しほれ!
「我々日本国民は、幕府や日本政府や米国に、警察や軍などの組織に頼らざるを得ない状況を作られた。つまり腹を曝け出して生きろと言われた訳だ、それを強制すると。ならば危険を、それが国民の目に触れる以前に排除するくらいの事はしてもらわないと、納得はできないよな。簡単に言えば、事件を未然に防げってこった」
去年の九月に二十八歳の誕生日を迎え、それを機に転職したばかりのOL、中野渡 鹽无は、身長161cmに43kgの華奢な体を会社の椅子に緩かに乗せて、一人事務作業に励んでいる。エメラルドの様な声をマスクの奥に伏せて、一人キーボードを叩いている。
「そうだなぁ、俺達ストーカーがこうして羽を広げてる訳だからなぁ。……まあ俺達も国民な訳だけど?」
「敵を国民と呼ぶのは気が引ける。あの子が俺達に襲われでもしたらどうするんだ?大切なあの子が」
「そりゃそうだけどさ。レイプとか許せないし。……ストーカーってなんかレイプ的な襲うより殺傷的な襲うの方が多いイメージだけど、それならいいとかないもんねぇ。なんで態々あんな事……」
「性欲の捌け口にするのは申し訳無いとか良く分かんねえ考えからだろうな。性欲は別の女で発散するかオナニーで足りるから、あの子の事は、自分も含めて誰にも汚させないみたいな。良く分かんねえけど」
「そうだよねぇ、良く分かんないよなぁ。恋なんてどの道、表面に溢れ出た性欲の一片でしかないしねぇ。子孫を残そうって本能からくる欲で無いなら愛ってだけで」
「そういう難しい話は嫌いだ。交尾だけが種を繁栄させる手段じゃないんだから、本能なんてのは、考え始めたら切りが無い。守ろうとするのが愛なら、それもきっと種の為だしな。恋は恋で、同性にも……するしな。人に限らず。……やっぱどうも、虚しくもなってくるし、もうやめよう」
「……見てるだけってのは虚しくならない?」
「なんだ急になっ……なんだ?びっくりしたぞおい」
仕事が一段落付いたのだろうか、鹽无はマスクを少し上へずらし、そのままマスクの上部を手で押さえながら息を深く吸って、パソコンより上方へ視線を持ち行き、暫く遠くを眺めた後席を立った。
花粉症の鹽无だ、トイレにか、鼻をかみに行ったんだろう。それとも序でと、或いは手洗いも済ませてしまおうと。
「興奮するな」
「鼻水も可愛いしね」
「……いや悪いそれは分かんねぇわ。トイレならまだしも、鼻水って……」
「えーいやどう考えてもトイレの方が変態チックでしょ。鼻水の方が……あれじゃんだって」
「まあ言いたい事は分からなくもない。けど、どっちに興奮するかってなったら」
「いやいやだって、鼻かんでるのだって可愛いし、すすったりも……それに、恥じらいが好いとか、美味しそうとか、その……そういうところは変わんないし、だったら鼻水の方がまだ……」
鹽无は中々戻らない。昼にはまだ早いから、直に戻る筈ではあるが、見えない事には不安も抱く。然し他の誰も気にしていない。見ようとしていなければ、見えない事にもきっと気付かない。
「てか見てるだけでも犯罪だろう」
「でも記録はつけてないし、本当に見てるだけだからねぇ」
「……だから捕まらないって事か?彼女にとって被害にはなってないって意味じゃないよな?」
「勿論」
「……なら、まあ、安心したよ」
「少しはその意味もあるけどねぇ。残る事程辛い事はないだろうし、俺達が死ねば被害は途切れるって、ほぼ確信できるだろうし」
「それはそうだけどさあ、事実は事実だから、何に気付かれるか知れないし、それが彼女に知れたら傷付くしきっと恐れもする」
「それも分かるけど……本当にただ見てるだけじゃん。盗撮もしてないんだよ?あの辺にいる社員とそんな変わんないでしょ。……だったら社員になればいいだろって?それこそストーカーじゃん」
仕舞ったままに忘れているのか、汚してしまって捨てたのか、素顔を晒したままの鹽无が席へ戻り来た。
「まあ俺は、撮りたいとも思うけどな。おかずにだってしたいし、それにほら、残しておきたいと思うだろ。なんか勿体無い……みたいな感覚もあるしな。彼女の可愛い行動とか……美しい瞬間とかな。凄いとかもそうだし。……してないけどな?」
「しないとは言わないんだ」
「……似たようなもんだろ。何があるか分からないし断定はしないってだけだ」
「へぇ、まあ……」
「あでも、そういえば、暗証番号はあの子の誕生日にしてたな」
「それはまた……」
「いやほぼ接点無いから安全だろうし、けど俺は絶対に忘れないし、打つ度に思い出すし実感できるし、いいかと思って……いいってその……うん、一旦落ち着こう。つまり記録という程でもないし、どの道ばれたらまずいから……暗証番号が知られるような自体に陥ったらどの道だから、あの子にとっても俺にとっても。だから暗証番号にする程度の事ならただストーキングしてるのと変わらないだろうって事だ」
「それは何となく分かるけど、それ俺に話していいの?もう安全じゃなくなった気がするけど」
「お前の事は信用してるからな。それに、ばれたら終わりのその片割れだ……ろ……うっわ、うっわ見た今の、超可愛い」
「なっなっ!めっちゃくっちゃ可愛い、やばいな今のぉ、やっ……やばいなぁ……あはははははは、もうめっちゃ可愛い」
