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凍てついた海峡を隔てて愛した幼馴染は、十年後『君を迎えに来た』と国境を越えてきた

作者: uta
掲載日:2026/04/30

第一章 届かない手紙、届かない返事


——今日も、返事は来ない。


分かっていた。分かっていたはずなのに。


港町の図書館。閉館作業を終えた私は、窓辺に立って凍てついた海を見つめていた。


凍海海峡。


北大陸と南大陸を隔てる、死の海域。十年前の政変により両国は国交断絶、海峡は封鎖され『渡れば死刑』の禁断の海となった。


その向こうに——彼は、いる。


いや、いるはずだ。生きていると、信じている。


『必ず迎えに行く。待っていて』


十年前。最後の船に乗り込む直前、凪沙蒼真はそう言った。


私の手を強く握って。泣きそうな顔で笑って。


それが、最後だった。


「雪乃さん、また海見てる」


後輩司書の声に、私は我に返った。慌てて銀縁眼鏡を押し上げる。


「……別に。ちょっと、風が冷たいなって思っただけ」


嘘だ。


本当は今日も、届くはずのない手紙を投函してきた。


宛先は北大陸。届かないと分かっている場所へ。届くはずのない想いを、封筒に詰めて。


(馬鹿みたい。十年も経つのに)


自分でも分かっている。こんなことを続けても意味がないと。彼にはもう新しい人生があるかもしれないと。私のことなんか、とっくに忘れているかもしれないと。


でも、やめられなかった。


書かずにはいられなかった。


「ねえ雪乃さん、氷室さんからまたお見合いの話……」


「断って」


「でも氷室さん、港湾管理局のエリートで——」


「断って」


二度言わせないで。


そう言いたかったけど、喉の奥で言葉が凍った。


後輩は困ったような顔をしている。分かっている。私がおかしいことくらい。二十八歳で独身、見合い話を全て断り続け、毎日届かない手紙を書いている女。


周囲からすれば、異常だろう。


「いい加減諦めろ」と何度言われたか分からない。


「その人はもう戻ってこない」と。


「十年も待つなんて馬鹿げている」と。


分かっている。分かっているけど。


——私には、待っている人がいる。


たとえその人が、もう私のことなんか忘れていたとしても。


たとえ「渡れば死刑」の海峡に隔てられた、二度と会えない人だとしても。


私は、凪沙蒼真を待っている。


届かない手紙を書き続けながら。届かない返事を、待ち続けながら。


窓の外で、冷たい風が鳴いていた。


凍てついた海峡が、今日も私たちを隔てている。


***


その夜。


私は小さなアパートの一室で、また手紙を書いていた。


『蒼真へ


今日も海を見ました。あなたがいる方角を。


図書館に新しい本が入りました。北大陸の民話を集めたもの。あなたが好きだった話も載っていました。覚えていますか。子供の頃、二人で読んだあの本。


今日は少し寒かったです。でも、あなたのことを考えると、少しだけ温かくなります。


会いたいです。


今日も、会いたいです。


雪乃より』


便箋を折りたたみ、封筒に入れる。


机の引き出しを開けると、そこには何百通もの手紙が眠っていた。


全て、蒼真宛て。全て、届かなかった手紙。


郵便局に持っていっても「北大陸宛ては受け付けられません」と突き返される。それでも書き続けた。書かずにはいられなかった。


(……馬鹿だな、私)


分かっている。


でも、これだけが私と蒼真を繋いでいる気がした。


この手紙を書いている間だけ、私たちはまだ繋がっていると思えた。


窓の外を見る。


凍てついた海の向こう。暗い空の下、北大陸があるはずの方角。


——蒼真。


生きていますか。


元気ですか。


私のこと、覚えていますか。


答えは返ってこない。


十年間、一度も返ってこなかった。


***


三日後の朝。


異変は、突然起きた。


「密航船だ!」


港が騒然となる。


私は図書館の窓から、見慣れない黒い船影を見た。


北の方角から——凍りついた海峡を、掻き分けるようにして進んでくる船。


(嘘でしょ……あの海峡を渡った?)


