秘密の一員
たまたま通りかかった公園の掲示板に、こんな貼り紙を見つけたらどうするだろう。
《新入社員募集 資格・経験一切不問 あなたも秘密の一員に。ご応募お待ちしています》
ーー株式会社 ジェコーー
ペラペラの粗悪な紙にこの一文のみ。
①何の興味も示さず素通り
②怪しすぎるので無視する
③思い切って本気で応募してみる
まあ、普通は①或いは②だろう。
中には面白半分、興味本位、悪戯目的や怖いもの見たさに電話をかける人もいるかもしれない。
しかし僕は迷うことなく③を選んだ。
文を目に通した次の瞬間、何かに駆り立てられるように見慣れない局番の電話番号に連絡をしていた。
何故かはわからない。
思えば、これが因果というやつなのかもしれない。
それが1ヶ月前のことだ。
1ヶ月前。
久しぶりにスーツなんぞを着た僕の肩は面接を受ける前にすっかり凝り固まってしまった。
「次は欅沢~、けやきざわ~に止まります」
電車を乗り継ぎ乗り継ぎ云時間。
僕は初めてこの町にやってきた。
どういう経路を辿ってここへ到着したか思い起こすのもしんどい。
駅を出て歩道橋を渡り、降り立った先を真っ直ぐに進む。
片道二車線の大きな道路に沿ったオフィス街をしばらく歩いていく。
ここから海は見えないが、時折、潮を含んだ春の風が心地良く吹き抜ける。
「………ここだ」
大きなビルとビルに挟まれた縦長の雑居ビル。飾り気のない灰色一色の外観が妙に物々しさを感じさせる。どことなく古い。
元は美容室だったのだろう、全面ガラス張りになった一階部分にはそれらしき痕跡が残されていた。
8畳程度の室内に、1/3ほど欠けて崩れた鏡、上下逆さまの状態で隅っこに飛ばされた椅子…そして何故か壁際に静かに佇む一体のマネキン。怖すぎる。
さらには焼け焦げたように真っ黒になったクロスや床が、一層不気味な雰囲気を醸し出す。
急激に不安が襲いかかった。
よく晴れた朝なのに、何故こんなにもここは薄暗く見えるのだろう。
本 当にここなのか?
だが住所に間違いはない。
意を決して、僕は一階テナント脇からビルの中に入った。
すぐ正面にはエレベーター、その右奥には階段。右の側壁にはフロアガイドが貼られている。
「えっと、株式会社ジェコ…」
フロアガイドを目で追うと、8~10階にその名前を確認した。3つのフロアに分かれているらしい。
そして同時に違和感に気付く。
「……あれ?」
11階まで用意されているそのガイドには、それ以外のテナント名が書かれていない。
つまり、8~10階以外は空室なのだ。
その会社以外のテナントは、
存 在 し て い な い 。
ぞわっっ、と全身が大きく震え立った。
爪先から旋毛まで激しい寒気が襲う。
思わず僕は自分を抱き抱えるようにぐっと身を縮めた。
色々な妄想が瞬時に頭の中を駆け巡る。
いくら何でも不自然過ぎやしないだろうか。
あの貼り紙そのものが悪戯?
