通訳官の仕事は、ただの翻訳ではありませんでした ~追放された私が去った後、外交は立ち行かなくなりましたね~
本作は、全八章で構成された異世界恋愛短編小説です。
一気に読んでいただいても、お気に入りの場面で一度閉じて続きを楽しんでいただいても、どちらも大歓迎です。どうか、ご自分のペースでゆっくりお付き合いください。(*‘ω‘ *)/
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第一章 見えない壁
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羊皮紙の端が、指に食い込んだ。
夜が明けそうだった。灯火の下に積み上がった文書の束は、昨日の夕方から数えて三冊目になる。肩が鉛のように重い。目の奥がじんじんとする。
それでも止めない。止められない。
私の名前は、アリア・ヴェルナー。ランベルト王国付きの通訳官。それが表向きの肩書きだ。実際の仕事は、違う。
宮廷に入って一年目は、担当外交官がベテランのクレマス卿だった。物腰は柔らかく、言葉を選ぶ人だった。私の仕事は本来の意味での「翻訳」で済んでいた。
変わったのは、二年目だ。
当時二十歳だったライナルト殿下が外交官として加わった。王太子だ。
初めての会議の後、私は自分の仕事の定義を根本から書き直した。
殿下の言葉は、剥き出しだった。
思ったことがそのまま口から出る。感情のフィルターが存在しない。外交の場でその言葉をそのまま訳せば、その日の会議は終わっていた。
たとえば、あの日。
隣国からの使節団が関税の引き下げを求めてきたとき、殿下は席を立ちかけながら言った。
「その条件でこちらが動くと思っているのか。到底受け入れられん」
私は一瞬だけ止まった。
断る意志は本物だ。それは変えない。変えるのは、扉を閉めるか開けておくかだ。
「殿下は、現時点において貴国のご要望をそのままお受けすることは難しいとのお考えでございます。双方にとってより実りある条件を、改めてご提案いただけますでしょうか」
使節団は眉をひそめつつも、着席した。交渉は続いた。
発言の意志は同じだ。
ただ「扉を閉めなかった」。それだけの差が、交渉の継続と決裂を分ける。
殿下はその結果を見て、満足げに笑っていた。
自分の外交力で場を収めた、と思ったのだ。
翌月、父王の謁見で殿下は称えられた。
「ライナルト、見事だった。お前には天賦の外交センスがある。まさに王太子の器だ」
「当然です。自分の言葉が相手に届いただけのことです」
私は部屋の隅で、一礼して下がった。
それから三年間、殿下への称賛は積み重なった。
和平交渉、通商条約、国境協議。いずれも「殿下の卓越した判断と話術」として歴史に記録された。他国の使節団が「ライナルト殿下は公正で理知的だ」と口を揃えた。宮廷の顧問たちは「次代の王が頼もしい」と言い合っていた。
殿下は有頂天だった。
実際には。
私が毎夜、翌日の会議資料を読み込んでいた。
各国の外交文書の言葉の癖、慣用句の罠、沈黙の意味。
それをすべて頭に入れた上で、殿下の言葉を一瞬で「高潔な意図」に変換した。発言の本質は変えない。ただ、刃を鞘に収める。そして扉をこじ開けておく。それが私の本当の仕事だ。
それでも、私が仕事を続ける理由がある。
父がこの国を救ったのは、私が十歳のときだ。当時の国境紛争で、父は単身で乗り込み、言葉ひとつで剣を収めさせた。王家は「何でも望みを言え」と言い、父は「娘が成人した暁には、宮廷で場所を与えてほしい」と答えた。
だから私はここにいる。恩義として。義務として。
父は三年前に亡くなった。その日から「自由」が、私の中から消えた。
