バルコニーの断罪劇
煌びやかな、夜会。
音楽が奏でられ、ダンスを踊る貴族たちの衣裳が華やかに翻っている。
そんな中、バルコニーからキンキンした声が響いた。
「早く離婚しなさいよ!」
なかなか聞くことのない、物騒な発言である。
小説では、愛人が正妻に告げることがあるようだが。
バルコニーに近い位置にいた使用人が、胸元からピンク色の小さな籏を出し、頭上でひらひらと振った。
主催者の伯爵夫人はニンマリと笑み崩れた。
談話していた一団から抜けて、すすっとバルコニーに近づく。残された一団も、少し遅れて伯爵夫人の後を追った。
焦った顔で足早にバルコニーに向かう男を、伯爵夫人は扇で制した。
「わたくしのお楽しみ、わかっているわね?」
男の渋面を、伯爵夫人は気にも留めない。
「危なくなる前に、救えばいいのよ。その方が、あなたの株もあがるというもの……でしょ?」
ふふふと扇の下で笑いを隠す。
「あなたなんか愛されていないのよ。陰気な黒髪の分際で、図々しい。
貴方の家の財産が目当ての政略結婚でしょう。持参金を置いて、とっとと家に帰りなさいよ」
金切り声が響いてくる。
「あらあら。歴史のあるあなたの家門が、貧乏だと馬鹿にされているわよ。
離婚したら持参金も引き揚げるでしょうに、常識のないお嬢さんだこと」
伯爵夫人は楽しそうに囁く。
「あんなに興奮して、腕を振り回して……。妻に、酒でもかけられたら……」
結婚したばかりの男は、そわそわと落ち着きがない。「すぐに駆けつけたい」という気持ちが溢れている。
「そんなことをしたら、わたくしが社交界から追い出してあげるわ。
今日は、今後を安心して過ごすための布石なのよ。少しくらい我慢なさい。
それに、あなたがなかなか婚約者を決めないせいで、期待してしまったご令嬢の悪あがきでもあるのよ」
好きな令嬢に心を伝えられず、うじうじと時間を無駄に過ごした男は、決まり悪そうに視線を逸らした。
かつては侯爵令嬢として社交界の華と呼ばれ、伯爵家に嫁いでからも社交界を牽引し続ける夫人。
きわどい駆け引きや修羅場を数多く経験してきた。
人気のある青年を巡る子猫たちの闘いなど、楽しい余興でしかない。
今にも駆け出しそうな青年の腕に、伯爵夫人は手を置いた。
声が聞こえるところまで青年にエスコートさせた伯爵夫人は、使用人に差し出されたスパークリングワインを手に取った。
「ああ、もしあなたの奥方にお酒をかけたら、わたくしが後ろから近づいて、おバカさんの頭の上から丁寧に注いであげるわよ。
シュワシュワッと頭を冷やして差し上げましょう」
コケティッシュに微笑む夫人に、青年は困った顔を返すことしかできなかった。
彼の愛しの新妻は、落ち着いて会話を続けている様子だ。
「以前からあなたは彼と別れろとおっしゃいますが――わたくしは婚約破棄もされず、もう結婚してしまいましたわ。
あなたはわたくしに言葉をぶつけるだけですの?
他に働きかけたり、彼に好かれるような作戦を立てなかったの?
努力もせずに、喚いてだだをこねているだけなら、同情しません。
それに、『早く別れろ』と急かされるほど、結婚してから時間が経っていないのですけれど」
新妻は人差し指を顎に添え、可愛く首をかしげた。
「もしかして、あなたは旦那様の愛人なのですか?
愛人の座では我慢できず、正妻を狙っているということかしら」
「ひどい、愛人だなんて! 恋人よ! わたくしたちは愛し合っているのよ」
顔を真っ赤にして、拳を振るわせる。その歪んだ顔を見たら、誰だって百年の恋も冷めるだろう。
「そうですの? 結婚前の素行調査では出てきませんでしたね。
いつから恋人なのですか?」
新妻は淡々とした声で問いかける。
聞いている夫が少し傷つき、ハラハラしている様子が目に入っているだろうに、気にもとめずに。
「素行調査……貴族なら当たり前かもしれないけれど、信用されていなかったんだなぁ」
「そりゃあ、彼女にしてみれば、突然求婚してきた人気者ですもの。警戒して当たり前よ。
あなたはずっと彼女を眺めていたから、一方的にいろいろなことを知っていたでしょうけど」
自称「夫の恋人」も、冷静になって後ろを振り向けば、彼女が思い描いている「理想の恋人」ではない彼を知ることができたはずだ。
しょぼんといじけて、夫人に「仕方のない坊やだこと」と呆れた目を向けられている姿を。
「生まれたときからの運命よ! それを引き裂いた、あなたは悪役令嬢ですわ!」
横恋慕のお嬢さんは新妻を指さし、大声で宣言する。
この瞬間、彼女は転落の道から逸れることなく、転がり落ちることが決定した。
「あの、ご存じだとは思いますが、女性から離婚を申し出るのはとても難しいのです。
そのようなことは、旦那様に直接おっしゃっていただけますか?