こんな幽霊ビルに会社があるなんて思えない。
だが僕は確かに電話でやり取りをした。
相手は生身の女性だった。
……筈。
何の会社なのか何の仕事をするのかまるでわからずにこんなところへ来てしまった自分が愚かだという他ない。
暗く先の見えないあの階段は果たしてどこに続いているのか。
「……………」
得体の知れない恐怖におののく体を、どこからか湧き出てくる好奇心が後押しする。
小刻みに震える指で正面のエレベーターのボタンに触れた。
「…なんか用?」
「うっっわっっっ!!!」
突然背後から聞こえた荒っぽい声に、僕は
尺取り虫のように前に飛び跳ね、そのままエレベーターのドアに衝突した。
やや沈黙の後、僕は鼻を押さえてゆっくり振り返った。
立っていたのは少女だった。
年の頃17~18歳といった具合だろうか、ジーンズにキャミソールとパーカーを合わせたラフな服装に、胸下まで伸びたキャラメル色の髪が目立つ。
右手にはコンビニの袋。
僕の大袈裟なリアクションに呆れているのか、少女は仏頂面を下げてじっとこちらを見ていた。
そんな妹ぐらいの年齢の子に対し、しどろもどろになりつつ僕は尋ねる。
「あの、ここって廃ビル…じゃないんですかね?」
少女は数秒ほど僕を見つめた後、素通りして奥の階段へと近付いていった。
「あ、あの…」
恐る恐るその小さな背中に声を掛けると、少女は気怠そうに首を向けた。
「…ウチに用なんだろ?」
「えっ」
僕は少女に近寄る。まだ幼さを残した丸い瞳がテンパる僕の姿を冷ややかに捉えている。
「…だから、ウチに用有るんだろ?そこに突っ立ってられんと邪魔くさえんだけど」
「すいません…あ、あの、ウチって、この会社の方ですか?」
フロアガイドのほうを指差しながら尋ねる僕に、少女は小さく首肯した。そのまま階段を一段二段と上がっていく。
「あ、僕、こちらに面接を受けに来たんです!ちょっと、場所が合っているか不安になってしまって…いいんですよね?」
僕の言葉に少女は足を止め、背を向けたまま舌打ち混じりに言った。
「…エレベーター、壊れてるから。足腰弱くなければ辿り着けるよ」
再び歩き出し、すぐにその小さな体は闇に溶けて見えなくなった。カンカンカン、とサンダルが鉄を打つ音だけが響く。
「あ、僕も行きます!」
僕は焦って少女を追うように階段を登り始めた。
8階に辿り着く頃には、僕の膝は大爆笑していた。
全身の毛穴から吹き出した汗がジャケットやパンツの中にじっとりと籠もる。
体力に自信がない訳ではないが、戦いの前にしてこれはかなりのダメージだ。
少女は肩で息をする僕を涼しい目で眺めながら、目の前の扉を顎で指し示した。
「………こ、ここですか?」
無機質で重量感のあるくすんだブルーの扉には、《株式会社 ジェコ》の文字。
そしてその下、ちょうど扉の中心には黒い円に緑色の生物を描いたマークが大きく掲げられている。
トカゲ…だろうか。
息を整えながらその場に立ち尽くしていると、少女は無言でドアノブを掴みゆっくりと手前に引いた。
ギギッと鈍い金属音が響く。
「いらっしゃいませ」
その音に穏やかな女性の声が応じた。
少女が一歩踏み入り、僕は入り口の手前で止まった。
急に明るい世界に入ったように、そこに広がる白亜の床に目が眩んだ。
長方形の室内に、焦げ茶色の木の長椅子とカウンターがずっしりと構えている。
その奥の壁いっぱいに置かれた本棚を背に佇む女性の上半身が見える。
左手の壁のはめ込み窓から差し込む朝の柔らかな日差しが、窓際の観葉植物を優しく照らす。
うま く言葉では表現できない独特の雰囲気。心の奥をやんわりと揺さぶるような不思議な感覚が僕を出迎えた。
「お帰りなさい」
カウンターの女性は少女に向かってにこりと微笑んだ。
「…あ、た、ただいま葉月姉…あ、あの、この人、面接だって」
少女は体を斜め左に向け、後ろにいる僕を手で示した。
僕は気後れしながら女性に会釈する。
「あ、お忙しいところ失礼します。この度応募を」
「ああ、あなたね。話は聞いていますわ。どうぞこちらへ」
「あ、はい。…失礼します」
女性の微笑みに促され僕はおずおずと中に入った。カウンターを隔てて女性の正面に立ち、改めて深々とお辞儀をした。
…緊張する。
ふと、入り口付近の少女が僕をじっと見つめているのに気が付いた。
