ホルスの宝島
何の接点も無かったエジプト考古学者のアンディこと安藤襄治、大学病院の脳神経外科に勤務するハルこと井川晴海、一攫千金の夢を抱くトレジャーハンター系ユーチューバーのマナティこと千葉学の3人だが、アンディのエジプト神殿遺跡調査をきっかけに埋もれていた古代史の扉が開いて、徐々に運命の糸がつながっていく。そして、彼らが見つけた宝とはいったい何だったのだろうか?
1.プロローグ
アンディこと安藤襄治は日本のエジプト考古学における第一人者で、もうすぐ還暦を迎えようとしているが一向に老いを感じさせないダンディなおじさんである。
彼はピラミッド遺跡などに代表される古代エジプト古王国から中王国時代の建造物を主要研究分野としていた。しかし、彼は今、王家の谷などで有名なエジプト南部の都市ルクソールからナイル川をさらに100km程南に遡った先の東岸に位置するコム・オンボ神殿に居る。この神殿遺跡は、エジプトの天空神かつ太陽神とされるハヤブサを冠するホルス神と、ナイル川のワニを神格化したワニを冠するセベク神とを祀る非常に珍しい二重神殿である。そして、この神殿からナイル川を北に下ると西岸にはホルスを象徴するハヤブサ像が出迎えるエドフ神殿が鎮座している。いずれの神殿遺跡も、古代エジプトの長い歴史から見るとそう古くもないあのクレオパトラが最後に統治したプトレマイオス朝の時代( 紀元前332-32年 )に建設された建造物で、彼の研究分野からはいささか外れた分野の建造物なのである。しかし、エドフ神殿の建設は碑文によると実は紀元前1500年頃には既に計画されていたらしい。紀元前1500年頃と言えば、古代エジプトの中王国時代( 紀元前2060年頃~ )と新王国時代( 紀元前1540年頃~ )の狭間となる第二中間期が終わり、新王国時代へ移り変わって行く頃と重なる。その第二中間期にはエジプト民族とは異なるヒクソスと呼ばれた異民族の王が現在の首都カイロの近くのアヴァリス辺りを中心にエジプトを統治していたとされている。しかし、その後エジプト第18王朝の王イアフメス1世がヒクソス第15王朝を滅ぼして再統一し、エジプトで最も栄えたと言われる新王国時代が始まるのである。アンディは、砂漠に守られ外的侵入をあまり受けることなく脈々と続いた古代エジプトの長い歴史の中で異民族支配と交差するこのホルス神にまつわる不思議なエジプトの歴史を解き明かしたくて、自分のテリトリーを逸脱しつつもこれらの神殿遺跡の建造物を巡っていたのである。
ハルこと井川晴海は東京の東都基督教大学総合病院の脳神経外科に勤務するアラサーの看護師である。彼女は、今まさに脳動脈瘤が破れてくも膜下出血を起こし意識不明に陥った中年男性患者の半日にも及ぶ大手術の真最中であった。現在では、カテーテルによる内視鏡手術の普及により生存率は向上しているものの、彼の場合出血が広範囲に及び、一命は取り留めても何らかの後遺症が残る可能性は否めない。彼女は敬虔なキリスト教信者で、手術を前にして礼拝の場ではいつも受け持った患者の復帰を神に祈った。予断を許さない長くて短い大手術は、経験豊富な中山医師の下、スタッフ一丸となり一つ一つ順を追って着々と進められて行った。そして、窓に夕日が指す頃に何とか患者の患部処置が無事終了したようだった。皆の顔に少し安堵の表情が浮かんでいた。ハルはこのような時にいつも思うのである。患者の人生とはどのようなものだったのだろうか?と。そして、神はこの人の人生を続けさせることを私たちに委ねたのだと。
マナティこと千葉学は、大学を卒業後もフリーターと宝探し系のユーチューバーで何とか生計を立てながら学生時代の探検サークルで培った冒険家魂と一攫千金の夢を抱くいわゆるトレジャーハンターである。そして、彼には大学時代からの付き合いなのだが、困ったときにいつも手を差し伸べてくれる女神のような女性が居た。マナティたちは今沖縄から更に南に移動した日本最南端の島で浜辺に佇み、海の声を聴きながら新しい未来のテーマを模索していた。
この一見するとまったく接点など無いと思われる三人ではあるが、アンディの神殿遺跡調査をきっかけに少しずつ運命の糸が繋がって行くのである。
2.海に眠る黄金の十字架
ハルの務める東都基督教大学総合病院には、彼女がいつも昼食の時間を共に過ごす内科勤務のミオこと立花美緒という親しい同僚が居た。未だ独身の二人は、勤務時間さえ合えばよく飲みにも出掛けた。普段は気丈で心優しく敬虔なキリスト教徒のハルだったが、何かあった時に飲む酒は、彼女の心を飲み込んで気弱にさせ、またある時は理不尽な出来事を激しく罵ったり、そして、涙もろい本心を露わにした。そんな時、ミオはそっと優しく彼女を包んでくれるのだった。
「ミオさあ、ねえ聞いてくれる?・・・中山先生ったら、患者の行動を常に見張ってないとダメだって言うの。患者は何をするかわからないから病室にも監視カメラを取り付けるべきだって。そりゃあ、オペ室には設置されていて万一の場合や新人育成用などに活用されているから、病室だってあった方が後々の役に立つかも知れないし、容体が急変したりした時にもナースステーションで即座に確認できるからいい面もあるけど、患者さんにもプライバシーがあるんだし、病室までそう遠くはないからナースコールですぐ駆けつければいいと思わない?」
「ハルも色々あるんだね。でもね、先生も悪意があって言ってる訳じゃないんでしょ。もう少し真意を確認してみたら? 患者さんが入院する時に本人や家族の方に予めその旨断って合意書にサインをもらうことも可能だしね。」
「そうなんだけどね。患者さんにも人権があるし、私たちがラウンドして応対しているときの行動も逐次監視されているようでいやじゃない?」
「そうか、患者さんにかこつけてハル自身のプライバシーが問題なのか。なあるほど。」
「いや、そうじゃないよ。私たち看護師だって一生懸命やってるんだよ。」
「じゃあ、そんなに気にすることもないんじゃない。」
「でも、他のみんなも抵抗あるって言ってるよ。」
「じゃあ、カメラを設置した場合のメリットとデメリットをみんなで話し合って、用途を明確にしてもらうよう先生に直訴してみれば?」
「そうだね。今度ミーティングのときにみんなに相談してみるよ。ありがとう、ミオ。」
「いいえ、どう致しまして。親愛なるハルの悩みとあれば私も黙って見過ごす訳にはいかないからね。さあ、もう一度乾杯して飲みなおそうよ。」
二人は、焼き鳥の追加注文と、ビールのお替わりをして、飲みなおした。
そんないつも穏やかで心優しいミオだが、実は彼女にも心に秘めた悩みがあった。
「マナティのやつ、また・・・宝探しに没頭して私のことなんか・・・」
酔いが回ってきたミオがそっとつぶやくと、ハルはそれを聞いたかどうかわからないのだが、ある話を切り出した。
「私、前にね、本で読んだことがあるの。深い 深い 海の底に『ソロモン王の黄金の十字架』が眠っているって。そしてそれはね。どうも日本の近海らしいんだけど。」
「ソロモン王って、イスラエルの王のこと?」
ミオは自分のつぶやきがハルに聞こえたのなら申し訳ないと思いながらも、興味をそそられて聞き返した。
「そうよ、ソロモンは古代イスラエルの王で、ダビデ王の息子として旧約聖書( ※1 )列王記にも記されているわ。徳島の剣山に伝わるソロモンの秘宝とかいういわゆる都市伝説があって、その秘宝の一つとされる石板に黄金の十字架に関するヒントが隠されているとか、いないとか・・・。」
聖書を何度も読み返し熟知しているキリスト教徒のハルは、旧約聖書にも精通していた。そして、都市伝説にも・・・。
「でもそれって少しおかしくない? 旧約聖書ってイエスキリストが誕生する前のユダヤ民族の物語だよね。十字架はキリストが磔にされたことで信仰の対象になったわけでしょ。だから、ソロモン王が既に十字架を所持していたとすると矛盾が生じるんじゃない?」
「確かにミオの言う通りなんだけどね。列王記に金の盾の話はあるけど、金の十字架の話はないんだよね。どうしてだろうね?」
ハルもミオの素朴な疑問に今更ながら違和感を隠せなかった。( ※2 )
それから数日経ったある日のこと、ミオはマナティに例の『ソロモン王の黄金の十字架』の話をしたのだった。
「マナティ、いい話を教えてあげる。」
「何だい?ミオがあらたまって話を聞かせてくれるなんて珍しいな。」
「実はね。友人のハルから聞いた話なんだけど、日本近海に凄いお宝が眠っているらしいよ。」
「凄いお宝ってどんなの?」
「聞きたい? うふふ、教えてあげようかな。どうしようかな。」
「おいおい、そっちから切り出しといて、教えない体はないだろう。頼むよ、教えてくれよ。」
「じゃあ、教えてあげるね。そのお宝は『ソロモン王の黄金の十字架』だって。」
「何だって、そんなの俺聞いたことないよ。もし、その話が本当だったら、世界の一大事だし、見つけたら俺たち間違いなく億万長者だよ。」
マナティは自分の胸に指で十字を描いては手を合わせ、すっかり黄金の十字架に魅せられていたが、しばらくすると我に返って根ほり葉ほりとミオに質問を浴びせて来た。
「いったいその話の信憑性は確かなのかい? 金の十字架の大きさはどのくらい? 日本近海って言ってももう少し場所を絞り込めないのかな?」
「ハルに聞いた都市伝説のたぐいだからほんとかどうかは定かではないけどね。でも、徳島の剣山辺りに伝わるソロモンの秘宝伝説は結構有名な話らしいよ。その秘宝の石板に十字架のヒントが隠されているらしい。十字架の大きさはわからないけど、海底で見つけられるのなら結構大きいんじゃないかしら? どの辺かはわからないけど、剣山に関係するなら四国近海かもね。」
「まんざらじゃなさそうだね。でも、どうやって探したらいいんだろう。」
マナティはそんなことを言いながら、早速ネットで剣山のソロモンの秘宝に関する記事を調べ始めた。
3.聖書との出会い
アンディは、ホルス神と関係の深い他の神々を祀る神殿遺跡もターゲットとして拡大調査を行うために、ナイル川をさらに北に下って、ルクソール( 古代のテーベ )東岸にある牡羊頭のスフィンクスが並ぶ参道で有名なカルナック神殿複合体、そこから人頭の見慣れたスフィンクスの参道で結ばれたルクソール神殿なども巡った。カルナック神殿複合体の中核を成すアメン大神殿にはテーベの守護神アメンと太陽神ラーが習合したアメン・ラー神が祀られており、ルクソール神殿はそのアメン大神殿の付属神殿となっている。なお、ラー神はハトホル女神の父に当たるので、夫婦もしくは母子とされるハトホル神とホルス神の関係から、ラー神はホルス神の義理の父もしくはホルス神の祖父となる。
翌日はさらにナイル川を下ってホルス神の妻や母などとされるハトホル神の信仰の中心的存在となっているハトホル神殿( ※3 )などを含むデンデラ神殿複合体に向かった。この遺跡はルクソールからさらに川を下ったエジプト中部の町デンデラの南東部に位置し、ハトホル神殿の他にコプト教会( ※4 )の遺跡やプトレマイオス朝時代・古代ローマ時代の誕生殿( マンミシと呼ばれ神の誕生に関連する神殿付属の小さな聖堂 )などが同居する複合遺跡である。
アンディは周囲を塀で囲われたデンデラ遺跡の北門を通って丸い円に正十字が収まるシンボルが掲げられたコプト教会遺跡などを右手に見ながらハトホル神殿に向かった。途中、音楽や安産の神として知られるベス神のレリーフが出迎えてくれる。そして、いよいよ第一列柱室に入ると、高い天井には月の満ち欠けとそれを象徴するホルスの目、太陽の運行を示す太陽の船などが色鮮やかに描かれているのが見える。彼は取り急ぎ以下のような著名なスポットを中心に観て廻り、写真に収めては都度気づいた点をメモに書き留めた。地下に下ると宇宙創成にも関係すると言われ蓮の花の中にヘビを孕むとされるいわゆるデンデラの電球と呼ばれる不思議なレリーフ、屋上に上がるとその一室の天井には黄道十二宮を含む天体図のレプリカ( 本物はフランスのルーブル美術館所蔵 )、外に出て神殿右側の外壁沿いに進み、その先を曲がって神殿裏側に出ると例のクレオパトラ7世とその息子カエサリオンの大きな外壁レリーフ・・・。そして、その途中には埋められて枯れた井戸跡もあった。彼は神殿を一通り観て廻ったが、ハトホル神信仰が何故宇宙をテーマにした建造物につながり、そして宇宙創成が仏教のシンボルでもある蓮の花と結びつくのかなど、ピラミッドに代表される一般的なエジプト文明のイメージとは一味違った印象を受け、素朴な疑問と共に宇宙に抱かれたような不思議な感覚を得てこの遺跡を後にした。
アンディはこのデンデラの町のレストランで一人の男と相席になった。彼はキリスト教徒で、名はアブドラと言い、近くの修道院で催される礼拝に来ているとのことだった。エジプトはイスラム教徒が多く、キリスト教徒に出会うとは思わなかったので、アンディは少し驚いて、彼に聞いてみた。
「先ほどデンデラ神殿に行ったら、遺跡内にコプト教会の遺跡もあったんですが、この辺りはキリスト教徒の方も多いんですか?」
「そうですね、結構いますよ。近くにもモスクと並んで教会や修道院が建っていますからね。その昔の4世紀初め頃ですかね、聖人パコミオス( ※5 )がこの近くに修道院を建て、キリスト教の集団生活による修行と伝道の場を創り出したそうで、イスラム勢力によってある時期教会や修道院がことごとく破壊されたんですが、それでもキリスト教への信仰心は根強く残っているんですよ。ローマ帝国の世界を通してヨーロッパにもここから修道院文化が広がって行ったようです。ナイル川をもう少し下ったところにナグ・ハマディという村があるんですが、その近くから原始キリスト教に関するナグ・ハマディ文書( ※6 )という重要な資料も発見されたんですよ。聞くところによると、この文書は実はパコミオスの建てた修道院の蔵書だったのではないかと言われています。」
「そうなんですか。じゃあ、ここはキリスト教修道院のメッカみたいなところなんですね。」
「そう言われると少し気が引けますね。ナグ・ハマディ文書にはキリスト教多数派から異端扱いされたグノーシス主義に関する資料が多数含まれていたらしいんですよ。彼らは人間自らの中にも神が宿ると唱えて思い上がった危険思想と見なされたんでしょうかね。」
「今では広く世界に普及したキリスト教でも、神と人間の捉え方が違うし、その教派の変遷や布教の歴史にも色々あったんですね。」
アンディは、デンデラ神殿で得た情報とアブドラの話を取り急ぎノートに整理して、彼に別れを告げるとデンデラの町を後にした。
しかし、キリスト教の母体とも言える修道院がなぜイエスキリストの生誕の地( ※7 )イスラエルではなくエジプトの町で産声を上げるようになったのか、キリスト教多数派と袂を分かつことになったコプト正教会と異端扱いされたグノーシス主義との関係は同じ系統なのか、それとも別物なのか、アンディの脳裏にはまだ多くの謎が立ちはだかっていた。そして、ギリシャ文明とエジプト文明の融合とも言うべきコプト語がなぜエジプトのコプト正教会の主たる言語となったのか、謎が深まるばかりであった。キリスト教やユダヤ教の歴史など自分の研究分野とはまったく異なる畑違いでこれまでタブー視されて来た分野に足を踏み入れていいものかどうかと躊躇する一方で、自分でも抑えきれない好奇心と共に何かに導かれるように古代宗教史の閉ざされた真実の扉を開かなければならないという衝動に突き動かされていた。
アンディは、まず、ユダヤ教とキリスト教の経典でもある旧約聖書と、それを裏付ける最古の資料でもある死海文書、キリスト教多数派に異端とされたグノーシス主義の資料を多数含むナグ・ハマディ文書を詳細に分析する必要があると強く感じた。
彼はカイロに戻りナグ・ハマディ文書が収められているコプト博物館( ※8 )を訪れた後、イスラエルに飛び、イスラエル博物館が所蔵するクムラン遺跡から発見された死海文書( ※9 )を自分の目で確認してから日本に帰国することにして、一旦ルクソールに戻って飛行機でカイロに向かった。
カイロの街に着いた頃にはナイル川が夕闇の灯りに映って砂漠の町とは思えない程ロマンチックな装いを見せている。彼はナイル川河畔のホテルに宿泊し、翌日博物館を訪れることにした。しばらくエジプトに来ることもないと思うと今夜は少しゆっくりと過ごしたくなって、ホテル内のレストランで地中海料理を堪能してはナイトクラブでカクテルに酔いしれた。
すると、先ほどから近くでこちらを笑顔で見ている素敵な女性がいる。アンディはどこかで会ったことがあるような気がして彼女に声を掛けた。
