理由
目が覚めるとベッドの上だった。
そんな使い古されたような表現しか出てこない程にクジュの頭は覚醒しきってはいない。とりあえず身を起こそうとしたところで左脇に痛みが走って怪我をしていたことを思い出した。それでも痛みに負けじと上半身を起こす。力の入れ方が悪かったのか起き上がってから左脇の痛みが持続しているのだが無視する。
「クジュ様、おはようございます」
疲労が抜けきっていないのか動かす度に身体は休息を促してくる。今の今まで寝ていただろうに、と自分に自分でツッコミを入れながら最低限の動きで声のした方へと身体を向ける。その先ではシーナが救急箱を広げていた。手には包帯が握られている。
「傷、どうですか? 包帯巻き直したりはしたんですが傷が結構深いみたいで」
剣で思い切り刺されたわけだから傷が浅くないのは予想がついていたが実際に傷を確認してはいないのでどの程度の傷なのかはよくわからない。試しに左脇に手を触れてみると泣き出したくなるような痛みが駆け巡った。なんとか呻くだけにとどめることに成功する。
「大丈夫ですか?」
心配そうなシーナの言葉には応答しない。その代わりに首を一度縦に振る。血が足りないのか、寝すぎただけなのか意識が霧で覆われたようにはっきりとしない。だがそれ以外に体調に異常はないので大丈夫だろう。頬にも傷を受けていたことを思い出して手を添えてみれば線上に瘡蓋になっていた。何度か爪を滑らせて瘡蓋を剥がそうとするがどうやらまだ治りきっていないらしくかさぶたを剥がしてしまえば出血してしまえそうだった。瘡蓋は気になるが出血は面倒なので放置することにする。何よりも瘡蓋よりも気になることが一つ。
頬に添えていた手をそのまま上へ持ち上げて目の下を指差す。それが何を意味するのか瞬時に理解したシーナは包帯を手放して両手で目の下を覆い隠した。包帯は床に落ちると弾力があるのか二度ほど小さく跳ねながら転がっていく。先端からだんだんと包帯が勝手に解けていっているのだがそんなことはシーナにはどうでもいいことらしい。包帯には見向きもしない。
「もしかして、泣き跡ついてますか?」
無言で頷く。するとシーナな泣きそうな表情を浮かべてしまった。これは声をかけるべきだろうか。しかし声をかけてしまえばシーナが体調不良を引き起こす可能性が高い。そんな危険を冒してまで声をかけるのはハイリスクノーリターンだ。うまい慰めなどクジュに出来るわけもない。ここは大人しく黙っておくべきだろう。そう結論づけたところでシーナが大粒の涙を零し始めた。体内の水分を全て失って干からびてしまうのではないかと思うほどの大粒の涙を絶え間なく零すシーナはきっとクジュに指摘されてしまったことで我慢が効かなくなったのだろう。こんなことなら気付かないふりをしておけば良かった。面倒だと思ってしまうと同時にシーナがこんな状態になるまで放置しているチェックとナイトラに怒りを覚える。手を差し伸べることも突き放すことも出来ずに結局何もしないというある意味最低な行動をとったクジュだがシーナは気分を害した様子もなく口を開いた。
「煩わしいと、思っていたはずなんです」
ゆったりとしたその喋り方は言葉にすることでその事実を再確認しているようでもあった。涙混じりで喋るのが困難という理由もあるのかもしれない。しゃっくりのような呼吸を何度か繰り返してからシーナは続けた。涙で顔はぐしゃぐしゃになっているが彼女がそれを気にしている様子はない。ただ目から零れる涙が邪魔なようで絶えず拭い続けている。涙が止まらない限りその行為は無駄でしかないと思うのだがそれでも拭わずにはいられないのだろうと解釈することにした。
「私は好きなんです。愛してるんです」
誰を、とは言わない。言わなくても伝わると思っているのか。シーナが言わないのならば予測するしかないが恐らくはチェックとナイトラの二人のことを指しているのだろう。どちらも好きで、愛しているのだ。一人は弟として、もう一人は男として。あまり予測するまでもなかったかもしれない。だから? とくらいしか返答が思いつかなかったのでここでも黙っておく。
「勝手なのはわかってるんです。今まで煩わしくて仕方なかったはずなのにいざ二人がなんでもなくなってしまったらすごく悲しくて。自分でもどうしてなのかよくわからないんです」
シーナの気持ちを少しだけ考えてみる。どう頑張ってもシーナの気持ちを完全に理解することなど出来るはずもないがそれでも想像するくらいは自由だろう。想像力を働かせて考える。それでも想像力に乏しいクジュにはシーナの痛みなど到底理解出来なかった。ただ、一つだけ思ったことがある。
