第5話 キミが名前を呼んでくれた
風が、春の匂いを運んでくる午後。
僕は、ベンチに座る彼女に、ゆっくりと呼びかけた。
「沙月……」
僕は少し恥ずかしそうに名前を、声に出して言った。
彼女ははっとしたようにこちらを見て、目を大きく見開いた。
その瞳の奥に、感情の波が広がっていくのが見えた。
しばらく黙っていた彼女は、ゆっくりと――けれど、はっきりと頷いた。
それから、彼女はまるで何かを伝えようとするかのように、何度も口を動かした。けれど、音は出なかった。
それでも、僕には不思議とわかった。
「どうしたの?」
彼女は、そう言っていたのだと思う。
それ以来、沙月は少しずつ変わっていった。
表情が豊かになり、僕の冗談にも眉をひそめたり、目を見開いたりするようになった。風が強い日には、顔をしかめて髪を押さえる仕草もする。
「……沙月と一緒にいれて嬉しい」
僕がつぶやくと、沙月は照れたように笑った。
声が出なくても、言葉は交わせなくても――僕たちは、もう心で会話している。
そんな確信が、僕の中に芽生えていた。
ある日、僕は詩集を読みながら、ふと視線を上げた。
沙月が、じっと僕を見つめていた。
「どうしたの?」と聞くと、彼女はゆっくりと自分の胸に手を置き、そして僕の方へと手を伸ばした。
もちろん、その手は僕には触れられなかった。
けれどその仕草は、まるで「ここにいる」と伝えているようだった。
「うん、ちゃんと、ここにいるよ」
僕はそう返して、笑った。
風が、ふたりの間を通り抜けていく。
その風の中に、彼女の声があるような