「すみません。私のことご存知ですか? どこかでお会いしましたよね。」
「先生、お久しぶりです。ピラミッド発掘の時にお手伝いさせていただいたザフラです。」
「ああ、思い出しましたよ。カイロ大学考古学科のザフラさんだね。その節は色々と助けてもらってありがとう。こんな所でお会いできるなんて。今日はお一人なんですか?」
「ええ、友人と食事をしたんですが、その後少し飲みたくなって、一人で来ちゃいました。」
「それじゃあ、ご一緒させてもらってもいいかな?」
「どうぞ、どうぞ。私も少し話し相手が欲しかったんです。先生はまだクフ王のピラミッドに関わっていらっしゃるんですよね。」
「いやあ、実はね、最近はルクソール近辺の神殿遺跡の調査に没頭しているんだよ。エジプトの異民族統治時代との関係を調べたくてね。」
「奇遇ですね。私も今はそのままカイロ大学に残って学生に考古学を教える傍らエジプトの建造物がピラミッド中心から何故神殿中心に移行して行ったのか、その変遷を調べたいと思っていたんですよ。そこにはきっと異民族支配による影響があると思っています。」
「君も僕と同じ考古学の道に進んでくれたんだね。そして、僕と同じ視点で研究を進めているとは嬉しい限りだ。君の言う通りギザの三大ピラミッドにも河岸神殿などが付属してはいるが、主たる建造物はあくまでピラミッドだからね。主たる建造物が神殿中心になったのには、僕はアレクサンドロス大王の遠征で東西文化の融合が図られたヘレニズム世界におけるギリシャとユダヤの影響があると思っているんだ。でも、あの有名なギリシャのパルテノン神殿でさえ紀元前5世紀頃の建造なんだよね。それに比べるとイスラエルのソロモン王が創建したとされるエルサレム神殿は紀元前10世紀頃まで遡るんだ。ソロモン王の時代にイスラエルは栄華を極めたとされているが、周辺国とも王家との縁組により領土を拡張して行ったことが窺える。エジプトのファラオの娘を妃に迎えてエルサレム神殿に住まわせたとも言われている。だから、当時はエジプトも支配下に置いたんじゃないかと考えるのが自然だよね。特にユダヤ教と、原始キリスト教の前身になったと思われるコプト教の布教など宗教的な面で多大な影響を与えたんじゃないかと。その痕跡がエジプトのコプト教会に残されているんじゃないかと思っていてね。今日はコプト教会遺跡も残るデンデラのハトホル神殿を入念に調査したんだ。」
「エジプトとイスラエルは過去に戦争もしていて、あまり親しい関係ではないと思っていたんですが、実は信仰を通してつながっていたのかも知れませんね。」
「君もそう思うだろう。そして、今では話す人もほとんど居なくなったけど、ご存知の通りコプト教会では主要な言語としてコプト語が使われていたよね。そのコプト語なんだが、ヒエログリフの解読にも重要な役目を果たしたことは知ってるかな?」
「コプト語にそれほど詳しいわけじゃないけど、そう言えばロゼッタストーン( ※10 )の解読のきっかけになったと聞いたことがあるような気がするわ。」
「そうなんだよ。ヒエログリフはエジプトでも読み方が忘れられてから千五百年もの間謎に包まれていたが、ナポレオン一行がロゼッタストーンを発見したことで解読の道が開けたんだ。でも解読できたのはそれから二十年以上も経ってからだったんだよ。そんな難解なヒエログリフの解読で重要な糸口を見出したのは、イギリスのトマス・ヤングという物理学者なんだが、それをきっかけにフランスのジャン=フランソワ・シャンポリオンという学者が遂に解読に成功し『エジプト学の父』と呼ばれるようになったんだ。そして、その解読に一役買ったのがコプト語なんだなあ。ロゼッタストーンには、ヘレニズム世界のエジプトで王として君臨したギリシャ系のプトレマイオス朝5代目のプトレマイオス五世が政権衰退の兆候を挽回し民衆の支持を得るためにファラオとして即位式を行いメンフィス勅令が発布されたことなどが数々の賛辞と共に記されているんだが、そこに刻まれた碑文はヒエログリフと共にデモティックと呼ばれる民衆が使う速記体のエジプト古代文字、それにギリシャ文字を加えた3種類の文字で併記されている。最初デモティックがどんな言語かは不明で、ギリシャ文字とヒエログリフを比較しながら解読が進められていたがヒエログリフの絵文字はそれぞれの絵がその意味や概念を示すものだと捉えられて一向に解読が進まなかった。しかし、ヤングはその中にカルトゥーシュと呼ばれる楕円形で囲まれたヒエログリフがあることを見つけ、それが異国の固有名詞を意味しているとすると、その絵文字で名前の概念を記述するには無理があると思い、一つ一つが単に発音を表すアルファベットに相当すると仮定して、ギリシャ語( ラテン語 )の『PTOLEMAIOS』と絵文字が対応するんじゃないかと考えてみた。すると、P=□、T=半円、L=ライオンなど、文字数は完全には一致しないが、複数の同じ『プトレマイオス』の綴りの箇所とそれに対応すると仮定したヒエログリフの絵文字の並びの箇所が一致していることがわかったんだ。つまり、ヒエログリフは表音機能を有する象形文字だったんだ。それをきっかけに今度はコプト語にも詳しいシャンポリオンが他の多くのヒエログリフをコプト語と比較しながら解読を進め、文の終わりを示す象形文字や、異国の固有名詞以外もアルファベットと対応し、さらに、同音異義語や類似発音の語彙を語呂合わせでその概念も表していることなどを突き止めたんだ。例えば『アヒル』と『息子』のいずれもコプト語では『sa』と発音するからヒエログリフには息子を表現するのにアヒルの絵が記されている。でも、ヒエログリフはあくまで神官が使う言語で、いちいち絵で記述していたら大変だから一般の記述言語はそれを崩して筆記体にしたデモティックが用いられたようだ。」
「さすが、先生。その辺のこと詳しいんですね。でも、語呂合わせって意外と重要なんですね。」
「そうだね。でもまあ、これは本の受け売りだけどね。そんなわけで、明日、コプト博物館でナグ・ハマディ文書を見て、その後イスラエルにも行って、ナグ・ハマディ文書と共に原始キリスト教の起源ともいえるクムラン洞窟から見つかった死海文書もこの目に焼き付けて、日本に帰国しようかと思っているんだ。」
「先生、精力的に活動されているんですね。」
「先生のシンボルはクフ王かと思っていたのに、ソロモン王なんですね。」
「いやあ、そんなシンボリックなものを必要とする立場じゃないけど、エジプトとイスラエルの関係はソロモン王で繋がっていると思うんだ。しかしそうだなあ、僕がソロモン王キャラなら、君はさしずめシバの女王かな?」
「そうかしら、私のシンボルはハトホルよ。」
「なるほど、エジプトで最も人気の高い愛と美の女神だからね。でもね、僕はひょっとしてハトホルはシバの女王の母親じゃないかと思っているんだ。」
「どうして? シバの女王はエチオピアの人じゃないの?」
「ソロモン王はエジプトのファラオの娘を妃に迎えてエルサレム神殿に住まわせるんだ。同様にシバの女王とも結婚したという伝承が残っている。そこで、シバの女王が実はそのファラオの娘だと仮定すると、辻褄が合ってくるんだよな。ハトホル神はホルス神の母神とか配偶神とも言われている。母神ならソロモン王はホルス神として信仰されたということになるんだ。ラーやアメンが習合されてアメン・ラーとして信仰されるけど、ホルスも大ホルスとしてラー神と習合されているから、つまり、ソロモン王はエジプトの信仰に深く関わっていた可能性があるんだよ。」
「エジプトの信仰対象が実はイスラエルの王だったとしたら少し癪な気がするわね。」
「そうかなあ。世界中で多くの人々が信仰しているキリスト教だってそうだよ。祈りを捧げる時に『アーメン』って言うでしょ。でも、この言葉はアメン・ラーの『アメン』を暗示しているかも知れないよ。」
「先生、それも語呂合わせですよね。ちょっと不謹慎じゃない? ・・・ でも、ひょっとしたらそうなのかもね。」
二人は、顔を見合わせてクスッと笑った。
「じゃあ、僕は明日も早いからこの辺で失礼するよ。今日はとても楽しかったよ。」
「私もそうよ。それにとっても貴重なお話が聞けて勉強になったわ、先生ありがとう。また、エジプトにいらっしゃった時には声を掛けてくださいね。じゃあ、お元気で。」
アンディは部屋に戻ってシャワーを浴びるとそのまま寝入ってしまった。
気が付くとアンディは広大な砂漠の中を一人で彷徨っていた。喉がカラカラで太陽の日差しは容赦なく照り付け、暑さと喉の渇きで今にも倒れそうだ。それでも何とか歩き続けていると、遠くにヤシの木らしい緑の葉が見えた。朦朧としながらも何とかその近くまで辿り着くと、そこには夕日が水面を照らす泉が湧き木々が生い茂るオアシスが広がっている。すると、その一角に灯りが射す神殿らしい建物が見えた。アンディがそこまで行こうとすると、行く手を阻むように頑丈な塀が張り巡らされており、それを越えることは出来ないように見える。彼が塀の隙間から中を覗こうとすると、背後からいきなり衛兵に取り押さえられて中に連れていかれた。
「私は怪しいものではありません。エジプト考古学者の安藤と言う者で、ただ、砂漠を彷徨ってここに辿り着いたのです。少しばかりの水と休息を取らせていただけませんか?」
「ここは修道院だ。お前たちの来る所ではない。」
衛兵がそう言って追い返そうとすると、修道院長らしき老人が出て来て、衛兵を制した。
「あなたはソロモン王ではありませんか?どうしてこんな所までおいでになったのですか?それもおひとりで・・・。」
「この方をバシリカにお通ししなさい。」
「畏まりました。」
そう言われて衛兵はアンディを修道院の中に連れて行った。昔は厳かな神殿だったと思われるその修道院の屋根には丸い円の中に縦横同じ長さのコプト十字があしらわれたシンボルマークが掲げられている。
建物の中に入ると、50メートルはあるだろうか何本もの列柱が並ぶ通路が続き、その先に至聖所と思われる場所が見えた。そして、彼に十分な水と食べ物と葡萄酒が用意された。
アンディは用意された水を一口飲んでから、再度自分の素性を明かそうとした。
「こんなに歓待いただいて恐縮です。しかし、あなたは誤解されているようです。私はソロモン王なんかじゃありません。ただの考古学者で、安藤と言う者です。砂漠の中を彷徨っていたみたいです。」
「そうおっしゃるのは構いませんが、私が見る限りあなたはやっぱりソロモン王に違いありません。私共は、先日から外敵に襲われて多くの信者を連れ去られてしまいました。彼らは砂漠の処刑場で十字架に架けられて非業の死を遂げたのです。奴らの攻撃は幾度となく繰り返されてきました。私たちも武装して修道院を必死に守っているのですが、勝ち目がありません。どうかあなた様のお力をお貸しいただけませんでしょうか?」
アンディは困った顔をして訪ねた。
「私ごときがお力になれるとは思えませんが、何故外敵がこの修道院を襲ってくるのでしょう?何か心当たりはありませんか?」
「私にも襲われる理由がよくわからないのですが、もしかするとこの修道院のご神体を狙っているのかも知れません。」
「そのご神体とはイエスキリストの像とかですか?」
「いいえ、それは奥義なのですが、この際お話します。実は、黄金の十字架なのです。」
アンディはどうも夢を見ていたようだ。小鳥のさえずりで目を覚ました。しかし、夢とは思えないくらい鮮明な記憶が蘇って来た。夢が途中で途切れた安堵感とその後の展開への好奇心とが入り混じって彼は不思議な心持ちになった。
「自分はソロモン王で、私に黄金の十字架を守ってほしいという神からの啓示だろうか? いや、そんなはずはない。昨夜ザフラと飲んでソロモン王の話なんかしてたし、ホルスの神殿遺跡調査とコプト正教会が入り混じって、どうも私の脳みそが混乱をきたしたのかも知れないな。」
アンディは気を取り直してホテルのレストランで朝食を済ませると、身支度をしてコプト博物館に向かった。博物館は、周辺にコプト教会やエジプト国立文明博物館などが立ち並ぶオールド・カイロと呼ばれる地区にあり、ホテルから徒歩でも30分足らずで行くことができる。また、カイロ県の南部に位置しているため、ナイル川を挟んで川の西側に広がるあの三大ピラミッドや大スフィンクスで有名なギザ砂漠にも近い。
アンディは、ナグ・ハマディ パピルス古写本の展示を中心に博物館内を一通り観て廻り、脈々と継承されて来た古代エジプト文明が、コプト時代以降の近隣国との文化的融合と、それに伴いユダヤ教をベースとした原始キリスト教の発生と布教の歴史の一端を垣間見ることができたような気がした。
そして、アンディが搭乗した夕刻発のテルアビブ行き航空機はイスラエルに向けて飛び立ち、エジプトを後にした。
しかし、昨日来、彼はどうも誰かに尾行されているような気がしてならなかった。
テルアビブのベン・グリオン国際空港に到着し、入国手続きを行う傍ら辺りを見渡すと、しきりとこちらを覗っている男がいるのが見えた。アンディが厳しいセキュリティチェックを通過して入国できたのは1時間以上経ってからだった。宿泊予定のエルサレムのホテルまではホテルと共に予め予約しておいた空港送迎サービスを利用して1時間程で着いた。ホテルは、有名な嘆きの壁や神殿の丘などのある城壁に囲まれたエルサレム旧市街の西側にあり、死海西岸のクムラン遺跡にも程近いエルサレム地区東部エリアに位置する。アンディはチェックインして客室に入ってほっと一息ついた。移動中やホテル周辺でも幸い尾行らしき姿は見えなかった。
明くる日、ホテルで朝食を済ませた後、身支度してイスラエル博物館に向かう。このホテルからだと博物館にも徒歩で行ける距離だが、念のため安全を期してタクシーで行くことにした。
イスラエル博物館に着くと、早速、彼は死海文書が展示されている敷地内にある聖書館に向かった。この建物の屋根は白い玉葱の上半分だけ切り取ったような形をしているのだが、どうもクムラン洞窟で発見された死海文書の入っていた壺の蓋の形を模したものらしい。入口から地下に降りて行くと、薄暗い室内の中央と周りにおびただしい数の古写本の円形展示が浮かび上がっていた。縁がかなり朽ちてはいるものの、羊皮紙やパピルスに記された古代ヘブライ語と思しき文字がはっきりと読み取れる。人気漫画エヴァンゲリオンにも登場するいかにも古文書らしい遺物である。
アンディが確認したら、イスラエル博物館とグーグル社の共同プロジェクトで最初に発見されたいわゆる七つの巻物『イザヤ書』、『ハバクク書ペシェル( ※11 )』、『共同体憲章』、『戦いの巻物』などの文書の画像がネットで公開されており、中でもイザヤ書は英語に翻訳されているようだ。さらに、これはヨルダン国立博物館で所蔵しているものだが、宗教的文書とは一線を画す財宝の隠し場所に関する銅製の巻物もあるらしい。アンディは彼の歴史家仲間で古代ヘブライ語にも詳しい広田直人に連絡し、ネットに掲載されている死海文書巻物とヨルダン国立博物館の銅巻物の翻訳に協力して欲しいと頼んだ。アンディも以前に広田に頼まれて古代エジプトのヒエログリフに関する解読を手伝ったことがある。そんなこともあってか、彼は快く引き受けてくれた。
広田は、ネット掲載の死海文書の他に、以前から交流のあるヨルダン国立博物館の館長に頼んで例の死海文書の銅巻物の精細な画像を送ってもらうよう頼んだ。
「日本に帰ったら不慣れな聖書と格闘しなくては・・・。」
アンディは翌日の東京行き直行便の機内に居た。東京までは12時間を超える長旅である。機内食と少しのワインを食して、彼が仮眠を取ろうとして周りを見渡すと、近くの座席に座っている男に何となく見覚えがあるような気がした。それでも暫くは東京に帰ってからのことなどを思い巡らしていた時、ふと男の顔が思い出された。
「そうだ、エジプトからずっと尾行されていると感じていた男に違いない。」
彼は背筋が凍り付くのを感じた。気を取り直してそのまま眠ってしまおうとしたが、どうしても眠れなかった。
飛行機が東京上空に差し掛かったのは朝の8時頃だろうか。結局彼は一睡もできず成田で入国手続きを終えることになった。入国手続きを済ませると、成田エクスプレスに乗り込み東京の吉祥寺の自宅へ向かった。電車の中で彼は自分を付けて来る男の動機を色々と考えてみたが、思い当たる理由が見当たらなかった。
すると、駅を出て自宅に向かう彼の前にその男が俄かに立ちはだかったのだ。男は、彼に向かって何か大声で叫ぶと、鈍い銃声が辺りに響き、アンディはその場に倒れた。そして、人通りの無い通りを、男は走り去って行った。それから暫くして辺りに人の声がしたかと思うと、救急車のサイレンが鳴り響き、彼は病院に担ぎ込まれたのだった。