もうひとつの理由は、もっと単純だ。
自分がいなくなれば。殿下の「生の言葉」が外交の場に出る。それが何ほどの爆発物か、誰より私が知っている。だから耐えた。
この国。
ランベルト王国を愛した父のため。
◆
ルクレツィア・ファルコーネが宮廷に現れたのは、半年前のことだ。
蜂蜜色の髪に翡翠色の瞳。新興貴族の娘だが、三ヶ国語を「話す」と自称し、社交界では半年で頂点に立っていた。場の空気を読む嗅覚と、相手を心地よくさせる声の使い方は本物だ。社交的な才能において、私に彼女の真似はできない。
殿下は彼女を気に入った。
外交の場にも、彼女が顔を出すようになった。
そして三度、私の草稿が消えた。
一度目は先月の貿易協定の準備文書。二度目は先々月の和平文書の注記。
三度目は、ヴァレン王国との交渉会議の当日朝だった。
ヴァレン国が提出した「軍事費の共同再調整提案書」の第三段落に問題があった。「従属関係の確認を希求する」という文言。これはヴァレン国の古語慣用句で「対等な立場での再確認を望む」という意味だが、直訳すれば「属国扱い」に聞こえる。殿下が読めば激怒する。
私は深夜にその注記を書いた。
『警告:この表現を直訳した場合、宣戦布告と受け取られる危険があります。ヴァレン国の実際の意図は経済連携の強化にあります。以下の訳文を強く推奨します』
翌朝、廊下でルクレツィアが前に立った。
「それ、今日の会議の資料ね?確認しておきます」
「……いえ。殿下に直接提出する原稿で」
「翻訳係のまとめたものでしょう。私が整理しておきますわ」
草稿が、するりと私の手から消えた。笑顔のまま。
(何を言っても、証拠がない)
廊下に残された香水の匂いを、私は無言で見送った。
会議室では彼女が「自分の分析」として発表していた。
「殿下、この文言は直訳では誤解を招きます。実際の意図は経済連携の強化です。こちらの訳文をお使いください」
「素晴らしい。ルクレツィア、君は本当に有能だ」
拍手が起きた。私は部屋の隅で、一度も手を叩かなかった。
これが三回目。
胃の奥が、じわりと焼けるように収縮した。怒り、という言葉は正確ではなかった。もっと静かで、もっと深いところで何かが溶けていく感覚だ。
会議が終わった廊下で、ルクレツィアが私の横をすり抜けながら言った。
「意訳って、要するにただの置き換えでしょう? 誰にでもできる作業ね。大げさに構えすぎだと思いますわ」
振り向きもせず歩いていく背中を、私は無言で見送った。
言えなかった、のではない。言わなかった。
あなたの言う「単純な置き換え」の一語一語の背後に、各国の文化的背景が何層も積み重なっている。あの注記ひとつが、戦争を防ぐ壁になりうる。でも説明しない。届かないから。
見えないものは、存在しないのと同じだ。
――この国では。
◆
追放の話が来たのは、二週間後だ。
殿下の執務室に呼ばれた。ルクレツィアが隣に座っていた。
「アリア・ヴェルナー。今月末をもって、君の契約は終了とする」
「……理由を、お聞かせいただけますか」
「ルクレツィアが全言語対応可能と判断した。翻訳係として君を置く必要はなくなった」
「一点だけ申し上げてよいでしょうか。翻訳は単純な置き換えではございません。各国の文化的背景を踏まえた意訳が――」
「大げさですわ」
ルクレツィアが遮った。穏やかな声で。
「殿下のカリスマがある限り、言い回しの差など問題にはなりません。アリア様は少し自分を過大評価しておられると思いますが」
殿下が頷いた。
「そうだ。俺の交渉力があれば、翻訳の揺れは関係ない。君は自分の仕事を過信しすぎている」
私は三秒間、黙っていた。
(過信?)
