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燻る螢火

石段は全部で72段。


一番下から一番上を見上げるとあまりにも高すぎて、その先に何があるかわからなくなってしまうのです。


この石段を最初に見たのはまだ5つの頃でしょうか。私はこの高さに呆気に取られて、口を開けたまま見上げた後、これを上り切れば天に行けるのではないかと心躍らせながら上った記憶がございます。

子供の頃はそんな期待を持ちながらも体力が付いていかず、何度もこの石段を登るのを断念したことがありました。段が多い上に傾斜は急なのです、子供は愚か大人にもましてやご老人にもここを上りきると言うのは身体に鞭を打つのと同じでした。


初めて上りきったのは6つの頃。

ただし、待っていたのは天ではなくこじんまりとした神社のお社で、それを仏の御家 だと思い遂に自分は天へと登ったのだと喜んだのです。

後に母に仏の御家ではなく、神様の御家なのだと教えていただきましたが。

ですがあの感動は何物にも換え難く、私の心を一等打ち振るわせた出来事だったと思っております。

ですからして、私が知り得る限り天に一番近いこの場所は私のお気に入りであり、御利益の場であり、私の心の場であります。

初めて上りきったあの日から10年経った今でも、毎日変わらず足を運ぶのはそのためでした。


しかし、私の視野は子供ながらに狭かったようで、つくづく未熟者だと思い知らされました。


つい三ヶ月ほど前のことでしょうか。

私の心を一等打ち振るわせた過去の出来事は、この三ヶ月前に起きた出来事に取って代わられたのです。


この神社、お稲荷なのですが、お社の境内の両脇に白い水仙の花が見事に咲いております。今思い返して見れば私が感動したのは、この水仙の花の美しさが手伝っていたからだとはっきりと頷けるほどに、そこの水仙の花の美しさは尋常ではありません。山頂にある神社であるにも関わらず参拝者が意外に多いのは、その信仰心の篤さの中にも水仙の美しさに魅せられたというのもございますからでしょう。偶に水仙の花を引っこ抜いて盗んでいく不届き者も出没するほどです。


ですが私はその三ヶ月前、その水仙にも劣らぬ美しさを目にしたのです。


流水のように人は流れることが出来るのだと知ったその日。


早春の頃、石段を登る途中に横を見ると木の合間に雪で薄く化粧された地面が今だ見ることが出来た日。



私は毎日の日課でその日も神社の石段を上っておりました。

日差しが強くて、それを避けるために日傘を手に持っていたのですがその手も日に焼けてしまいそうだったことを覚えています。

幼かった頃は一苦労だったこの石段上りも今となってはヒラリと風のようです。その日は暑かった為にうっすらと汗をかいてしまいましたが、いつもならば汗一つかかずに上ることが出来るようになりました。

そして上りきった後、突然の閃光。

その銀の光に眼が抉り取られると思いました。銀色の光が瞬き、翻しては空を線引きするように真一文字に奔る、その光景があまりにも私には眩すぎたのです。太陽の光すらも切り払ってしまうような鋭さを持ち合わせた一閃に私の心は貫かれ、驚いて思わず日 傘をコロリと落としてしまいました。

コロコロと日傘は石段を転げ落ちていきます。

絶えず私の耳にはその落ちる音が届いて、私まで落ちていくような錯覚に陥りました。

それでも身体然り、眼も然り、微動だに出来ないのです。

その後、幾度も幾度も銀色の光が瞬き、翻しては空を線引きするように真一文字に奔ります。

刀身を巧みに操るその様は流れるよう。

あぁ、これが剣舞なのだと私は感動のあまり同じような勘違いをしていたのです。



それが、私、辰祢沢彦乃と総十汰さまの出会いでした。



 □□□


それが剣舞ではなかったのだと聞いたときには顔から火が出そうになりました。

総十汰さまは快活に笑いながら、ただ剣の練習をしていただけだ、そのような優美なものではないと仰られたので、感動して初対面の総十汰さまに喰らい付いた私は唯の世間知らずの馬鹿者に成り下がったのです。