4.病室にて
ハルら外科チームは、拳銃に被弾して頭部外傷を負い救急搬送された意識不明の患者を手当している真最中だった。出血はかなりあったものの幸い弾は患者の頭蓋骨を貫通することなく、脳へのダメージはほとんど無かったようだ。手術が終わり、数時間すれば麻酔も切れてやがて彼の意識も戻るだろう。
ハルは、眠っているアンディの横顔をそっと見つめ、自分たちに委ねられた彼の復活を心の底から喜んだ。
「この人も神に生かされたのね。」
気が付くとアンディは、東都基督教大学総合病院の外科病棟の一室でベッドに横たわっていた。手術は無事成功し、彼は何とか一命を取り留めたのだった。
まだ痛む頭で、彼は何故自分が狙われたのか考えてみた。
「男が叫んだ言葉は朦朧としていてはっきりとは記憶していないが、どうも『WELL』という単語が聞こえたような気がする。『WELL』とは『良い?』と言ったのか。では何故私を狙う。待てよ、『WELL』には『井戸』という意味もあるぞ。そうか『DO NOT GO NEAR THE WELL! その井戸に近づくな!』と言ったのかも知れない。井戸と言えば・・・。」
アンディはエジプトでの出来事から順を追って井戸に遭遇することが無かったか思い返してみた。
「コム・オンボ神殿、ホルス神殿、カルナック神殿、ルクソール神殿、デンデラ神殿・・・。ナイル川の水位測定のために造られたナイロメーターなる井戸はあちこちにあるが、それを除くと・・・、そうだ、コム・オンボ神殿とデンデラのハトホル神殿に井戸があったことを覚えている。このいずれかのことではないだろうか! コム・オンボ神殿の井戸は神殿入口正面中央に位置しているから神殿に入るために避けては通れない。そうなると、残りのハトホル神殿ということか。そう言えばエジプトのカイロ辺りから付けられていたような気がする。カイロに移動する直前に最後に調査したのはデンデラ遺跡だから、そのハトホル神殿の井戸を指しているのだろうか?しかし、この井戸に近づくなとはいったいどういうことだろう。確かあの井戸の中は既に埋められて水など無い乾いた井戸だったように思う。」
そんなことをあれこれ考えていると、看護師が容体を観に来てくれた。
「気が付かれましたね。安藤さん、具合はいかがですか?」
「いやあ、まだ少し頭が痛みますが、意識ははっきりしていますよ。」
「とんだことで、大変でしたね。でも、頭蓋骨は貫通していないので、脳などに後遺症が残ることはないと思いますが、後で先生が回診に来られますので、詳しくはその時にお聞きいただくのがいいかと思います。警察からご家族の方にも連絡が入っているはずなので、じきにおいでになると思いますよ。」
「本当に助かりました。ありがとうございます。」
「いいえ、私たちにできることをやっただけですよ。安藤さんのお世話は私、井川が担当させていただきますので、何か困ったことなどあったら、遠慮せずに言ってくださいね。」
「ありがとうございます。警察の事情聴取とかはどうなりますかね。」
「安藤さんの意識が戻られたことは警察にも伝えますから、数日中に面会させてほしいとの連絡があると思います。」
「警察の近藤です。まだ、お怪我が治っていない状況で事情聴取させていただくのは恐縮ですが、30分程お時間をいただけますか?」
「わかりました。大丈夫ですよ。」
「あなたが倒れたのを最初に発見されたのは、現場近くにお住いの方で、買い物帰りに血まみれになって倒れているあなたを発見して救急車を呼んで、警察にも連絡いただきました。拳銃を撃った犯人に見覚えはありませんか?」
「犯人は私の知らない男でしたが、私がエジプトで遺跡調査をした後、カイロ辺りからどうも私を付けていたように思われます。イスラエルの博物館も経由して日本に帰って来たのですが、空港や飛行機の中などで何度も似た男を見かけて身辺には注意を払っていたのですが、日本に帰ってきてやられるとは思いませんでした。」
「その男の特徴など教えてもらえませんか?」
「そうですね、背格好は身長180センチメートルくらいの中肉中背で浅黒く彫りの深い外国人風の男だったと思います。サングラスをしていたので顔の詳細はわかりませんが、口の周りに髭を生やしていました。歳は30歳代くらいですかね。」
「海外から追いかけて来たとしたら、外国籍の男の可能性が高いですね。何か狙われるような理由に心当たりはありませんか?」
「いやあ、よくわかりませんが、私がエジプトのデンデラ遺跡を調査した後くらいから追われていたような気がします。そう言えば、撃たれる前に英語で『井戸に近づくな』みたいなことを叫んでいたような気がします。」
「あと、あなたが撃たれる前に、目撃者とかは周りにいませんでしたか?」
「いや、その時は通りには誰もいなかったと思います。」
「そうですか、ありがとうございました。発見して通報してくださった方は緒方さんという方です。連絡先は署のほうで記録していますので、お礼などされるのでしたら、署まで連絡ください。犯人はすでに海外逃亡した可能性が高いですが、お聞きした内容を基に指名手配を掛けますので、ご安心ください。それと、一応、身辺警護のためにしばらくは病院巡回をさせていただくようにします。」
「ありがとうございます。お手数おかけしますが、よろしくお願いします。」
ハルとミオはシフトが合って昼食を共にした。
「ハルの担当している患者さん、安藤襄治って言う人じゃない?」
「個人情報なので他言しないようにしてほしいけど、そうよ。それがどうしたの?」
「その人エジプト考古学の権威で、超有名な人よ。」
「へえー、そうなんだ。でも、ミオは何で知ってるの?」
「マナティがエジプトのファラオの財宝なんちゃらを調べてて、安藤さんの話をしてたから、聞いたことがあるの。」
「じゃあ、私も仲良くして、色々教えてもらわなきゃ。でも、例の『ソロモン王の黄金の十字架』の話は知らないよね?」
「そりゃそうでしょ。ソロモン王はイスラエルの人だからエジプト人じゃないしね。」
「そうなんだけどね。」
「安藤さんはエジプト考古学に詳しいんですよね。」
「井川さん、僕のこと知ってるの?」
「いや、友達に教えてもらったんですけど、先生はその筋では有名な方なんでしょ。」
「それほどでもないけどピラミッド遺跡については僕の右に出る人はいないかも知れないな。でも、今はちょっとテリトリーを広げてユダヤの遺跡を調べてるんですけどね。」
「ユダヤってイスラエルの遺跡ってことですか?」
「そうだよ。エジプトのナグ・ハマディやパレスチナのクムランという遺跡があってね。旧約聖書などユダヤ教の古文書が見つかっているんだけど。古代エジプトと古代イスラエルの繋がりが見えて来てね。それで、僕の専門を逸脱してイスラエルの遺跡も調査してるっていうわけさ。」
「そうなんですか?私こう見えてもクリスチャンなので、聖書には詳しいんですよ。もちろん旧約聖書についても。そう、モーセの出エジプト記以外にも、旧約聖書の創世記なんかにはエジプトとのつながりがあちこちに出てきますからね。」
「そうなんだ。奇遇だなあ。僕も日本に帰って聖書を調べなきゃって思っていたんだよ。そしたら、こんなことになっちゃったんで、しばらくはお預けだけどね。」
「そうなんですか、それじゃあ私の拙い蔵書でよろしければ持ってきますから、入院中に読まれてはいかがですか?」
「ありがとう、そりゃあ助かるね。」
「ところで先生、『ソロモン王の黄金の十字架』ってご存知ないですよね?」
「おい、待てよ。それに似た話を僕はエジプトのホテルで夢に見たんだよ。確か、僕が砂漠を彷徨っていたら神殿みたいな修道院を見つけて、そこの修道院長が僕をソロモン王だと言い張って、僕に力を貸してくれって言うんだよ。そしてね、そこのご神体が黄金の十字架だって言ったんだ。なんか不思議でしょ。その修道院の屋根には丸い円の中に縦横同じ長さの『コプト十字』のシンボルが入っていてね、僕が尾行され始める前に調査したデンデラ神殿遺跡にも同じ『コプト十字』のシンボルが掲げられたコプト教会の遺跡が同居していたんだよ。僕が狙われたのも何かその夢に絡んでいるような気がするんだ。」
「先生のその夢って何かのお告げなんじゃない?でも、丸い円の中に縦横同じ長さの十字って、カトリックやプロテスタント系のキリスト教とか、ユダヤ教のシンボルとは違っているわ。コプト教会もキリスト教なんですよね?」
「そうなんだよ。コプト教会とは今ではコンプト正教会と言ってエジプトを含む北アフリカにある東方正教会の一派なんだ。でも、君が言ったようにイスラエルとイスラム化する前のエジプトには深い関係がありそうだし、僕の想像ではパレスチナのクムラン辺りを中心にエジプトなどにも点在していた修道生活を送っていたユダヤ教エッセネ派などがユダヤ戦争でローマ帝国に壊滅的打撃を受けエジプトのナグ・ハマディ辺りに逃げ延びて布教したのがコプト教会の始まりじゃないかと思っているんだ。」
「なるほど、イスラエルとエジプトの宗教的つながりがあったということは私にも何となく理解できたわ。先生、でもね、私の知ってる『ソロモン王の黄金の十字架』の伝説は日本近海の海に眠っていて、その手掛かりとなる石板があるのは徳島の剣山辺りだって言われているのよ。まあ、よくある都市伝説ですけどね。」
「そうか、エジプトと日本じゃずいぶん離れているな。でも待てよ、僕はコプト十字のことが前から気になっていたんだが、ありゃ鹿児島の島津家の家紋とそっくりなんだよな。それに、以前からある話なんだが、『日ユ同祖論』というのがあって、日本の天皇家はユダヤの流れを汲んでいるって言われている。これも都市伝説のたぐいかも知れないけどね。」
「私もその話以前にどこかで聞いたことがあるような気がするわ。それに、鹿児島と言えば薩摩隼人でしょ。先生が調べてたエジプトの神殿に祀られているハヤブサを冠するホルス神と『隼=ハヤブサ』で共通するわね。遠く離れたエジプトやユダヤと日本がなんか段々近づいて来たような気がするわ。」
「そうだな。井川さんいいところに気が付いたね。それにね、死海文書の中には宗教とは一線を画す銅の巻物も見つかっていてね。死海文書のほとんどがイスラエル博物館に所蔵されているけど、こっちはヨルダン国立博物館に展示されているらしいんだが、それには財宝の在処が記されているらしい。日本とのつながりが隠されているかも知れないな。友人に古代イスラエルに詳しい人間がいるから、僕も退院したらそっちも調べてみるつもりだよ。」
「先生、また狙われないように気を付けてね。取り敢えず旧約聖書の『創世記』と『出エジプト記』は明日持ってきますね。」
「ありがとう。色々世話になるね。」
「いいえ、お役に立ててうれしいわ。じゃあ、次のラウンドあるからまたね。」
翌日、アンディの妻の寛実が着替えなどを持って面会に来た。
「あなた、やっと帰国したと思ったら早速こんなことになっちゃって。いつまで経っても心配が絶えない人ね。でも、無事でよかったわ。もう、物騒なことしないでよ。子供たちも心配してたんだから・・・。」
「おう、すまない。俺もこんなことになるとはまったく予想もしちゃいなかったよ。別に物騒なことしてた訳じゃないさ。ただ、エジプトの神殿遺跡を調べてただけだよ。」
「じゃあ、どうして狙われたりするの。」
「何故だろうね。犯人が捕まれば詳しいことがわかるだろうけど、もう国外逃亡してる可能性が高そうだから迷宮入りになるかもね。ただ、わかっていることは、俺がエジプトからイスラエルを介して日本に帰って来たルートをエジプトからずっと付けられていたってことさ。でも、結構な至近距離から拳銃で撃たれたけどこうして生きているということは、わざと急所を外したとすれば、俺に対する警告じゃないかと思っているんだ。」
「じゃあ、なおさらもうエジプトの遺跡には首を突っ込まないほうがいいんじゃない?」
「そういう訳にもいかないよ。俺はエジプト考古学者だからね。」
「わかったわ。じゃあ、好きにすれば・・・。でも、当分はエジプトには行かないと約束して!」
「わかったよ。行かないよ。」
そんなところへハルが容体を看に来てくれた。
「こんにちは、安藤さん。顔色が良さそうですね。奥様がいらっしゃってたんですね。」
「主人がお世話になっています。」
「いいえ、すっかりお元気になられて私たちも一安心です。安藤さんにはエジプトの面白い話などを色々と聞かせてもらっているんですよ。」
「えー、あなた、意識が戻ったと思ったら早速エジプト話ですか。」
「いや、井川さんがいい話し相手になってくれたからついついね。」
「安藤さん、昨日話してた聖書です。退院するまで持っていただいてて構いませんから。」
「井川さん、ありがとう。助かるよ。」
「あなた、今度はキリスト教に目覚めたのかしら。死に損なったものね。」
「いや、そうじゃなくて、エジプトとイスラエルの関係を調べたくてね。井川さんがクリスチャンなので旧約聖書も持っていると聞いてお願いしたのさ。エジプトとイスラエルはユダヤ教からのつながりがあるみたいなんだよ。」
「なーんだ、そうなの。でも、今回の件は、無事だったんだからやっぱり神様に感謝しなくちゃね。」
「そうだな。」
ハルが病室から出て行ってしばらくすると、寛実も病室を後にした。
それから数日後、アンディの友人の広田直人が見舞いに来てくれた。
「君が撃たれたという話を聞いてびっくりしたぞ。もう大丈夫なのかい。」
「ああ、まだ頭部が時々痛むけど、何とか持ち直しているようだ。」
「そりゃあよかった。犯人はまだ見つからないのかい?」
「先日も警察の事情聴取があったけど、もう国外逃亡してみつからないだろうって言ってたよ。」
「そうか、そりゃ災難だったな。」
「ところで、この前電話で頼んだ死海文書の翻訳の件、何とかなりそうかな?」
「実は僕の知り合いのヨルダン国立博物館の館長に頼んで銅巻物の精細な画像を送ってもらって今解読中だよ。ネット掲載の文書も数日中には解読できると思う。」
「それは助かるよ。忙しいのに悪いな。」
「それはそうと、君が言っていたコプト教会の十字のシンボルだが、ありゃあテンプル騎士団のシンボルとも酷似しているね。テンプル騎士団とは、中世ヨーロッパで活躍した修道生活を送っていた騎士集団で、いわゆる十字軍の象徴みたいな集団なんだが、正式名称は『キリストとソロモン神殿の貧しき戦友たち』と訳されるんだ。そのシンボルはキリスト教が広まったずっと後なのに縦横同じ長さの十字でイエスキリストが磔にされた十字架と違っていて、おまけにその名称がエルサレムのソロモン神殿に由来するんだよ。僕の想像だが、ソロモン王に由来する十字は縦横同じ長さの正十字で、ローマ帝国に受け入れられた十字はユダヤ戦争でローマ帝国に滅ぼされたイエスキリストが磔にされた十字架を象徴する縦長の長十字になったとは考えられないだろうか?」
「なるほどね。勝者のローマ帝国は、滅ぼされたユダヤの犠牲者を象徴する十字架の宗教だから布教を許したということが実情かも知れないね。でも、その犠牲があったことでイエスキリストの愛がキリスト教として世界中に広まったのも事実だけどね。」
「確かにそうなんだけど、赤十字やその母体となったスイスの国旗は正十字をシンボルにしているよね? 赤十字はスイスのアンリー・デュナンという人が戦争で傷ついた人々を観かねて敵味方に関わらず負傷した人々を救う必要があるとして設立を提唱したらしいが、それが発展して今では国際法に守られて戦場でも赤十字のマークを掲げる所への攻撃は禁止されている。いわば人命尊重と平和中立のシンボルかも知れない。」
「ソロモン王の正十字も実はそのような人命尊重と平和中立を希求したものだったのかも知れないな。」
【十字シンボル比較】
コプト教会、テンプル騎士団 のシンボル 正十字
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スイス国旗、赤十字 のシンボル 正十字
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キリスト教 のシンボル 十字架の長十字
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島津家の家紋 正十字
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5.碧は愛より出でて青よりも深く
皆さんはギリシャ神話に登場するエパポスという人物をご存知だろうか?
