ピンチの水曜
手を繋いでも不自然じゃないほどの距離だが、紅華とは顔を合わさず教室に入ると、またも高畠は変なポーズで待ち受けていた。
「おお、異瀬杏! 貴様女生徒と一緒に教室に入るとは、甚だ羨ましい!」
「もっと羨ましい話ならいくらでもありますよ」
俺の元気のなさに高畠は意味を感じなかったようで、堂々と聞き入ってくる。
「では話してみろ異瀬杏。貴君のハッピーライフを!」
俺は空気の読めない先輩をするりとかわし自分の席へつく。
明日は日直か、嫌だな。でも今の胸のモヤモヤはそれだけじゃないんだろうな。
教室から高畠の声がなくならないと思えば、なんと高畠と紅華が会話している。
方や学校単位で名の知れている変態、もう片方は知名度はなくとも何でもできる美少女。
この組み合わせはあぶない、法律で禁止すべきだ。
「高畠センパイ? 一体なんのお話を?」
丁寧に訊ねると、彼奴が俺に気付き、紅華も振り返り俺を見る。
「異瀬杏、この娘は何でも我が部に入りたいと、性質の悪い冗談を言うのだ」
「杏、分かってくれるよね?」
高畠は本気で彼女が部活に入りたいと思っていないらしい、当然だ。変態の部活に美少女など似つかない。
しかし紅華は本気だ、笑顔の癖に目が全然笑っていない、小動物程度なら逃げ出す目。
して俺はどうするべきか。悩んだ末の答えは先延ばしだった。
「陰気メガネザル……じゃなくて高畠先輩、話は放課後にでも」
「おおい異瀬杏! 貴君は心の中で僕をそのように呼称していたのか!?」
「杏、別に今でも十分時間は」
食い下がる紅華を諦めさせるため、高畠を押して帰らせようとした。
「おい異瀬杏、貴君、入部届けを出してくれまいか? 用紙を出さねば貴君は部員と認められないのだ」
「はいはい、何が必要でしたっけ」
「名前と印鑑だ!」
俺が高畠を押す手は止まった。
家に帰れない俺がどのようにして判子を手に入れろというのか。
「ぬかった! どうするべきか高畠中将!」
急なフリにも高畠は乗ってくれたが。
「異瀬二等兵、明日でも結構だ」
「そういう問題じゃないッ!!」
判子、そのような物は春の細流が如くさらりと忘れてしまっていた。
家に帰れない若者が、いったい家から出ることなど一生に一度もないであろう引きこもり小物である判子どうやって外に持ち出すのか。
「高畠中将、今宵、異瀬二等兵は敵に決死の戦いを挑むしかないようです」
「……そうか、異瀬二等。当然だな、『オタク部に入るために判子貸して』など、親に言おうものなら蜂の巣にされかねない。分かった、席はいつまでも空けておく」
涙の敬礼を高畠は繰り広げ去って行った。本当はもう少し事情が複雑なのだが、この際どうでもいい。
「杏、酷いじゃない、私を無視だなんて。でも、これで杏が入部できないんだったら、私も入部しないだけだけどね」
紅華は俺の気も知らず少し愉快げに席に戻った。
本当に、俺の気も知らずに……俺はただお前が幸せになって欲しいから、と恰好いい事を考えてみるだけ。
こんな事を現実で言えば、それはもうプロポーズだ、言えるわけがない。
歯を食いしばり俺は席に戻った。
が、席に戻り、永沢の朝の連絡が終わりすぐに俺はピンチに気付いた。
危うく奇声を発しかけたが、本当に変な人となる事は避けられた。
さて、そのピンチとは、ずばりノートである。
教科書のみを渡された俺は頭の中からすっぽりノートの存在を忘れるという奇跡のようなミスを繰り広げたのだ。
さて、ノートがない時普通はどうする? 借りる、貰う、シンプルでどれも有効な策だ。
だが生憎、俺にはノートを借りることができる友人もおらず、赤の他人に頼みごとをするほど肝っ玉が大きくない。
そして紅華にノートを貸してくださいなど言ってみろ。『ほら、杏には私が必要なんだ』などと言われること、まず間違いない。
今から高畠に借りに行く時間もない、他のクラスに入る勇気もない。
八方塞とはこのことを言うのだろう。しゃあなしに、俺は貰ったプリントや教科書の端を有効活用することにした。
一時間目はしばらく教師の視線も辛かったが、途中から完全放置してもらえたのでよしとする。
次の授業が始まるまで十分、高畠にノートでも借りに行こう。
だがその前に訪れたのは紅華だ。
「杏、なんでプリントに色々書き込んでたのかな?」
人をコケにしたような笑顔が、はっきり言って憎たらしいが可愛い。
「そりゃお前、ノート忘れたほうが隣の人とかに借りるという出会いが増えるから……」
この言い訳が無意味だと自分でも分かっていた。分かっていたが、俺にはコレ系統の話しかできないのだ。
「出会えたの?」
「きっと出会える!」
紅華は不服そうに返事をして席に戻った。
これで高畠の下に行けば、また何か文句をつけられる。
俺は苦虫を噛み潰す気持ちで、耐え忍んだ。
結局四時間全て、プリントの裏と教科書の端に板書を写した。
だがこれでは西條家からノートを持ち出すこともかなわない、いったいどうしたものか。
最終手段として紅華に借りる事も考えて検討しよう。明日までに思いつけばよい。
だがそこで新たな問題が発覚した!
