさ」

 張り付けたようにはにかむユウキさん。もしかしたらユウキさんにとってのはにかみは、誤魔化しの意味が強いのかもしれない。なんて推理が脳裏をよぎった。

 そしてまた、『君だから』という魔法のような言葉をなんとか正面で受け止めすぎないように気を付けて、また浮かんできた疑問をユウキさんにぶつける。

「ユウキさんは、チサトと別れようと思いますか?」

「――――ははっ、直球だね」

 このとき、ユウキさんは本当に愉快そうに笑った。何が面白かったのだろう、と思ったけれど、多分私が異様に真剣そうな顔で言うから、滑稽だったのかもしれない。尤も表情が硬かったのは、ユウキさんの不意打ち気味な甘い言葉に耐えるためであったのだけれど、まさかそんなことが伝わる訳がないし、そして伝える訳にもいかない。

「別れないで、それで両方が幸せになるならそうしたいけど。でも大体それって無理だし、俺自身としてはともかく、チサトを我慢させたり不安に思わせるくらいなら別れた方がいいんだろうね」

 そんな言葉を聞いて私がまず覚えた感情は、名前をつけがたい、複雑に何かと何かが混ざり合ってしまったものだった。その中には、同情すら含まれていたのかもしれない。だって、断りきれなかった責任も勿論ユウキさんにはあるけれど、そもそもその浮気相手の女子高生とやらが迂闊に手を出してこなければ、ユウキさんがこんな悲しいことを言う必要もなかったのだから。

 いや、待てよ。『悲しい』? ユウキさんの言葉は、悲しいものだったのか? そんなこと考えもしなかったが、しかし思い直してみればそうなのかもしれない。苦渋の決断、とまではいかなくとも、恐らく自分以外の誰かのために何かを諦め、そして絞り出したような結論。それは一種、『悲しい』と表現しても間違いではないのかもしれない、と。

「えっと、変な事訊いちゃってごめんなさい」

「いいや全然。気にしないで。寧ろ俺も訊きたかったんだよね。反則かもしれないけど、チサトはどう言ってたのか、とかさ」

「チサトは」

 そしてまた、私は言葉に詰まった。質問の内容に、というよりは寧ろ、ユウキさんの前でチサトについて言及すること自体、私はスムーズに行うことができなくなっているのかもしれない。兆候、というかそういう傾向は、チサトとユウキさんの関係が良好だった頃からなくはなかったかもしれない。普段なら全然平気なチサトの話が、ユウキさんの前だと何となく言葉少なになったり、或いは当たり障りのないように言ってみたりしていたような気がする。

 多分、関係に考慮して、あまり不躾なことを言わないようにだとか、そういう気持ちが心の奥で働いていたからなのだろうけれど……いや、違うのだろうか。なんとなく釈然としないが、まぁいい。

 とにかく今は、ユウキさんとの会話で不自然にならないように、自然と繋いでいけるように、それだけに意識を注ごう。

「チサトは、よくわかんないって言ってました。なんかチサトらしいですよね」

「そうだね。それが一番チサトらしい。二番目は、はっきりと『別れる!』かな」

「あぁ、それっぽいですね。流石ユウキさん」

 私達は、くすくす笑った。

 悪口のつもりはないけれど、しかし間違っても本人に聞かれたくないな、と思った。それは今の会話だけではなく、今日の会話全てにおいて共通しているのだけれど。更に付け加えて言うのであればチサト本人にだけではなく、この世界の誰にも聞かせたくない。子供の頃に作った秘密基地の中で、好きな人の言い合いっこをしたときのような気分を、私はユウキさんと話しているとき常に、抱えている部分を否定できないのだから。

「っていうか、アイちゃん結構がっつり俺達のこと訊いてくるよね? やっぱチサトの親友だし気になるってこと?」

「それもあるんです、けど」

 また、私は言葉を詰まらせた。けど、の続きに、私の本心は何を続けたかったのだろうか。私の一瞬の沈黙を何か重い意味でもあると受け止めたのか、ユウキさんは心配そうにこちらを見ている。

「いえ、それもあるけど、単純に私自身に経験がないから訊いておきたいのかなって」

「え? あぁ、そういうことね。経験ないんだ?」

「そうですね。チサトの恋愛とかバタバタを見てると、気付いたら自分の事が全然」

「あっはは。それは大変だ」

「やっぱり変ですよね。この歳になっても全然恋愛しなくて、人の恋愛にばっかり興味があるって」

「そんなことはないんじゃない? 経験がないとかっていうのは結局、今のアイちゃんにとってそんなに必要なことではなかったってだけだし。あと、誰かが損をする訳でもない『変』は、いい『変』だよ」