彼は、オリュンポス十二神の長で天空を司る最高神ゼウスとその恋人イーオーとの間に生まれ、エジプトを治めた王とされる。イーオーは、ゼウスの本妻であるヘーラーによって牝牛に姿を変えられてギリシャから各地を転々と彷徨った末に遂に安住の地エジプトに辿り着きこのエパポスを産み落とすのである。
つまり、この話はギリシャ神話に留まらずエジプト神話にも関わってくると考えたほうがよさそうである。そうすると、エジプトと隣接するパレスチナにも関係するのではないだろうか。そういうわけで、この物語はギリシャ神話とエジプト神話および旧約聖書に跨って古代史と照らし合わせながら推論した以下の系譜仮説に基づき進行して行くことをご容赦いただきたい。
【ギリシャ エジプト神話 旧約聖書系譜仮説】
『△ラー /
△ラムセス11世 』―┐
┌――――――――――┘
|┌『△オシリス /
|| △ポティフェラ /
|| △パネジェム1世( アメン大司祭 ) 』
|| |
|| |『◇エパポス /
|| | ◇ポセイドン /
|| | △ホルス /
|| | △セベク /
|| | △プスセンネス1世 /
|| | ☆ソロモン /
|| | ☆ヨセフ( イーオー ) 』
|| | |
|| | ├『◇アンドロメダ /
|| | | ☆マナセ 』
|| | |
|| | ├『△アメンエムオペト /
|| | | ☆レハブアム
|| | | ☆エフライム 』
|| | |
|| ├『◇カシオペア /
|| | △メンフィス /
|| | △ムトネジェメト /
|| | ☆シバの女王 /
|| | ☆アスナス( アセナト ) 』
|: |
└-『◇イーオー /
: △ハトホル /
: △( イシス ) /
: △( ネイト ) / 』
| |
| | 『△ネフティス 』
| | |
| | ├『△アヌビス 』
| | |
└『△セト 』
※名前の出所
◇:ギリシャ神話
△:エジプト神話
☆:旧約聖書
エジプト神話にも牝牛の角を冠する愛と美の女神ハトホルという神が登場する。この女神の名『ハトホル』の『ホル』とは『ホルス』に由来し、ハヤブサを冠するエジプトの天空神ホルスの母神とも配偶神とも言われ、太陽神ラーを父に持つとされている。しかし、実はイーオーがエジプトファラオの妻ハトホルでエパポスがハトホルの子ホルスとすればギリシャ神話の母子であるイーオーとエパポスの関係がエジプト神話のハトホルとホルスの関係に重なって来るのである。ホルス神を祀るエドフのホルス神殿とそのナイル川下流に位置するデンデラのハトホル神を祀るハトホル神殿との間を、毎年船でホルス神を詣でる祭りが催されるらしい。
また、エジプト神話には豊穣の女神イシスも登場する。この神もホルスの母神で大地の神ゲブを父に持ち、冥界の王オシリスの配偶神とされるが、新王国時代第18王朝のトトメス2世の后はハトホルと類似する名のハトシェプストで側室にイシスという名が見える。トトメス2世の死後ハトシェプストが女王となり側室イシスの子トトメス3世を補佐して共同統治を行ったことなどにより、トトメス3世もハトホルとイシスの両方を母に持つホルス神に例えられたとすれば、イーオー=ハトホル≒イシスという関係が見えて来る。これはイシスが牝牛を冠する姿で描かれたりする場合があることでも裏付けられる。
オシリスは、兄弟神で戦争の神セトに殺されるが、それを甥のホルスが敵討ちするというストーリーが神話には記されている。セト神は葬祭の女神ネフティスとの間に冥界の神アヌビス、戦いや水の女神ネイトとの間にワニを神格化したセベク神を生んだとされている。
一方、オシリス、イシス、セト、ネフティスは兄弟姉妹と伝わるが、そのままに解釈すると神々のこととは言え近親相姦にあたるため、オシリスとイシス、セトとネフティスの各々は夫婦なので義理の兄弟姉妹になると解釈し、イシスの別名をネイト( ナイル川に由来するとすれば豊穣のイシスと水のネイトがつながり、オシリスの死後セトの妃に迎えられたとすればセトの配偶神という立場から戦いのネイトとなる )とすればイーオー=ハトホル≒イシス=ネイトで、オシリスの子ホルスはセトの甥であると同時にネイトを介して義理の息子にもなるので、セトの息子とされるセベクと同一神と捉えても辻褄が合う。これはコム・オンボ神殿が左右対称で向かって左側にはハヤブサに象徴されるホルス神、右側にはワニに象徴されるセベク神が祀られている独特な二重神殿であるということでも裏付けられる。
そして、ハトホル・イシスと、ラー・オシリス・セト・ホルスの関係がオシリスやセトの死などを経て未亡人となった王妃たちが妃に迎えられ関係が変化したとすれば神話上のこのような経緯と、信仰上ではアメンが太陽神ラーと習合してアメン・ラー、ホルスがラーと習合して大ホルス( オシリスの子とされる場合は小ホルス )になったことなどの理由により、伝承の揺らぎが発生したものと考えられる。
次に、もう一度ギリシャ神話に目を移すと、エパポスはナイル川の河神ネイロスの娘メンフィス( 別名カシオペア )との間に二人の子をもうけたとされ、妻の名に因んでエジプトの都市メンフィスを創建したとされる。しかし、厳密には古王国の時代からメンフィスに相当する都市が存在していたことを裏付ける遺跡も出土しているため、ここでは従来からあった都市をメンフィスと改名し、ナイル川を介して他国との交易も可能となるような主要貿易港( ヘレニズム以降はその主要な座をアレクサンドリアに譲ることになるが )として再開発したと捉える。また、河神ネイロスを水の神という属性を併せ持つネイトと同一神とすると、メンフィスは、前述のイーオー=ハトホル≒イシス=ネイトの娘ということになり、前述のエパポス=ホルスがイーオー=ハトホルの実の息子ならばメンフィス( 別名カシオペア )との関係も近親相姦ということになる。そこで、エパポス=ホルスを義理の息子と仮定するとこの問題も解決する。
ここで疑問として残るのは、イーオーの彷徨の話であるが、ユダヤ民族に象徴される放浪の歴史と共に、以下に示す旧約聖書創世記に登場する奴隷として売られ彷徨ってエジプトに辿り着き身を立てたヨセフをエパポス=ホルスと同一人物と仮定することで違和感が無くなる。
そして、このヨセフが古代イスラエルの栄華を極めたソロモン王を創世記神話で象徴的に表現しているとしたら、エパポス=ホルス=ヨセフ=ソロモンという関係が見えて来る。
しかしながら、ユダヤ史におけるダビデ王とソロモン王の実年代を操作すると歴史の正当性が揺らぐのでそれは変更されていないと筆者は想定している。その代わり、明確な年代が記されていない旧約聖書の神話におけるヤコブとヨセフをダビデ王とソロモン王の関係に重ね合わせ象徴的に描いて、その年齢と活動年代を操作することで、エジプトファラオのヒエログリフで刻まれた碑文年代記録と、イスラエル王の活動年代を分離させつつ、その整合性を持たせたのではないかと解釈し、それを踏まえた仮説と関連文献による検証を行い一定の妥当性を見出した( ※12 )。
そして、旧約聖書列王記上9章にはソロモン王が船団を編成したことなども記されており、ソロモン王の治世にはメンフィスの港を拠点にナイル川と地中海、紅海などを介して他国との交易を拡大発展させ莫大な富を得たことが窺えるので、ギリシャ神話に登場する海神ポセイドンに准えられたとしても不思議ではない。ファラオの装飾にも使われたラピスラズリの深い碧は、紺碧の海と空をイメージさせる。
この物語は、そのような仮説が織り成すファンタジーとして再び時空を超えて進行して行く。
ソロモン王率いる船団は、地中海に漕ぎ出しギリシャ、アナトリア、レバノンなどとの交易を、紅海に漕ぎ出しエチオピア、ペルシア、インドなどと交易を行って、莫大な財宝を蓄えて行ったのだ。そして、それはシルクロード海の道につながって行く。しかし、ソロモンの死後、イスラエルの民は12支族に分裂すると、アッシリア、そして、新バビロニアの攻撃に晒され離散し、東に向かった。ある者たちは羊の民となり、ある者たちは海の民となった。バビロン捕囚から帰還した者たちはエルサレム神殿を再建し、ヤハウェの教えを広め、ローマ帝国支配による苦難の時代を経てキリスト教に昇華させた。
ところが、彼らの苦難とさすらいは、一見すると相反するものと捉えられがちな愛と富の両方を育み、そのいずれもが互いに結び合って世界に広がって行ったのだ。しかし、世界中に広がるに連れその本質は次第に見失われて、人類を救う愛と富の絆は切り離され紺碧の海に深く深く沈んで眠ってしまった。
二人の定例会の最中にポツリとミオが呟いた。
「ハルは愛と富とは両立できると思う?」
「それは私にもわからないわ。でも、キリストが言ったように『人はパンのみにて生きるにあらず』ってことだと思うし、だけどパン無しじゃ生きられないし。それをみんなが両立させることを求められているんじゃないかしら。ミオが前に教えてくれた私の担当の安藤さんっていう患者さんが話してたんだけど、ユダヤの修道生活を送っていた宗派に関係がありそうな死海文書が発見されたパレスチナのクムラン遺跡からは、原始キリスト教につながる宗教文書の他に財宝の隠し場所に関する文書も見つかっているの。生身の人間なんだから愛だけでも長続きはしないし、富だけを求めても空しいし、要するに調和やバランスが大事だってことじゃない?」
「そうだよね。お金も大事だけど愛とのバランスを取らなきゃダメだよね。マナティのやつ、最近頭の中は財宝のことばっかり。私のことなんか忘れちゃってそうなんだよね。」
「ミオそんなことないよ。千葉君だってミオがいるっていう安心感があるから宝探しに没頭してるわけでしょ?君はそんな女神みたいな存在なんじゃないの?」
「そうかなあ。でも、私の誕生日には必ず何かしらのプレゼントをくれるから、まあ、良しとするか。」
ある時、アンディがハルに言った。
「君から借りた創世記を読んでいて思ったんだが、ヨセフはエジプトの統治者となったのに、エジプトの歴史には明確な記述が無いんだ。そして、イスラエルの歴史と旧約聖書もうまくリンクしないんだなあ。ヨセフは亡くなった後ミイラにされたと記されているんだが、そのように丁重な埋葬処理が施されるのはファラオなどの重要な地位に居た人だからエジプトの歴史に刻まれていてもいいはずなんだが、明確な記述が見当たらないんだよ。エジプトの異民族支配が及んだのは第2中間期のヒクソスと呼ばれる異民族の第15王朝と、第3中間期のアメン神官団と呼ばれるファラオの権力を凌ぐ神官が権力を持った第21王朝の時代辺りなんだが、ヒエログリフにも明確な記述が見当たらないんだよ。架空の人物という可能性もあるが、それなら旧約聖書にわざわざエジプトでミイラになったことなんか書く必要はないよね。僕はエジプトの歴史から隠されているような気がするんだ。きっとヨセフとソロモンは同一人物だと思うね。」
「ヨセフとソロモンを同一視するなんて、先生の推理も大胆ね。でも、二人の境遇はあまりにも違って見えるけど。ダビデとソロモンはイスラエルの王の中でも周辺国に絶大な影響力を及ぼした人でしょ。ヨセフは兄弟たちに迫害されて奴隷として売り飛ばされ、エジプトでパロに事あるごとに的確な助言を与えて寵愛されパロ以上の地位に上り詰めるのよ。そして、パレスチナで飢饉に遭い苦境に喘いでいたヤコブや兄弟たちをエジプトに呼び寄せて豪華な食事を振る舞うと、兄弟たちは過去に犯した罪を詫び、ヨセフも涙するというストーリーが記されているわ。だけどソロモンは莫大な富を築いてエルサレム神殿を建てたり、シバの女王との謎かけ問答や、思慮深い公平な裁判を行ったことなど、イスラエルの全盛期を治めた知恵者ソロモン王という姿が思い浮かぶので同じ人とは思えないわ。」
「確かに君が言うように旧約聖書や伝承は二人の異なる面を映し出しているから一見別人に見えるけど、考えてもご覧よ。イスラエルから見てエジプトの先に位置するエチオピアの人と伝わるシバの女王がわざわざソロモンに謁見しに来るっていうことは、イスラエルだけでなく途中のエジプトも彼の支配下にあったと思わないか? それにシバの女王はソロモンと結婚したという逸話もあるようだしね。パロとはファラオのことなんだが、シバの女王とは実はエジプトのファラオの娘だとすれば、エルサレム神殿にエジプト人王妃の王宮を設けたという逸話もあるくらいだから、ソロモン王の時代にはエジプトとの関係は深かったと思うよ。それに第3中間期のアメン神官団とは実はソロモン王が築いた勢力だとすると、紀元前970年頃だから年代的にも辻褄が合うし、語呂合わせで失礼かも知れないがユダヤの流れを汲むキリスト教で『アーメン』と唱えるのも理に適っている。エレミヤ書にはパロを否定する内容が書かれているようだが、それはソロモンが異教を崇拝し悪霊を支配して堕落したなどという悪評が散見されるのと似ている気がする。」
「そうなんだ。確かにエジプトの人々にとって自分たちがイスラエルの勢力に支配された時代があったとしても、それを殊更に歴史として伝えたくはないかも知れませんね。そう言えば先生は夢でソロモン王と呼ばれたのよね。」
「そうなんだよ。夢のことは忘れかけていたけど、君からソロモン王の黄金の十字架の話を聞いて、僕も一役買わなきゃならないなと思いだしたよ。」
「私の友達でその黄金の十字架を追い求めている人がいるの。それじゃあ、先生、退院したら一度会ってもらえませんか?」
「構わないよ、僕でお役に立てるんだったら。」
「ありがとう。じゃあ、早速向こうにも話しておくね。友達はこの病院の同僚で立花美緒さんって言うんだけど、彼女の彼氏がトレジャーハンターのユーチューバーなの。先生に会えたら、きっと二人とも驚いて腰抜かすかもね。先生、ほんとうにありがとうね。」
ハルはそう言い残して病室を離れた。
アンディが救急搬送されてから1か月が過ぎ、木の葉が色付き始めた頃、いよいよ退院の日が訪れた。
「井川さん、色々とお世話になったね。これ、借りていた聖書。本当にありがとう。また会える機会があったら嬉しいな。」
「こちらこそ、先生から色々教えていただいて、視野が広がったような気がします。この前お話したように、トレジャーハンターのお誘いがあると思うので、その時はお願いしますね。これ私の連絡先です。」
「おう、そうかそうだったな。僕も連絡先教えとかなきゃな。何かあったらここまで連絡ちょうだい。」
「ありがとうございます。そして、これ退院のお祝いのお花です。お家に飾ってくださいね。」
「花束までありがとう。寛実、これリビングに飾ってもらえるかな?」
「あなたの寿命が延びたことを記念して、飾った後にドライフラワーにしてせいぜい長持ちさせてあげるわよ。」
「ありがとうよ。でも、そう枯れてまで長生きしなくてもいいけどね。」
アンディは二人の顔を見ながら苦笑した。
妻の寛実が車で迎えに来ていて、アンディたちはこれまでお世話になった病室の片づけを行い、中山医師とハルを始め多くの病院関係者に謝意と別れを告げて東都基督教大学総合病院を後にした。
6.黄金の国ジパング