凍海海峡。


氷塊が漂い、極寒の風が吹き荒れる死の海域。渡航は死刑に値する重罪。十年間、誰も渡れなかった禁断の海。


そこを、渡ってきた船がある。


気づいたら、私は走り出していた。


コートも羽織らず、眼鏡が曇るのも構わず、港へ向かって。


(違う。期待なんかしてない。するわけない)


分かっている。彼がこんな危険を冒すはずがない。冒す理由がない。十年も経てば、新しい人生があるはずだ。新しい恋人も、家族も。私のことなんか——


港に着いた。


人だかりの向こうに、黒い船が停泊している。


タラップが降ろされ、人影が降りてくる。


一人、二人、三人——亡命者たちだ。北大陸から逃げてきた人々。


そして、最後に降り立った男。


船長らしき、大柄な青年。


潮風に焼けた肌。船乗りらしく鍛え上げられた体躯。左頬に走る、痛々しい古傷。


でも——


その目。その輪郭。その立ち姿。


「——雪乃」


心臓が、止まった。


世界が、止まった。


「遅くなった」


男が、こちらを見ている。


十年前と同じ目で。十年前より深い眼差しで。


「迎えに来た、雪乃」


凪沙蒼真が、そこにいた。


私の前に。


十年の海峡を越えて。


「……っ」


声が出ない。


涙で前が見えない。


眼鏡を外して、拭っても拭っても止まらない。


「泣くな」


大きな手が、私の頬に触れた。


硬くて、温かくて、懐かしい手。


「十年分、俺が拭いきれない」


——ああ、やっぱり。


この人は、不器用なままだ。


「……っ、遅い」


絞り出した声は、情けないほど震えていた。


「十年も、遅いっ……!」


「ああ。悪かった」


蒼真が、私を抱きしめる。


潮と、陽光と、懐かしい匂いがした。十年前と同じ匂い。でも、もっと深くて、もっと強い匂い。


「待っててくれたんだな」


「……別に、待ってたわけじゃ」


嘘だ。


待っていた。ずっと待っていた。十年間、一日も欠かさず待っていた。


「十年分の手紙、届いてた」


息が止まる。


「届けられなかったけど、全部読んだ。何度も読んだ」


どういうこと?


