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今日の空は青。
私の心は黒。
みんなみんな嫌い。明るい世界も幸せそうな世界も嫌い。
そして何より私は私が大嫌い。存在していること自体が嫌い。
それでも……
それでも、生き続けている私が、本当に嫌いなんだ。
・・・
私の記憶のほとんどは、無機質な白い世界でできている。両親は知らない。気が付いたらこの白い世界にいたし、私に会いに来る人は研究者を名乗る人ばかりだから。
「おはよう。今日の調子はどうだい?」
「……普通」
「ありがとう。それじゃあ、今日もプログラムを始めるね」
そうして始まるのはずっと続いているプログラム。言葉を学んで、計算して、様々な知識を頭の中に叩き込む、そんなプログラム。何人かの研究者が順番に私の部屋に入ってきて、一通りプログラムを済ませてから出ていく。食事は一日三回。部屋の時計の針が二本とも12を指した時に一回と、12と6を指したときに二回もらえる。内容はいろいろあって、食べていて飽きない。
そんなことを考えながらプログラムを進めていく。毎日こんな感じ。プログラムの流れも毎日同じだし、もうずっとしているからいい加減飽きてきた。
「……聖奈ちゃん、ちゃんと集中してる?」
「……はい」
「そう?それじゃあ、続けるね」
「……」
今日も、ただこなすだけ。これが終わったらお話しの時間になる。話す内容は特に決まってない。聞かれたことに機械的に答えるだけ。楽しくない時間。他にやることがないだけの、ただの暇つぶし。
そんなこんなでプログラムが終わり、教材を映していたプロジェクターがしまわれる。再び時計があるだけの真っ白な部屋に研究者と私だけになる。これから始まるのは退屈なプログラムよりも退屈で退屈なお話しの時間が始まった。
「それじゃあ、今日もお話ししよっか。聖奈ちゃんは何を話したい?」
「……何も」
「そう?私は聖奈ちゃんといろんなこと話したいんだけどな~」
「……そう。勝手にして」
「そんなこと言わないでよ~」
私は、目を合わせることなく話し続ける。反応しないとどんどん詰めてくるから、無視するのは諦めた。だからって答えたくない。少しでも答えたら、私の中に渦巻いているものに感づかれてしまいそうだから。
だから私は今日もやり過ごす。それが今の私にとって一番安定した過ごし方だから。
でも、今日の研究員はいつもと違った。いつも以上に私に対して質問してきた。
「ねぇねぇ、今何を考えてるの?ちょっとくらい教えてよ~」
「…………嫌」
「う~。今日はいつにも増して冷たい……じゃあさ、好きな物とかある?なんでもいいよ」
「…………無い」
「じゃあじゃあ、やってみたいことは?」
「…………無い」
「え~っと、え~っと。じゃあ、逆に嫌いな物とかは?」
「……」
体が反射的に反応してしまう。「嫌いな物」なんて、そんなのたくさんある。たくさんあるけど、それを話すことはできない。話してしまったら、もう後には戻れなくなってしまうから。もうこれ以上は、私の心が壊れてしまう。だからやめて。もうこれ以上、私に関わろうとしないで。
「あれ?その反応、もしかして嫌いな物があるの?ねぇねぇ、よかったら教えて!」
「………………」
ああ、もうダメだ。もう……
「あれ?うずくまってどうしたの?もしかして、嫌なこと思い出させちゃった?」
「……ぁ…………」
それからの記憶は、もうなかった。気づいたら私は部屋の隅っこでうずくまって泣いていたし、真っ白だった部屋には誰かの血と肉と内臓が飛び散っていたし、さっきまでいたはずの研究者の姿が消えていた。
・・・
また、やってしまった。これで何回目なんだろう。私が暴れまわっている時の映像を見せられるのは。
映像の中の私は、狂気的なまでに叫びともとれるような笑い声をあげながら泣いていた。その表情は恐怖と狂気と絶望に満ちていて、まるで玉遊びをしているかのように研究者を部屋の中で弾き飛ばし続けていた。それをしているのは、私。私の中にいる、もう一人の私。
もう一人の私はどうやら特別な力があるみたいで、その場から動かずに研究者を嬲り殺していた。まるで透明な触手でも使えるのか、はたまた人間を操る不思議な力があるのか。私にはわからないけど、もう一人の私は理解して使いこなしているみたいだった。
「……これで八回目です。今回の件は我々側にも責任があるとして、今後は必要以上に質問することは控えるように伝達します」