そんな勘違いに沈む私に「ありがとう」と笑ってくれたのもあの方でした。そのように美しいものに例えてくれて、と。そして、そんなに気に入ってくれたのなら、と今一度私のためにその優美な剣技をご披露くださったのです。

私は神社の境内に座って再び見惚れます。

その時、総十汰さまが振るっておられるのが真剣であったのだと気がついたのです。


それから毎日の日課に一つ項目が増えました。

総十汰さまはいつも同じ時刻にここで剣を振るっておいでです。私も不定刻だった石段上りを時を定めました。

ただここに来て手を合わせて水仙を愛でるだけの日々から一転したのです。

総十汰さまの剣技は毎回約半刻に及びます。私はその間、境内に座ってそれを只管眺めるのです。そっと息を殺して、存在感を無くしこの時ばかりは水仙と同等の存在になります。総十汰さまの邪魔を決してしてはいけぬと、出会った初日に私の中での暗黙の理が出来上がっていました。

ふと、剣を振るうのを止めて、私の存在を初めて確認したかのような顔を為さった後に、少しばかり照れ臭そうに笑う。それが終了の合図です。

その後は、詰らぬ談話をして石段 を共に下ります。

そのとき総十汰さまはその刀を必ず神社の境内の下に隠されるので、私はその度に物悲しい気持ちになり、見てはいけないと目を逸らすのです。


新しい時代が到来し、廃刀令が布かれて三年。


総十汰さまはお侍様だとお聞きしました。

侍が新たな時代の幕開けと共に刀を捨て始めた、捨てるのを強制させられた侍達は父は憐れだといつも言っておられます。侍の中には侍の誇りを捨て切れずに居られる方も多いとか。総十汰さまもそのような方なのかと。女子の私には到底理解出来ぬ感情ですが、それでも髪の毛先ほど理解することが出来たのならと思うが故にこうやって神社での一時を過ごすのでしょうか。

私は、その誇りを隠してしまわないで、そのような薄暗い闇へと放り投げないでほしいと、ひっそりと物悲しい気持ちで願うのです。

それでもそっと目を伏せ素知らぬふりをしてしまうのは、きっと私が何を申しても絵空事と嘲笑われてしまうのが怖かったからでしょう。



町に下りると新しい時代の馨りがより一層強まります。

私が前、総十汰さまが後ろといつも歩く時の位置は決まっております。

そっと後ろに控えるように私の背後を歩きます。歩いている間は姿を確認することが出来なくて心細くなるのですが、総十汰さまの下駄の音と時折喉を鳴らす音でその存在を耳で捕らえ、安堵致すのです。

会話は多いほうではございません。

総十汰さまは口数が少ないので私が一方的に口を開くだけなのですが、総十汰さまは笑顔で相槌を打って深々と私の話を聞き入ります。総十汰さまは常に後ろに居られるので、顔を窺うことが出来ませんので傍目独り言を言っているようにも見えますが、それでも総十汰さまはちゃんと 私の話を聞いて頷いて下さっていると知っているので構いません。私はただその独り言を言って楽しむのです。


総十汰さまの笑顔や相槌は風のようです。眼に見ることは出来なくてもその気配でしかと身体でそよぐ様を感じるように、自然のことのように思えるのが総十汰さまのそれです。

風は優しく私を包み込み、心地良く。その音は安堵を与えてくれます。

総十汰さまがコホンと喉を鳴らして私は微笑むのです。


ある日のことです。

何時もの様に私は境内に座り、総十汰さまは刀を振るっておいででした。

お恥ずかしながら未だに私は総十汰さまの剣技に見惚れてしまうのです。時を忘れ、その流れるような動きを眼に焼きつけながら私に感動を与えます。

この日も同様です。

いつもの約半刻はあっという間に過ぎ去り余韻に浸っていた後、あの合図によってやっと剣技が終了したことに気が付きました。

ポカンとしている私に総十汰さまは微笑み、私の横に座ります。

今気が付きました。総十汰さまが剣に夢中になって周りが見えないように、私も総十汰さまの剣技を見ている間は我を忘れて総十汰さましか見えていないのです。急に気恥ずかしくなります。