届くはずがないのに。


「俺も書いてた。毎日」


蒼真の懐から、分厚い紙の束が覗いた。


何百通もの、手紙。


「届けに来た。十年分」


私は、声を上げて泣いた。


港中の人間が見ていようと、もう構わなかった。


十年間、ずっと一人で耐えてきた。


届かない手紙を書き続けて、届かない返事を待ち続けて、周囲から馬鹿にされても、諦めろと言われても、ずっと一人で待っていた。


その全てが、報われた気がした。


「蒼真……蒼真っ……!」


「ここにいる。もう、どこにも行かない」


強く抱きしめられる。


この腕の中が、私の居場所だ。


十年間、ずっと探していた場所。ずっと帰りたかった場所。


「——おい、貴様」


冷たい声が、私たちを引き裂いた。



第二章 氷の檻


「凪沙蒼真。北大陸からの密航者として拘束する」


港湾管理局の役人たちが、蒼真を取り囲んでいた。


その先頭に立つのは——


「氷室さん……!」


氷室征爾。


端正な顔に、冷たい笑みを浮かべた男。港湾管理局のエリート。私に何度も見合いを申し込んできた男。


「やあ、雪乃さん。心配したよ。こんな野蛮人に抱きつかれて」


「野蛮人じゃない! この人は——」


「北大陸の密航者だ」


氷室が、私の言葉を遮る。


「しかも船長として他の犯罪者を引き連れてきた。国際法違反、密航幇助、罪状は山ほどある」


蒼真が、私を庇うように前に出た。


「雪乃は関係ない。俺だけを連れていけ」


「ああ、そのつもりだとも」


氷室の目が、蛇のように細められる。


「北大陸への強制送還手続きを取る。送還されれば……まあ、死刑だろうね」


血の気が引いた。


「そんな……!」


「法律だよ、雪乃さん。君が何を言っても変わらない」


氷室が、一歩近づいてくる。


「でも、方法がないわけじゃない」


その目が、私を舐めるように見た。


「僕と結婚してくれれば、この男の罪を軽くしてあげてもいい。国内の収容所送りくらいには」


吐き気がした。


「君の血筋は価値がある。南大陸建国の功労者の末裔……知ってるよ、雪乃さん。隠していても無駄だ」


「調べたの……?」


「君にふさわしい男は、僕だけだ」


「ふざけるな」


低い声。


蒼真が、氷室を睨みつけていた。


その目には、十年前にはなかった鋭さがあった。凍える海を渡り、何度も死にかけた男の目だった。


「雪乃は物じゃない。お前の都合で取引する材料じゃない」


「ほう。死刑囚になる男が随分と偉そうだね」


「何度死刑になろうと、雪乃をお前には渡さない」


「蒼真……」


「北で取引を持ちかけられた。『あの女を忘れれば許してやる』ってな」


氷室の眉が、ぴくりと動いた。


「蹴った。何度でも蹴る。雪乃を忘れろって言う奴は、全員敵だ」


蒼真の目には、迷いがなかった。


十年間、揺るがなかった想いがそこにあった。


凍える海を渡り、追われる身になり、死刑を覚悟してでも——この人は、私に会いに来た。


「……連れていけ」


氷室の声が、低く冷たくなる。


「この男は明日、北へ送還する。死刑執行を見届けてやるよ」


「待って! 蒼真!」


手を伸ばしても、届かない。


役人たちに取り囲まれ、連れていかれる蒼真の背中が、どんどん小さくなる。


「雪乃」


振り返った蒼真が、叫んだ。


「お前は何も悪くない。俺のことは——」


「嫌……っ!」


叫んでも、誰も止まらなかった。


また、引き離される。


十年前と同じように。


また、失う。


やっと再会できたのに。やっと触れられたのに。


「氷室さん……!」


私は、氷室の前に立ちはだかった。


「お願いします。蒼真を、送還しないで」


「それは無理だね」


「何でもします。だから——」


