09 二人の秘密
天気の良い昼下がり。
侍女たちに断って一人で庭を散歩していたデイジーは、見知った金髪が風に揺れているのを見つけた。太陽の光を受けてキラキラと輝く様子は美しい。
「セオドア様、」
声を掛けると驚いたように身じろぐ。
青色の瞳にも動揺が浮かんでいた。
「君か……突然声を掛けないでくれ」
「では最初に肩を叩くべきでしたか?」
「そう言うわけではないが…」
セオドアは落ち着かない様子で脚を組み替える。
デイジーはその隣に腰を下ろして、手に持った包みを差し出した。白いハンカチに包まれた小さな塊からはほんわりと良い香りがする。
「なんだ?」
眉を寄せたセオドアは受け取る前に警戒心を露わにしてそう尋ねた。
「マドレーヌです。今朝焼いてみました」
「君はまた厨房に入ったのか。ああいう仕事は専門の者に頼めば良いんだ。自ら手を掛けて作ったところで、時間と労力の無駄だろう」
「そうかもしれませんが、セオドア様に食べていただきたかったので……自分の手で作りたかったのです」
「…………、」
「お一つだけいかがですか?」
「………いただこう」
大きな手がひょいとマドレーヌを摘み上げる。
デイジーが見守る前でそれはセオドアの口に入った。
もぐもぐと咀嚼する間もデイジーのローズピンクの双眼はじっとセオドアを見つめる。無口な婚約者もその視線に耐えかねてとうとう「美味しかった」という無難な感想を述べた。
「良かった…!喜んでいただけて嬉しいです。また作っても良いですか?」
「好きにすれば良い。普段はあまりこういったものを食べないんだ。砂糖を食べすぎると肥える」
「あら、そうですか?」
「俺は体質的に太りやすい。だから毎朝自分の身体を鍛えているし、食事には気を遣っているつもりだ。医師からもそうするように言われている」
「まぁ。それでは、今さっき食べたマドレーヌは私たち二人の秘密にしましょう」
「………秘密?」
デイジーは人差し指を伸ばしてセオドアの唇を拭った。
マドレーヌの欠片がぽろりと草の上に落ちる。
驚いて目を見開くセオドアの前で、デイジーはにっこりと笑顔を見せた。ザッと強い風が吹いて黒い髪が舞い上がる。セオドアはこの時初めて、自分の婚約者を恐ろしいと思った。
恐ろしく、美しい。
ただ愛らしく、男たちの庇護欲をくすぐる小動物とみなしていた女が、自分を取って食らう肉食獣のように見えたのだ。そんなはずはないのに。
「セオドア様……」
立ち上がったデイジーがスカートを払って振り返る。
「今度からはデイジーとお呼びください。貴方が呼んでくれる私の名前は特別なんです」
「特別?」
「ええ。未来の旦那様ですもの、特別です」
「分かった……努力しよう」
セオドアは視線を外して答えた。
軽やかに笑ってデイジーが去って行く。
遠くなる足音を聞きながら、セオドアは額から流れ落ちた汗を手の甲で拭った。そして、デイジー・シャトワーズという人間が自分の心を揺さ振り、緊張さえ抱かせたという事実を頭から追い出すために足早に自室へ引き返した。