先程から少し不審に思っていたのだが、この部屋に入った時から少女の様子が可笑しい。
刺々しい雰囲気は消え、むしろ弱々しく憂いを帯びたような目をしている。口元に手を当ててどこかそわそわした素振りは、何かを恐れているかのようにさえ見える。
まるで人が変わったように。
少女は小さな唇をそっと開き、消え入りそうな声で僕に呟いた。
「…あ、あの、が、頑張ってくださいね」
「え、あ、ありがとうございます!」
予想だにしない言葉に、思わず声が裏返ってしまった。
少女はそのまま女性のほうを向き、ぺこりと可愛らしく頭を下げた。
「…そ、それじゃ、わ、私はこれで」
「ええ、ありがとう」
部屋を出た彼女の足音が遠ざかっていくのを確認すると、その女性は僕に視線を戻して丁寧にこう述べた。
「本日は弊社までご足労頂きありがとうございます。私は片瀬と申します。…あまり堅いことは好きではないの。どうぞそこに座って頂戴」
「あ、はい」
言われるがままに僕は長椅子に腰を下ろした。
女性とほぼ目線が揃う。恐らくカウンター内部の床は幾分高くなっているのだろう。改めて真正面から見ると、かなりの美人だ。
烏の羽のように黒々と艶のあるストレートのロングヘア、アーモンド型のくっきりした瞳を強調させる真っ直ぐの前髪、桜色の薄い唇。
しっとりした雰囲気に悠然とした物腰、まさに大和撫子。
「今日はアポがないから…ゆっくりお話ができるわ」
彼女の声にはっと我に返った。
戸惑う僕の口から余計なことが突いて出る。
「あの、今の方はこちらの社員で…?」
「ええそうよ」
片瀬と名乗った女性は笑みを崩さずに答えた。
「そう、なんですか…」
どう見積もっても、成人には見えない。
どう見ても高校生だ。あの華奢で小柄な体格が幼さに拍車をかけている。
いや、もしかしたら物凄く童顔な女性なのかもしれない。だとしたら失礼な話だ。
顔に出ていたのだろうか、僕を見透かすように片瀬さんは一言言った。
「彼女は17歳よ」
「えっ」
「予想通りかしら。それとも別の意味で期待を裏切ってしまったかしら?」
「あ、いえいえ…妙に若いなと思って…」
それ以上に気になったのは彼女の態度の急変ぶりだ。だが今それを気にしている状況ではない。
でも気になる……。
片瀬さんがクスリと笑い、軽く咳払いを打った。
「では、本題に入りましょうか」
「あ、はい。宜しくお願いします」
自然と僕の背筋が伸びた。
やや間を置いて片瀬さんは言う。
「…柳島さん、貴方にまずお聞きしたいのだけれど、うちは何の会社だと思う?」
「え……」
僕は硬直した。
そしてこの時点でようやく、僕は自分が何も考えず勢いだけで臨んでしまったことに気付いた。
彼女は口元に笑みを保ったまま僕を見つめている。
大きな黒い瞳が僕の心を覗き込むようにじっと佇む。
両膝の上に握り締めた掌がじんわりと湿っていく。唇が乾く。
先程とはまた別の鋭い緊張感が体を締め付ける。
どれほどその状態が続いたのか、やがて片瀬さんはふっと吹き出し、口元を押さえ上品に笑った。
「いいのよそんなに深く考え込まなくても。考えていたならここには来ないでしょうに」
「え、あ、はあ」
僕は間抜けな相槌を打った。
確かにそれは最もかもしれない。
「何でもいいのよ。ここへ来た理由は《何となく》《興味本位》《仕事にあぶれて困っている》……そんなものでしょう。それで構わないわ。冷やかしでなければね」
「そんなことは…っ」
「そもそも、何の会社かわかっていたら応募なんて来ないもの」
「…え」
優美に笑う彼女を僕は唖然として見つめる。
それ以上僕の反応を待たずに片瀬さんは告げた。
「ここは特殊賃貸物件専門の仲介屋ですわ」
「特殊…物件?」
彼女は首肯し、続ける。
「何かしら曰くのある物件だけを扱っているの。例えば、事故や事件、自殺などがあって借り手がつかなくなった部屋ね。分かり易く言うと”訳あり物 件“というものね。私達は“事故物”と呼んでいるわ」
「………あの、失礼ですけどそういう物件とわかってて借りられるお客さんっていらっしゃるんですか?」
「勿論ですわ。むしろ、そうと知ってここへいらっしゃるのよ。元々の賃料の半額にまで落ちたりすることもざらにあるから、とにかく安く借りたいという方には最適よ。ただ、一癖も二癖もある方ばかりですけどね」
