第3話 霧の中の名前
名前を知りたい。
その衝動は、日に日に強くなっていった。
あの詩集を読んだ日から、彼女の表情は少しだけ豊かになった気がする。僕が朗読するたびに、目を細めたり、微かに首をかしげたり。
でも、どれだけ近づいたように感じても、まだ「彼女の名前」を知らないという事実が、僕の中に空白のように横たわっていた。
放課後、僕は図書室へ向かった。地元の新聞の縮刷版や地域記録、学校の卒業アルバム。手当たり次第にめくっていった。
探しているのは、ほんの小さな手がかりだった。
制服、髪型、顔立ち、そして、あの公園――。
数日後、古い地域新聞の記事に目が止まった。
『○月○日、公園近くの踏切で女子高生死亡 通学途中の事故』
掲載されていたのは、今よりも少し色褪せた季節の写真。名前も顔写真もなかったが、事故現場の風景がはっきりとわかった。
彼女がいつも座っているベンチの、すぐ近くだった。
記事に添えられた手書きのメモに、「白河 沙月・享年十七歳」とあった。
――沙月。
心の中でそっと名前を呼んでみる。
その瞬間、公園の空気が少し変わった気がした。
翌日、ベンチに座っている彼女のもとへ、記事のコピーを持っていった。
「……君、沙月って名前なの?」
彼女は、はっとしたようにこちらを見つめた。
そして、ゆっくりと、ほんのわずかに頷いた。
胸が、ぎゅっと締めつけられる。
彼女が、自分の名前を思い出した。
いや、僕に伝えた。
そのことが、どれほどの意味を持つのか、まだわからなかった。
けれどそのとき、彼女の輪郭がわずかにくっきりと見えたような気がした。