こうして恋慕は塗り潰される
「っ、うっ!……は」
皮膚が粟立って冷や汗がだらだらと流れる。少しでも気を緩めれば剣を引き抜く力は萎えてしまう。その度に深呼吸を繰り返し、決意を固めてからもう一度剣に力を込めて引き抜き始める。そしてまた鳥肌と冷や汗。手が痛みに萎える。そんなことを何度か繰り返してなんとか剣を完全に引き抜いた。
「は……」
その場に尻餅をついて荒く呼吸をする。障害物がなくなった途端に傷は塞がり始め、クジュが息を整え終わった頃には完全に塞がっていた。痛みはもうない。だがここから出ればあの痛みが戻ってくる。それを思うと気が滅入った。先程剣を抜くという作業でかなり体力を消耗してしまったようで立ち上がる気にもなれない。引き抜いた剣を足元へ転がす。クジュ出身の血液が大量に付着していて不気味なアンティークと化していた。そこでようやくクジュは戦いを続けているナイトラ達へ目をやる余裕がなんとか出来る。既に介入する気力はないので決着がつくまで待機していようと思う。
「どうして消した! チェックを返せ!」
「……」
吠えるナイトラと沈黙するナイトラ。沈黙している方が本物だろう。偽物はクジュに剣を投げつけたせいで丸腰となり、苦戦しているようだった。こちらとしては有利なのでなんの問題もない。
偽物はナイトラの剣が届かない程度に距離をとっている。ナイトラがその距離を容赦なく詰める。そしてそれを更に偽物が後退して距離を取る。これでは決着がつきそうもない。
「仕方ない」
リスクが高いが早く帰りたい。さっさと決着をつけてもらうにはこの方法が一番だろう。
足元に転がしていた剣を手にとって立ち上がる。それだけでも疲弊しきった身体は動くのを拒否し、ひどく重たかった。それを極力無視して剣を構える。別に戦うわけではない。投げるだけだ。右手に剣を握り、手を後ろへ傾ける。それから重心を後ろから前へ移動させながら腕を振って剣を手放した。剣は多少歪な放射線を描きながら二人に向かう。声をかけずに行動したので二人はかなり驚いているようだったが気にしない。持ち前の反射神経を駆使して突如飛んできた剣を回避した二人は同時にこちらを見る。剣は浅く壁へ突き刺さった。この程度で壁に突き刺さってしまうとはこの壁は結構柔らかいのかもしれない。
「さっさと決着をつけろ」
疲れているんだ、早く帰りたい。面倒臭いという感情を凝縮させてそれだけ伝えるとクジュはもう一度腰をおろす。もう立ち上がる気がしない。一方クジュの言葉の意味を理解した偽物は素早く壁から剣を引き抜くとナイトラから距離を取った。付着した血を飛ばすように剣を振るがあまり変化はない。
「なんのつもりですか」
まだ理解しきれてないナイトラがクジュへ問う。口を開くことさえ億劫なのだがそう訴えるのも面倒だったのでその問いに答える。
「戦って倒せ。弱っていれば俺の声に対する耐性も弱まる」
万全の状態の奴に声を聞かせ続けるより、衰弱した奴に少し声を聞かせてやる方が効率はいい。なによりもクジュ自身が延々と声を聞かせ続けられるような体調ではない。ここは傷は回復するが疲労は回復してくれない。こんな体調で自分の声を聞き続ければ偽物よりも早くダウンするだろう。そう判断しての行動だったのだが果たして今の説明でナイトラに正しく伝わっただろうか。伝わらなかったとしてもナイトラには戦ってもらわなければいけないのだが。
武器を取り戻して勢いまでも取り戻した偽物は一歩大きく踏み込むとナイトラへ剣を振り下ろす。外見に反した荒々しい戦い方を意外に思う。ナイトラは剣を盾にそれを受ける。それから剣に力を込めて偽物を押し返した。押し返されて舌打ち混じりに後退した偽物はまた距離を取って体勢を立て直す。随分と慎重な戦い方をする。それに苛立ちを覚えているらしいナイトラは眉間に皺を寄せた。ナイトラも早々に決着をつけてしまいたいのだろう。クジュの声にナイトラも少なからずやられているはずだから早く戻ってウォルに浄化してもらう必があった。纏わりつく倦怠感が不快で仕方がない。
「本当は気付いてるだろ」
クジュの時ともチェックの時とも違い、遠慮のない面倒臭そうな声でナイトラが言う。自分に対しての配慮は一切ないようだ。
「何に」
「お前はチェックを守ってなんかない」
「黙れ」
間髪入れず、偽物が低く唸った。精神的に揺さぶりをかけていく作戦のようだ。それに偽物が乗るかは怪しかったがこの様子なら乗ってくれそうだ。自嘲気味な笑みを浮かべてナイトラは続けた。
「愛してる? 好きだから守る? 笑えるな。俺達はいつだってチェックを守れてなんかない」
「黙れ黙れ黙れ!」
黙れというわりには偽物は動かない。実力行使で黙らせるという選択肢はないらしい。剣を握る手が震え眉は吊り上がっている。なおもナイトラは続けた。
「俺達はいつだってチェックの枷になってた。姉さんも苦しめてた。否定出来るか? 出来ないだろ」
精神攻撃は偽物に相当聞いているようだった。素人なクジュから見てもわかりやすいほどに偽物には数多の隙が生まれている。それでもナイトラはまだ攻撃を仕掛けようとしない。何か考えがあるのかもしれないので口は挟まず黙って傍観することにした。
「俺達はチェックの首を絞めてる。何が騎士だ。チェックに守られてるだろ」
「ちが……」
「違わない。結局俺達はチェックを甘やかすふりをしてチェックに甘えてたんだ」