「今日も良い振りでした」

気恥ずか しさを誤魔化すように慌てて総十汰さまに言います。それが少し間抜けの様な気がして、はっとしてますます顔を赤らめてしまいどうしようもないです。

「彦乃殿は褒め上手だな、相変わらず」

「厭味、でございますか?」

「まさか。嬉しいという意味だよ」

私の正直な気持ちですのに、総十汰さまがそのように言われるので嬉しいと言われても素直に喜べません。本当に嬉しいと思っていらっしゃるのか。

「やっぱり厭味です」

総十汰さまは快活に笑われました。


蝉が鳴いております。

総十汰さまに初めてお会いした時から季節が変わりました。初夏は暑く、梅雨がくれば肌寒く。梅雨が明けた今はお天道様が常に顔をお見せになられます。

肌が焼け付くのはあまり好きではありませんが、私はこの季節が好きです。身体が汗ばんで着物に張り付き、首や顔から流れる汗をハンカチで拭きながらも炎天下の中歩くこの季節が好きです。

「暑いですね」

総十汰さまは隣で頷きます。

「総十汰さまは夏がお好きですか?」

「いや、好きかどうかとかあまり考えたことがない」

うんと首を捻るように考え始めます。

「では春は?」

「それも考えたことがない」

「暑いのは?」

「さぁ」

「花火」

「ふむ・・・」

「では逆に雪とかは如何ですか? 」

「うむ」

総十汰さまの眉間の皺は濃くなります。総十汰さまのこのような顔はいつもは拝見できませんのでついつい意地悪く質問攻めにしてしまいます。

「では秋の廃頽的な処は?」

「・・・・・」

今度は返事が無くなってしまわれました。それほどまでに深くお考えなのでしょうか。

総十汰さまがお考えになられている間に私はそっとその横顔を盗み見ます。いつも話す時は後ろにいらっしゃるので横に並ぶことはございません。ここぞとばかりにご拝顔させていただきます。


少し伸びた髭。お年は28とお聞きしましたがそれに似合わぬ幼い顔。髷を切り無造作に結わえた長い髪に少し古びたお召し物。

世間では総十汰さまのようなお方のことを浪人と嘲り笑います。それが私には悔しく、父も憐れと申されますが時にはそれすらも腹立たしく思えるのです。


幼い頃は武士に憧れました。

己の信じる誠を貫き、お国のためにその命を散らす覚悟で刀を振るう。それは何よりも純粋な忠義心、清いお心だと思いました。

最近までは国が二つに分かれて各々の国家の理想のために血で血を洗う争いが行われたのです。周りはそれの戦いを嘆いておりましたが、私は嘆いたりは致しません。己の信念のために、誇りのために、忠義のためにお侍様たちは戦地へと赴かれた。自分の信じる道を貫き通されたのです。それを嘆くことがありましょうか。

女、しかも商家の娘だてらに私はそのように刀を振るうことを、国のためにただ嘆くのではなく、待つだけではなくただ、共にと。


武士で ある総十汰さまに憧れております。それと同時に羨ましいとも。

そして何より・・・


「では、総十汰さま・・・」


―――私の事は?