日本はかつて黄金の国ジパングと呼ばれていた。それは、13世紀頃のイタリア人マルコ・ポーロが記した東方見聞録の記述に由来するようだが、かつて、日本では砂金が多く採れ平泉の中尊寺金色堂などがその黄金のモデルになったらしい。しかし、当のマルコ・ポーロ自身は日本には寄港していないようで、中国での見聞によるものとされている。では、何故中国には日本のそのような情報が流布したのだろうか。大昔、日本の西域との貿易ルートは、日本海を渡り朝鮮半島を経由してアジア大陸を縦断するルートと、東シナ海を渡り直接中国に上陸してアジア大陸を縦断するルート、そして、東南アジアからインドの海岸を寄港しながら一路船で航海するルートの概ね3つのルートがあったようだ。それぞれはシルクロードの草原の道、オアシスの道、海の道などと呼ばれる。そして、マルコの日本に関する情報入手元は、中国福建省辺りの可能性が高そうだ。福建省は台湾の対岸に当たり、当時は泉州や厦門付近の港から台湾や沖縄奄美などの南西諸島を経由して日本の南九州や関西方面に到達するルートが一般的な日宋貿易のルートであったと思われる。そして、厦門は一般的に『アモイ』と呼ばれるが、中国では『シアメン』と呼ばれるらしい。ところが、『シアメン』とは、エジプトの第3中間期のアメン神官団と共同統治した第21王朝の黄金のマスクで紹介したプスセンネス1世とその子アメンエムオプトの後に登場するファラオ『シアメン』と符合する。そして、エジプトのコプト正教会の創設に関わったと思われる『マルコ』と、新約聖書に記された『マルコによる福音書』の『マルコ』、そしてマルコ・ポーロの『マルコ』も符号するのである。マルコ・ポーロはイタリアベネチアの商人の息子とされているが実在の人物かどうかは不明であり、これらの情報は何らかの神の摂理に委ねられていると考えられないだろうか。そして、ギリシャ神話の『ポセイドン』は『海神』であり、中国や朝鮮半島との海上輸送を担っていたと思われる日本の『海神』と符合するのである。
アンディは、赤く色付いた枯葉がひらひらと舞い散る舗道を踏みしめながら暫く歩き、とあるカフェの扉をゆっくりと開いた。すると、奥のテーブルに座っているハルが目に入った。
「井川さん、早かったね。」
「安藤さん、すみません。退院して間もないのに、お付き合いいただいてありがとうございます。紹介しますね。こちらがいつも私の相談相手になってくれている親友の立花美緒さん、そして、隣の男性は彼女のお友達でトレジャーハンターの千葉学さんです。」
「ああ、初めまして。エジプト考古学者の安藤です。」
「わあ、本当に安藤先生だ。千葉と言います。お会いできて光栄です。」
「立花です。ハルはもとより多くのメディアで兼々先生のお噂はうかがっております。」
「実は僕たちソロモン王の黄金の十字架が日本近海に眠っていると聞いて、その在処を探しているんです。」
「その話は井川さんにも少し聞いたけど、それが何故日本近海なのか、僕には皆目見当が付かないんだよね。僕も実はエジプトとつながりの深いイスラエルの遺跡にも拡大調査をしていたんだが、その矢先に狙われて1か月以上も井川さんにお世話になることになったわけだけどね。どうも、エジプトの遺跡とイスラエルの遺跡に何かつながりがあって、その調査を妨害する勢力が居るのかも知れない。君たちもご存知の通りエルサレムは昔から多くの宗教の聖地になっているから、その周辺では宗教絡みの争いが絶えないんだ。」
「僕たちも何故イスラエルの王であるソロモン王ゆかりの宝が日本近海に眠っているのかはよくわかりません。ただ、日ユ同祖論というのがあって、イスラエルの12支族の一派が昔の日本に辿り着き、それが天皇家の血統につながっているんじゃないかという伝承があるようです。」
「僕もその話は聞いたことがあってね、その経緯も含めてユダヤの歴史に詳しい僕の友人の広田っていう男に調査を手伝ってもらっているんだ。パレスチナのクムラン洞窟の遺跡には、ユダヤ教に関する古文書の他に財宝の隠し場所に関する古文書も見つかっているんだが、その古文書の内容にはどうも、財宝の隠し場所と目録が古代ヘブライ文字で『コーリットの乾いた井戸にある』と記されているらしい。『コーリット』とはどこか不明なんだが、もし、それが未来を予測して現代世界に普及している英語の発音に近いものと重ね合わされているとしたら『コリドー』つまり、回廊にある乾いた井戸だとすると、僕が付け狙われる少し前に調査したエジプトにあるデンデラのハトホル神殿奥にある井戸と関係があるんじゃないかと思っている。その井戸はハトホル神殿から外に通じる回廊の先にあるんだ。そして、それは土砂で埋まっていて乾いていた。もし、それがそのコーリットの井戸だとしたら、ソロモン王の黄金の十字架に関する情報に関してもそこに何らかの手掛かりがあるような気がする。それに、その遺跡にはコプト教会の遺跡も同居していてね、ユダヤ教と原始キリスト教の流れを汲むエジプトを含む北アフリカを中心に信仰されているコプト正教会とは関係が深そうなんだよ。デンデラの近くでも、クムランの死海文書と関係が深いと思われるやはり原始キリスト教につながりが深いナグ・ハマディ文書が発見されている。原始キリスト教を標榜して修道生活を送っていた一派がユダヤ戦争でユダヤ教の殿堂であったエルサレム神殿やクムラン洞窟を含む拠点で壊滅的な敗北を喫した時、エジプトに逃れたのではないかと考えている。あくまで仮説だがね。」
「ユダヤ教などの宗教云々は僕にはよくわかりませんが、先生、その『コリドーの井戸』って凄くないですか。僕すぐにエジプトに飛んで、その井戸を掘ってみますよ。」
「千葉君、何言ってるんだ。第一そんなことエジプト政府が許すはずはないし、君も僕を狙った妨害勢力に付け狙われることになるぞ。僕を撃った男は『その井戸に近づくな!』みたいなことを英語で口走っていたような気がするんだよ。」
「そうなんですか。『虎穴に入らずんば虎子を得ず』なんですけどね。やるからには命懸けってことですね。」
「マナティやめてよ。あなた常軌を逸しているわ。殺されるかもしれないのよ。」
「そうなんだよな。もし、命懸けでうまく掘り出せても、関係ない情報しかないかも知れないしな。」
「ところでギリシャ神話の『黄金の林檎』の話を知ってるかい? 百の頭を持つ竜とニンフたちが守るヘスペルデスの園にあるという、食べると不死が得られる黄金の林檎を取ってくるようにと命じられたヘラクレスが、天空を支える任務を担っていた巨人アトラスにその任務を代わってやるので黄金の林檎を取ってきてほしいと頼んで見事にその任務を成し遂げるという話なんだが、僕らがヘラクレスになって井戸の発掘を頼んでみてはどうだろう? アトラスは差し詰めエジプト政府辺りだろうか。もし、期待する古文書が見つかったら、エジプト政府にとっても、僕らにとってもこんな大きな収穫はないと思わないか?」
「ヘラクレスって怪力の持ち主ですよね? それなのに何で自分がやらないで他の人に頼んじゃったの? 何か卑怯じゃないですか? 僕なら自分でやるけどな。」
「誰だって自分にできないことはあるもんだよ。あのヘラクレスでさえ黄金の林檎の在処やどうすれば取って来れるかなどまったくわからなかったんだよ。むしろ怪力の持ち主でさえ目的を達成するために一歩引いて他の人に頼んだんだ。これは決して卑怯とか臆病なことじゃないんだ。君が困難なことに出遭って、それを成し遂げようと思ったら、まず自分にできるかを自問自答しなきゃいけない。少しでもできないと思ったら、他の協力を仰ぐことだ。若気の至りでやってみて考えようなどと安易に無謀な計画を立てちゃだめだ。その付けは自分だけでは済まない。周りのみんなを不幸にするからね。絶対大丈夫と思って実行しても、それでも多少の問題は発生するもんなんだよ。失敗を恐れちゃいけないが、それは先を見越して十分練った計画を立てて初めて言えることさ。」
「そうかあ。何となく先生の言ってることがわかったような気がするよ。ところで、エジプト政府に頼むなんてことはできるの?」
「エジプトにはピラミッド発掘で協力してもらったシャヒーン博士を始め多くの友人がいるから、彼らに頼んでみようかと思っている。それにはデンデラの井戸とソロモン王と日本との関係性を彼らに納得させるための十分な仮説と根拠が必要だがね。そこで、君に頼みたいんだが、日本とソロモン王の関係性を十分調べてもらいたいんだ。日ユ同祖論だけでは根拠が薄いからね。僕の勘では鹿児島の島津と薩摩隼人が関係していると思うんだ。島津の家紋の正十字とソロモンに由来すると思われるコプト正教会およびテンプル騎士団のシンボルの正十字、薩摩隼人のハヤブサとハヤブサを冠するエジプトの天空神ホルス、そして、徳島剣山のソロモン王の秘宝伝説などがそうだ。」
「わかりました。僕の知り合いで古代史に詳しい小出という人物がいるので、その辺もあたって調べてみます。」
「よろしく頼む。」
マナティは翌日、先輩の小出に連絡を取り、特に鹿児島から徳島辺りに関する日本の古代史について教えを請うた。
彼の話では、柳田国男が書き記した『海上の道』にもある通り、古代から中国福建省辺りを大陸への窓口として対岸の台湾と八重山・先島諸島、沖縄諸島、奄美諸島などを経由して南九州や四国、関西への海上輸送航路があったようだ。そのルートでは粟などの五穀や絹、陶磁器などの交易が行われ、後にシルクロード海の道や中国大陸を縦断するオアシスの道・草原の道として遠くは西洋辺りまでつながって行ったらしい。そして、主要な輸送品でもあった粟や絹などは、沖縄の酒の名 泡盛として、沖縄の粟国島、四国徳島の阿波国、関西の淡路島などの地名として、沖縄久米島の久米島紬、奄美大島の大島紬などの絹織物の名産品として、その名を留めているとのことであった。
また、沖縄の古文書『琉球国由来記』、『おもろさうし』などに登場するアマミキヨやニライ・カナイと呼ばれる沖縄の祖霊神として関係の深い神様は南九州を本拠地にしていたのではないかとの説を支持しており、南西諸島と鹿児島や宮崎、徳島などとの古くからのつながりがあったことは十分考えられるらしい。記紀( 古事記・日本書紀 )には、孝昭天皇の長男の天足彦国押人命( 古事記では天押帯日子 )が和珥氏の始祖と記されており、大綿津見神や安曇氏の系統である海神( わだつみ )の流れを汲んでいるようである。そして、宮崎県日南市の北西に鰐塚山という山があり、『帯』を『おび』と読めば同じ日南市には飫肥という地名もあり、この辺りが和珥氏の本拠地ではないかとのことであった。
さらに、四国は古事記によると伊豫二名島と呼ばれ、徳島は阿波の他にもう一つの名である大宜都比賣と名付けられていて、沖縄にも『宜』の付く地名が宜野湾市・大宜味村・宜野座村など多数あり、その先の台湾にも宜蘭という地名があるから、海の道でのつながりを暗示しているように思えるし、伊豫の『豫』とは予言を意味し、『伊』をイスラエルとすると、ユダヤとのつながりが窺え、徳島剣山のソロモンの秘宝伝説もまんざら根拠のない話ではないと励ましの言葉をもらった。
マナティは、小出に礼を言って早速これらの情報をeメールでアンディに送った。すると、アンディからすぐに電話があり、二人の話は大いに盛り上がったのだった。
「千葉君、君の情報はすごいぞ! 実は、エジプトのコム・オンボ神殿に祀られているのは『ハヤブサ』と共に『ワニ』なんだよ。ハヤブサはエジプトのホルス神のシンボルであると同時に薩摩隼人に通じるし、ワニもエジプトのセベク神のシンボルであると同時に和珥氏に通じるわけだ。そして、粟や絹などの特産品によって鹿児島や宮崎や四国が海の道として繋がっていたとはね。ひょっとすると、これらの海上輸送を担っていた海神は、海神とされるギリシャ神話のポセイドンとも何らかのつながりがあるかも知れないな。」
「そうなんですね。なんか僕らはすごい発見をしたのかも知れませんよね。」
「そうだな。あくまで状況証拠ではあるが、エジプトの考古学者仲間にこの事実を伝えれば彼らもハトホル神殿の井戸調査に協力してもらえるかも知れないな。早速情報を整理して頼んでみるよ。」
「本当ですか。ありがとうございます。なんかワクワクして来ますね。よろしくお願いします。」
そんな会話の数日後、アンディはエジプトのシャヒーン博士に一通のeメールを送り、電話でも依頼したのだった。その内容には、エジプトとイスラエル、および、日本との関係を裏付ける客観的史実と共に、それがもとでアンディが殺されそうになったことなども踏まえ、十分な安全警護を行った上で調査いただきたいとの断り書きも添えられていた。
そして、博士も大いに興味を示してくれて、エジプト政府当局と交渉してみるとのことであった。
エジプトのハトホル神殿の井戸発掘調査が始まったのは、それから3か月程経った日本では桜が咲き始めた頃である。
発掘調査は、井戸の周りを厳重に囲ってセキュリティを確保し慎重に進められて行った。それから数週間が経った頃だろうか、周りを金属で覆った一つの箱が見つかった。それは銀の装飾が施された30~40cm四方のチェストのようなものだった。慎重に掘り出されて、蓋が開けられると、中には黄金に輝く一つの盾が収まっていた。そして、その盾にはコプト教会と同じ正十字のシンボルが・・・。
「こ、これは、伝説のソロモンの金の盾ではないだろうか?」
シャヒーン博士は、それを画像データに収めて早速アンディに一報として伝えたのだった。
「博士、これは確かに伝説にもあるソロモンの金の盾の一つではないかと思われます。この時にすでに正十字が使われていたのですね。エルサレム神殿の宝物は悉く奪い去られたと伝わっていますが、このように免れてひっそりとエジプトのコプト教会の方隅に眠っていたとは・・・。そして、それが後々テンプル騎士団のシンボルにもなったと考えられませんか?『ソロモン王の黄金の十字架』とは実はこのことを意味しているのかも知れませんね。」
「そういうことですか。それなら納得できますね。それに盾の裏側には刻印文字がありましてね。『SWORT TINPL』と記されていました。」
「それは『SWORD TEMPLE』つまり徳島剣山の劔神社を指しているのかも知れません。私たちも並行して日本での調査を進めたいと思います。」
アンディはその情報を早速マナティに伝えた。
「それ、本当ですか? 凄くないですか? でも、僕は『ソロモン王の黄金の十字架』は別にあると信じています。即刻劔神社の調査に行かせてください。」
「千葉君、そんなに早まるな。神社と言っても敷地面積が相当あるから、どこを調べるか入念に事前調査が必要だ。」
「確かに先生のおっしゃる通りですね。僕が前にネットで調べた限りでは、剣山には複数の劔神社が存在し、その中でも本宮の劔山本宮劔神社と頂上付近に鎮座する劔山本宮宝蔵石神社が有力候補と睨んでいます。劔山本宮劔神社のご神体は聖なる鏡石という三つの岩石の破片ですが、石の表面には人工的に磨かれたような光沢があり、その神秘的な輝きからただの石では無いとの説があるようです。また、宝蔵石神社にはそのご神体で紙垂による結界で守られた大きな磐座があり、その祠にはユダヤの伝説の他に、平家ゆかりの安徳天皇と共に瀬戸内海に沈んだとされる草薙の剣が奉納されたとの伝承も伝わっているようです。」
「千葉君、その磐座が気になるなあ。」
「そうですよね。僕もそこが狙い目かなと思っていました。」
「その祠を調査することは可能だろうか?」
「可能なようですが、危険を伴うので、十分な安全装備と、何と言っても神聖な場所なので事前に禊ぎ(みそぎ)と神社への参拝が必要かと思います。」