それが弁当問題!
そう、瑠璃華さんは俺の分の弁当を作ってくれたが、何を思ったかそれを紅華に渡したのだ。
西條家はなにゆえロクデナシの俺に夫婦の契りを結ばせようとするのか、わからないがあの家は俺にとって敵の巣窟であるらしい。
ここで弁当を受け取りに行けば……最初からノート借りとけばよかったと後悔の念に押し潰される。
どうせオタク部で時間潰して家に帰るだけだ。幸い本日は瑠璃華さんの朝飯が美味くて大量に食ったからスタミナ切れはないだろう。
「紅華、弁当はいらね」
「え? ちょ、ちょっと!!」
俺は軽く手を振り、第二視聴覚準備室へと向かった。
第二視聴覚準備室では、弁当の中身を頬張る高畠が昨日のように挨拶をする。
「来たか異瀬杏、本日はどうしようか?」
一応は仮入部の時間帯だが、まだ生徒の大半はこいつのように弁当を食べているだろう。
だから俺はとっておきの提案を持ち出す。
「今日は新入部員を集めましょう!」
彼はしばし無言で弁当を咀嚼し、ごくんと飲み込み当然のように言う。
「無駄だ。誘った程度でこの部活に入る奴はいない。貴君もそのようなことで東奔西走するなら汗にまみれた乙女を見物しようではないか」
少し、かちんときた。
「向上心がないからここはいつまでも仮部扱いなんだよ。この中学の生徒程度で満足しているお前にはそれで十分かもしれないが、俺はそんなので満足する気はない。ここを大きな組織として、もっと幅広い女性を目に入れたいだろう」
「それ以上は犯罪だ、ここで留まっているからこそ許される存在なのだぞ、我々は」
「こんな部活を創ったのに、留まるしか出来ないのか、お前は」
睨み合いが始まるが、高畠はすぐに弁当を頬張る。
「ではよい、お前が部員と顧問を呼び入れれば僕もそれでよしとしよう。だが集まるわけがない。僕が一年の時何もしなかったとお思いか?」
高畠の妙に醒めた態度は、どうやら一年間の頑張りが全て無駄だったかららしい。だがまだ新一年生もたくさんいるし、永沢が嘘かもしれないが、顧問になることを考えてやるとは言ったのだ。
諦めない、この部活を俺は本物にするんだ。
「じゃあお前はこのまま弁当でも食い腐れ。俺は本日中に部員を最低一人は確保しよう!」
「今朝! 君と教室に入った小娘であったら僕は世紀のガッカリを貴君に見せよう!」
先を読まれた! 集められるわけがないと高をくくると思ったのに。
いやはやそれでも部員は部員、この陰気眼鏡ががっかりしようが関係ない。
「高畠、今日はガッカリの準備でもしておけばいい。だが仮入部期間が終わった時には部長になる準備をしておくんだな!」
高畠は弁当を喰ったまま何も言わなかった。
俺は部員集めをすべく、部屋を出た。