その言葉を口に出来ず、心の中だけで総十汰さまに問います。

「総十汰さま、蛍はお好きですか?」

照れくささをひた隠しにし、夏という言葉で連想するものを選びました。今の時期、川辺には蛍の光で夜なのに眩いくらいです。

「蛍は好きだ。蛍は綺麗だから」

「綺麗なものがお好きなのですか?」

「だから、彦乃殿の言葉も好きなんだよ」

不意打ちにございます。

卑怯でございます、総十汰さま。

これではもう顔を上げられないではないですか。

「では、今宵蛍を見に行きませんか?」

「蛍を?どこに?」

「川辺にございます。この間母 と一緒に行ったのですがとても綺麗でした」

「そうか」

「ええ」


蛍を見に行きましょう、今宵。

二人で、仄かな光の中川辺に立って、仲睦まじく。

周りから見たら恋人のように見えるでしょうか。

「では、今宵蛍を見に行こうか」

総十汰さまは立ち上がりそう言います。

「ええ」

行きましょう、今宵。

そしてもしよろしければ、今度は私自身のことも好きだと言って下さいまし。


 □□□


「今、何と仰られたのですか?」

耳を疑うことしか出来ませんでした。

お父様の言葉は全て夢の中で仰られているものとしか思えません。

「お父様、私は・・・」

「彦乃、口答えする必要はない」

「ですが・・・っ」

「彦乃」

酷いです、酷すぎますお父様!

お父様はいつもそうです。いつも勝手に私の事をお決めになられるのです。お姉様の時も同じく。

ぎゅっと膝の上で両手を握り締めて、泣きそうになるのを堪えます。

「お父様、私は幸せになりとうございます」

私は幸せになりたいのです、お父様。私の幸せはそれのどこにあるというのですか。

「彦乃、幸せになれ。西方殿の元で」

涙が零れます。

私の両手にポタポタと零れて、手が濡れます。

お父様、私はお嫁になど行きたくなどありません。

私は総十汰さまの元へと嫁ぐと心に決めているのです。


 □□□


「如何した、彦乃殿」

今宵、と決めた蛍を総十汰さまと二人見に来ました。

楽しいはずなのに、嬉しいはずなのにお父様の昼間の言葉が頭から離れずにどうしても上の空になってしまいます。ごめんなさい、総十汰さま。彦乃は今総十汰さまのお顔を真直ぐに見ることが出来ません。

「彦乃殿、蛍はどこで見れるんだ?」

「・・・もっと奥です」

背丈の半分ほどある草を掻き分けて蛍の見える場所にまで移動します。今日は歩く位置がいつもと逆です。総十汰さまは前、私は後ろに。後ろにいても総十汰さまの下駄の音や喉を鳴らす音が聞こえてきます。


気落ちしているせいか、私の歩く速度が遅くて総十汰さまに置いて行かれそうになります。

総十汰さま、総十汰さまが今が遠くて追いつ くことが出来ません。


総十汰さま、足が心が動かないのです。お父様の言葉が私を進ませてくれないのです。


「彦乃殿」

総十汰さまが私の手をとります。驚いて顔を上げると総十汰さまがこちらを見て「離れないように」とぎゅっと手を握って歩いてくださいます。

嬉しくて途端に熱いものが体の奥から湧き出てきました。


総十汰さま、この手を離さないでくださいまし。手だけでなく私ごと離さないで、このまま何処かへ連れて行ってくださいませ。

彦乃は総十汰さまとならどこまででも行けるのです。


蛍の光がちらちらと草の間に見え隠れします。川辺に近ければ近くなるほどその光の数は増え、私達を包み込み、まるで歓迎しているかのようです。

総十汰さまの手は未だ離れず、それがとても嬉しいのです。

「総十汰さま、綺麗ですね」

総十汰さまは頷きます。

二人で手を繋いで川辺で蛍を見ているのはやはり恋仲に見えますでしょうか、複雑な気持ちになります。


ほんのりと灯る火。

夏になれば朽ちてしまう火。

私のこの思いも朽ちていってしまうのでしょうか。嫁いで他の方を慕って、そしてこの総十汰さまを思う気持ちもいつか、このまま・・・。


「総十汰さま」

「ん?」

「虫も恋をするのでしょうか」

総十汰さまが変な顔をなさいます。

蛍を見てふと思ったことなのです。

「蛍が淡い光を発するのはそのほんのりと光る恋心を、溢れんばかりの恋心を表しているから。蛾が火の中に飛び込むのはその身を焦がすほどの恋をしているから。鈴虫が綺麗な音を奏でるのは愛しい人の名を呼ぶから」