「……あの人は、指示されて…………?」
「いえ。確かに質問回数を増やすことは許可しましたが、あそこまで詰めることを許可していません。こうなって大変なのは我々なので」
「……そう、ですよね…………」
「しかしまぁ、伏田主任もとんでもない大物拾ってきたもんですよ。とはいえ、あの頃に比べれば随分落ち着きましたね。彼女の質問攻めにもしばらく耐え続けていたわけですし。そのことも報告しておきます」
「……ねぇ、先生」
「はい、なんですか?」
「先生は…………私のこと、怖くない?」
「……もちろん、怖いですよ」
「あっ…………」
「でもそれ以上に、私はあなたのことを愛しています。だからそんな顔しないでください。せっかくのかわいい顔が台無しですよ」
そういうと、震える私に頭を先生はそっと撫でてくれた。でも、そんな先生の手も震えていた。そりゃそうだよね。さっきまで一人の人間を跡形もなく消していたんだ。怖いに決まってる。でも……それでも私を愛していると言ってくれた。私にそんなことを言ってくれるのは先生だけだ。
だから少し身を委ねることにした。この先生の手は、温かいから。
「……落ち着きました?」
「うん…………ありがとう、先生」
「こういう時は、遠慮せず甘えてください。あなたはまだ、子供なんですから」
そういうと、先生は部屋から出ていった。部屋の中の掃除は、さっき先生と研究者数人でやってくれたからもともとの真っ白な部屋に戻っていた。
その部屋の中で私は横になって考える。ご飯はさっき来たから、次のご飯まで誰も来ないだろうから。
ゆっくりと目を閉じる。そうすると私の意識は深くて暗い場所までゆっくりと沈んでいった。その底、真っ暗で光も届かないような場所にもう一人の私がいる。彼女は私と違ってとても強くて、それで果てしないほどに深い闇を持っているようだった。
「……久しぶり」
「そんな他人行儀な。お前も私だろ?それに映像越しとはいえさっきも会ってる」
「……なんで、あんなことしたの?」
「またそれか。私が表に出るたびここに来てその質問をするよな、お前って。理由は今までと同じだ」
「……私を、守るため……?」
「あぁそうだ。正確には、お前の精神のな。あれ以上苦しんだら、お前は消えていたからな。もちろん、今までも今回も必要以上に出しゃばったことはないぞ」
「…………あなたにとっては、良いことなんじゃない?」
「……なんで、そう思うんだ?」
「だって……」
私は彼女に告げた。正直、今の私に存在価値なんてない。弱くて、自分じゃ何もできない私には。
「私が消えたら、あなたが私になれるでしょ……?」
「…………なんからしくねぇこと言い出すなって思ったら。お前、本気でそう思ってんのか?」
「……うん」
「はぁ……お前、何か勘違いしているみたいだからこの際はっきり言うぞ」
彼女はゆっくりと私に近づき、私のほほに平手打ちをしようとして――
――その手がすり抜けた。
意識の世界なのだから当然のような気がしたが、その後に彼女が話した内容がそんな私の考えを全て容赦なく破壊した。
「この空間は、お前の逃避先だ。心が壊れそうな時、自分の我慢が限界の時、そんな時に転がり込む逃避先なんだよ。そして、私もお前の一側面に過ぎない。他人のように思ってるかもしれないが、お前と同じだ。入れ替わってるわけじゃない。お前がそう思い込んでいるだけだ」
「…………じゃあ、あの力は何?」
「あれはお前の力だ。お前の感情の動きに合わせて激しくなったり沈静化したりする。普段お前が使えないのは、意図的に心の壁を作ってるからだ。だから、感情を上手く扱えるようになったらお前にも使える」
「……私は、力の使い方は聞いてない」
「…………神の力だ。それも、実験によってつけられた後付けのな」
「…………神の、力?」
「そうだ。これ以上は何も説明することはない。あぁでも、最後の忠告だけしといてやる」
「……なに?」
「これ以上私はお前に干渉できねぇ。次こそは自分で現実を見ろ。以上だ」
それだけ言うと、彼女は私を意識の水面に向けて押し上げた。もう、彼女の姿は見えなかった。
・・・
目が覚める。時計を見ると、針は12と4を指していた。
ゆっくりと体を起こして考える。もう一人の自分は、いったい私に何を伝えようとしていたのだろう。
そういえば、彼女は私にもあの力は使えると言っていた。それは感情の動きなのだと。なら、今なら練習できるかもしれない。
