1.探さないでください
「あなたのためを思って言ってるのよ!響、聞いてるの?!」
テーブルに置かれた第一志望だった有名私立中学の不合格通知を母はバン、と叩いた。
「苦手科目の対策が出来ていなかったのが原因よ!中学では部活なんかやってる場合じゃないわ!一年から塾を増やして徹底的に対策しましょう。お父さんには話しておくから」
母の剣幕に怯えながら、僕は黙って頷いた。
自分なりに頑張ってきたけど、兄も通った有名私立中学に落ちてしまったのだ。しかし、努力してきた結果くらいは褒めて、慰めてもらえるかと思っていたが甘かった。母は目を釣り上げて、きつく唇を噛む。
その日の深夜、医師である父に母が僕の不合格を報告する様子をこっそり聞いて、更に自分の甘さを痛感することになった。
「不合格…?そうなんだ。けど仕方ないね。響は君に似てしまったようだ」
父にそう言われた母の表情は伺えなかったが、後ろ側からでも肩が震えているのがわかった。母は医師ではない。大学在学時に雑誌の読者モデルをやっていた、美人なことが自慢の専業主婦だ。容姿のみで父を射止めたらしい母は、こうして度々、僕の成績のせいで父から嫌味を言われ辛酸をなめている。
中学受験失敗後、母が選んだ『最もまし』な、中高一貫校に通い、当然部活もせず、母が僕のために用意したらしい塾や家庭教師のもと勉強に明け暮れた。周囲は思春期真っ只中で色気付いていくのを横目で見ながら、おしゃれや恋とは無縁のうちに中学生活を終えた。そしていつの間にか自分を『俺』と言うようになっていた高校一年の一学期最終日。模擬試験の結果を受け取って愕然とした。本当に俺の成績?名前を確認したけどちゃんと、『野上響』と記載されている。
「医学部、全部、E判定…」
たぶん、数学が苦手だからだと思う。でも、医学部でなければ、どこか国立大には入れそうな成績ではあるが、そんなことじゃ母は納得しない。
それを想像すると途端に気分が落ち込んだ。夏なのに、背中が冷たくなる。
教室を出ると、夏休みに音楽フェスに行く約束をしている生徒たちが側を通り過ぎた。……羨ましい。
ゲームは当然のようにさせてもらえなかったが、スマートフォンにプリインストールされている音声配信アプリでこっそり地下アイドルの配信番組は聞いていた。その地下アイドルグループ『花音ちゃん』のファンになっていた俺は、『アイドル研究会』に本当は入りたかった。友達と、一緒にコンサートに行ったり、ちょっとおしゃれをして、出来ればかわいい女の子と恋をしたり。
でも、この成績じゃ無理だ。すぐに、勉強しないと。
学校帰りにそのまま予備校に行く予定だったが、テキストや問題集を外出用のリュックに入れたまま忘れたことに気がついて一旦家に帰ることにした。見つかって試験の結果を問いただされるかと思うと、憂鬱な気持ちになる。
家に着いて出来るだけ静かにドアを開けて中に入ると、男物の靴に目が止まった。たぶんこれは俺の家庭教師のものだ。今日は、家庭教師の日じゃないけど、なぜ?
何となく嫌な予感がして、静かにリビングの方へ向かった。すると、母と家庭教師の男の会話が聞こえてきた。
「響の成績、芳しくないの。だから家庭教師の時間を増やそうと思って。それならほら…、先生と私の時間も増えるし…。ね?」
「僕は有難いし嬉しいけど、ご主人は大丈夫なの…?」
「大丈夫、あの人、女のことなんて何も知らないもの!」
勉強ばかりで、世間知らずなの…!と母のやけに甘ったるい声を聞いて、ゾッとした。リビングのドアからはさらに、「あ…んっ」という、『女』の声が微かに聞こえる。
俺は自室に戻ると、制服を脱いで私服に着替えた。『探さないでください』とメモを書き、リュックに有り金を全部放り込んで部屋を飛び出す。「響?!」と俺を呼ぶ母の声を聞いた気がしたが、止まったりはしなかった。
ーー俺、父さんに似ていないどころか、親子じゃないかもしれない…!だってどんなに頑張っても、兄さんの成績には遠く及ばないし医学部も入れそうにない!
それなら何で、こんなに勉強させられていたんだ…!やりたい事も全部我慢して、必死に。兄と比べられ続けて、何度泣いたか知れない。
自分の足元がガラガラと崩れて、真っ暗な闇に飲み込まれて行く。このままだと、何も見えなくなってしまう。
家を出て、そのまま電車に飛び乗ると、スマートフォンの位置情報サービスをオフに切り替えた。母に居場所を検索させないためだ。
もう、帰りたくないどころか、どこにもいたくない…。
外を眺めようとして、窓に自分の姿が写っている事に気がつく。いつの間にか涙が溢れていたようだ。テスト勉強に夢中でしばらく髪を切っていなかったから酷い格好。でも、前髪も長く眼鏡もかけているから泣いているのを誤魔化しやすくて、少し安堵した。
そのまま、窓に映る、鼻水も出ていて酷く情けない顔の自分に、そっと尋ねてみた。
これからどうしよう?
何も答えが浮かばなくて、誤魔化すようにイヤホンを耳に挿入した。スマートフォンを操作しながら片手で頬の涙を拭い、いつもの、俺の推しである花音ちゃんが所属するアイドルグループの配信番組をタップする。
「みんな、つらい環境からは逃げていいんだよ!」
花音ちゃんは俺に、言っているみたいだった。
「花音もね、中学の時いじめられてたの。それで、最悪なことも考えたけど…。その時思い切って学校行くのやめて、今はアイドルやってます。だから、もしつらい思いしてる人がいたら、逃げてほしい!あと、花音は秋葉原のライブハウスのステージに毎週立ってます。よかったらお話しに来てね!」
花音ちゃんが学校に行くのをやめたのは、ちょうど夏休みにはいる少し前だったようだ。それで今日、思い出してそんな呼びかけをしたらしい。
俺はいじめじゃないけど…、逃げてもいいんだろうか?
真っ暗な心の中を照らすわずかな光のように感じて、吸い寄せられるように俺は秋葉原へ向かった。