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刺しきれなかった旗

作者: 風神

 顔を真っ赤にした男が、街の中で座り込みながらタバコをむさぼるように食べている。通行人は化け物でも見るかのような視線を彼に送り続け、携帯のカメラで撮影する者までいた。だが、彼は気にもせずに数本のタバコを食べ続けた。むせながら、涙を流し鼻水を流して、食べた。

 ブレザー姿の男は、噛みまくってくちゃくちゃになったタバコを吐き出した。何度も咳き込み、やがて本格的に大量の涙を流して泣き出した。雪が降り始めても、全く気にせずに泣いた。唇をかみしめすぎて血が出てきている。涙と鼻水とタバコの葉がついた唇。人間の顔には見えないほどに、醜い顔だった。


 片岡勇太と水野凜は中二の春、同じ高校に入ろうと約束した。二人は同じ中学校に通っていて、中一の秋頃、偶然同じ塾に入った。話が合い、すぐに仲良くなり、同じ高校に入ると誓った同士になった。何度か二人でデートもしたし、一緒に下校したり塾が終わった後は二人で帰ったりもした。片岡はいつも顔を赤くしていたし、まともに口が回らなかった。水野は、屈託無く片岡に話しかけ、二人で遊んでいる時も教室にいる時と全く変らぬ笑顔で接していた。

 二人の入ろうとしている高校は真ん中くらいの学力。特別頭が良いわけでもバカなわけでもない。片岡は油断しなければ大丈夫だと学校と塾の先生に言われていたし、親も友達も片岡なら大丈夫だろうと思っていた。しかし、水野は黄色信号という所だった。相当に努力し油断は絶対に許されない。だが、受験する学校のレベルと一つ落とすわけにはいかなかった。二人の住んでいる場所の近くに高校は少なく、一つ落とすという事は市外の高校に通わないといけなかった。それだけは避けたかったのだ。自分の時間を大事にしたい水野にとって、遠くの学校に通い通学に時間をとられることはしたくなかった。

 中三の一月、雪が降り勉強で疲れた頭も一瞬で覚めるような寒さの夜、二人は一緒に帰っていた。片岡はひたすらまっすぐ二十分ほど歩く。水野は十分ほど歩いた所で右に曲がる。十分だけかもしれないが、片岡にとっては朝の十分よりも貴重な時間だった。

 暗闇の中に見えるものと言えば、ぽつりぽつりと存在する家や雑居ビル。国道につながる道路の脇には中学校があり、ぽつんと取り残されたように小さな畑があり、近所の家に畑特有の匂いをまき散らしている。

 水野は塾から出ると、スカートのポケットからキャスターマイルドとライターを取り出すと、口にくわえた。

「ねぇ、火つけてよ」

「それくらい、自分でつけろよ」

「男の子に火つけられると、なんだかゾクゾクするの」

 片岡は水野から受け取った百円ライターの火をつけ、水野をじっと見た。暗闇の中で黒いコートを着た水野は、薄い唇にタバコをくわえ、いやらしく笑っていた。タバコに火をつけると、水野は思いきり吸い込み、タバコを口から放し、紫色の煙を吐き出した。

「ねぇ、旭岡高校、受かるかな」

「お前が? それとも、二人とも?」

「当然、私と片岡君だよ。ねぇ、受かると思う?」

 片岡は自分でも受かる自信はあった。しかし、水野はかなり危なかった。正直に言うべきか迷ったが、同士として嘘はいけないと思った。

「もっと頑張らないと、危ないんじゃないか」

 水野はフィルターを強くかむと、ブーツで道路の脇に積まれた雪の壁を蹴飛ばした。

「やっぱりそうかぁ。ねぇ、私頑張るから、同じ高校行こうね。絶対、旭岡に入ろうね」

「あぁ。俺も頑張るから、お前も頑張れよ」

「うん。旭岡に行けたら、街で毎日遊べるね」

 旭岡高校は、街の近くにある。旭岡の生徒は、学校帰り無意味に街を徘徊する。まだ子供の中学生にとって、街で毎日寄り道することは、世界中を旅行することよりも魅力的な事に思えた。中学校なんて住宅地の側にあるから、つまらなくてたまらないのだ。それが余計に、子供じみて思えてしまう。