「彦乃殿の言葉には趣があるな」

総十汰さまは私の言葉をいつでも、どんな言葉でも褒めてくださいます。それがあまりに多いので時には厭味にも聞こえますが、それでも大好きです。


「私は蛍です」

総十汰さまへの溢れるほどのこの恋心を焦がしながら光を灯す。

「私は蛾」

この身を焦がすほどの思いを胸に。

「私は鈴虫です」

伝えきれないほどの思いを、その愛おしい名を声が枯れるほどに叫ぶのです。


総十汰さま、お慕いしております。

心もこの身も 焦がすほどに。


一目惚れでございました。早春の頃、あの石段を上りきった時に受けた衝撃。それは総十汰さまに毎日お会いする度にこの心で感じることが出来ました。


「総十汰さま、私は・・・」

「俺も、虫であった時があった」

黙り込んでいた総十汰さまが口を開きます。

「妻があった。先の役の最中、俺が戦地に赴いている最中に亡くなったが、俺も妻にそのような思いを抱いた」

手がするりと離れます。私はその場にしゃがみ込んでしまいました。

「武士とは不毛なものだ。お国のために血を流し、大切なものを失くしても今では武士の魂を投げ捨てよとお上は言う」

足元に蛍がやって来ました。私の足の指先にやってきて黄色い光を灯します。

「新しい時代に馴染めず、浪人として生きるのもそのためだ。何も持たぬ、大切な者も心に決めずにただ時代の流れに逆らって生きる、そう決めた」

足元の光が弱まりつつあります。

「総十汰さまは、お上にお怒りなのですか?」

「いや、怒っているのではなく失望したのだよ。お上のなさりように」

だから新しい時代では生きられぬと、大切なものは持てぬと仰られているのです。


総十汰さまは知っておいででした。

知っていて拒絶されたのです。

「俺は虫ではいられなくなった。光を出すこともこの身を焦がすことも、鳴く事もない」

総十汰さま、やはり貴方様は卑怯です。

知っていて尚それを言いなさるのか、私が言う前に。


やはり武士は憐れです。

その強き信念が故に裏切られて、失望し、何もかもを捨ててし まう。虫になることもなく、時代の波に飲み込まれて足掻きながらも、己を救う術も知らずに手足を動かし続ける。

それが総十汰という侍なのだと思いました。

それが私がお慕いした武士なのだと。


総十汰さまのお心は深く、底が見えないのです。

そんな貴方に心に背負ったものを、重荷になっているものを共に背負えたら、そんなおこがましい考えさえ抱いていた私。

お父様はそんな私をも憐れだとお嘆きになられるのでしょうか。


―――私は蛍

―――私は蛾

―――私は鈴虫


私は虫です。


恋焦がれる、総十汰さまに。

そして鳴くのです、この届かぬ思いを精一杯その旋律に乗せて。


蛍の光が消えていきます。

私も朽ちていづれは虫ではなくなってしまうのでしょうか。この光の ようになくなてしまうのでしょうか。

光が消えた蛍の上に涙が降ります。


総十汰さま、私、私は・・・


「・・・総十汰さま」

この名を呼ぶこともなくなるのでしょうか。

この名が他の誰かの名に変わってしまうのでしょうか。

悲しい、こんなにも悲しいのです。

その一つ一つが無くなってしまうのが、今無くなろうとしているのが分かるから。


―――総十汰さま。


「私、お嫁に行きます」

総十汰さまは帰るまで口を開くことはございませんでした。


 □□□


また一つ季節が変わりました。

ですがその暑さは変わりなく私に降り注ぎます。

蝉の声もとうに聞こえなくなり、夜には蛍も見ることが出来なくなりました。

あれから、あの夏の夜から総十汰さまとはお会いしておりません。

日課であったあの石段上りも止め、神社に手を合わせることもなくなりました。初めて上りきったあの日からあの夜まで欠かさなかった事でしたのに。


婚儀の準備は着々と進んでおります。

西方様は大阪の大きな商家のご子息で、そばかすが似合う優しそうなお方でした。

真っ赤になりながら「幸せに致します」と頭を下げられるほどの誠実な方で、私には勿体無い位です。こんな気持ちを持ったまま結納に赴いた私には本当に勿体無い位に。


お父様は口答えしなく なった私を見て、今日の今日までご機嫌のままです。お父様のそのげんきんな処に腹は立ちましたけれども今はどうでもいい事。

あの日から空っぽになった私の心にはお父様の声も心配するお母様の声も響いては来ないのです。


夜、闇の中で眼を閉じると浮かぶのは総十汰さまの顔ばかりで、眠れないこともございました。何度も寝返りを打ち、それでも寝付けずに布団を抜け出して時々あの蛍を見に行きます。