「羨望か」
クジュがそう呟いた途端いきなり恫喝されたかのようにシーナの肩が跳ねる。心の準備が出来ていなかったので驚いてしまったのだろう。その驚きが泣きに拍車をかけてしまったようでシーナの涙はますます止まらなくなってしまった。
「そうかもしれません」
涙で顔をぐしゃぐしゃにしてしゃっくり混じりにそう返したシーナはクジュを見る余裕はなさそうだ。乱暴な手つきで涙を拭い続けているが目に黴菌が入ってしまわないかと心配になってくる。ベッドから出てシーナの手を掴んでみる。動いたせいで傷が痛み、身体は休ませろと言わんばかりに途方もない疲労を訴えてきた。いきなり手を掴まれたシーナは涙を拭う術を失って、その涙は頬から顎を伝い重力に従って落ちていく。シーナはクジュの手を振りほどこうとするわけでもなくただ涙を流し続けた。振りほどく気力もないのかもしれない。嗚咽ばかり漏らすシーナにかける言葉も見つからず黙っていれば彼女は無理矢理に口端を持ち上げて目を細めた。笑おうとしているらしい。
「でも」
二音を発するだけでも震えていることがわかるその声は聞いていて痛々しい。それでも何か言葉を続けようとしているシーナを待つ。慰める方法など思いつかないのだからせめて聞くことぐらいはしようと思う。嗚咽が邪魔してなかなか次の言葉を発することが出来ないシーナを辛抱強く待つ。するとシーナは歯を食いしばって嗚咽を殺すとその一瞬の時間を使って声を絞り出した。
「今更気付いたって、遅いんですけどね」
これは完全に独り言だろう。うまい返答も見つからずに黙っていれば涙は確実に床へ零れ落ちていく。痛む傷を無視してシーナの手を掴み続けていることになんの意味があるのか。そう思い始めたが今彼女の手を放す気にはなれなかった。
「一つ、聞きたい」
このタイミングで全く関係のないことを聞くのもどうかと思うのだが他に話題が見つからない。流石にずっと沈黙を保つわけにもいかないだろう。これでシーナの気が少しでも紛れればそれはそれで構わないし、紛れなければそれまでだ。シーナはいきなりの言葉に戸惑いを見せたがそれでも涙に濡れた声で「どうぞ」を返した。その言葉に甘えて続ける。
「長寿の薬を探している。何か心当たりはないか?」
「……そういえば、そんなことをおっしゃっていましたね」
クジュの問いを受けて目を伏せて考え込んだシーナは服の腕の部分に顔を擦りつけて涙を拭うと鼻を啜った。息苦しいのかわずかに咳き込んでから頭を持ち上げて視線を合わせた。話題があるおかげなのか涙は止まっているような気がした。
「私はよくわからないのですが西に医療技術の発達した国があるという話を聞いたことがあります。そこならもしかすると何かわかるかもしれません」
記憶を辿っているのかシーナの目は泳ぐ。珍しく眉間に皺が寄っているあたりかなり昔の記憶なのかもしれない。それでも何も手がかりがないよりはいいだろう。西に医療技術の発達した国があるかもしれない。それだけの情報を脳に刻み込んでおく。どうせ当てもないのだから行ってみる価値はあると思う。
「ところでどうして長寿の薬を探されてるんですか? 余計な質問でしたらすみません」
シーナの問いに答えるべきか迷う。だがすぐに知られて困る内容でもないかと思い直し結局答えることにした。
「救いたい人がいる」
それ以上は説明しようとすれば長くなってしまうだろう。これ以上聞きたいのならばウォルに聞けばいい。興味がないのならばこれで探りを入れるのは終わりにすればいい。そのあたりはシーナに任せるとして、クジュはまた口を閉じる。もう話題が尽きてしまった。せめてウォルがいればなんなりと話を繋いでくれそうなものだがいつも一緒にいるわけでもない。
「大切な人、なんですか?」
不意にそう問いかけられて自分はもしかするととても無神経な質問をしてしまったのではないだろうかということに思い至った。シーナは身近な二人の変化に涙している。二人を失ったわけではないが、普段の光景を失ってしまった彼女に自分達に大切な人間がいると匂わせるような発言は控えるべきだったかもしれない。そう思ったところで発言を撤回出来るはずもなくどう返したものかとしばし考える。うまい言い訳も考えられず、ここは素直に答えるべきだろうという結論に辿り着いただけだった。
「とても」
シーナに極力負担をかけてしまわないようにそれだけ答えると彼女はもう一度泣き出しそうに表情を歪めてから「そうですか」とだけ返した。