「ねぇ、旭岡に入ったら、たまに自転車に乗せて学校連れてってよ。私、朝弱いんだ」

「いいよ。毎日でも乗せてってやるよ。なんなら、学校帰りも」

「本当? なんか私、VIPみたい。リムジンじゃないのが残念だけど」

「無理に決まってるだろ。ママチャリで我慢しろ」

 二人は同時に大きな声を出して笑った。水野の透き通る甲高い声が夜空に響いた。片岡は、水野笑顔と笑い声を独り占めしている事にこれ以上ない幸せを感じた。教室で水野が笑えば、三十人の人間が誰でも笑顔を見る事が出来る。でも、今の笑顔は自分しか知らない。何十年も経ち水野が女らしさを無くした年齢になっても、中学生の水野凜が今見せた笑顔を知っているのは、地球上で自分だけだ。片岡はそう思うと、絶対に高校に受かるような気がした。

 水野は笑った拍子に、まだ全然吸っていないタバコを落としてしまった。だが、気にする風もなくブーツで思いきり踏みつぶした。そして信号で止まった。

「じゃ、ここで」

「あぁ。また明日」

「また明日。バイバイ」

 水野は道路を右に曲がり、入り組んだ住宅地の中に消えていった。片岡は自分の右手を見た。ライターを返すのを忘れていた。でも、百円ライターを返すのはなんだかおかしいと思い、ライターをポケットの中に突っ込んだ。ずっとライターを触っていたい気持ちだった。もう、ポケットの中のライターは、ライターという価値を見いだす役目は終わり、新しい価値を身につけていた。


 試験が終わり、卒業式も終えた。体育館では皆泣いていなかったのに、教室に戻った瞬間に何人かが泣き出した。片岡は泣きはしなかったし、泣いていられないと思っていた。

 そして玄関まで行った。皆携帯のカメラを持って友達を写していた。携帯を見たら鬼のように没収してくる先生達だが、今日ばかりはむしろ微笑ましく生徒達を見ていた。

 片岡は自分のクラスの友達と別れを惜しんでいる余裕はなかった。制服姿の人間がうようよいる玄関前で、必死に水野を探した。心臓がバクバクして、水野を一秒でも早く見つけ出さないと心臓が停止してしまうというほどに、無意味に焦っていた。やがて、玄関から女友達に囲まれた水野が出てきた。涙は一粒も見せず、晴れ晴れとした笑顔だった。

 話しかけられなかった。話した事のない女子と楽しそうにしている水野に、気安く話しかけていいとは思えない。片岡は仲の良い男友達に「写真撮ろうよ」と言われたが、首を横に振った。焦りよりも苛立ちが頭を支配していた。寒さなんか全く感じていないほどに、頭の中が水野一色だった。

 やがて、ちらちら片岡を見ていた水野が、友達との会話を切り上げて近づいて来た。

「片岡君。明日発表だね。緊張してる?」

「あ、当たり前だろ」

「私は緊張より不安だな」

「そうか。でも、ここまできたら、もう何も出来ないからなぁ」

「そうだね」

 片岡は写真を撮ろうと言いたかったが、恥ずかしくて言えなかった。それに、写真を撮ると言う事は永遠の別れを意味するように思えた。写真を撮っている人達を見ると、「どうせもう会わないだろうから記念に写真を撮りましょう」という風にしか見えないのだ。本当に仲の良い友達だったら、学校を卒業してしまっても、明日にでも十年後にでも気軽に会えるはずだ。

「明日一緒に見に行く?」

 片岡がそう聞くと、水野は首を横に振った。

「一人で見に行きたいんだ。私だけ落ちてたら、気まずいじゃん」

「縁起でもねぇこと言うなよ。本当に不安になってくる」

 水野はけたけたと笑うと、言った。

「うん。私、この後友達とカラオケに行くんだ。制服デート」

 水野は後ろを振り返った。そこには、笑顔で手を振ってくる女の子が三人いた。

「そういうことだから、そろそろ」

「あ、うん。じゃあね」

「うん。また今度。さようなら」

「あぁ。またな」

 水野は友達の所へ駆けていった。片岡は、脳みそがくしゃくしゃになって爆発しそうだった。


 翌日の合格発表の日、片岡は旭岡高校の前で固まっていた。片岡の中学で旭岡高校を受けた人は十人ちょっといたが、軒並み惨敗だった。そして、片岡自身も落ちていた。そして数少ない合格者の中には、水野凜の番号があった。