 にこやかに、そして何でもないように、ユウキさんは言った。今まさに自分が恋人と別れることになるかどうか、という瀬戸際に立たされているというのに、その余裕はなんというか、本当に年齢が一つしか違わないのかと不安すら覚えさせる。

 ユウキさんがこういうことを言うのは本当に二人きりのときだけで、大人数で居るときは、一つ上どころか寧ろ同い年、年下にすら見えるときがあるというのに。だからこそなんというか、こういう場面でそういうことを言われると、『卑怯だ』とでも言いたくなるような、そういう気分にさせられる。

「だといいんですけど。嫌じゃなかったですか?」

「嫌なワケないでしょ。意外とこういうときって自分の事話したいし、でも自分から喋ったらうざいし、話したいこと訊いてくれる人は貴重だよ。それにまぁ、そうじゃなくても相手がアイちゃんだしさ」

「はいはい。誰にでもそういうことばっかり言ってるから、女子高生ちゃんも勘違いして誘ってきたんじゃないですか?」

「あら、俺がアイちゃんを口説いてるっぽいってこと? うーん、アイちゃんが相手だったらチサトもなんか許してきそうだよなぁ。勿論絶対しないけどさ」

「そんなことありません。普通より大激怒に決まってるでしょ」

 うっかりとげとげしくしすぎてしまった私の言葉に、ユウキさんはいかにも冗談らしく、大袈裟に「うっ」と胸を抑えた。女心を全くわかっていないのだろうか、この男は。いや、わかっていないからこそ、あぁいうことを言えるのかもしれないけれど。――『あぁいう』、が具体的に何を指すのだろうか。何故解らないのに思ってしまったのだろう。

「まぁさ。とにかく俺はもう、この後チサトとどうなるかに関係なく、今回みたいな事は絶対しないようにするって、それだけアイちゃんに聞いておいてもらいたいかな。自分の中だけで決めちゃうと、あっさり覆しちゃうかもしれないし、証人ってことで」

「出番がないことを祈っておきます」

 再び、私達は笑った。そういえば、これほどちゃんと二人きりで話したことは、今までになかったかもしれない。今まで二人で話すといえば、大人数で遊ぶ時の待ち合わせに着くのが早すぎたとか、軽くメールを交わすとか、隙間時間程度だった。

 今日話せたのは、私が春休み明けから通う大学に、『気まぐれで』『一人で』下見として来たから。一人で、についてはそもそもチサトとは通う学校が違うからなのだけれど、気まぐれで今日この時間に来て、同じくほぼ気まぐれのように学校の図書館に本を返しに来たユウキさんと遭遇することになったのは、本当に稀なる偶然の結果だ。

 そして結果の更に結果として、悪くない気分で、珍しいロケーションでの会話ができた。状況に言葉が沿っていないかもしれないが、しかし正直な私の感想としては、神様が与えてくれたご褒美のようだ。

 ユウキさんは、ごく当たり前のように席を立って、しっかり伝票を持ち、先を歩けるようにしてから、「そろそろ行こうか」と言った。そして言うだけ言って、さっさと、しかし早足ではない歩速でレジへ向かっていった。

 本当に一つしか違わないのかな。なんてことを思いながら、私はわざとゆっくり歩いて、遠くなっていくその背中に、僅かながら顔を綻ばせていた。




「ねぇ聞いて! ユウキがお詫びに今度ディズニー連れてってくれるんだって、しかも泊まり! 今から楽しみすぎてヤバいんだけど!」

「……えっ? チサト、それって……もしかして」

「うん! 私、ユウキとまた付き合うことにしたんだー。なんか落ち着いて聞いてみたら、ユウキ全然悪くないんだもん。だから、しょーがないなーって」

 そう語るチサトの声は何処か誇らしげで、そして当然のように幸せと喜びに満ち溢れていた。

ユウキさんと話した日、その後に様々な用事を済ませて家に帰った瞬間、という余りにも丁度良いタイミングでチサトから電話がかかってきたので、表示を見た瞬間は一瞬ドキっとしたが、いざ受話ボタンを押すと今度はチサトの声の大きさにビックリしてしまった。