喉の奥に熱いものが込み上げた。それを飲み込んだ。
「……承知いたしました」
深く一礼して、部屋を出た。廊下に出た瞬間に、足が震えた。
五年間。眠れない夜を数え切れないほど過ごして。父の名を守るために。この国の外交を守るために。
それが「過信」だったのか。
ふっ、と笑いが出た。泣くより先に笑いが来た。
(じゃあ、やってみれば良い)
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第二章 唯一の理解者
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翌日、王宮の門を出たところで待っていた人物がいた。
ヴァレン王国の外交官、クロード・エステルハージ。
灰色の外套に包まれた長身の男が、静かに私を見ていた。
「……なぜここに」
「聞きました。昨日のうちに」
足を止めた。
「あなたが宮廷を去ると知って、来ました」
「いつから、私のことを」
クロードは少し間を置いた。
「最初の会議から。三年前です」
三年前。
「私はランベルト語を少し解します。殿下が会議の場で何を発言し、あなたがそれをどう訳したか、両方が聞き取れた」
「……それが何か」
「殿下が使節団に向かって言った言葉をそのまま訳せば、交渉はその日に終わっていた。あなたはそれを毎回、発言の本質を保ちながら言葉の刃を収めて訳していた。私はそれを見るたびに……」
クロードは少し言葉を選ぶような間を置いた。
「正直、凄いと思っていた」
胸の奥で、何かが音を立てたような気がした。
(分かってくれている人が、いた)
五年間、ずっとひとりでやってきた。報われなくていいと言い聞かせてきた。でも今、この瞬間、誰かに「見えていた」と言われて、初めて目の奥が熱くなった。
「……それでも、ヴァレン国にとってはランベルト国との交渉が円滑に進む方が良かったから、声に出す理由がなかった。ということでしょう」
「そうです」、とクロードは正直に言った。
「あなたが優秀である限り、私たちにとっても損はなかった。あなたが去るまで、声に出す必要がなかった」
「正直ですね」
「あなたには正直に話す方が良いと判断しましたので……」
廊下の風が、ゆっくりと通り過ぎた。
「率直に申し上げます。ヴァレン国で働く気はありませんか」
私は空を見上げた。
父の恩義は果たした。
五年間、十分すぎるほど。ランベルト国は私を必要としないと言った。
もう、終わりでいい。
「条件を、聞かせてください」
「正式な外交顧問として。待遇は現職より良くします。ただし」
「ただし?」
「あなたの意訳を、私は命令しません。あなたの判断を信頼します」
私は少しの間、その言葉を反芻した。
(命令しない。判断を信頼する)
五年間、一度も言われなかった言葉だ。
胸の奥の、固まったままだったものが、少しほどける感覚があった。
「……いつ出発しますか」
クロードがわずかに表情を和らげた。
「明後日の朝、ランベルト国の東門に馬車を待たせます」
私は頷いた。
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第三章 剥き出しの言葉
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会議の前日まで、私は自信があった。
三ヶ国語を習得した。外交文書も読める。殿下のカリスマを引き立てる立ち居振る舞いも心得ている。あの地味な女の「置き換え作業」が私にできないはずがない。
会議が始まって最初の十分で、私はそれが甘かったと気づいた。
ドレイク公国の使節団が、年次交渉の席についた。ドレイク語で開始の挨拶が述べられた。私はそれをランベルト語に訳した。問題はなかった。
問題は、殿下の発言からだった。
「ドレイク公国は今回も、また無理な要求を持ち込んできたのか」
席の端で、私は一瞬止まった。
(……これを、そのまま?)