「何でも?」


氷室の目が、光った。


「じゃあ、僕と結婚してくれるかい?」


「……っ」


「それとも、あの男を見殺しにするかい?」


選べない。


選べるわけがない。


蒼真を見殺しになんかできない。でも、氷室と結婚するなんて——


「答えは明日の朝までに聞くよ。ゆっくり考えるといい」


氷室が、私の顎を持ち上げた。


「君は僕のものになる。最初からそう決まっていたんだ」


吐き気を堪えながら、私はその手を振り払った。


***


その夜。


港の片隅で、私は蹲っていた。


涙も枯れて、ただ呆然と海を見つめていた。


どうすればいい。


何ができる。


私には何の力もない。ただの図書館司書。何の取り柄もない、普通の女。


蒼真を助ける力なんか、どこにもない。


「——お嬢ちゃん」


声をかけられて、顔を上げた。


白髪の老人が、そこに立っていた。深い皺が刻まれた顔。片足は義足。


「波島……源爺さん?」


港町では知らない者がいない。かつて両大陸を結んでいた伝説の船長。海峡封鎖前は、両国の架け橋として尊敬を集めていた人物。


「あの坊主の師匠だよ、わしは」


「師匠……?」


「蒼真に船の操り方を教えたのは、わしだ」


老人が、隣に腰を下ろした。


「あいつが北から来たのは三年前だ。『南大陸に行きたい。待っている人がいる』——そう言ってな」


「三年……」


「航路を開拓するのに、三年かかった。凍る海を何度も往復して、安全なルートを見つけ出すのに」


私は、息を呑んだ。


三年間。


蒼真は三年間、凍る海を往復し続けていた。私に会うために。


「何度も死にかけたよ、あいつは」


「……」


「嵐で船が転覆しかけたこともあった。氷に閉じ込められて、凍死寸前になったこともあった。それでも諦めなかった」


老人が、懐から分厚い紙の束を取り出した。


「あいつの持ち物だ。連行される前に、わしに託していった」


——手紙だった。


何百通もの、手紙。


「嵐の夜も、氷に閉じ込められた時も、あいつはこれだけは離さなかった」


震える手で、一通目を開く。


『雪乃へ。


今日、海峡が見える場所に来た。お前がいる方角を、ずっと見ていた。


会いたい。


蒼真より』


二通目。


『雪乃へ。


今日は寒い。でもお前のことを考えると、少しだけ温かい。


会いたい。


蒼真より』


三通目。


『雪乃へ。


今日も一日、お前のことを考えていた。


会いたい。今日も会いたい。明日も会いたい。ずっと会いたい。


蒼真より』


四通目、五通目、六通目——


全部、同じだった。


会いたい。会いたい。会いたい。


届けられない想いを、十年間、書き続けていた。


「『凍る海より冷たい孤独の中で、君への想いだけが温かかった』——あいつ、そう言ってたよ」


涙で、文字が滲んで見えなくなる。


蒼真。


あなたも、同じだったんだね。


私と同じように、届かない手紙を書いていたんだね。


私と同じように、会いたいって思っていたんだね。


「お嬢ちゃん」


老人の声が、静かに響いた。


「あいつを見捨てるのかい」


「……見捨てない」


声が震える。でも、はっきりと言った。


「見捨てるわけ、ないじゃないですか……!」


老人が、にやりと笑った。


「そうこなくちゃ。——実はな、お嬢ちゃん」


「……?」


「味方は、もう集まってる」


振り返ると、そこにいたのは——


「あんたが雪乃?」


ボーイッシュな短髪の女性。勝気な目つき。北大陸の訛りがある声。


「潮音凛。船長と一緒に海峡を渡ってきた」


「あ、あなたは……」


蒼真と一緒に来た人。


若くて、強そうで、蒼真のそばにいた人。


(……もしかして、この人が蒼真の)