蛍があの時に記憶を蘇らせます。その悲しみも、切なさも。

その度にあの川辺で泣き、独り朝を迎えるのです。


それでも、時間が経つにつれそんな事も無くなってきます。


忘れていくのが怖い、無くなってほしくない、慣れてしまいたくないと思うのに、強く思うのに人間とは奇怪なもの です。


それならば忘れてしまわぬうちに、と思い、今日この石段の前に立ったのです。


ここに来るのには躊躇いがありました。

何度も何度も石段の前まで来て、逡巡し、迷っているうちに心が折れて引き返すのを繰り返して、自己嫌悪に陥るのです。

そんな意気地のない私は嫌いです。


でも、足が竦みます。

私はこの石段を上りきることが出来るのでしょうか。


貴方様はそこにおいでですか?

いつものように刀を振るっておられますか?

先の見えぬ石段を見上げて、心細くなってしまいます。


天ではなく総十汰さまの元へ、お稲荷様、どうかお導きください。



石段を上りきったところで私は顔を上げることが出来ませんでした。

ここまでは何となく先を見るのが恐ろしくて、顔を俯けたまま上ってきたのです。

はっきりと分かります。

音が、気配がしません。

総十汰さまが刀を振るっている気配を感じることが出来ないのです。

どうしていらっしゃるのですか?刀を振るうのをお止めになられたのですか?


あぁ、総十汰さま・・・


「彦乃殿」


私泣いてしまいそうです。

そのお声を聞くだけで、たった1ヶ月ぶりですのにこんなにもお懐かしい、恋しい。

駄目です、私。全然駄目です。たったこれだけのことのなのに直ぐに決心が揺らいでしまう。この一月何度も何度も誓ったのに、決意したのに声を聞いただけで愛おしさ が身体中から溢れ出てきてしまいます。そんな愚かな女を総十汰さま、嘲ってくださいまし。

「彦乃殿」

あぁ、何故そんな優しい声で私を呼ぶのです。

「彦乃殿、顔を上げて」

まぁ、なんとも酷いお言葉でしょう。この今にも泣きそうな醜い顔を総十汰さまにお見せしろと言うのですか?

総十汰さまは鬼でございます。


「・・・彦乃殿」


私を嗜めるかのように穏やかに繰り返されるその声は、一拍置いて語気が強くなったような気がします。

ちらりと盗み見るように上目遣いで目の前を見ると、総十汰さまは神社の境内にお座りになられています。総十汰さまがこちらを見ているので思わず目を逸らし、顔を俯けましたら、総十汰さまがお立ちになって歩くいてこちらに向かってくるのが下駄の音で分かります。


顔を上げれば目の前に総十汰さまの精悍なお顔が。


総十汰さま。

総十汰さま。


「彦乃殿、何故泣いている」

「総十汰さま、私明日大阪に出立致します」

「え?」

「明日お嫁に行くのです」

「彦乃殿・・・」

「西方さまの元へ嫁ぎます」

「・・・・・・・」

「・・・っですから、今日は、・・・お別れに」

お別れをしに来ました。

上手く言えるでしょうか。上手くお別れすることが出来るのでしょうか、私は。

「申し訳ございません。こんなはずでは」

手提げに入れておいたハンカチを涙がこれ以上眼から零れ落ちてこない内に慌てて探して、眼に当てます。恥ずかしいです、泣き顔を見られるなんて。

「違うのです。今日はお別れと、それと総十汰さまに言いたいことがございまして」

そうです、そうでした。それが本当の目的でした。泣き崩れてしまうだけではいけないのです。


最後に、最後 にこれだけは伝えたくて、いえそんなの言い訳です。ただ逢いたくて、お顔を、その声をお聞きしたくてやって参りました。ただの意地汚い、未練がましい欲望にしか過ぎません。