頭の中で何かが鳴った。アリアがいたときは、こういう発言が相手国にそのまま届いた記憶がない。でもなぜそうだったのか、私には分からなかった。
小声で殿下に確認した。
「……殿下、この発言を、そのままお伝えしてよろしいのでしょうか」
「なぜ確認が必要なんだ」
殿下が少し怪訝な顔をした。
「いつも通り、そのまま伝えてくれればいい。私の言葉に問題はない」
「……承知しました」
いつも通り。殿下はそう言った。アリアも「いつも通り」にやっていた、それがそのまま伝えることだと、殿下は思っている。
私はそれを信じた。
訳した。
「殿下は、今回の貴国の要求についても、従来と同様に無理な内容をお持ちいただいたとのご認識でございます」
一瞬の沈黙があった。
それから、使節団長の顔色が変わった。
「……今、なんと」
椅子を引く音がして、三名が立ち上がった。
「我が国への侮辱と受け取ります」
「待ってください、私は殿下のおっしゃった通りに――」
「会議を中断します」
扉が、閉まった。
殿下が怒鳴った。
「なぜ退席した。ルクレツィア、お前は何を訳した」
「殿下がおっしゃった通りに……」
「私の言葉の通りに訳して、何故こうなるんだ!」
私は何も言えなかった。
(何が違ったのか、私には分からない)
それが、一番怖かった。
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第四章 資料室の告白
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重なる失敗の後、殿下に呼びつけられた。
「お前のせいで、三度も外交が台無しになった。どういうことだ」
「私は……殿下のおっしゃった通りに訳しました」
「言い訳をするな。通訳の仕事も満足にできないのか」
腸が、煮えた。
(お前が「そのまま訳せ」と言ったんだろう)
声には出さなかった。出せなかった。ただ笑顔のまま一礼して、廊下に出た。
壁に手をついた。
怒りがある。それは確かだ。でもその怒りの奥に、もっと嫌な問いが潜んでいた。
(なぜ、アリアがいた頃はうまくいっていた?)
あの女も殿下の発言を訳していた。同じ条件のはずだ。なのに、なぜ。
宮廷の資料室に足が向いた。
アリア・ヴェルナーの名義で管理されていた翻訳資料が、棚一面に並んでいた。
取り出して、開いた。
一冊目。各国の外交文書における言語注釈と慣用句の解説。
二冊目。「使ってはならない表現」と「推奨代替表現」の対応リスト。国ごとに分かれていた。
三冊目。外交文書における「沈黙」の用法。沈黙ひとつに、六種類の意味があると書いてあった。
四冊目を開いたとき、手が止まった。
「誤訳によって過去に起きた外交危機の事例集」
一件一件、丁寧に記録されていた。どの国が、どの表現で、どのような外交問題を引き起こしたか。
これを……一人で作ったのか。
五冊目。ページをめくるたびに、知らないことが積み上がっていく。
ドレイク公国の外交文書では「了解した」と「承知した」では立場の格差を示す。シュバルツ帝国では食事中の交渉提案は重大な無礼とされる。ヴァレン国の正式文書では「貴国」と「御国」の使い分けに明確な序列の含意がある。
私は、何も知らなかった。
知らなくていいと思っていた。
言葉を知っていれば十分だと。三ヶ国語を習得した私が、あの女の「作業」を引き継げないはずがないと。
(違った)
棚を見上げた。まだ読んでいない冊子がある。十冊以上。
ライナルト殿下が「外交の天才」として称えられてきた三年間の記録が、この棚全体に詰まっている。
それは、殿下の才能の記録ではなかった。
アリアが一人で積み上げた壁の記録だった。
「単純な置き換え作業」と私は言った。誰にでもできると言った。
それは、この棚の前では何の意味も持たなかった。
私のプライドにしていた「言語の才能」が、外交の実務の前では、最初の一歩にすら届いていなかった。
手の中の冊子が、しわになっていた。
(取り返しがつかないことを、した)
その夜、私は一人で資料室に残っていた。蝋燭が溶けていく。
アリアが五年間かけて作ったこの棚を、私は「大げさ」と笑った。
(なんて、無知だったのかしら……)
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第五章 自信という名の亡霊
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理解できない。
俺は優秀だ。父王にも、宮廷顧問にも、何度もそう言われてきた。外交の天才と。成功を積み重ねてきた実績がある。
なのに、なぜ最近は何もうまくいかない。
ルクレツィアを通訳に据えてから、会議のたびに相手国の態度が変わる。退席する。文書の返答が来ない。
「殿下、ドレイク公国から経済封鎖の通告が」
「……なんだと」
「本日付けで正式に。ランベルト国との通商を一時停止するとのことで」
机を叩いた。
「ルクレツィアの通訳が下手だから、俺の言葉が正確に伝わらない。あいつは解任だ」
ルクレツィアを解任した。
新しい通訳を三人試した。
変わらなかった。
いや、むしろ悪化した。
シュバルツ帝国からは「当面、会議の予定を見直したい」という遠回しな拒絶が来た。ヴァレン国からも、以前のような円滑な返答がなくなっていた。
「殿下の評判に関する、他国からの報告でございます」
財務官が差し出した羊皮紙を読んだ。
『……もはや会議に同席する意欲が持てない』
『発言の意図が理解できず、交渉が成立しない』
『二度とお目にかかりたくない』
……二度とお目にかかりたくない、だと?