「正直に言う。あんたのこと、最初は嫌いだった」


凛が、腕を組んで私を睨む。


「船長が十年間どれだけあんたの話してたか知ってる? 正直うんざりだった。『雪乃が』『雪乃は』『雪乃なら』——毎日毎日、雪乃雪乃雪乃」


「……」


「あたし、最初は船長のこと好きだったんだ」


心臓が、痛くなった。


「でも、無駄だって分かった。船長の目には、あんたしか映ってない。十年間、一度も揺らいだことがない」


凛の目が、少しだけ和らいだ。


「あんたの手紙を見た時の船長の顔、見てないでしょ。あんな顔、他の誰にも見せたことない」


「凛さん……」


「だから」


凛が、私の手を取った。


「あんたがちゃんと船長を幸せにしなさいよね。——そのために、あたしたちは来たんだから」


背後に、何人もの船員たちが立っていた。


蒼真と一緒に、海峡を渡ってきた仲間たち。


「船長には恩がある。助けてもらった命だ」


「あの人のためなら、何でもする」


「雪乃さん、あんたを助けるために来たんだ。俺たちは」


私は、涙を拭った。


一人じゃなかった。


蒼真は、一人で戦ってきたわけじゃなかった。仲間がいた。信じてくれる人がいた。


そして今、その人たちが私の味方になってくれている。


「作戦は立ててある」


源爺が、静かに言った。


「お嬢ちゃん。あんたにしかできないことがある」


「……私に?」


「あんたの血筋を、使う時だ」


——南大陸建国の功労者の末裔。


私が、ずっと隠してきた出自。


重荷だった。


その血筋のせいで、子供の頃から特別扱いされた。利用しようとする人間に囲まれた。だから隠して生きてきた。普通の図書館司書として、目立たないように生きてきた。


「重荷かもしれん。でもな」


老人の目が、真っ直ぐに私を見た。


「愛する男を助けるために使う力なら、誇っていいと思わんかね」


私は、十年分の手紙を胸に抱いた。


蒼真が、十年間抱え続けた想い。


これを、無駄にしてたまるか。


「……やります」


声は、もう震えていなかった。


「蒼真を、助けます」



第三章 海峡を越える愛


翌朝。港湾管理局。


「何のつもりだ、氷見雪乃」


氷室が、目を剥いた。


私は、管理局の大広間に立っていた。居並ぶ役人たちの前で。


「正式に申し立てをします」


声は、驚くほど落ち着いていた。


昨夜、何度も練習した。震えないように。怯えないように。蒼真が十年間、私のために戦い続けたように。


今度は、私が戦う番だ。


「私は氷見家の末裔——南大陸建国の功労者、氷見宗一郎の直系です」


広間がざわめいた。


「馬鹿な。図書館司書が——」


「証拠ならここに」


古文書の束を掲げる。私が図書館で密かに保管していた、血筋を証明する文献。古文書の解読ができる稀有な知識人——その力を、今日のために使う。


「……本物、だと?」


役人たちが、ざわめく。


「氷見家には、建国時に与えられた特権があります。『国の重大事案に対する異議申立権』」


氷室の顔が、みるみる青ざめていく。


「凪沙蒼真の強制送還は不当です。彼は政治犯ではなく、単なる——」


「黙れ!」


氷室が叫んだ。


「たかが血筋で、僕の決定を覆せると思うな!」


「覆します」


私は、一歩も引かなかった。


「あなたの決定は私怨に基づいている。私が見合いを断ったから、その腹いせに蒼真を殺そうとしている」


「証拠があるのか!」


「あります」


後ろの扉が開いた。


入ってきたのは、源爺と凛。そして——


「氷室局長の職権乱用を証言します」


「私も」


「俺も」


港湾管理局の職員たちが、次々と名乗り出た。


「彼は日常的に権力を私物化していました」


「反対する者には左遷や減給で報復を」


「今回の件も、氷見さんへの執着が動機だと」


氷室の顔が、土気色に変わっていく。


「お前たち……裏切るのか……!」


「裏切り者はあなたです、氷室さん」


私は、静かに言った。


「公正であるべき法を、私情で捻じ曲げた。人の命を、自分の欲望のために弄んだ」


「……っ」


「蒼真は十年間、私のために命をかけてきました。凍る海を渡り、何度も死にかけながら」


手紙の束を、高く掲げる。


「これが証拠です。十年分の、届けられなかった想い」


広間が、静まり返った。


「この人は、犯罪者なんかじゃない」


声が、震えそうになる。でも、止まらなかった。


「愛する人に会いたかっただけの、ただの——ただの、馬鹿正直な男です」


涙が、頬を伝った。


「十年間、届かない手紙を書き続けて、届かない返事を待ち続けて、それでも諦めなかった。凍る海より冷たい孤独の中で、私への想いだけを温もりにして生きてきた」


私は、居並ぶ役人たちを見回した。


「この海峡を再び繋ぐのは」


声が、広間に響いた。


「憎しみではなく、愛です」


長い、長い沈黙。


誰も、何も言わなかった。


そして——


「……送還は、中止としよう」


上席の役人が、重々しく言った。


「氷室征爾は職権乱用の疑いで拘束。詳しく調査する」


「そんな——待て! 僕を誰だと——!」


氷室が連行されていく。


その顔は、もはや見る影もなく歪んでいた。


「お前を幸せにできるのは僕だったのに……! 僕を選ばないお前が悪いんだ……!」


私は、振り返らなかった。


「私が幸せかどうかは」


静かに、でもはっきりと。


「私が決めます」


——もう、誰にも邪魔はさせない。


***


「蒼真!」


牢から出てきた蒼真を見て、私は走り出していた。


「雪乃——」


抱きつく。強く、強く抱きしめる。


「……馬鹿」


「ああ」


「本当に馬鹿」


「知ってる」


「十年も待たせて、死刑になりかけて、心配かけて——」


「悪かった」