恋人として、可愛くおねだりすればいいのではありません?」
新妻の声に呆れが混じったところで、夫は我慢できずにバルコニーに足を踏み入れた。
夫は背中で、伯爵夫人が「我慢できなくなっちゃたのね」とケラケラ笑っているのを感じていた。
「誤解です!
そんな女性と、恋人になったこともありませんし、名前を呼ぶ許可も与えていません。
勝手に呼ぶし、やめろと何度言っても聞きません。
貴族のマナーを身につけていない、頭のおかしな女なのです」
夫は、会場にも聞こえるような大声で、身の潔白を訴えた。
新妻は、突然現れた援軍に目を丸くした。
嫉妬をうまく躱す練習として、見守っている約束だったのに。
直前まで「危険だ」とこの練習を反対していた夫。彼の乱入に、新妻は「そんなに劣勢に見えたのかしら」と不満げにつぶやいた。
「浮気をするなら、それなりに魅力的な淑女にしてくださいね。
このような、趣味を疑うような相手は選ばないでくださいませ」
にこやかに、嫌味を言ってみる。
「浮気なんかしないよ。君一筋だ。
この令嬢は、断っても振り払ってもまとわりついてきて……怖いんだよ。
家に苦情を申し入れても『いえいえ、お手をつけていただいて構いません』などと言うから、始末に負えない。
紳士クラブでは、恐怖のタコ屋敷と呼ばれているんだ」
夫は新妻の腰に手を回し、必死に弁明する。
冷酷な紳士かと思いきや、愛妻家だと知り、令嬢は更に嫉妬した。その場所には、自分こそが相応しいと。
「……なに、それ。ひどい。
わたくしは大勢の殿方に求められる、人気者なのよ」
必死に叫ぶ令嬢には、背後の、少し距離をとった場所に群がっている人々が目に入っていない。
ニヤニヤと楽しむ顔、どんな台詞が出るか予想する者、若者たちの葛藤を酒の肴にする者……今宵、ここに集った者たちは、己のゲスな感情を隠そうとしない。
「君の所業は知れ渡っているぞ。
我が愛しき妻に虐められているなど、と虚言を吐いて。
逆ではないか。君が、私の妻におかしなことを喚いているんだろうが。
何が「愛」だ。君こそ、私の地位や妻の座がほしいだけで、私自身を見ようとしないではないか」
夫はふうとため息を吐いて、髪をかき上げた。
その色気のある風情に、令嬢は状況を忘れて、ときめいてしまう。
「賭に負けた罰ゲームで『君に告白をする』というのが流行っているんだ。
普通のご令嬢が標的になっているなら、『紳士の風上にも置けない』とやめさせるが、君に関して止める気はない。
さきほど自分を『人気者』と言っていたが、そのことか? モテていると自慢したら、笑い者になるぞ」
今までの鬱憤をぶつけるように、夫は令嬢をにらみつけた。
「あら、そんな……悪趣味だわ。お可哀想に」
夫の腕の中で、妻は可愛くつぶやいた。しっかりと令嬢に聞こえるように。
「変なヤツにそんな慈悲を与えていると、しがみつかれて大変だぞ。
なにしろ『嫌だ。やめてくれ』という言葉が通じない、モンスターだからな」
夫は妻の頭に頬ずりするように、顔を近付けた。実際は、複雑に編み込んでいる髪を崩さないよう雰囲気だけ。
「あ……あ~ん、ひどいわ」
令嬢はくじけずに、あざとく可愛いふりをした。学生時代には、数人の男子学生に通用したのだ。
彼女の誤算は、すでに成人した貴族が泣き真似をしたところで、騙される者は少ないということだろう。
更に付け加えるなら、この夜会には噂話や醜聞が好きな人間が招待されている。
ただの噂好きではない。演技か本物かを見る目が研ぎ澄まされた面々が、目を輝かせて茶番を見つめていた。
「ひどいのはどちらだ。
お前が邪魔するせいで、学生時代に人脈を広げられなかったんだぞ」
苦い思い出は、「誰にでも紳士であれ」という信念を「人を選んで紳士であれ」に変更させた。
貴族にしては人が良く、押しの弱かった青年。彼を「断れる男」に変えたのは、このしつこい令嬢だった。
その一点においてのみ、彼女の存在は意味があったと言えるかもしれない。