俺に?
ありえない。
これは通訳の質の問題だ。俺の言葉を正確に伝えられる者がいないだけだ。
しかし、ふと気づいた。
アリアがいた頃は、こんなことが起きなかった。
交渉は毎回まとまった。相手国からの信頼があった。「ライナルト殿下は公正で理知的だ」という評判があった。
今はない。
変わったことは、一つだけだ。
「……アリア・ヴェルナーの居場所を調べろ」
「は?」
「至急連絡を取れ! 戻ってもらう」
「承知いたしました」
部下が一礼して下がる。
私は椅子に深く背を預けた。
アリアは使えた。地味で目立たない女だったが、仕事は確かだった。呼び戻せばいい。それで元に戻る。
(俺の外交力があれば、後は通訳の質の問題だ)
その確信は、まだあった。
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第六章 再会と対決
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ランベルト国の使者がヴァレン国に来たのは、私がこちらに移って一ヶ月が経った頃だ。
顔を知っている。王宮の者だ。
「アリア・ヴェルナー様。殿下がお戻りを望んでおられます。待遇についても、再考の余地があると」
(再考の余地? 今更……)
「……お断りします」
「しかし、状況が変わりまして。殿下は――」
「条件次第では、ということではありません。待遇の問題でもありません。戻りません」
使者は何度か口を開いた。言葉が出てこなかったようで、深く一礼して去っていった。
◆
その二週間後。
ヴァレン国とランベルト国の定期外交会議が組まれた。
クロードから告げられたとき、私は少し間を置いた。
「私が出席することに、問題は?」
「あなたはヴァレン国の外交顧問です。出席するのが仕事です」
「……分かりました」
会議室に入った瞬間、目が合った。
ライナルト殿下が、私を見ていた。
毎日見てきた顔だ。何も変わっていない。傲慢な眼差し、高い顎の角度、自信に満ちた口元。
私は一礼して、ヴァレン国側の席に座った。
会議が始まった。
最初の二十分は問題なかった。ランベルト国側の新しい通訳が、殿下の発言を訳していた。
問題は殿下の態度だった。
「ヴァレン国の今回の提案は、我が国への要求が多すぎる。これ以上の譲歩は認めない」
通訳がそのまま訳した。
クロードの眉が、わずかに動いた。
「では、貴国は今後の連携について、どのようなお考えをお持ちでしょうか」
クロードが静かに返した。
「それはこちらが聞きたいことだ。ヴァレン国が先に歩み寄るべきだろう」
私は手の上で指を組んだ。
(この発言を、三年間、私が収めてきた)
今は、私はヴァレン国側だ。ランベルト国のために動く義務はない。
クロードが私を一度見た。私はわずかに首を振った。
会議は一時間後、物別れに終わった。
廊下に出たところで、背後から足音が来た。
「アリア」
振り向いた。殿下が立っていた。周囲に部下が数名。表情は、怒りと何か別のものが混ざっていた。
「……戻って来い」
「お断りします」
「命令だ」
「私はヴァレン国の外交顧問です。ランベルト国の命令は受けません」
「お前ごときが、外交顧問とは。ヴァレン国も人手不足か」
「無礼です。何を言われても、戻る気はありません」
殿下の声が低くなった。
「ならば聞け。お前の父親が我が国に負った恩義は、まだ返し終わっていないはずだ。それを忘れたとは言わせない」
冷たいものが、背中を走った。
(逆だ! 父が国を救ったんだ。どこまで、この人は……)
つい、拳に力が籠った。
「お控えください」
横から、クロードの声がした。静かだった。しかし廊下の空気が一瞬で変わった。
「ランベルト国の殿下が、ヴァレン国の外交顧問に個人的な脅迫をされているならば、我が国は正式に抗議を申し入れます」
殿下の部下たちが、動けなかった。
私は一歩、前に出た。
