11 婚約者
「しかしまぁ、あのセオドアが婚約するなんてね」
アルフレッドは大きな声で言って笑う。周囲も同意するように笑みを浮かべたが、デイジーはそれが朗らかな笑いではなく、嘲笑に近いものだと気付いていた。
まったくもって変わっていない。
アルフレッド・バーミングは同じ公爵家として、デイジーが幼い頃に少し親交があったようだが、残っている思い出は良いものとは言い難かった。
国内では比較的少数派の黒髪を持つ彼女のことを、アルフレッドはゴキブリと呼んで友人たちと嘲笑った。それだけならまだ良いのだけど、どういうわけか別の学校へ進学した後も、デイジーの通う学校の前で待ち伏せてはあの手この手で嫌がらせをして来たのだ。
持ち物を隠すなど古典的なものならまだ許せるが、徐々にアルフレッドの嫌がらせは彼の取り巻き伝いにデイジーのクラスの者たちにも伝染し、学校生活はあまり楽しい結果にはならなかった。
しかし、デイジーにはルートヴィヒという頼れる幼馴染みが居たし、実際問題アルフレッドはルートヴィヒの手で何度か痛い目に遭っていた。
(まだ懲りていないのね……)
冷ややかにこちらを見る茶色い双眼を見つめ返す。ペロッと唇を舐めると、シャンパンのグラスを置いてアルフレッドは口を開いた。
「セオドア、君の婚約者を紹介してくれよ」
「? 先ほど済ませたところだろう」
セオドアは不思議そうに聞き返す。
アルフレッドは「違う違う」と首を振った。
「僕たちが知りたいのは、君が彼女のどういうところが好きで、何故惹かれるに至ったかということだよ」
「……どうしてその必要が?」
「王太子殿下が選んだ令嬢なんだ。きっと他の女にはない優れた点があるに違いない。僕の知ってるデイジー・シャトワーズは陰気で、皆の輪に交わらず、いつも草と会話してる変わり者だったからさ」
長方形のテーブルを囲んだ男女たちがドッと笑った。
アルフレッドは自分の発言が場を沸かせたことに満足したのか、得意気に周りを見渡す。デイジーは手に持ったナイフに力が入り過ぎないように心掛けながら、あらかじめ用意していた対策を頭の中で整理していた。
自分を嫌うこの男が攻撃を仕掛けてきても良いように、いくつかネタは仕入れていたのだ。例えばアルフレッドの姉が三日で婚約破棄をされた話、もしくは彼が初恋の相手から「顔が好みではない」とフラれた話など。
あまり品が良いとは言えないけれど、度が過ぎる意地悪にはこうした荒いネタを投下するしかない。問題はセオドアの前であるということぐらい。
デイジーはよく理解していた。
自分の身の守り方、立ち居振る舞い。
しかし、心を決めて息を吸ったとき、隣でセオドアが立ち上がる音がした。
「悪いが、今日はもう失礼する」
その声に驚いたのはデイジーだけではなかった。
さすがのアルフレッドも焦りを浮かべている。
「何を言っているんだ、セオドア?まだ前菜の途中じゃないか。君の婚約を祝おうと思ってこうして晩餐会を開いてみたんだ。主役が消えると困るんだよ…!」
「アルフレッド、これがお前の祝い方なら俺は今後の関係を考えなければいけない」
「はぁ………?」
「俺は自分の婚約者を悪く言う奴と食事を楽しめるほど愚鈍ではない。お前の発言はデイジーに対して失礼だ」
「なっ、事実だろう!?」
「ことの真偽を問うているわけではないんだ。お前が話し始めると彼女の手が止まった。それで十分だよ」
そう言うと、セオドアはデイジーに向き直った。
まだ座ったままの婚約者に手を差し出して「帰ろう」と小さく呟く。デイジーは持っていたナイフをカトラリーレストに戻すと、その手を取って歩き出した。
テーブルからはアルフレッドの怒りの声が聞こえる。しかし、それもじきに収まることだろう。王家の機嫌を損ねた意味を理解できないほど彼も馬鹿ではないはずだ。
「………驚きました」
バーミング邸から去る車の中で、デイジーは独り言のように溢した。それは彼女の心からの気持ちで、セオドアに向けてというよりも自身に対しての語りだった。
「貴方が私を庇うとは思いませんでした。ああいう場では、無関心を装うと思っていたので……」
セオドアは窓の外に目を向けたまま、何も答えない。
「私のことを名前で呼んでくださいましたね?今日は悲しいこともありましたが、あの一声で私は幸せです」
それっきりデイジーは口を噤んだ。
いつもお喋りな彼女がひっそりと流した涙は、静かに頬の上を滑ってドレスの上に落下した。若い男女が何も会話を交わさないことに気を遣った運転手は、王宮に着くまでに遠回りをしてみたが、結局その日は何も話すことなく二人は別々の部屋へ戻って行った。