「そうだな。私も同行するよ。5月頃だと頂上の根雪は完全に消えていると思うが、その頃でどうだろう?」
「いいと思います。じゃあ、早速計画を練ってみますね。」
「頼むよ。」
5月のゴールデンウィークを過ぎたある日のこと、天候にも恵まれて抜けるような青空の下、二人は徳島県美馬市の標高2千メートル近くある剣山の頂上を目指していた。
予てより依頼していた劔山本宮劔神社でお祓いを受けると、神主の宮部さんと共に見ノ越駅から剣山観光リフトで西島駅まで向かい、そこから徒歩で40分ほど山を登って劔山本宮宝蔵石神社の磐座に辿り着いた。そして、神社に参拝した後、マナティがその祠の中に入ってLED照明とファイバースコープを用いて中を入念に調べ始めた。すると、片隅の岩の割れ目に人工的に磨かれたような断面が見つかったのだ。それをファイバースコープで丹念に確認してみると、苔むした石板が埋め込まれていて表面に何か文字が刻まれているように見えた。表面の苔を水とブラシで洗い落としてみると、漢字の古代文字が浮き出て来た。
「先生、これ文字の刻印じゃないですかね? データ送りますね。」
マナティはファイバースコープで捉えた文字を画像データに落としてアンディたちにスマホで転送した。
「千葉君、こりゃ凄いぞ。宮部さん、この部分見てください。」
「本当ですね。私も長いことこの神社に携わっていますが、こんな石板が埋め込まれていたとはまったく気が付きませんでした。険しいこの山はこれまで修験者以外はあまり足を踏み入れませんでしたからね。」
そこには、漢字文らしき文字の羅列が刻印されていたのだ。しかし、記された内容は詳しく調べてみないとその場では判断がつかなかった。
そんな折しも、みるみるうちに空が黒い雲に覆われ、雷鳴が轟き、横殴りの雨が降り出して来た。
祠から戻って来たマナティが不安そうに尋ねた。
「石板を暴いたから僕らは呪われたんでしょうか?」
「そんなことはないですよ。山の天気は変わりやすいですからね。」
宮部さんが皆を落ち着かせるように答えた。
しかし、天候はさらに悪化している。
大急ぎでデータを採取し終えると、一先ず下山することにした。
彼らは途中で崖を落ちそうになりながらも何とか西島駅まで辿り着き、無事帰宅の途に就いた。
7.エピローグ
『黄金の十字架が南と北の空に輝く時、海に眠る愛と富が目覚めるであろう』
剣山の石板にはそのように解釈できる漢字の古代文字が刻まれていたのである。
マナティはその意味を一生懸命解読しようと試みた。
「黄金の十字架が南と北に輝くとはいったいどう言う意味? その場所とはいったいどこなんだろうか?」
「マナティ、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』のこと知ってる? 天の川の北と南の両端に輝く北十字星と南十字星のことが書いてあるはずだけど。それのことじゃない? 主人公のジョバンニが銀河ステーション辺りから乗車して友人のカムパネルラと共にはくちょう座の北十字星を通って天の川のもう一方の端のサザンクロスつまり南十字星まで旅するのよ。」
車の助手席から身を乗り出してミオが答えた。
「はくちょう座の北十字星って僕はあまり知らなかったけど、そういうことか、はくちょう座は日本本土ではよく見えるけど、沖縄や小笠原辺りが限界で、南半球に行くと観ることが出来ない。逆に南十字星は日本じゃ沖縄や小笠原辺りでしか見えないよね。それもできるだけ南端の沖縄なら八重山諸島辺り、小笠原なら硫黄島辺りでないとよく見えない。硫黄島辺りの海は周りに何にもないから『ソロモン王の黄金の十字架』が眠るとは考えにくいよね。つまり、日本なら沖縄以南の八重山諸島近海ということだろうか。」
「私、以前に沖縄の友人に聞いたことがあるけど、はくちょう座とみなみじゅうじ座の両方が見える時期があるらしいよ。どちらも天の川に浮かんで見えるけど、地球を含む太陽系は天の川銀河の中にあるから、地球から見た天の川はぐるっと円を描いているわ。『銀河鉄道の夜』を読んだ時に天の川の端はどうなっているんだろうと不思議に思って調べてみたことがあるの。だから、北十字と南十字の両方が見える場所や時期があっても不思議じゃないと思う。沖縄辺りの赤道に近い低緯度地方だと水平線近くに天の川がぐるりと横たわっていて、北東の空には北十字が、南の空には南十字が一緒に見えるんだって。」
「なるほどね。じゃあやっぱり沖縄に間違いないな。ミオ、早速沖縄行きの計画を立てようよ。」
「そうね。私も行きたいけど、今は病院が忙しいし、マナティ行ってらっしゃい。」
「ミオ、何てこと言うんだい。今度ばかりはミオと一緒じゃないとダメなんだ。君の休みが取れる時まで待つよ。」
「どうしたの? マナティ。」
「いやあ、君との共同作業にしたいんだよ。」
すると、見る見るうちにミオの顔がくしゃくしゃになって、彼女の目から大粒の涙が溢れた。
「マナティの馬鹿。化粧がもう台無しじゃない。」
皆さんは『はいむるぶし』という言葉をご存知だろうか? これは沖縄地方に伝わるいわゆる南十字星の呼び名で、『南群星』と記述される。なぜ、『南』を『はい』と読むのだろうか? 小出氏の説では、『はい=はえ』で、古事記などにも記されたイザナギに海原を治めよと命じられたスサノオらを海神とすると、その悪評を煩くて汚いものにも集る『蠅』や人や動物の血を吸って生きる『蛭』に例えて表現したのだとされる。古事記には『蠅伊呂泥』『蠅伊呂杼』という女性の名が登場するのだが、何故そのような名を付けたのだろうか? 神武天皇の后となられる『富登多多良伊須須岐比賣命』にも、一見恥じてしまうような女陰にあたる『ほと』という名が用いられている。そして、八重事代主神に由来するとも考えられる八重山諸島の『八重』は『はえ』とも読むことができ、沖縄地方に自生するマングローブを蛭木と呼ぶのである。つまり、交易を担った海神はある面では忌み嫌われ海賊としても恐れられたのかも知れない。しかし、彼らが残した愛と富は世界の発展に大きく寄与したのである。美醜や善悪とは表裏一体のものであるが、それは光と影のようなもので光の当たる方角や視点で大きく変わって来るし、真実は少なからず表面から隠されているということを我々は学ばなければならない。
ユダヤはユダヤ戦争で徹底抗戦しローマ帝国軍に壊滅的敗北を喫した。同様に日本も太平洋戦争で徹底抗戦し米国率いる連合軍に壊滅的敗北を喫した。そして、ミッドウェー海戦に続いて太平洋戦争敗戦のターニングポイントとなったガダルカナル作戦の舞台は奇しくもソロモン王の名前に由来するソロモン諸島南部のガダルカナル島だったのである。ソロモン諸島国家の国旗は太平洋の海を表す青とそこに浮かぶ主要な五つの島を星として象り、豊かな自然を緑色で右下に配し、その境界に黄色く光る太陽で線引きしたものとなっているが、左上の五つの星は南十字星を表すともされている。特に南半球に位置する国々の国旗はこの南十字星をあしらったものが多い中で、ソロモン諸島国旗の星の配置は異彩を放っている。南十字星とは、縦長の十字架を象る4つの星と右下に位置する1つの星で構成される『みなみじゅうじ座』という16世紀末に考案された新しい星座で、ソロモン諸島以外の国旗はこの南十字星と同様縦長のいわゆるイエスキリストが掛けられた十字架を示している。ところが、ソロモン諸島の十字は北十字星とも呼ばれるはくちょう座の中核を成すデネブを始め5つの星で構成される正十字と酷似しており、そのままでは『X( エックスやバツ )』に見えるが、いずれも右に45°回転させると正十字となるのである。つまり、ソロモン王由来の正十字なのである。そして、みなみじゅうじ座の左にはギリシャ神話に登場する騎馬民族を暗示するとされる上半身が人で下半身が馬のケンタウロスをモチーフにした『ケンタウルス座』、その下の方にはキリスト教の祭壇と思しき『さいだん座』、また、みなみじゅうじ座の直下には前述の海神の悪評なる『はえ座』が輝く。
ソロモン諸島はパプア・ニューギニアの東に位置するが、その元となるアフリカ大陸では西の端にギニア、東の端にエチオピアがある。ニューギニアという地名は縮れ毛の住民をギニアの住民と類似しているとして命名されたようで、エチオピアはソロモン王とシバの女王の子孫が代々王家を継承したと伝わる。ソロモン王自身が南太平洋まで旅したとは思えないが、つまり、南太平洋にその足跡が刻まれたと言っても過言ではない。
我々は、何らかの見えない力で大いなる神の意思を受けて歴史を刻んできたといえないだろうか? そして、異端と言われたグノーシス主義で唱えられたように人間自らの中にもその神の分身が宿っていると言えないだろうか? 我々は大いなる神に感謝すると共に、誰もがその分身である自らの中の魂という内なる神に恥じないように自分に限らず周りの人々も含めその人権を尊重すると同時に誇りを以て切磋琢磨し、愛と富を以て周りに施しを行い、人生を楽しんでみてはいかがだろうか。
「いや待てよ、『ソロモン王の黄金の十字架』とは空に黄金色に輝くはくちょう座の北十字のこと?」
ふと、マナティが呟いた。
「そうかも知れないね。もし、本当に海の底に黄金の十字架が眠っているとしても石板のヒントだけでは探しようがないものね。」
二人は日本最南端の有人島として知られる波照間島に居た。ここからなら6月の夜空の水平線近くに天の川が横たわり、その両端に浮かぶ南十字星とはくちょう座の北十字星を同時に観ることができる。そして、これらの二つの十字は地球の回転運動と共に北極星を軸にグルグルと巡るのである。それはホルスとハトホルの愛を育む風の流れ、セベクとネイトの富を育む水の流れとなって・・・。
『天空の川に浮かぶイエスキリストの長十字とソロモン王の正十字が巡り巡って出会うとき、煌めく川の流れが大いなる海に注がれ、深い海に眠る愛と富が目覚める・・・それは宇宙と地球が育んだ大自然のエネルギー』
ミオは潮風に髪をなびかせて、マナティと二人で水平線に沈む夕日に照らされながら浜辺に打ち寄せる波をじっと見つめていた。いつの間にか辺りも暗くなり夜のとばりが降りる頃、天空の川に浮かぶ二つの十字架が輝き出していた。そして二人は抱き合って熱いキスを交わした。
8.注釈と参考文献
※1 旧約聖書
旧約聖書は、千年くらいの間に多くの人の手によってヘブライ語やアラム語などで書かれた文書をまとめたもので、ユダヤ教およびキリスト教の正典となっている。教派によって多少の違いはあるものの、概ね、モーセ五書と呼ばれる創世記・出エジプト記・レビ記・民数記・申命記の5巻、歴史書にあたるヨシュア記・士師記・ルツ記・サムエル記ⅠⅡ・列王記ⅠⅡなどの12巻、詩歌書にあたるヨブ記・詩編などの6巻、預言書にあたるイザヤ書・エレミヤ書・エゼキエル書・ダニエル書およびその他の小預言書を含む16巻の合計39巻で構成される。
※2 イエスキリスト誕生より千年も前に存在したという十字架に関する年代的矛盾
旧約聖書列王記には、ソロモン王がエジプトのファラオの娘を妃に迎え入れ、彼女のためにレバノン杉をふんだんに使った豪華な宮殿を建て、そこに大小500個の金の盾を置いたと記されている。
また、新約聖書に収められている『マタイによる福音書』第1章第20-21節には、次のような記述が見える。
『主の使が夢に現れて言った、「ダビデの子ヨセフよ、心配しないでマリヤを妻として迎えるがよい。その胎内に宿っているものは聖霊によるのである。彼女は男の子を産むであろう。その名をイエスと名づけなさい。彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである」。』
ここに登場するヨセフが旧約聖書創世記に記されたユダヤ民族の祖とされるヤコブの子ヨセフと同一人物だとすれば、ヤコブ=ダビデ、ヨセフ=ソロモンと言うことになる。ヨセフはエジプトに行き、成功を収め統治者となるが、ソロモンもエジプトのファラオの娘を妃に迎えるので共通点が見え隠れしている。もしそうだとすれば、ヨセフの子エフライムとマナセのいずれかがイエスキリストということになる。ソロモンの子にレハブアムという人がいて、ユダ王国の王となったとされているが、ヨセフの子マナセもユダ王国の王になったとされておりここにも共通点がある。つまり、マナセ=レハブアムではないかという仮説が成り立つ。ただし、旧約聖書創世記48章にはエフライムは弟と明記されているがマナセは長子としか記されておらず女性であった可能性も否定できない。また、ヨセフの父ヤコブはマナセが大いなる者となると言ったが、エフライムはさらにマナセより大いなる者となりその子孫は多くの民となると二人を祝福して言ったと記されている。そして、イエスキリストの父もヨセフという名で祖父もヤコブという名であったことから、エフライムがイエスキリストのモデルになったのかも知れない。しかしながら、ソロモン王は紀元前10世紀頃の人で、イエスキリストはご存じの通り西暦元年頃の人なので、その推論にはどうしても年代的な矛盾が残る。この矛盾を解くカギは暗示表現技術ペシェル( ※11 )にあると筆者は考える。
※3 ハトホル神殿
エジプトナイル川の中流に位置するデンデラ神殿複合体の構成遺跡であるハトホル神殿に祀られているハトホル神は太陽神ラーの娘で太陽と雌牛の角を頭上に配した女神として描かれ、ホルス神の母神や配偶神とされる。デンデラのハトホル神殿からエドフのホルス神殿までナイル川を遡って行われる祭事は有名である。ハトホル神殿の第一列柱室の高い天井には月の満ち欠けとそれを象徴するホルスの目、太陽の運行を示す太陽の船などが色鮮やかに描かれている。また奥の礼拝堂の天井には黄道十二宮を含む天体図が描かれ、地下室にはデンデラの電球で有名な蓮の花の中にヘビを孕むとされる不思議なレリーフもあり、古代エジプトの宇宙的神秘的な文明の一面を窺わせる。そして、神殿裏側はプトレマイオス朝最後の女王クレオパトラ7世とその息子カエサリオンの外壁レリーフで覆われており、第二列柱室からそこに通じる外部通路の途中には土砂で埋められて乾いた井戸が残されている。
※4 コプト教会( コプト正教会 )
コプト正教会は、『マルコによる福音書』( 紀元1世紀頃に成立したとされ、新約聖書のマタイによる福音書の次におさめられている )の著者とされる福音記者マルコがアレクサンドリアに建てた教会がその起源とされる。西暦5世紀中頃に行われたカルケドン公会議で、『両性説』( キリストは神性と人性という二つの本性を持つという説 )を支持する立場の現在のキリスト教多数派であるカルケドン派に対して、『合性説( 論 )』( キリストは神性と人性は合一して一つの本性になるという説』を唱え、非カルケドン派として袂を分かつことになった。その後西暦7世紀になるとエジプトがササン朝以降のペルシア帝国に支配され教会や修道院が焼き討ちに遭いイスラム教への改宗政策が行われたようだが、イギリスの支配下の時期を経て宗教が自由化されたため、現在は少数派ではあるが、エジプトの人口の約1割近くがコプト正教会の信者となっている。そして、コプト教会のシンボルであるコプト十字は、イエスキリストが架けられた十字架のように縦長の十字ではなく、縦横同じ長さの正十字で丸い円の中に納まる十字シンボルも見受けられる。