「殿下」
声が、驚くほど静かに出た。
「今日の会議が上手くいかなかった理由を、お考えになりましたか」
「……通訳が下手だからだ」
「違います」
「なんだと」
「殿下の発言そのものです」
沈黙があった。殿下の目が、わずかに揺れた。
「私がランベルト国にいた間、外交が成立していたのは、殿下のカリスマではありません。殿下の発言を、私が毎回、相手国との関係を壊さない言葉に変換していたからです。発言の意志は変えない。ただ扉を閉めないように、続けていました。殿下は一度も、それに気づかれなかった」
殿下の顔が、固まった。
「……嘘を」
「嘘ではありません。証拠が必要なら、宮廷の翻訳資料室をご確認ください。私が書き続けた注記と修正履歴がございます。どの会議で、殿下がどの発言をされ、私がそれをいかに変換したか、すべて記録されています」
殿下が何か言いかけた。
何も出てこなかった。
「……噓だ……噓」
「なので、戻ることはありません」
私はそれだけ言って、踵を返した。
クロードが並んで歩いた。廊下の突き当たりで、彼が小さく言った。
「……よく、言えました」
クロードは、ほんのわずかに間を置いた。
「ずっと、あなたが一人で背負いすぎていると思っていました」
「ありがとうございます」
短く笑った。一度だけ。
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第七章 無能という真実
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夜になっても、アリアの言葉が頭から消えなかった。
「殿下の発言を、私が毎回…変換していたからです」
違う。
違うはずだ。
俺には外交の才がある。父王に認められた。宮廷全員に称えられた。三年間、成功を積み上げてきた。
……でも。
翌朝、資料室に足を向けた。
棚を見た瞬間、息が止まった。
一面の冊子。
手に取る。開く。
会議の日付と、「殿下の発言」と、「訳文」が並んでいた。
「原発言:その条件でこちらが動くと思うな、到底受け入れられん
訳文:殿下は、現時点において貴国のご要望をそのままお受けすることは難しいとのお考えでございます。双方にとってより実りある条件を、改めてご提案いただけますでしょうか
※直訳した場合、交渉の即時決裂が予想されます」
次のページ。
「原発言:あの使節団の言っていることは話にならない、まともに取り合う気にもなれん
訳文:殿下は、本日の提案内容について、双方の認識に大きな隔たりがあるとのご判断でございます。次回会議に向けて、より詳細なご説明をお願いしたく存じます
※原発言をそのまま訳した場合、国際的な外交問題に発展する恐れあり」
ページをめくる手が、止まらなかった。
止まれなかった。
次のページも、次のページも、俺の「発言」と「訳文」の落差が、丁寧に記録されていた。
これは……俺ではない。
アリアが作った外交だ。
「外交の天才」と称えられてきた。父王に、宮廷に、他国の使節団に。だが実際には。
俺の言葉は、そのままでは使い物にならなかった。
毎回、毎回、アリアが一瞬で修正して、外交の場に出していた。
(……では、俺がやってきたことは)
何だ。
何だったんだ。
手が震えていた。
その二日後、父王に呼ばれた。
「ライナルト。外交顧問の辞任を命じる」
「……父上、しかし」
「それだけではない」
父王の目が、初めて冷えていた。かつて「外交の天才」と私を称えた目と、同じ人物の目だとは思えなかった。
「王太子の位についても、再考が必要と判断した。当面、北方辺境の領地管理を命じる」
部屋の空気が、凍った。
「……王太子を、下す?」
「お前が失った各国との信頼を取り戻すのに、何年かかるか分かっているか。ドレイク公国との経済封鎖、シュバルツ帝国との交渉停滞、ヴァレン国との関係悪化。これはすべてお前の在任中に起きた」