「全然悪かったって顔してない」


「してる」


「してない」


「……してないな」


蒼真が、私の顔を両手で包んだ。


ごつごつした、大きな手。十年間、凍る海を渡り続けた手。


「お前が助けてくれるって、分かってたから」


「何その自信」


「十年分の手紙、読んだ。お前がどれだけ強いか、知ってる」


「……っ」


「俺を待っててくれた。手紙を書き続けてくれた。——俺のために、血筋まで明かしてくれた」


「当たり前でしょ……」


「当たり前じゃない」


蒼真の声が、震えていた。


「お前は俺の——俺の、全部だ」


「……」


「十年間、お前のことだけ考えて生きてきた。お前がいなかったら、俺はとっくに死んでた」


大きな手が、私の涙を拭う。


「ありがとう。待っててくれて」


「……っ、こっちのセリフ……」


「愛してる」


唐突だった。真っ直ぐすぎた。


「十年前から、今も、これからも。——お前だけだ、雪乃」


蒼真の耳が、真っ赤になっている。


不器用なままだ。でも、だからこそ——


「……私も」


言葉が詰まる。でも、言わなきゃ。


十年間、言えなかった言葉を。


「私も、愛してる。十年前から、ずっと」


蒼真の目が、見開かれた。


そして——


「っ——」


強く抱きしめられる。息ができないくらい強く。


「……十年分、甘やかさせてくれ」


「は?」


「待たせた分。苦労かけた分。全部返す」


「い、いいよ別に——」


「駄目だ。返す」


「だから——」


「一生かけて返す」


……何この人。


「……十年分の手紙の返事、書かなきゃいけないんだけど」


「隣で見てる」


「何百通もあるよ」


「一生かけて読むから」


「……馬鹿」


「お前の馬鹿だ」


反則だ、そんなの。


「——船長、ちゃんと幸せにしてもらいなさいよ!」


凛の声が飛んできた。


「お嬢ちゃん、幸せになりな!」


源爺の声も。


蒼真が、少しだけ笑った。


笑うと、十年前の面影が蘇る。穏やかで、優しくて、不器用な男の子。


「帰ろう、雪乃」


「……うん」


私たちは、手を繋いで歩き出した。


十年分の空白を、これから埋めていくために。



第四章 溶け始めた海峡


——春。


凍海海峡に、少しずつ変化が訪れていた。


私の訴えをきっかけに、海峡封鎖の見直し議論が始まった。まだ完全な開通には程遠いけれど、両大陸の間で対話が始まっている。


氷室は職権乱用が発覚し、失脚した。長年の悪行が次々と明るみに出て、二度と公職に就くことはないだろう。


「見て、蒼真」


私は、港の突端から海を指さした。


「氷、溶け始めてる」


海峡を覆っていた氷が、春の陽射しを受けて輝いている。十年間、私たちを隔てていた氷が。


「ああ」


隣に立つ蒼真が、頷いた。


「いつか、普通に行き来できるようになるかもな」


「そうなったら、北大陸に行ってみたい」


「案内する。俺が暮らしてた場所、全部見せる」


「手紙に書いてあった場所?」


「……読んだのか」


「全部読んだ」


蒼真の耳が、また赤くなった。


「恥ずかしいこと、たくさん書いてあったでしょ」


「『今日も会いたい』が三百回くらいあった」


「……」


「可愛いなって思った」


「っ——お前、そういうこと平気で言うようになったな」


「蒼真に移った」


「俺のせいか」


「蒼真のせい」


風が吹いて、私の髪が揺れた。


蒼真が、そっと髪を耳にかけてくれる。


十年前と同じ仕草。でも、その手は十年分、大きくなっていた。


「……なあ、雪乃」


「何」


「俺と、結婚してくれないか」


心臓が、跳ねた。


「……急」


「十年待った。急じゃない」


「それは、そうだけど」


「嫌か」


「嫌じゃない」


「じゃあ」


「じゃあ、って……」


蒼真が、私の手を取った。


ごつごつした、温かい手。


「十年分の返事、まだ全部書いてないけど」


「いい。これから毎日、隣で聞く」


「毎日?」


「毎日。一生」


……この人は、本当に。


「……分かった」


「分かった?」


「結婚する」


蒼真の顔が、一瞬固まった。


そして——


「——っ」


抱きしめられた。今までで一番強く。


「ありがとう」


声が、震えていた。


「ありがとう、雪乃……」


「……泣かないで」


「泣いてない」


「泣いてる」


「泣いてない」


嘘だ。私の肩、濡れてる。


でも——


「……私も」


「ん?」


「私も、泣いてる」


「知ってる」


二人で、海を見つめた。


凍てついた海峡が、少しずつ溶けていく。


十年間、私たちを隔てた海が。


「なあ、雪乃」


「何」


「愛してる」


「……知ってる」


「もう一回言う。愛してる」


「だから知って——」


「百回言う。愛してる愛してる愛してる——」


「うるさい馬鹿!」


笑い声が、春の海に響いた。


——凍てついた海峡が、二人を隔てた十年。


しかしその想いは、凍ることなく、ついに届いた。


届かないはずの手紙。届かないはずの想い。


でも、諦めなかった。信じ続けた。待ち続けた。


そして——届いた。


十年越しの、純愛。


「雪乃」


「……何」


「幸せにする。絶対に」


「……知ってる」


私は、蒼真の手を強く握り返した。


これからは、離さない。


何があっても、絶対に。


凍てついた海峡が、春の陽射しを受けて輝いている。


私たちの未来のように、眩しく。



——これは、海峡を越えて届いた純愛の物語。


届かないはずの想いが、届いた奇跡の物語。


十年間、諦めなかった二人の物語。



【完】

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