俺達、と表現しているのは偽物とナイトラ自身を同時に批判しているのだろう。批判しながらも自己否定をしていて、大丈夫なのかと思わないでもない。
「そんなこと……」
震える声でそれでもなお否定しようと偽物が口を開いた。この時点で偽物は大部分の戦意をナイトラによって削り取られているようだった。そんな偽物を見て目を細めてナイトラは偽物に気付かれないように剣を強く握り直した。それから躊躇いなく踏み込むと一気に偽物の間合いへ侵入する。偽物は完全に侵入されてから応戦の体勢を整えようとしたがそれは遅すぎた。ナイトラは構えた剣を垂直に突き出して偽物の胸を貫いた。偽物の手から剣が落ちる。
「が、はっ……!」
胸を貫かれた偽物はナイトラの肩口に吐血する。感情が具現化しただけの存在なのに血を吐くというのはおかしい気もするがそうなっているのだからいくら考えても仕方のないことだ。偽物はひどく緩慢な動作で手をナイトラの肩へと置いた。先程吐いた血にその手が触れて掌が赤く染まる。だが偽物はそんなことには構わなかった。ナイトラもたいして問題だとは思っていないのか沈黙を貫いている。
「俺は……」
偽物が口を開く。ナイトラは黙って聞いている。
そういえばここで傷が塞がるのはクジュ達だけなのだろうか。偽物の傷が塞がる様子はない。どうしてクジュ達だけ傷が塞がるのかはわからない。この世界の専門家になりたいわけでもないので深く考えようとも思わない。
「おれはただ、まもりたかっただけなのに……」
そう弱々しく呟いた偽物は泣いているようにも思えた。こんなことがあるからいつだって『好き』を相手にするのは嫌いだ。それでも依頼主が望むなら旅を続けるためにもやらなければいけない。そんなことを考えているとナイトラが意味ありげな視線を寄こしてきた。それを受けて立ち上がることなく口を開いた。あの様子なら少し声を聞かせるだけで充分だろう。
「お前はいなくなってほしいと望まれた。だから消えろ」
それだけ言った途端に足元から偽物の身体が黒に蝕まれていく。弱っているので少し声を聞いただけでも黒は止まることなく偽物を覆う。ナイトラはそんな偽物を見ながら先程の呟きに対して答えた。
「これからは本当に騎士としてチェックを守るから安心しろ」
偽物に言ったのか、それとも自身に対して言ったのか。それを聞いた時には偽物はほぼ黒に覆い隠されていた。それでもナイトラのその言葉に応えるように偽物は右手を軽く挙げて弱々しく振った。そしてそれが合図だったかのように真っ黒になったナイトラの偽物はぼろぼろと崩れていく。崩れた破片達はナイトラに振りかかるがすぐに雪のように溶けてしまう。さながら黒い雪に降られているようなナイトラをクジュはただ眺めることしか出来ないでいた。
「泣いてるのか」
問うべきか迷った挙句結局問う。先程まで偽物を貫いていた剣は力なくその先端を床につけていた。ナイトラは涙を流しながら鼻も詰まって来たのかずるずると音を響かせて鼻を啜った。それからクジュを見る。その表情は穏やかな無表情で戸惑う。
「チェックが泣き虫なのは知ってますよね?」
「ああ」
「普段虚勢張って余裕綽綽みたいな顔してるくせに俺や姉さんの前ではわんわん泣くんですよ。だからかもしれないですけど俺にはいつの間にか泣かない習慣がついてたんです」
そう言うナイトラは泣いている。発言と矛盾しているではないか。そんなことを指摘しようとしてやめた。チェックがいないからこそナイトラは泣いているのかもしれない。労いの言葉をかけるべきなのかもしれない。だが気の効いた台詞も思い浮かばない上に声をかけてもいい雰囲気でもなさそうなのでやはり黙っておく。
「チェック、ごめん。愛してる、愛してた……」
過去形で締めくくったナイトラはまだ好きという気持ちを忘れていないのだろう。だがここから出れば失われてしまう。それは確実な確定事項だった。嗚咽を漏らすナイトラを一瞥してからクジュはのろのろと立ち上がる。それから近くの壁を渾身の力で蹴る。苛々していたからだとかそんな理由ではない。壁はクジュが蹴りを入れたところを中心に直径三十センチほどの歪な穴を作り出した。その穴の端をまた蹴って更に穴を広げていく。足の届かない上の方は偽物の持っていた剣を使って壊していくことにする。人一人がようやく通れるほどの穴を作ったところでクジュは未だに泣き続けているナイトラを見た。クジュの作った穴の先は真っ暗で今にも吸い込まれてしまいそうだった。
「帰るぞ」
泣きすぎて呼吸がうまく出来ないナイトラは何度か咳込む。涙で濡れたその手を掴んで引いた。ナイトラは抵抗せずに引かれるままにクジュについて来る。クジュは穴の前まで来るとそこで手を離す。ここから帰れることを伝えるとナイトラの背後に回って蹴り落とした。
「いっ!?」
「だいたいの奴は怯んで落ちない。だから俺が落としてやる、ありがたく思え」
泣くことに集中していたナイトラがこの突然の攻撃を回避出来るはずもなくバランスを崩して穴へと落ちる。それを見届けてから振り返ってこの場所を目に焼き付ける。
「……さようなら、だ」
クジュによって塗り潰された二人はどうしているのだろう。考えても仕方ないが。そもそももう存在していないのかもしれない。そんなことを無意味に考えながらクジュは背中から穴へと落ちていった。