涙を拭いて、最高の笑顔を総十汰さまに送ります。


「総十汰さま」

「何だ?」

「総十汰さまは弱虫です」

総十汰さまがポカンと口を開けておいでです。見慣れない顔で妙な気分です。

「・・・俺が、弱虫、だと?」

「ええ、そうです。私が今まで見た弱虫の中で一番ですわ」

こんな事を明け透けに言ってしまったら、憤られ嫌われてしまうかもしれません。でも、そうだったとしても、このまま何も言わず、総十汰さまの中に何の想いも残せずに消えてしまうのは悔しくもありました。

「総十汰さまは口ではお上に、この国に失望したなどと申しておりますがただ総十汰さまは臆病なだけです。もっともらしい理由をつけて、この時代に馴染めぬと勝手に嘆いているだけですわ 」

ここは強気に。

総十汰さまの眼が険しくなってきておりますが、気にせずに。目をそらすことは私の矜持が許しません。

「お侍の誇りを保ち続けたい、けれども臆病でこの新しい時代ではそれを開け広げにするのも怖い。それが今の総十汰さまです」

「お、俺のどこが・・・」

でも、何故だか悲しくなって参りました。私は決して総十汰さまを怒らせたいわけではないのに。

確かに言いたいことはその通りなのですが、これも性でしょうか。女らしく可愛げのあるもっと気の利いた言葉を言えないなんて。

「毎日振るうほどに好きなくせに帯刀せずに、境内の下へ隠されます」

「・・・それは」

「何も持とうとはなさいません」

「・・・・・・・」

「並んで歩いてもくれない」

また、涙です。

困ったものですこの眼は。こんなにも大量に溢れ出てくるなんて、私の目の貯水池は底なしなのでしょうか。


総十汰さま、そうです。

私は悲しいのです。

何も持とうとなさらない貴方様が悲しい。

臆病で、自分の意思を貫き通せない貴方様が悲しい。

大切なものを持つことが出来ない貴方様が、―――悲しい。


でも、でもそれ以上に


「―――それでも、貴方様を愛しております」

それ以上に総十汰さまが愛おしいのです。

愛おしいからこそ最後にお伝えしたかった。最後にお会いしたかった。

永久にこの胸のうちを明ける事禁じようとも思いました。

ですが私も同じように臆病者にはなりたくないのです。

この気持ちを伝えて、例え傷つくことになったとしても、それでも私は傷つくことよりも伝え なければ永遠に続くであろう底なしの後悔の方が怖かった。

「愛しております、総十汰さま」

この身を焦がすほどに、その名を呼び続けて喉が嗄れるほどに。


「私は蛍です」

総十汰さまへの溢れるほどのこの恋心を焦がしながら光を灯す。

「私は蛾」

この身を焦がすほどの思いを胸に。

「私は鈴虫です」

伝えきれないほどの思いを、その愛おしい名を声が枯れるほどに叫ぶのです。

それは永久に。

それは尽きることなく。

これからもこの胸に息を潜め、燻り続ける。


そんな風に貴方様を愛せてよかった。

貴方様をお慕いするこの気持ちは何よりも純粋なものでございました。

貴方を愛することが、私の幸せでした。


「ありがとうございます」


私の虫。


「そして、さようなら」


私の虫。

私の恋。

私の総十汰さま。


「お元気で」


笑顔で別れましょう。

総十汰さまに背を向けて、石段を下ります。

ゆっくり、ゆっくりになってしまうのはここを離れ難いからでしょうか。まだ、未練だらけです。

思えば、ここを下るのも今日で最後です。


天がそこにあるものと信じて憧れていた幼き日。

今ではそこには天よりも愛おしく、眩いものがそこにあります。

一歩一歩思い出を辿るように下ります。

いつだったか、あまりに剣に集中しすぎてそこに私が居る事も気付かずに誤って切りかかろうとしたことがありましたね。

どの水仙が綺麗か競い合ったこともございました。

貴方様との話は静かですが、とても楽しゅうございました。

色々な思い出が私の中で蘇り、胸を焦がします。それでも、この石段を下りきって、後ろを振り返りません。


ねぇ、総十汰さま。それでも貴方様もこんな風に時には思い出してくださりますか?