それはそうでしょう、と言いたくなった。
申し訳ないが、好んでわざわざそのような部屋に住みたがるのは余程の歌舞伎者
、或いは余程の無頓着としか思えない。
「私はね、新しい物件に出会う度に心を踊らせ、妄想するの…。ここでどのように住人が過ごし、朽ち果てていったか…。そしてまたひとつ思い出が刻まれたのだと思うと、なんとも愛おしくてね…」
彼女のその発言に、 ひとつの選択肢が僕の脳裏を過ぎった。
腰をあげようとすると、不意に背中に氷を放り込まれたかのように背筋に冷たいものが走った。
周囲の空気が変わっていく。
恐らく僕は拒絶の表情を浮かべているのだろう。目の前の女性はまるで愉しんでいるように、その様子を窺っている。
荊のように優雅に咲き誇る長い睫毛も、血の気のない真っ白な肌も、彼女そのものが恐怖の化身となって僕を追い詰めていく。
「ねえ、楽しそうな仕事でしょう?」
彼女の綺麗な唇が大きく歪んだ。
ガタッッッと長椅子が後ろに動いた。
無意識に僕は立ち上がり、カウンターから体を離していた。
変わらない表情でこちらを見ている片瀬さんに、僕は震える唇で精一杯声を出した。
「す、すみません。ちょっと急用を思い出して……せっかくお時間を割いて頂いて申し訳ないんですけど、これで失礼します…!」
そう言いながらすでに僕の体はドアの方を向いていた。
「あらそう、だけどお茶ぐらい飲んでいかれたら?話が弾んできたところでお茶を淹れようと思っていたのだけれど。お取り寄せしているお茶なの。美味しいわよ」
ふふ、と彼女は笑った。その優しく素敵な笑顔ももはやおぞましく見える。
僕は首と右手を横に振りながら答えた。
「け、結構です!失礼しますっ」
「そう、残念ね」
片瀬さんはドアのほうを見つめ、もう一度声を出して笑っ た。
「もう帰れないけれど」
僕は床を蹴るようにドアの前へと駆け出した。
ドアノブを力強く握り締めたが回らない。
ガチャガチャ、と音だけがする。
「嘘……っ、何で?何で!?」
ガチャガチャガチャガチャ
必死にドアを叩きノブを掴み回そうとするも、音だけが繰り返し室内に響き渡る。
「何で、何でだよっ…ふざけんなあ!開けろ、開けろよーっっ!!!」
やがて息を荒くしながらドアの前に虚しく立ち尽くす僕に、落ち着いた女性の声が話しかけてきた。
「せっかくここまで来たのだから。これも因果、もう少しお話ししましょう」
女性の声が近い。
首を少し後ろに向けると、彼女はいつの間にかカウンターを出ていて長椅子の前に佇んでいた。
足首まで覆う黒いシフォンのワンピースが彼女の独特の雰囲気を高めている。
不意に、携帯の着信音が鳴った。
彼女はワンピースのポケットから携帯を取り出し、耳に当てて短く言葉を交わすとすぐに電話を切った。
うれしそうに僕を見つめながら片瀬さんは言った。
「お客様がいらっしゃったわ。柳島さん、ちょうど良い機会だから、私の横について見ていて頂戴」
「え……?」
カチャ、とドアの向こう側で鍵を開ける音がした。
ドアは徐にこちらに開いていく。
僕は目を見開き、唾を飲み込んだ。
「おはよう、失礼するよ」
やって来たのはスーツ姿の壮年男性だった。
温厚な雰囲気を纏い、片瀬さんに向かって会釈した。
「おはようございます。お久しぶりですわ。最近お見かけしないからどうされたものかと」
返事をする片瀬さんに男性が近付く。非常に温和な笑顔で彼は言う。
「はは、まあ色々忙しくてね…。こちらの方は?初めて見る顔だね。新人さんかな」
ちらりと向けられた視線に僕は慌てて頭を下げた。
片瀬さんが答える。
「ええまあそんなところですわ」
「そうかい。…ところで今日は折り入って相談があるんだけどいいかな?」
「どうぞ」
男性が長椅子に腰を下ろすと、片瀬さんは素早くカウンターの内側に回った。
戸惑いながら僕がドア付近に立ち尽くしていると、彼女が何やら目配せしてきた。
どうやらカウンターの横に移動しろということらしい。
とりあえず僕は指示通り、長椅子に座る男性の左横 一メートルほど間を開けて立った。
まだ呼吸が乱れている。体の前で組んだ両手にぎゅっと力を入れ、震えをどうにか押さえ込む。
「ではお伺いしましょう」
カウンターの中の椅子に片瀬さんが腰掛けると、男性はすぐに話を始めた。