※5 聖人パコミオス
ウィキペディアの情報によると、聖人パコミオスは、エジプトのタベンニシに西暦318年から323年の間に最初の修道院を設立しナイル川中流域の町には、昔、原始キリスト教の修道院が多数建設され、ヨーロッパの修道院の原型になったようである。そして、コプト正教会では昔からのエジプト言語をギリシャ文字に合わせたコプト文字を使用したコプト語が主に使われ、原始キリスト教の起源にも関わっているらしい。近くにもその痕跡を残す遺跡が多数あり、幾つかの修道院が今も営まれている。パコミオスという名は鷹や鷲、引いてはホルス神の象徴でもあるハヤブサに由来するとされている。
※6 ナグ・ハマディ文書
この文書はパレスチナの死海沿岸で発見された死海文書と共に原始キリスト教当時の状況を伝える貴重な資料で、本革の装丁にコプト語で綴られたパピルス文書が見つかり、現在はカイロのコプト博物館に収蔵されている。その中には、キリスト教主流派から最も異端扱いされたグノーシス主義に関する資料を多く含み、その抽象的で難解な神話は、人間の本質は「至高神」の一部であり、本来的自己( 霊 )と「至高神」の両方を神とし、人間の本来的自己の居場所が間違っているのでそれを正す必要があると説く。そして、その中に収められている『ヨハネのアポクリュフォン( アポクリュフォンとは黙示録とも訳される )』の著者が新約聖書の巻末に収められているあの預言書『ヨハネの黙示録』の著者と同一人物であるとしたら、不思議な縁で繋がることになるのである。
ウィキペディアからの抜粋を引用して以下にその内容に関する補足説明を追記する。
ナグ・ハマディ写本は、農夫ムハマンド・アリー・アッサーマンが偶然土中から掘り出したことで発見された。発見時、文書は壷におさめられ、羊の皮でカバーされたコーデックス( 冊子状の写本 )の状態であった。写本は全部で12冊の写本と8枚の断片で構成されている。写本の多くはグノーシス主義の教えに関するものであるが、グノーシス主義だけでなくヘルメス思想に分類される写本やプラトンの『国家』の抄訳も含まれている。ナグ・ハマディ写本研究の第一人者ジェームズ・M・ロビンソン による『英訳ナグ・ハマディ文書』の解説によると、本写本はエジプトの修道士パコミオスがはじめた修道士共同体( 後世の修道院に相当する )に所蔵されていたのかもしれないという。写本はコプト語で書かれているが、ギリシャ語から翻訳されたものがほとんどであると考えられている。
※7 イエスキリスト生誕の地
イエスキリストの生誕の地は、エルサレムの10km程南に位置するベツレヘムという町と新約聖書には記されている。
※8 コプト博物館
コプト博物館の収蔵・展示内容について、ウィキペディアの抜粋引用を補足して以下に示す。
博物館には、エジプト・コプト時代( 古代エジプト文明にユダヤ教と古代ギリシャ文明が融合し原始キリスト教が生まれた頃以降を指すと思われる )から西暦1000年頃までのコプト美術に関するものなど、およそ1万6000点が収蔵されており、そのうち1200点が公開されている。1945年12月に上エジプト ケナ県のナグ・ハマディ付近で発見されたナグ・ハマディ パピルス古写本を始め、エジプト、ギリシャ、ローマ、ビザンティンからイスラムにおよぶ文化的融合が提示されている。
※9 死海文書
死海文書はイスラエル博物館敷地内にある聖書館の他に、ヨルダン国立博物館にも断片や銅板に文字を彫り込んだ巻物などが所蔵されている。
死海文書の概要についてウィキペディア他と参考図書からの抜粋引用を補足して以下に示す。
1947年以降死海の北西( ヨルダン川西岸地区 )にあるクムラン洞窟などで発見された972の写本群の総称であるが、この他に既に20世紀初頭にエジプトカイロで発見されていた規律などに関するダマスコ文書もクムラン洞窟で発見された文書と同一のものが含まれているため一般的には死海文書の一つとしてみなされている。死海文書は主にヘブライ語聖書( 旧約聖書 )と聖書関連の文書からなっており、最古の聖書関連文書とされている。クムラン遺跡の十一の洞窟から発見され、以下のような種類の文書が含まれている。
①聖書文書、②旧約聖書外典、③旧約聖書偽典、④聖書本文の改作・敷衍、⑤聖書注解、⑥ハラハー文書、⑦賛歌と典礼、⑧終末論的著作、⑨知恵文学、⑩私的書簡、法的文書、契約書、⑪その他
なお、⑪には、第十一洞窟から発見された主要巻物で最も長文の『神殿の巻物』や、ヨルダン国立博物館に所蔵されている第3洞窟から発見された銅板に文字を彫り込んだ巻物が含まれる。この銅板に記された内容は宗教的なものとは異なり財宝の隠し場所に関するもので、日経ナショナル ジオグラフィック社から発行された『絶対に見られない世界の秘宝99 ダニエル・スミス著 小野智子、片山美佳子訳』によれば 死海文書が作られる800年程前に使われていた文字で記されているらしい。したがって、この資料に記されている内容は紀元前10世紀頃から伝わる情報かも知れない。内容は64か所の財宝の在処と目録で、最後の一つは『コーリットの渇いた井戸の中に・・・この文書の写しと解説がある・・・そしてそれぞれの場所にある全ての物の目録がある』と記されているようだ。
また、死海文書発見の経緯などについて『死海文書の謎を解く ロバート・フェザー著 池田裕監訳 匝瑳玲子訳』の抜粋を引用して以下に紹介する。
死海文書の最初の巻物が発見されたときのことに関しては相矛盾する諸説が伝わっているが、確実にわかっているのは、1947年初頭にアラブ系遊牧民ベドウィンによって発見されたということである。最初の七つの主要巻物には、旧約聖書のイザヤ書を記した大小ふたつの写本、戦いの巻物、クムラン·エッセネ派( ユダヤ教宗派は、クムラン宗団に代表される修道院の前身となった禁欲的共同生活を基盤としたエッセネ派の他に、ソロモン王の頃からの政治的活動主体の神殿に仕えたサドカイ派、律法を重視した庶民派のパリサイ派の主に3つの宗派に分けられる。 )の共同体憲章、ハバクク書註解、外典創世記、感謝の詩編 が記されており、ムハンマド·エディープとその弟によって、のちに第一洞窟と名づけられることになった場所で発見された。それらの巻物は、その後、非常に不思議な経緯を経て、1967年までにイスラエル国家の前に差し出されることになった。ベドウィンが発見した巻物のうち3巻は、さまざまな仲介者を経て西エルサレムにあるヘプライ大学のELスケーニク教授の手に渡ったのだが、それはまさしく国連がイスラエル国家再建の決議をおこなった1947年十一月二十九日のことだったのである。失われた文書の最初の「宝」が、埃つぼい洞窟でのほぼ二千年にわたる長い眠りからさめ、ふたたびユダヤ人の手に戻ったのだ。
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1948年から49年にかけてのイスラエル独立戦争( 第一次中東戦争 )のあとは、ヨルダン·ハーシム王国の一部になった。1949年から67年にかけて、ヨルダン政府古物管理局の監督のもと、エルサレムのドミニコ修道会フランス聖書学考古学研究所所長ローラン·ド·ヴォー神父率いるベドウィンと考古学者グループによって発掘がおこなわれ、他の十の洞窟からも現在ではよく知られている内容物が発見されることになった。
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歴史家の間では、クムランの死海文書は紀元前350年から紀元後68年の間に執筆あるいは転写された、という点で意見の一致を見ている。その根拠となるのが、関連する人工遺物の考古学的研究、古代の書体の比較研究、そして放射性炭素年代測定法( 炭素十四法 )や加速器質量分析( AMS法 )による科学分析の結果である。
※10 ロゼッタストーン
ロゼッタストーンは、1799年7月にエジプトに遠征していたナポレオン・ボナパルト率いるフランス軍一行によって、エジプトのアレクサンドリアから65km程東に位置する都市ロゼッタ( アラビア語でラシード )のナイル川河口の三角州の瓦礫の中から発見された。
ロゼッタストーンの発見を契機に、エジプトでも読み方が忘れられてから千五百年もの間謎に包まれていたヒエログリフの解読の道が開けた。しかし、解読に至るまでにはさらに紆余曲折があったようで、本書におけるその経緯に関する記述は、イギリスの物理学者トマス・ヤングと、『エジプト学の父』と呼ばれるようになったフランスの学者ジャン=フランソワ・シャンポリオンという二人の天才の解読レースに焦点を当てたノンフィクション『ヒエログリフを解け エドワード・ドルニック著 杉田七重訳』を参考にしている。
※11 ペシェル
ペシェルとは死海文書に含まれるクムラン教団独特の旧約聖書に関する注釈のことで『註解』、『注解』、『釈義』などと訳される。死海文書にはこのハバクク書のペシェルの他に、ミカ書、ゼファニヤ書、イザヤ書、ホセア書、ナホム書、創世記や詩篇などのペシェルが含まれている。その中でも最初に発見された七つの巻物の一つであるハバクク書のペシェルはイスラエル博物館とグーグル社の共同プロジェクトによりネット上に文書画像が公開されている。
このハバクク書を例に取りペシェルに関する仮説を提示している書物『イエスのミステリー ~死海文書で謎を解く~ バーバラ・スィーリング著 高尾利数訳』の抜粋を引用して死海文書を読み解くための『ペシェル』という技術を以下に紹介する。
死海文書のあるグループの中には、ペシェルという言葉が見出されるが、それはわれわれに決定的な糸口を与えてくれる。つまり、AD1世紀に聖なる書物と見なされた文書に、われわれが新しく接近する可能性を与えてくれるのだ。そのシステムの機能は次のようなものである。死海文書の著者は、BC600年の諸事件を取り扱っている小預言者ハバククが書いたハバクク書のような旧約聖書の書物を取りあげる。それは、バビロニア軍が、恐怖を巻き起こしながらエルサレムに向かって進軍していた年である。著者は一節一節と進んでいき、それぞれの節を引用した後に、「そのペシェルは·····」と書き加え、そしてそれは実は彼自身の時代の事件なのだと説明する。パビロニア人は、キッティームと表現されており、それはローマ軍を意味する。今現在あるローマ軍団が、恐怖を巻き起こしながら国土を進軍しつつある。他の諸節は『義の教師』を指しているのであり、また『悪しき祭司』『偽り者』との彼の苦闘を指しているというのだ。
『彼らは恐ろしく、すさまじい。その裁きと支配が彼ら自身から出る。( ハパクク一:七 )
そのペシェルは、全ての国民に恐れ( とおののき )を呼び起こすキッティーム( ローマ軍 )にかかわる。彼らの全ての悪しき企みは意図的になされ、彼らはすべての国民を狡猾かつ陰険なやり方で取り扱う。』
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簡単にいえば、ペシェルは謎解きのようなものである。荒っぽい比喩を用いるならば、暗号を用いたクロスワードの謎を解くようなものである。手掛かりは意昧を成さないもののように見えるが、技術を知っており必要な知識を持っている者は、謎を解くことができるということなのだ。
このペシェル表現技術が旧約聖書等で使われているというスィーリング氏の指摘を支持した場合、さらにローマ帝国配下のヘロデ王政権に迫害され十字架刑に架けられたイエスキリストに象徴されるエッセネ派等の多くの禁欲的修道生活者の苦難の時代と、イスラエルの栄華を極めたダビデ王・ソロモン王時代を重ね合わせて記すことで、ユダヤ戦争でローマに壊滅的な敗北を喫したユダヤ民族に希望を与え鼓舞しているのではないだろうかと筆者は捉える。即ちダビデの子と記されたイエスキリストは文字通りに捉えるとソロモン王に他ならない。クムランの第3洞窟から発見された財宝の隠し場所を記した銅製の巻物はクムランの他の死海文書が作られる800年程前に使われていた文字で記されているらしく、ちょうどソロモン王の時代と重なってくるのである。
このペシェル表現技術を用いることで表面的記述と暗示的記述、異なる時代同士の事象記述、一般的記述と専門的記述など、読み手の知識レベルによって伝わる内容が替わるように一つの文章に複数の内容を重ね合わせて表現することが可能となる。
なお、余談ではあるが、筆者はこのペシェルに相当する暗示表現技術が次に示す例のように日本の古事記や日本書紀などにも使用されていると考えている。
『イザナギとイザナミによる国生み・神生み神話と神武天皇記における暗示表現は、天孫族が日本列島に辿り着き弥生文化を根付かせ倭国を建国する時代と、倭国を全国に拡大し大和の国造りを推し進める時代が重ね合わされて記述されていると解釈する』
『出雲神話における暗示表現として、スサノオのヤマタノオロチ退治と、オオクニヌシノミコトの苦労話は、オロチに准えた「モンスターのような困難を極めたたたら製鉄製法」の技術の壁を乗り越えて良質な鉄剣が作れるようになったことと、たたら製鉄における貝のカルシウム追加で玉鋼の純度改善効果が得られたことなどを記述していると解釈する』
※12 ユダヤ史とエジプト史に隠された真実に迫る仮説と検証
このような表現形態は日本の歴史書である古事記上巻の神話と、中下巻の天皇記が一見直列的に表現されているように見えるにも関わらず実際には天皇の歴史を並列的に上巻神話で象徴的に表現しているという説もあり、筆者はそれを支持する。そして、旧約聖書の創世記神話でも同様に時空を越えて象徴的にイスラエルの歴史とそれに関わるエジプトでの出来事を表現することでユダヤ史とエジプト史を分離することに成功したのではないだろうか。これは取りも直さず日ユ同祖論を裏付ける有力な根拠の一つとなり得るものと考える。
旧約聖書創世記には、イスラエルの祖とされるヤコブとその息子にヨセフという人物が登場する。ヨセフは兄弟たちに迫害されて奴隷として売り飛ばされ、彷徨った末にエジプトでパロ( ファラオに相当 )に仕える廷臣の侍従長ポティファルに買い取られパロに事あるごとに的確な助言を与えて寵愛されパロ以上の地位に上り詰める。このヨセフはエジプトの祭司ポティフェラ( 前述のパロの廷臣の侍従長もポティファルという類似する名だが解読の混乱を誘発するための記述と捉え別人と判断 )の娘アスナス( アセナトとも伝わる )を嫁にもらい二人の子が生まれ、死後ミイラとして埋葬される。二人の子の名は長子マナセと弟エフライムと記されているが長子とは先に生まれた子を指し性別は問わないためマナセが女性であった可能性も十分考えられる。
一方、旧約聖書列王記には、古代イスラエルのダビデ王とその息子で跡を継いだソロモン王の時代に栄華を誇ったことが記されている。そして、ソロモン王はエジプトのパロ( ファラオに相当するがファラオと同等以上の地位を獲得した神官が並立した時代では神殿のヒエログリフにその名を遺した祭司もパロと同義とされたことが窺える )の娘を娶ったと記されている。