「そっか。よかったね」

「うん。本当にアイのお陰だよ」

「私? 私なんかしたっけ」

 ただの自慢混じりな報告かと思いきや自分の名前が出てきたものだから、私は一瞬虚を突かれ、素の反応を返してしまう。

「ほら、『本当に嫌だってちょっとでも思うなら別れた方がいい』みたいなこと言ってたじゃん? アレ考えてみてさー、ムカついてはいたけど、嫌ではなかったなーって思ったから、話聞いてあげることにしたの。やっぱりアイの言うことは大人だなーって」

「大人って……そんな、私なんて」

「経験ない、なんて言っちゃったけど、そういえばアイって本とかめっちゃ読むもんね。また頼ってもいい?」

 チサトは、私に気遣っているんだか、それとも一瞬でも思ったことを全て言っているだけなのか、判別のつき辛いフレーズを並べる。

「頼られてもちゃんと応えられるかは解んないけど。うん、いいよ。聞くくらいしか出来ないと思うよ?」

「いいよ全然! アイって人の話聞くの凄い上手だよね」

「そうかな?」

 内心では、聞くのが上手どころか『凄い上手、じゃなくて凄く上手、が正しい』なんて事を思っているのだけれど。それをわざわざ言わないから聞き上手、ということなら誰でもそうなれそうなものである。

「うん。ユウキも言ってたもん。アイと話したら、私とちゃんと話す気になれたって。あっそうそう、それも含めてありがとね!」

「えっ?」

 ユウキさんが私と話したら、というのはまさか、今日の昼前に進学先の大学でユウキさんと会ったときのことだろうか。いや、だろうかと言いつつ、凡そそれしか可能性がないだろうことは解っている。

 悪いことをした訳ではないが、電話がかかってきた瞬間と同じような焦りが心臓を打った。

「……ごめんね」

「うん? 何で謝るの?」

「なんでもない。でも、本当に良かった。これからもお幸せにね」

「ありがと! アイも良い人見つけてね」

 まだそれを言うか、という辟易した気持ちを半分ほど隠し、半分ほど表情に表してみたが、案の定チサトは私の話なんてほぼ聞いていないので、その表情の色は一割、いや一分すら伝わっていないだろう。

「仲直りしたらやっぱり恋愛っていいなぁってまた思えたからさー。アイにも幸せになってほしいもん」

「……あはは」

 私は今、上手く笑えているだろうか。少なくとも、ユウキさんと直接対面していたならば、引きつった表情を見抜かれていたことだろう。

「でさー、話変わるけど、本当に好きな人いないの?」

「いないよ。中学の頃とかなら、気になるかも? くらいは居たかもしれないけど。今更恋愛なんてする気になるしさ」

 因みに、これはチサトに限らず他の誰かと話していて、こういう話題が上った場合にほぼ毎回持ち出す説明だった。それこそ、飽き飽きする程口にしたはずの言葉だが、今日ばかりは何故か、その言葉が私の心を揺らがせた。陰口を叩かれていた人が突然現れ、何も話していなかったように振る舞うときのような、そういう心情だ。

「またそれー? いつでも相談待ってるからね」

「はいはい。ほら、私と電話なんてしてないでユウキさんにメールでもしてあげたら?」

「うん! ありがとねアイ、ばいばい!」

 電話の向こうの満面の笑みがいとも簡単に想像できてしまうような、跳ねた声で言って、そしてあっさりと電話を切るチサト。通話が終了したことを示す機械音の二つ目で私も携帯電話を閉じて、充電器に差した後で、私は自らの身をベッドに投げだした。見飽きすぎて意識していなかった天井の柄が、今日はやけに小さく見える。

「私恋愛経験殆どないからなぁ」

 そんなことを言ったとき、ユウキさんはまるでその事実は希望の一種のようなものであると、私に思わせてくれた。それは、夢のような瞬間だったと思う。今までマイナスだと思っていたことを、プラスへと掬い上げてもらったのだから。

「仲直りできてよかったなぁ」

 ツン、と鼻の頭が痛くなって、天井の柄が、今度は滲んで歪んで見えた。

「私、恋愛経験が少ないんですよ」

 もうとっくに天井なんて見えなくなって、だから私は目を瞑った。沢山の人達の中で、チサトとユウキさんが仲良く手を繋いでいて、チサトは元気にユウキさんを引っ張って、ユウキさんはそんなチサトにはにかんでいて。そういう景色が、頭に浮かぶ。

 私は、自分という人間の、『とある切実な悩み』に、こう答えてあげた。


 ――――だけど失恋は、したことがあるでしょ。


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