とはいえ、どうやって練習しよう。感情なんてどうやって動かせばいいかわからない。今まで感情を感じた時ってどんな時だったっけ。確か彼女が出てきていた時は……心がぎゅっとして、体がどうしようもなく震えてきて……そんな経験を感情と呼べるのなら、できる気がする。
座ったまま目を閉じて、ゆっくりと心の黒を広げていく。「嫌い」という無限の闇。この空間で育てられ続けた闇に飲み込まれるように、私の意識も黒くなっていく。でも、今回は記憶がなくなることはなかった。
ゆっくりと目を開ける。そこには、透明な触手のようなものがあった。それは無秩序に動いており、真っ白な空間の壁や床、天井を叩き続けていた。
音はない。でも、確かな感覚として残っている。
これを自由に動かすことができたら、私も自由になることができるのかな。もしそうなら――
――その瞬間、今まで少しずつ制御できるようになっていた触手たちがすべて私の体を貫き始めた。
「……え…………あっ」
痛みはない。でも、さっき以上に黒い感情が体の中に無限にあふれ出てくる。ふと自分の体を見ると貫かれた場所の体内が見えて、そこから血が飛び散っている様子が確認できた。
体が宙に浮く。意識が遠のいていって、少しずつ力が入らなくなる。そして最後、心臓がある場所を貫かれた瞬間に、私の体は完全に動かなくなった。でもせめて……せめて最期くらいは――
・・・
少女は死に気づいたのは、研究所職員が彼女に朝食を持って行った時であった。
彼女を用いた研究の主任であった汐里と聖奈の精神的ケアを担当してい馨は、形相を変えて彼女のもとに駆け出した。
部屋の中は、異様な光景であった。部屋の中心で何かに貫かれて、聖奈は死んでいたが、部屋に彼女の体の破片が散らばったようには見えない。1mほど空中に浮かんでいる彼女の下には血が垂れて続けていたが、それ以外の場所にそれらしきものは何もない。
そして、汐里が一番目を引いたのは……
「……聖奈、こんな表情もできたのね」
満足そうに優しく笑っている聖奈の表情だった。
汐里は、力なく聖奈の横に座り込んで嗚咽をこぼしながら泣き始めた。「ごめんね、ごめんね」と消え入りそうな声で呟きながら。
そんな主任の横で、馨は聖奈の頭を優しくなでた。いつものように、いつもように――
・・・
灯江御聖奈。
彼女が研究所に入ったのは、彼女が1歳の時だった。ある冬の夜、不可解な事件が起きた。1歳の少女以外の家族全員が死亡した事件。住んでいた家が倒壊しており、その真ん中で1歳の少女が弱弱しく泣いていた。家の中に死体はなく、ただ夥しいほどの血肉であふれていた。その中には一人分の別の人間の血肉も交じっており、この一人が原因で事件が起こったが巻き込まれて共死にしたと考えられた。最初警察が捜査しようとしていたが、特殊科学研究所が捜査を名乗り出て、それ以降社会の目に触れることはなかった。
その時に生き残ったのが、灯江御聖奈であった。
研究所はすぐに彼女のために強化ガラスで作った何もない部屋を作り、そこに監禁して研究することにした。その結果、少女にはこの世界の物とは思えない異質な力が宿っていた。
後々研究所が捜査すると、この少女は精神的虐待を受けていたらしい。泣き出した瞬間に怒られる、夫婦喧嘩が起こる、何か声を発すると壁を叩いて大きな音を出される等のことが日常的に行われていたらしい。その上で殺人強盗事件が発生、その瞬間に聖奈と異界の存在がつながったのだと考えられた。
研究所にいる聖奈は、最初は精神的にあまりに不安定であった。そして不穏になった瞬間に、部屋中を透明な触手が暴れまわっていた。そんな時に聖奈のもとに送られたのが悠陽馨だった。彼女は聖奈の良き理解者であろうとした。そのせいか、精神的にも徐々に落ち着いていき、毎日のように暴れていた触手の動きも沈静化していった。
そして聖奈も少しずつ彼女に懐いていき、心を開いていった。
そして、聖奈の日々の食事や勉強の内容を考えたり、子供のころの聖奈の話し相手となっていたのは伏田汐里であった。
研究所の中で聖奈が心を開いた存在が、この二人だけであった。だからこそ聖奈は比較的安定した日々を過ごすことができていたし、聖奈が13歳まで生きることができた。でも皮肉なことに……彼女が死んだ原因は、その生活をこの先も望んでしまったことであった。
でも……だからこそ彼女は、最期の瞬間だけは笑うことができたのだった。