 片岡は気づくと、自転車の後ろに片岡を乗せて街の中を走り、カラオケやゲームセンターに寄り道している姿を思い浮かべていた。もちろん、旭岡高校の制服を着ている。落ちた事がまだ信じられない。片岡はひたすらに掲示板と自分の番号が書かれた紙を見比べた。受かっているはず。そう思って何度掲示板を見ても番号は当然変らない。周りで喜びを爆発させている人達の声は、片岡の耳に届いていない。

 高校に受かって、二人で高校生活を楽しめると信じていた。中学生活での数少ない女友達。そして、初恋の相手。携帯の水野のアドレス帳には、旋律の旗という自分の大好きな歌を着信メロディに設定していて、旋律の旗が携帯から奏でられる度に、イノシシのように携帯をひっつかんだ。バレンタイデーにもらったチョコレートは、市販のチョコなのにこれまで食べたどのチョコよりも美味しかった。試験当日、前の席に座っていた水野は、休憩時間に自分のネクタイをなおしてくれた。その時の心臓は狂ったように鼓動していた。

 全部が、終わった。片岡は滑り止めの私立の高校に通うことなんて微塵も想像出来なかった。嘘としか思えなかった。


 その後片岡は、家に帰る気にもならずに、街を一人で歩いた。旭岡高校に通って、毎日通う事になるはずだった街。自分の横を通っていく大勢の人間が、異世界の住人のように思えた。

 ふと、一軒の喫茶店が目に入った。コロポックル・コタンという喫茶店。ここは一度、片岡と水野がデートをした店である。片岡はもうここに来る事はないと確信した。通り過ぎようとしたが、足を止めた。ドア越しに、水野の姿を見たのだ。怪しまれることなんて考えずに、ドアに近寄って中を確認した。店の一番左奥の席に、水野と塾の先生が二人で座っているのが見えた。黒く長い髪の女の子と、三十代前半の塾の先生は、楽しそうに話していた。まるで、合格を祝うように、コーヒーを酒のごとく美味しそうに飲んでいた。景色が消えていく気がした。何もかもが目の前から消えていく。目を瞑りたかった。しかし、むしろ片岡の目は一気に見開かれた。

 片岡の足下に、携帯灰皿が落ちていた。黒色のデザインの携帯灰皿。これは、いつも水野が持っていた物である。片岡は何も考えずにその携帯灰皿をひっつかむと、走り出した。そして喫茶店から二百メートルくらい離れた所まで行った。丁度街の真ん中にあたるところである。後ろを一瞬振り返ると、かじかんだ赤い手で携帯灰皿を開き、地面にばらまいた。

 大量の灰と共に、口紅でフィルターが赤く染まったタバコが五本、落ちた。

 街の中で座り込みながらタバコをむさぼるように食べている。通行人は化け物でも見るかのような視線を彼に送り続け、携帯のカメラで撮影する者までいた。だが、片岡は気にもせずに数本のタバコを食べ続けた。むせながら、涙を流し鼻水を流して、食べた。

 噛みまくってくちゃくちゃになったタバコを吐き出した。何度も咳き込み、やがて本格的に大量の涙を流して泣き出した。雪が降り始めても、全く気にせずに泣いた。唇をかみしめすぎて血が出てきている。涙と鼻水とタバコの葉がついた唇。人間の顔には見えないほどに、醜い顔だった。

 これまでの水野との過去になってしまった思い出と、これから始まるであろう絶望の高校生活が頭を巡る。脳みそと心臓を、見知らぬ人に笑顔であっさり、両手で、まるで風船を割るように潰される思いだった。

 片岡は泣くのにも疲れると、好奇の目で自分を見てくる通行人から、逃げるように自分の家に帰った。


 片岡は家に帰ると、ポケットの中の携帯が振動しているのに気がついた。机の上に置いてある、水野のライターをぼーっと眺めたあと、携帯を開いた。差出人は、水野凜だった。メールを見て、親がおそるおそる片岡の部屋に入ってくるまで、彼は携帯の画面を眺め続けた。

『合格発表、どうだった……?』

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