いつの間にか、令嬢に対する二人称が「君」から「お前」に変わっていた。
「そろそろ修道院に行く準備を始めたらどうだ?」
今までも「タコ令嬢」と陰口は叩かれていたが、明日からは針のむしろだろう。
彼女が可愛いと自認していた、アヒルのような口で上目遣いをするポーズ。実は、あまり評判はよくなかった。
「さあ、可愛い奥さん。ホールに戻ろうか」
一転して猫なで声で妻を両腕の拘束から解放し、エスコートの体勢に変わる。
「わたくしも一緒に……」
くじけない、ある意味根性のある令嬢は、他人の夫に縋ろうと手を伸ばした。
夫はさっと体を引いて、軽蔑にまみれた目で見下ろした。
「冗談はよしてくれ。
妻にバカバカしい妄想を吹き込む人間を、近くに置くつもりなどない。
これ以上絡むなら、お前の実家が傾くように……いや、もう、危ういから手を出すまでもないか」
「……なんで、何を言っているの」
先ほどまでの演技臭い顔とは違い、本当に恐怖を感じているようだ。可愛い子ぶっていない、素顔が覗いた。
「紳士クラブがどういう存在か知らないのか。
人の噂話で盛り上がる、くだらない一面もあるが。
情報交換をして、事業の提携先を見つけることもある。
そこで、悪い評判が立った女性にまともな縁談はないし、そんな令嬢を放置している家と仕事をしたいという家門はない。
あるとしたら、詐欺師を疑った方がいいだろう」
夫は、まるで最後の慈悲だというように忠告をした。
「え、昨日、お父様は大きな契約を……」
令嬢は頭を抱え、セットされた髪型を崩してしまった。
蒼白になり、ぶるぶると震えだす。
「こんなところで、遊んでいる場合じゃないぞ。
……では、二度と会うことがありませんよう」
令嬢が恋をした男は、彼女が胸を焦がした声で、無慈悲に告げた。
ついに、令嬢は崩れ落ちた。夜風の吹き抜けるバルコニーに膝をついたが、誰もそれに手を差し出す人間はいない。
「もう、終わりだわ。何もかも……」ついには、ペタリと座り込んでしまう。
ふと見ると、令嬢は持っていたワインをこぼすことなく、バルコニーの床に置いていた。
興奮していても、妻にかけることはなかった。取り乱して、手から滑り落ちることも。
茫然自失に見えてどこか冷静な姿に、チグハグな印象が残る。
もしかしたら、彼女も頭のおかしな親の犠牲者なのかもしれない。
しかし、親の作った沼にどっぷりと首まで漬かっている。自分を磨くよりも、人の足を引っ張ることを覚えてしまった。
多少反省したとしても、これから行動を変えることは難しいだろう。
なにより、社交界に幅をきかせている夫人が可愛がっている妻を、悪役に仕立てようとして逆鱗に触れている。
この夜会は令嬢を吊し上げるためのもの。
実に悪趣味な催しだ。
令嬢が自滅しなかったら、用意した罠を始動するだけ。使用人たちも手伝って、いくつもの罠が張り巡らされていた。
新婚夫婦が仲睦まじい様子で、バルコニーからフロアに戻ってきた。
見守っていた人々は拍手で出迎える。
「少し、イチャつきすぎだわ」
伯爵夫人は、念のために持っていたスパークリングワインを飲み干した。
その顔はほんの少し紅潮し、今の出来事をどんな噂話に仕上げるか考えて、興奮しているようだった。
夫は妻に「大丈夫かい? 怖かっただろう」と囁いた。
妻が「学園で裏庭に連れ込まれたときの方が怖かったわ」と答え、夫は青ざめる。
「肝心なときに守れなくて、ごめん」
妻の手を握り謝る夫に、フロアから見ていた人々が声をかけた。
「声を荒げない方が、紳士らしいと思うわ」
「逆に、ああいう物わかりが悪い人間は、怒鳴りつけた方が話を聞くかもしれない」
「今まで無口で反論しなかったから、強引に迫ればなんとかなると勘違いさせたのかもしれませんよ」
「今日はたくさんしゃべって、偉いぞ」
「用意されたシナリオを覚えてきただけじゃないのか」
観客たちは、無責任なおしゃべりを楽しむ。
もちろん、本日のシナリオを書いたのは伯爵夫人だ――。