そこで、ヨセフ=ソロモンとすると、エチオピアの歴代王として君臨したソロモン王の子孫とされるソロモン朝の歴史や、エジプト南部やエチオピア辺りの女王とされるシバの女王の伝承などから、ギリシャ神話に登場するエチオピア王の后カシオペアをシバの女王とし、その娘アンドロメダをマナセと同一人物としても矛盾は無くなる。さらに、エパポス=ホルス=ヨセフ=ソロモンと仮定すると、娶った娘はイーオー=ハトホル≒イシス=ネイトの娘メンフィス( 別名カシオペア )と考えることができ、前述の通りソロモンはメンフィスを介してハトホルの義理の息子となる。つまり、エパポス=ホルス=ソロモン=ヨセフがイーオー=ハトホル≒イシス=ネイトの娘メンフィス=カシオペア=シバの女王=アスナスと結婚し、アンドロメダ=マナセを生んだと捉えることができる。
さて、もう一度旧約聖書全般を見渡してみると、登場する人物で、エジプトとこれほど関わりを持った人物は、出エジプト記のモーセを除くと、創世記のヨセフやその父ヤコブ、列王記のソロモン王以外にはこれといって見当たらない。ところが、創世記にはヤコブの祖父のアブラハムがエジプトに留まったことがさりげなく記されている。もしも、このアブラハムの時代がヒクソスと呼ばれた異民族による最初のエジプト支配を意味しているとすると、その後の紀元前1500年頃にイアフメス1世が異民族支配を一掃してエジプト第18王朝を打ち立て新王国時代を切り開き、ユダヤ民族を迫害して酷使したとすれば、その時期とモーセの出エジプトの時期が重なって見えて来る。
そして、新王国第19王朝の全盛期を成したラムセス2世の時代に建造された世界遺産にも登録されているアブ・シンベル神殿は、エジプト初の本格的な神殿遺跡であり、ヒクソス支配を退け黄金期を迎えたとは言え、ピラミッド遺跡から神殿遺跡に変遷したのにはこの異民族ヒクソスの支配を経たことが一因となっていると考えられないだろうか。なお、ラムセス2世の時代に建造されたと伝わるカルナック神殿複合体の羊頭のスフィンクスが並ぶ参道は、牡羊に象徴されるユダヤ民族を従えたことを物語っているのかも知れない。
しかし、エジプト人による栄華を誇った新王国時代も徐々に衰退して行き、第20王朝のラムセス11世で終わりを告げることになる。その後は、第3中間期の上エジプトのテーベを中心としたアメン神官団と呼ばれるファラオの権力を凌ぐ神官が権力を持った大司祭国家と第21王朝の並立する時代となり、その時期は紀元前1000年頃で、ソロモン王の紀元前970年頃の治世と概ね一致する。この時代の著名な神官として、大司祭パネジェム1世が浮かび上がる。そして、前述のヨセフに娘を嫁がせた祭司ポティフェラがこの大司祭パネジェム1世だと仮定すると、下エジプトのファラオの権威が及ばない上エジプトテーベを中心にファラオと同等以上の地位を有していたと考えられ、ソロモン王がパロ( ファラオに相当 )の娘を娶ったという列王記の記述と、ヨセフの結婚が重なって見えて来る。なお、パネジェム1世には3人の兄弟と1人の姉妹がいたとされ、妻はドウアトハトホルというこれもまたハトホルと類似する名の女性で、娘の名はムトネジェメトとされている。カルナック神殿複合体のアメン大神殿にはこのパネジェム1世の巨大な彫像が立っているらしい。
ここで、殺害された冥界の王オシリスが冥界とのパイプ役でもある神官の長である前述のアメン大司祭パネジェム1世で、ラーの娘とされるハトホルがラー神の名を継ぐラムセス11世の娘ドウアトハトホルとすると、ヨセフやソロモン王の話と合致して違和感は無くなる。なお、オシリスを殺害したとされるセトに相当する人物はアメン神官団の中での権力闘争などがあった節があるので、このパネジェム1世の兄弟にあたるかも知れないが詳しい情報が無いため不明である。
今度は、ダビデ王とヤコブについてエジプト史との関わりを探ってみよう。
ソロモン王の父親とされるダビデ王は、奴隷として売られたヨセフの父ヤコブに比定した関係上エジプトのラー神とは別人と考えられるが、ダビデとヤコブは羊飼いで身を立て、いずれも多妻の子沢山で知られており、ギリシャ神話のゼウスと共通しているため、ここではゼウス=ダビデ=ヤコブと仮定する。そして、アメン大司祭国家と並立していたエジプト第三中間期の第21王朝( タニス朝 )のスメンデス1世もネスバネブジェドと言い、『ジェデドの主の牡羊」を意味するとされているので、羊飼いだったダビデやヤコブと重なって来る。創世記には晩年にエジプトに呼び寄せられたヨセフの父ヤコブも死後ヨセフの計らいでミイラとして埋葬されると記されており、ファラオと同等の扱いを受けたとすればこの第21王朝の初代ファラオ スメンデス1世がイスラエルを建国したダビデ王に比定したヤコブに相当するのではないかと考えられる。
ところで、エジプトの三大黄金マスクをご存知だろうか?一つは新王国第18王朝の彼の有名なツタンカーメンのマスクだが、あとの二つは、この第21王朝( タニス朝 )という必ずしもエジプト黄金期とは言えない時期でもあり意外と知られていないが、前述のスメンデス1世から一代挟んだ第3代ファラオのプスセンネス1世( 在位紀元前1039年~前991年 )とその子のアメンエムオペト( 在位紀元前991年~前984年 )のマスクである。タニス朝と言えば、第二中間期のヒクソス支配の拠点アヴァリスにも近く、ナイル川下流のデルタ地帯の東部に位置する。そこで、イスラエルの最も栄華を極めたソロモン王をプスセンネス1世という黄金マスクの持主と仮定し、スメンデス1世とプスセンネス1世とアメンエムオペトがそれぞれダビデ王=ヤコブとソロモン王=ヨセフとその子レハブアムに該当した場合の年代を推定し、古代エジプト史と古代ユダヤ史および旧約聖書創世記などの神代に跨って、以下に示す年表の出来事( A~W )を確認しながら仮説の整合性を検証してみたい。
【エジプト史とユダヤ史の仮説と検証年表】
仮説:
スメンデス1世=ヤコブ=ダビデ
プスセンネス1世=ヨセフ=ソロモン
◆前1168年頃ヤコブ誕生( 創世記 ) A
★前1101年頃ヨセフ誕生( 創世記 ) B
◆前1100年頃ダビデ誕生 C
▲前1070年パネジェム1世即位 D
◆前1070年頃スメンデス1世即位 E
★前1071年頃ソロモン誕生 F
★前1050年頃ヨセフエジプト入り G
★前1048年頃ヨセフファラオの夢解く H
★前1045年頃メンケペルラー即位 I
◆前1043年頃スメンデス1世退位 J
◇前1040年ダビデ誕生 K
★前1039年頃プスセンネス1世即位 L
◆前1038年頃130歳ヤコブエジプト入り M
▲前1032年頃パネジェム1世退位 N
◆前1021年頃147歳ヤコブ死去 O
☆前1011年ソロモン誕生P
◇前1000年ダビデ王即位 Q
★前 992年頃メンケペルラー退位 R
★前 991年頃プスセンネス1世退位 S
★前 991年頃110歳ヨセフ死去 T
☆前 971年ソロモン王即位 U
◇前 961年ダビデ死去 V
☆前 931年ソロモン死去 W
※年表分類
▲:パネジェム1世エジプト史
◆:ヤコブエジプト史
◇:ダビデ王ユダヤ史
★:ヨセフエジプト史
☆:ソロモン王ユダヤ史
まず、旧約聖書創世記では、ヤコブはヨセフに呼び寄せられエジプトでファラオに謁見した時130歳( M )で、エジプトの肥沃なラムセスの地を与えられ17年間過ごし147歳( O )で亡くなったと記されている。一方、ヨセフはヤコブたちと羊の世話をしていた時17歳で、その後兄弟たちに迫害され奴隷として売り飛ばされるが、前述のエジプトのファラオに仕える廷臣の侍従長に買い取られ( G )、ファラオに召されて夢解きによる助言を行い( H )、それが国を救いファラオの寵愛を受け、祭司ポティフェラの娘アスナスを嫁にもらい二人の子が生まれ110歳で亡くなった( T )と記されている。
次に、ダビデ王は紀元前1040年に誕生( K )し、イスラエル王国を建国して前1000年に王として即位( Q )、前961年に79歳で亡くなった( V )とされている。一方、ソロモン王は紀元前1011年に誕生( P )し、前971年にダビデ王の跡を継いで王として即位( U )、前931年に80歳で亡くなった( W )とされている。
そして、祭司ポティフェラと同一人物と仮定したパネジェム1世は紀元前1070年頃に即位( D )し、前1032年頃に退位( N )、ダビデ王=ヤコブに比定したスメンデス1世もパネジェム1世と同様に紀元前1070年頃に即位( E )し、前1043年頃に退位( J )、ソロモン王=ヨセフに比定したプスセンネス1世は紀元前1039年頃に即位( L )し、前991年頃に退位( S )したとされている。
スメンデス1世をヤコブとした場合、その即位紀元前1070年とはパネジェム1世の即位と同じ年( DとE )なので、パネジェム1世に合わせたとすればその数値の確かさには疑問が残る。退位は紀元前1043年頃とされているが、ソロモン王の即位とダビデ王の死去が同時ではない( UとV )ので、退位年についても同様にダビデ王の死去紀元前961年から60年を減じた前1021年より前にスメンデス1世の退位年が来てもおかしくはない。しかし、いずれにしてもヤコブのファラオ即位の有無は亡くなった後にヨセフの計らいでミイラにしたとのみ記されているので定かではない。
そこで、まずプスセンネス1世をヨセフ=ソロモン王とした場合について検証してみる。まず、ソロモン王の死去紀元前931年( W )から60年を減じると、前991年となるが、この年は何とプスセンネス1世の退位( =死去と捉える )の年( S )と一致している。ユダヤ暦は中国や日本の太陰太陽暦に類するので、十二支と十干を組み合わせた六十干支にも通じる。日本では干支のことを十二支と呼ぶがこれはユダヤの12支族を暗示させ、陰陽五行説の火・水・木・金・土を兄と弟に分け10とした『十干』は『十のほし』とも読め、月と太陽と地球を除いた太陽系の五つの主要な惑星『星☆』に結びついた。中国では昔約12年で太陽の周りを一周する木星を基に天体の運行を観測して暦としていたようで、惑星の運行も昔から観測されていたことがわかる。したがって、古代イスラエルで60という周期を用いた可能性も窺え、イスラエルの王とエジプトのファラオを60年という数字で紐づけしたとしても不思議ではない。
その推論によるとソロモン王の即位紀元前971年( U )はエジプト史では前1031年になりプスセンネス1世即位( L )の前1039年の8年( U−60年とLの差 )後になるが、それはヨセフがエジプトで名を成して8年後にイスラエルの王も兼ねたとすれば辻褄が合う。また、タニスのプスセンネス1世とほぼ同時期に活動( IとR )したテーベのアメン大司祭メンケペルラーはプスセンネス1世の異母兄弟と伝わるが、いずれもパネジェム1世とドゥアトハトホルの子とされているのでパロへの預言による助言を与えたヨセフに象徴されソロモン王と同一人物かも知れない。そして、それはハトホルとイシスの子ホルスの神話が物語り、ソロモン王の支配が上エジプトにも及んでいたことを示していると考えられないだろうか。
また、ソロモン王の存命年数80年をプスセンネス1世の退位年( S )から減じると前1071年になり、それがエジプト史でのヨセフの誕生年となる。ヨセフがエジプト入りした時21歳頃とすると、その2年後にファラオに呼ばれて謁見し夢解きをしたのは23歳頃の時で前1048年頃( H )となる。そして、祭司の娘を嫁にもらって豊作の7年が過ぎ再びファラオの前に立った時30歳( 創世記41章 )とすれば、そこから2年後の前1039年にプスセンネス1世が即位( L )しているので辻褄が合う。そして、飢饉が襲ってきてヨセフがヤコブを呼び寄せ、前1038年頃( M )にヤコブがエジプト入りし、そこから17年後の前1021年頃に亡くなるとすれば、ヤコブの誕生年はその79年前の紀元前1100年頃となるが、ヤコブは147歳で死んだとされているので、創世記上は前1168年頃( A )となる。一方、ヨセフの創世記上の誕生年は、110歳で亡くなったとされているので前991年から110年を減じた前1101年頃( B )となる。
最後に、ユダヤ史の年代をもう少し広げて、モーセの出エジプトやソロモン王の治世について、『聖書考古学 長谷川修一著』の内容を踏まえて年代検証してみたい。
この書物には、列王記上6章1節に『ソロモンがエルサレム神殿の建築に着手したのがイスラエルの子らがエジプトの地を出てから480年目で、ソロモン王の治世4年目だった』ことと、出エジプト記12章40節に『イスラエルの子らがエジプトに住んだ年月は430年』だったということなどに着目して年代推定が行われており、本書でもそれらを参考にしている。
なお、旧約聖書創世記にはヤコブのことをイスラエルと記されている箇所が散見され、創世記35章10節に「君の名はもうヤコブと呼ばないでイスラエルと言いなさい」とヤハウェ神から言われたことが記されているため、ここでもイスラエルとはヤコブの意と捉える。また、48章5節にはヨセフの子マナセとエフライムを自分の子に欲しいと告げる記述があるのでマナセとエフライムの支族も含めイスラエルの12支族と捉える。
前述の『イスラエルの子らがエジプトの地を出てから480年目でソロモン王の治世4年目』という記述をエジプト史に当て嵌めて、プスセンネス1世即位紀元前1039年の4年後の前1035年から480年遡ると前1515年となる。つまり、モーセの出エジプトの時期が紀元前1515年と考えられる。出エジプト記にはユダヤ民族への圧政( 煉瓦造りなどの重労働を課した上に生まれたユダヤ男児をナイル川に投げ込むよう命じた )を敷いたエジプト王( トトメス1世と想定 )が亡くなった後にエジプト脱出の話が進み出し、トトメス1世の跡を継いだ病弱のトトメス2世の王妃ハトシェプストがモーセをナイル川で拾って育てたという伝承から出エジプトの時期はトトメス2世の治世( 紀元前1518年~1504年 )と想定でき、前述の推定値紀元前1515年と合致することがわかる。また、レハブアムのユダ王国統治は7年間だったが、アメンエムオペトの在位期間も7年間であり一致している。さらに、『イスラエルの子らがエジプトに住んだ年月は430年だった』という記述を同様に当て嵌めて、紀元前1039年から430年経った前609年を調べてみると、ソロモン王亡き後イスラエル王国が分裂して南のユダ王国がバビロン捕囚で崩壊する直前の王ヨシヤの退位年と一致するのがわかる。つまり、分裂後のユダ王国の時代もエジプト在住のユダヤ民族が居て、新バビロニアによる捕囚が要因で民族移動した時期とエジプトの圧政が要因で民族移動した出エジプトの時期を重ね合わせているように見える。出エジプト記の冒頭には、『ヨセフと彼の全ての兄弟、その世代の者は皆死んだ。しかし、イスラエルの子らは増え非常に多い数になり甚だしく強くなった。』と記されており、そのためエジプトのパロはユダヤの民を酷使して圧政を行うようになったようだ。つまり、出エジプトの時期をバビロン捕囚の時期と重ね合わせ、あたかもヨセフやソロモン王の時代の後に起きた事象であるかのように表現されているように見える。これもエジプト史とユダヤ史の分離に一役買っているのかも知れない。