私との思い出が色褪せても風化させかず、ほんの少しでもいいから貴方様の心の隅に住まわせてください。


ーーー貴方様の側に、こんなちっぽけな恋の虫が居たことを、忘れないで。



「彦乃殿っ」



グイと強い力が私の右手を後ろへと引っ張ります。

右手に熱さが伝わって、急に息が出来なくなるほどに激しく心の臓が脈打ちました。


「彦乃殿、俺は確かにどうしようもない弱虫だ」


総十汰さまの息が荒いです。72もあるこの石段を走って下ってきたのでしょうか。


「俺は、臆病者でもある」


握られた手に力が篭って。

熱く熱く、焦げそうなほどに。


「俺は自分に言い訳ばかりをして、格好の良い事ばかり並べて逃げているだけかもしれない」


痛い、痛いです。手が心が。


「中途半端な覚悟で刀を持ちながらも、捨てる勇気すらない俺は臆病で弱虫だ。大切なものも怖くて作ることが出来ない」


焼けてしまいそうなほど、心も身体も熱いのです。


「蛍を見に行った夜、虫にはなれぬと俺は言った。なれぬと思った、思っていた。俺はもう二度と大切なものも持つことはないと誓った、誓ったはずなんだ。正直、穏やかな気持ちで彦乃殿を見送れると思っていた。俺なんかと結ばれるよりも喜ばしい縁だ。彦乃殿の幸せを思えばこそ見送れるものだと・・・。それなのにあの時の彦乃殿の泣き顔やあの言葉がこの夏中離れぬ」


窺うように振り向くと総十汰さまの真摯な眼に出会います。

それで更に体中が熱くなって・・・


「弱虫で臆病者でも、それでも離せぬものが、譲れぬものがある」


もう倒れてしまいそうです。その真摯な瞳を見つめ返すだけで精一杯。


「彦乃殿、俺は、こんな俺でも大切なものを持ってもいいだろうか。臆病者でも譲れぬものを持っていてもいいのだろうか」


幾度も幾度も無言で、頷きを返すだけで精一杯の返事を総十汰さまに返します。


総十汰さま。

総十汰さま。


「こんな弱虫で臆病な俺を許してくれるか?」


総十汰さまがそっと左手で私の頬を包み込みます。強制的に眼と眼を合わせなくてはいけなくなって恥ずかしさは倍増し、正直沸騰寸前です。

見つめないで下さいまし。貴方様の視線で蕩けてしまいます。


「そ、総十汰さま」

「俺の横を歩いてくれるか?」


頭が爆発します。心の臓が破裂します。

総十汰さま、本気ですか?

本気で、言っておられるのですか?


あぁ、総十汰さま、やっぱり貴方様は卑怯です。最後の最後にこのような嬉しいお言葉をくださるなんて。

涙が止まらないほどの言葉を下さるなんて。

でも、総十汰さま。確認するまでもございません。私は貴方様の隣を歩く心積もりは出会った時にはもうしておりました。

貴方様の隣でその下駄の音と喉を鳴らす音を感じることが出来たなら、きっとそれは何よりも幸福な音なのです。


手を、繋いで町を歩きましょう?

もっとお話して、神社では毎日ここで貴方様の剣技を見るのです。

きっと毎日が楽しいのです。


ですから、総十汰さま。


この手を離さないで下さいまし。

いつまでも離さないでくださいまし。


強く、強く―――

離さないでくださいまし。


そして来年も蛍を二人で見に行きましょう。

またきっと恋の炎は仄かな光を放って、私達を包んでくださいます。





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