放課後、静かな場所で
放課後の廊下は、昼間よりも少しだけ静かだった。
入学式から一ヶ月。五月の空気が、校舎にも馴染み始めている。
部活に向かう生徒たちが、それぞれの方向へ散っていく。
「今日は部活あるから、またね」
美咲はそう言って、弓道場の方へ歩いていく。
「うん、またね」
手を振って見送ったあと、私は少しだけその場に立ち尽くした。
「部活、か」
美咲の背中は、迷いがない。
自分のやることが決まっている人の歩き方。
それに比べて私は——
「……私も、何かやってみようかな」
独り言は、誰にも拾われずに落ちた。
変わりたい、とは思う。
でも、何をどう変えたいのかは、まだ分からない。
ただ——このまま立ち止まっているのが、少しだけ嫌だった。
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なんとなく、そのまま帰る気になれなくて、校内を歩く。
そのとき。
視界の端に、やけに明るい色が入った。
「……ん?」
明るい茶色の髪。
肩で揺れる、軽い動き。
——そして。
少し遠くから、こちらに気づいたように顔を上げて。
一瞬だけ目を細めてから、迷いなく距離を詰めてくる。
その歩き方に、見覚えがあった。
「……瑞貴だよね!?」
呼ばれて、足が止まる。
あの距離の詰め方。
あの、ためらいのなさ。
「えっと、何の用ですか?」
目の前にいたのは——知らない顔だった。
でも。
「ちょ、なにその反応!忘れてる!?」
「いや、その……」
近くで見て、ようやく一致する。
「……もしかして陽菜?」
「正解〜!」
満面の笑み。
佐倉陽菜。
中学のときの友達。
変わっている。見た目も、雰囲気も。
でも、どこか懐かしさもあった。
「誰だこの陽キャ……って思ったでしょ?」
「うん、思った」
「正直すぎでしょ!」
笑い方は、あまり変わっていない。
それが少しだけ、安心する。
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「今なにしてたの?」
「なんとなく、歩いてただけだよ」
「ふーん、じゃあ今ひま?」
「まぁひまだね」
「じゃあさ、部活来てよ」
「いいけど何やってるの?」
「茶道部だよ」
「陽菜らしいね」
「なにそれ!」
「中学のときも、図書室みたいな静かなところ好きだったじゃん」
一瞬だけ、陽菜の動きが止まる。
「……まぁ、ね」
小さく笑って、すぐにいつもの調子に戻る。
「見学だけでもいいからさ」
「見学だけならいいよ」
「よし来た!」
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案内されたのは、校舎の奥。
「ここ、作法室」
「こんな場所あったんだ」
「ね、私も最初知らなかった」
扉を開ける。
——空気が変わった気がした。
畳の匂い。
外の音が、遠くなる。
「静かだね」
「でしょ」
陽菜は慣れた手つきで靴を揃えてから中に入る。
道具の位置。
座布団の向き。
視界に入るすべてが、過不足なく収まっている。
「陽菜だけ?」
「んー、今はいないかな」
軽い調子の返事。
「もう一人いるんだけどさ」
「もう一人?」
「部長の澪先輩って人なんだけど今日は生徒会で来れないっぽい」
そんなことを話ながら陽菜は道具を準備していた。
「まずは雰囲気からってことで正座するよ!」
「正座苦手なんだよね」
「最初は痺れるよね」
並んで座る。
畳の感触が、じんわり伝わる。
「こうやってね——」
陽菜が簡単に教えてくれる。
声は軽いのに、動きは意外と丁寧で、様になっていた。
「……楽しいかも」
「でしょ!」
笑う陽菜。
その横顔は、少しだけ昔と重なった。
変わった部分と、変わらない部分。
どっちもちゃんとここにある。
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「入ってくれる?」
「陽菜がいるなら」
「それ信じていいやつ?」
「たぶん」
「たぶんって!」
笑い声が、静かな部屋に広がる。
その音さえ、この空間ではどこか柔らかくなる。
——ここなら。
少しだけ、続けられるかもしれない。
そう思った。
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その日の夜。
布団に入っても、眠れなかった。
今日のことを、何度も思い返す。
美咲の背中。
陽菜の声。
あの静かな部屋。
スマホを手に取る。
連絡先の一番上。
少し迷って——発信。
コール音。
三回目で、繋がる。
『もしもし』
落ち着いた声。
「あ、えっと……私なんだけど今、大丈夫?」
少しだけ声が揺れる。
『うん、どうしたの?』
「何か話したり無いなって思ってさ」
『ふふ、何それ』
「あのさ……今日、部活見学してきた」
『部活に興味あったんだ。どこに行ったの?』
「茶道部行ってきた」
一拍置いて。
「私、入ろうと思う」
『いいと思う』
短い言葉。
『瑞貴ならできると思うよ』
それだけで、十分だった。
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「明日、入部届を出そうと思ってる」
『もう入部決めたんだ。応援してる』
「ありがとう……って、もうこんな時間だ」
時計を見て、小さく息を吐く。
「ごめんね、急に電話して」
『大丈夫だよ、私も暇だったし』
「……おやすみ」
『おやすみ』
通話が切れる。
静かな部屋。
それでも、胸の奥は少しだけ温かかった。