「実はね、すでにこちらにお願いしているあのアパート以外に、もう一件所有しているんだ」
「あらそうなんですの。もう、長い付き合いだというのにそんな話まったくされませんでしたね。水臭いこと」
片瀬さんが上品に笑うと、男性は申しわけなさそうに言った。
「いやいや、ちょっと事情があってね…もう何十年と貸し出ししていないんだ。私の祖父が所有していた頃から」
「そうなんですの。それはさぞ年季の入ったお部屋でしょう。一体どのようなご事情が?」
「ああ、もう随分と昔…私も生まれていないから、片瀬さんもご存知ないかな。当時、この市ではかなりの騒ぎになったんだが…。そのアパートで、入居者全員が不審者に惨殺される大事件があったんだ。それも全員がバラバラにされて部屋の至る所に置かれていたという猟奇殺人さ」
ぞわ、っと身の毛がよだった。
想像もしたくない。
…でもちょっと想像してしまった。
だが動揺しているのは僕だけだった。
淡々と語る男性に、片瀬さんは興味深そうに相槌を打つ。
「それはそれは」
「それで、まあ犯人は捕まったから良かったんだけど…一部屋だけならまだしも、すべての部屋でそんなことが起きてしまったからね、当然その後の借り手はつかない。…だけど私の祖父は妙に頑固な人でね、身内が挙って取り壊しを勧めても、結局最期まで首を振らなかった。そのアパートに対して強い愛着もあったらしくて……そのまま父に、それから私にと継がれていったんだ。壊すのも相続放棄をするのも、何だか祖父の呪いがかかりそうで気が引けてしまって……」
「なるほど、では内装は当時のままに?」
「ああ、もちろん事件後にクリーニングは入れているけど、それから誰も住んでいないし何十年と野晒しになってるよ。実は私も一度も中を見たことがないんだ…所有者なんて名ばかりでね。今まで頭の片隅にすら置いていなかったんだが、先日祖父の法要の時に、ふと思い出してね。ずっとあのままでも何だか報われないし…ここの会社なら何とかしてくれるだろうと思って来た次第だよ」
「そうですの。もっと早く仰って頂けたら良かったのに。そんな面白い話、 私が放っておくと思いますの?」
「はは、そうだね」
終始笑顔で穏やかに談話する二人を僕は引きつった表情で眺めていた。
まるで隠れ家的なバーの店長とその常連客といった雰囲気。
何故こんなにも和やかに会話しているのだろう。
そんな僕の表情に気付いた片瀬さんがさり気なく水を向けてきた。
「ねえ柳島さん、興味深いお話しじゃない?」
「え、ええ、まあ…」
咄嗟に曖昧な返事をする僕に、片瀬さんはその黒い瞳を輝かせた。
そしてにこやかに笑い、男性に言った。
「そのお話、ありがたくお受け致します。弊社の期待の新人、こちらの柳島にひとつ任せてやってくださいな」
え…………………
えっ?!
声が出ない。
何を言っているんだこの人は。
冗談じゃない、冗談じゃないって。
何、なに、
何で僕が?!
声にならない声を発しようと金魚のように口をパクパクさせる僕に、二つの視線が突き刺さった。
期待を込めた純粋ながら眼差しと
不可解な思惑で淀んだ悪意のある眼差し。
あの雑居ビルから電車で3駅、駅から徒歩30分弱。
市街地や住宅街から外れた森の手前、草むらの生い茂るひっそりとした場所にそのアパートは存在した。
2階建て、6つの窓。そのほとんどが割れていて、それを補修しているガムテープも朽ちてゴミのようにびらびらしがみついている。外壁は完全に変色し、何色と表現すればいいのかわからない。
日中にも関わらず、何とも言えない気味悪さ。そこだけ黒い渦が巻いているような禍々しさを帯びている。
もはや、アパートという名称は相応しくないだろう。あの男性の話のとおり、まったく人の手が入らず長い年月を孤独に過ごしたその風貌は惨めと言ってもいいほどだった。
放棄された土地、まさに廃墟。
しかも、何だってこんな場所に建てたのだろう。市街地に続く道路から隔離され、車の音も聞こえない。
ご近所と言える民家も見当たらない。
奥の森から鳥の鳴き声らしきものが聞こえる。
殺伐とした空気。
僕は廃墟を前にしてどうすることもできずにいた。
あの依頼者の男性が去った後、僕は混乱気味の頭で必死に片瀬さんに意見した。
