side 宿屋の娘B
私には好きな人がいる。
私は宿屋の娘で、ある日泊まりに来た男の人に一目惚れをした。彼は一言で言うなら真っ黒。髪や瞳、果ては衣服までが真っ黒だった。彼は二人組の宿泊で、もう一人は彼とは対照的に真っ白でお互いを強調させていた。にこやかにほほ笑む白い方の人は紳士的で誰かと話す時は決まってその人が話していた。彼はその人に交流の一切を任せているのか一言も喋ろうとはしない。話しかけられてもすぐに視線で白い人を捜して任せてしまう。白い人もそれが当たり前のようにしているものだから私はまだ一度も彼の声を聞いていない。でもそんなクールなところも素敵だと思う。それに、
「すみません、今日の晩ご飯は部屋に持って来てもらっていいですか?」
「あ、はい! わかりました」
白い人にいきなり声をかけられて驚く。他の人は澄んだ声をしていて好印象だというけれど私はそうは思わない。この人の声は澄みすぎていて怖いと思う。白い人の声は全部を浄化してしまいそうなほどに澄んでいた。澄んでいればいいというものではない。綺麗すぎるものは逆に不気味さを醸し出してしまうというものだ。
朗らかに笑う白い人には申し訳ないが苦手意識を感じてしまうのは仕方がない。今日の晩ご飯は部屋まで持って行かなければいけないということを頭に叩き込んでから逃げるように白い人から離れることにした。白い人は怖いが彼に会えるのは魅力的だ。今晩は私が晩ご飯を運ぶことにしよう。そんな密かなる決意を持ってみたりする。家業の手伝いとしてモップを片手に掃除をしながらそんなことを考えていると不意にその手が止まった。
「あ」
噂をすればなんとやらというやつだ。前方には彼がいた。そういえば今日はまだ見ていなかったから今の今まで寝ていたのかもしれない。黒髪の右側は寝癖なのか跳ねていて、目は半目でまだ眠そうだ。やはり寝ていたのだろう。そんなだらしのないところも素敵だと思う。
「おはようございます」
目が合ったからには宿屋の娘として無視をするわけにもいかないだろう。緊張しすぎておかしな顔になってしまっていないか心配しながらも笑いかけてみる。彼は私に気付いてくれたみたいだけどそれでも軽く会釈を返すだけで一言も口を開こうとはしなかった。無理に声を聞きたいわけではなかったけどせっかく好きな人と偶然会ったのだから少しでも長く一緒にいたいと思ってしまうのは仕方ないだろう。きっとあと数日もしないうちに旅立ってしまわれるのだからこれくらい欲張ってはいいのではないかと思う。
「今起きられたんですか? 今日みたいに天気がいいといつまでも眠っていたくなりますよね」
歩み寄りながら話しかけると彼は明らかに困った表情を作った。それから視線が泳ぐ。白い人を捜しているのだろう。それはわかったが返答がほしいわけではないのだ。一方的でもいいから話していたい。だから困っている彼には見なかったふりをして話し続ける。
「私も本当は寝ていたいくらいなんですけど両親が仕事手伝えーってうるさくて。あ、今のは馬鹿にしたとかじゃないですよ?」
返事をしなくてもいいように一方的に捲し立てて返答が必要な言葉は投げかけない。注意深く言葉を選びながら話しかけ続けていると彼が溜息を吐いた。一方的に話すうるさい女だと思われてしまったのだろうか。そう思うと悲しいが彼がはっきりそうだと態度に現わしていない以上あまり勝手に思いこんでしまうのは危険だと思えた。だからそれでも話し続けていると不意に彼が口端を綻ばせた。今まで無表情を貫いていただけにそんな些細な表情の変化にもどきりとしてしまう。そんなにおかしなことを言っただろうかと自分の発言を振り返っていれば彼の口がゆったりと開いた。まさか。
「楽しそうで何よりだ」
「っ!?」
彼は笑っていた。初めて喋ってくれた。それなのに私の身体に走ったのは歓喜ではなく恐怖だった。凄まじい量の恐怖が一気に雪崩れ込んでくるような感覚に思わず手にしていたモップを手放してしまう。見開いた瞳は瞬きを忘れ、徐々に乾き始めていた。しかしそんなことを気にしている余裕はない。身体がじっとりと汗をかき始め、今すぐにでも逃げ出したい衝動に駆られた。それでも恐怖に萎えた足ではこの場に立ち続けているのが精一杯で動こうものならその場にへたり込んでしまいそうだった。好きな人の声を聞いただけなのにこれまで怯えている自分が不思議で仕方なかったがそんな疑問すら恐怖が凌駕していた。
「あ、あ……」
何か言わなければ。いきなりこんなに怯えられて彼だって不思議がっているはずだ。でも口からは意味を成さない言葉しか出て来ない。絶対に変な女だと思われている。彼はどんな顔をしているのだろう。軽蔑するような目で見られていたらどうしよう。そんなことを考えながら恐る恐る彼の顔を覗き見る。すると彼は軽蔑の表情などは浮かべていなかった。
「……なん、で?」
恐怖で凍りついて声ではそれだけ絞り出すのがやっとだった。そして彼は軽蔑などしていなかった。その代わり今にも泣き出しそうな表情で端正な顔つきを台無しにしていた。ああ、でもこれはこれでかっこいいのかもしれない。彼はその表情を崩さないまま私の横を通りすぎて行く。部屋に戻ってしまうのだろうか。呼び止めたかった。でも本能に恐怖がこびりついていてそれを阻止する。
「どうして……」
彼の姿が見えなくなったところでなんとかそれだけを言葉にすることが出来た。どうして彼の声を聞いた途端これほどまで恐怖を覚えてしまったのだろう。そして何よりも彼の姿が見えなくなった瞬間心底安堵した自分への嫌悪でおかしくなってしまいそうだった。
そう嫌悪しつつもここから動こうとしない自分がどうしようもなく醜いものに思えた。