「それは通訳が……」
「アリア・ヴェルナーの翻訳記録は確認した」
父王が、机の上に冊子を一冊置いた。資料室のものだ。
(あの場にいた、誰かが告発したのか……)
「お前の発言を見た。あれをそのまま相手国に届けていたとしたら、数年前に開戦していただろう。アリアがいなければ、お前の外交など一日も存在しなかった」
反論の言葉が、出てこなかった。
「辺境へ発つ準備をしろ。今週中に済ませるように」
父王が立ち上がり、部屋を出ていった。
私は一人、椅子に残された。
窓の外に、ランベルト国の都市の広がりが見えた。この窓から見続けた景色だ。外交官として、王太子として。
だがその五年間は、アリアが支えていた壁の上に立っていた時間だった。
私が天才だと思っていたものは、私のものではなかった。
取り返しがつかない、という言葉の意味を、初めて身体で理解した。
謝りたいとも思わなかった。
謝っても、何も戻らないと分かっていたから。
アリアは戻らない。国との信頼は戻らない。父王の目も、戻らない。
王太子という立場も、外交官という地位も、天才という評判も、何一つ戻らない。
ただ後悔だけが、底のない穴のように広がっていった。
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終章 私の言葉
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ヴァレン国の朝は早い。
ランベルト国からの礼状が届いたのは、その翌週のことだ。
「多大なる貢献に感謝する。なお、もし戻る気があれば、いつでも待っている」
私はその書状を三回読んだ。
それからクロードに渡して、言った。
「返信を書きます」
「どのような?」
少し考えた。
『御国のご発展を、心よりお祈り申し上げます』
クロードが、わずかに笑った。
「……見事な翻訳ですね」
「殿下の書状の意図を、正確に訳しただけです」
「つまり?」
「二度と戻らない、という意味です」
ヴァレン国外交顧問の正式任命書が届いたのは、その翌日だ。
新しい机に向かって、積み上げられた文書を広げる。羽ペンを手に取る。
言葉の海に潜る。相手の意図を読む。言葉の裏の棘を拭い、無知を補い、感情の暴発を整形する。発言の本質は変えない。ただ、刃を鞘に収める。扉をこじ開けておく。
それが私の仕事だ。
誰でもできる、単純な置き換えじゃない。
後日届いた報告によれば、ライナルト殿下は北方辺境の領地管理に異動となり、王太子の位は一時停止されているという。ドレイク公国との経済封鎖は現在も継続中で、ランベルト国は複数の専門通訳官と外交顧問を急募しているそうだ。
私が五年間で積み上げた各国との信頼関係は、崩れれば取り戻すのに何年もかかる。それは今も変わらない。
クロードが扉をノックして入ってきた。
「次の会議の事前資料です」
「ありがとうございます」
「あの……」
「……何か?」
「次の会議が終わったら」
クロードが、書類を机に置いたまま言った。
「街に案内させていただけませんか。あなたはまだ、この国をゆっくり見ていないでしょう」
私は少しだけ考えてから、頷いた。
「ええ。ぜひ!」
「楽しみにしていてください」
彼は、ほんの少しだけ微笑んだ。
それは、仕事とは少しだけ違う約束。
窓から差し込む午後の光が、机の上の文書を照らしていた。
次の言葉を、訳そう。
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございました!
「通訳官の仕事は、ただの翻訳ではありませんでした」、いかがでしたか?
スカッとした!と少しでも思っていただけたなら、評価(下の方にある☆☆☆☆☆)やリアクションで応援いただけると、本当に飛び上がって喜びます!
また他の作品でも、お会いできることを楽しみにしております(*‘ω‘ *)