「どういうつもりなんですか、あんなことを言って……っ。僕に、僕に何をしろって言うんですか?!」
カウンターに手を掛け僕は身を乗り出す。その中に腰を下ろしたまま微動だにせず、片瀬さんは答えた。
「貴方にそのアパートの状態を確認して来て貰いたいの」
「………っ、冗談ですよね??」
傲慢さすら感じるその悠然とした態度に僕は顔をしかめる。徐々に募る苛立ちが恐怖感を凌駕していく。
それを見て彼女はさらに口角を上げ、はっきりと言った。
「本気よ」
「……本気って、僕はこちらの社員でもなんでもないんですよ?!」
「あら社員になりたくてここまで来たのでしょう?」
「そ、それなら撤回します!応募を辞退させて頂きます!こんなこととわかってれば…っ」
「わかっていれば、何?」
一瞬にして片瀬さんの顔から笑みが消えた。
その瞳が僕の心を深く抉るように睨み付ける。
僕はビクッと肩を持ち上げ、喉元に用意していた言葉を飲み込んだ。
一筋の汗が額から頬へ流れ落ちる。
ややあって片瀬さんは再び笑みを作り、こう続けた。
「言ったじゃない。何の会社であるのか予備知識を与えてしまったら応募者なんて来ないと」
「…………っ」
「ここへ足を踏み入れた時点で貴方はすでにここの社員なのよ」
「か、勝手なこと言わないでください!」
バンッッ、と僕の右手がカウンターを叩いた。
しかしそんな虚仮威しなど片瀬さんには通用しなかった。
僕が感情を高ぶらせそれを露呈させていくほど彼女は楽しそうに微笑むのだ。
「貴方がここへ電話をしたこと、貴方がここへ来たこと、すべては因果なの」
「……因果?」
先程も聞いた言葉。
「そう。予言してあげる。貴方は決して逃げないわ」
「………」
ああ、もう、もう何でもいい。
何でもいいから自己防衛の手段を。切り抜ける口上を。
もう滅茶苦茶過ぎる。
髪をかきむしりながら僕は思い付くままに言葉を吐き出す。
「何なんですか、因果だの予言だの……これ、軟禁ですよね?こんなことしていいと思ってるんですか?!そ、そうだ、それにこんなこと言っちゃ悪いですけど、そもそもそんな何十年も放置し続けたアパートなんて借りる人、まずいないですよ?!何よりそんな残虐な殺人事件があって…っ、誰が住みたいって言うんですか? なの…っどう考えたって人が住めるわけない!!」
「それは貴方が決めることではないわ」
片瀬さんの澄んだ声がピシリと鞭を打つ。
「借り手のつかなくなった部屋、人が住みそうにない物件、そういう特別なものを扱うのが私たちの仕事なの。先程も話したように、そういったものを望む人はいるの。特殊物件を貸したい人と借りたい人を繋ぐ役割を果たすことが私たちの誠意というものよ」
すっかり押し黙ってしまった僕に、彼女はもう一度告げた。
「貴方は逃げない。私に貴方の誠意を見せて頂戴」
肌寒い風が肌に吹き付け、草むらの表面を撫でて去っていった。
少しずつ冷静さを取り戻していく頭に2つの疑問が浮かび上がった。
何故、逃げなかったのか。
あの男性が出て行く時、彼を押し退けてでも逃げ出すべきではなかったか。
チャンスは十分にあったはずだ。
そして何故、僕はここにいるのか。
馬鹿正直に彼女の理不尽で不条理な指示に従う必要がどこにあったのだろうか。
今からでもさっさと家に帰ることはできる。
一体僕は何をしているのだろう。
あまりに馬鹿馬鹿しくて自分自身を嘲笑ってしまう。
でも、結局僕はこういう性格なのだ。
片瀬さんから渡されたデジカメとボールペン、罫線の入った用紙、そして鍵を手に僕は廃墟へと進んでいった。
あの雑居ビルに戻る頃にはすっかり日は傾き、茜色のカーテンが西の空に広がっていた。
春の夕暮れ時はまだまだ肌寒く、日中の汗をたっぷり吸い込んだジャケットに体を擦り合わせながら階段を登る。
そして、上がり切る時にはまたじっとりと体に汗が吹き出しているのだ。
「お帰りなさい」
「……ただいま戻りました」
カウンターの中に嫣然として佇む女性に僕は頭を垂れた。
埃や土で汚れたスーツ、細かい傷が刻まれた靴、煤けた掌。そんな自分に苦笑しながら彼女にカメラを差し出す。
「こんな格好でも問題ないですか?」
カメラを受け取り片瀬さんはくすっと笑った。
「顔も髪も酷いわよ。なかなかの勇姿だわ」
そして一言。
「合格」
こうして僕は株式会社ジェコの社員になった。