鼻を拭ったティッシュをゴミ箱へ静かに捨て入れる。鹽无は座る時には既に違和感を抱いているらしかったから、今になってただ拭ったのだろう。その時マスクをつけ忘れている事にも気付き、ティッシュを捨てた後で小さなポケットを探り始めた。
「でも確かになんで俺はお前の事を簡単に信用したんだ?お前もだが……というか抑お前はなんでこんな……悪いそういう詮索はしないんだったな」
「聞くくらいはいいよぉ。どうせ答えないし」
落ち着いたらしい鹽无は淡々と仕事を進めていく。
時折後輩が鹽无へ近寄って来る。そういう時鹽无は直ぐに振り向き、一度パソコンの画面へ見直った後、また振り向き応える。地位は当然同じなのだが、歳も社歴も少し上の鹽无は柔らかく応える。
一度上司へ声をかけた鹽无だが、緊張からか反抗からか、或いはそれが信頼から来るものなのか、上司への態度は冷たい。ただ言葉のみに何かを尋ね、又何かを報告した後、書類を持って、また書類を持って回った。
「あ、そろそろかな、ざわつきだしたし」
「ん?……あぁ、もうこんな時間か。しほ見てるとあっという間だな」
「だねぇ」
「行き先は?」
「……コンビニ」
「んじゃ俺はこの前直ぐそこにできた弁当屋。……よし、弁当屋だったら弁当奢れな。コンビニだったらおにぎり奢るよ」
「ハイリスクローリターンじゃんこっち」
「仕方ないだろ、場所で賭けたんだから。まあ確率はそっちの方が気持ち高そうだし、どの道煙草はどっかしらで吸うだろうから……ほら、あそこ灰皿置いてるか分からないし、駐車場で煙草吸うかは微妙なところだからさ、どっこいだよ何だかんだで。……つかハイリスクでもないだろ別に」
鹽无は良く最寄りより一つ遠いコンビニで、昼食とは呼べない程の軽過ぎる昼食を済ませる。
「やっぱりご飯は可愛い子を見ながら食べた方が捗るね」
「……当たり前だろ、何を今更」
それから鹽无は煙草をゆっくり一本吸いきって、コーヒーを飲み始める。飲みながら吸う事もあるが、昼食の後は何故だか何時も別々に飲む。
「Oh my SIH」
「どうした、また、急に」
「……コーヒーちょっと零しちゃったから」
「から?……ああ!オーマイゴッド的な。あぁ」
「えそれが分かんなかったの?オーマイって言ったら……神でしょお?」
「……ま、まあ、しほはほぼ神……だしな。つか女神。……傍観してんのは俺等の方だけど」
煙草が残り少なかったのか、鹽无また店内へ。
「あっお前その煙草」
「そう!あの子と同じ銘柄の煙草」
「……それは……俺も貰おうかな」
「食べながら吸うの嫌いじゃなかった?」
「お前が隣で吸うから慣れた」
「悪かったなっ」
「いいよ別に。それくれるんだろ?」
「……あげるけど」
切れかかっていたのは火の方だったようだ。序でにゴミも捨ててきたらしい。見れば先日迄外にあったゴミ箱が店内へ移動している。
「つか……んんっ……ふぅ、つかさ、暗証番号……パスワード?まあ番号だけじゃないやつ、とか迄は分かんねえし、元がないとあれだろ?だから別に……まあ今ふと思っただけの…………ふーぅ、あれだから、あーっと、まああれだ、そんなあれでも……な、ねえだろって」
「ごめん何言ってるのかさっぱり分かんなかった」
何を眺めているのか、何時もここで、立ったまま長い事休む。
「それに、あんときゃ忘れねえとか言ったけど、実際は結構忘れるんだよ。見られながらの場合はほら、下の名前ははばかられるしさ、ていうか名前っぽいのはあれだから、なかとかやどとか、をローマ字にした……気がしたりさ、まあ本当、そうしたかすら覚えてないからあれなんだけど、下に誕生日つけたかとか、そういう細かいのが全く覚えらんねんだよな」
「口に物詰めてるから分かんないとかじゃなくて、抑が……」
「いや今のは分かったろ」
「……それに、とか言って話し始めなかった?それがもう……ねぇ」
珍しくもう一本吸い始めた。今日は何かあったのだろうか。
「お前はそういうのどうしてんだ?必死に覚えるのか?それとも忘れないのか?……あだから撮れなくても残念がらないのか」
「いやそんな記憶力良くないから。心底熱中する人ってそんなイメージあるけど、俺のストーキングは……そういうんじゃ……」
「うわでたよまた…………ああいや、まあ……はぁ、じゃあどうしてんだよ、パスワードとか」
「……メモってるんだよ」
「それこそ危ないだろう」
「金庫の中でも?」
「金庫に入れてんの?つか金庫なんて持ってんの?」
二本目だからか、口に運ぶ頻度は低い。その所為か吸い終えるまでの時間もまた長そうだ。
「まあでもそうか、全部金庫に入れてんなら失くす心配も……探す手間も無いしいいな。覚えるのは金庫の暗証番号だけでいいもんな。金庫破られたらそれこそどの道だしな」
「覚えられるならそれに越した事は無いんだけどねぇ。出す手間すら省けるし、外でのあれはやっぱり覚えて行かなきゃだし、安全性も……いやある意味では危ういのかな、覚えてるだけじゃあ」
「色んな所に入れつつ覚えてもおく、ってのが理想だな。……理想、だな」
「暗証番号は大事だけど、そんな神妙な……神妙なって言い方であってんのか知らないけど、そんな言い方……」
「欠片の神妙でもあったか?双眼鏡覗き込んでるんだぜ?」
「それは……そう……だねぇ。寧ろ上の空な言い方だったね」
「お互い様な」
「まぁねぇ」
「って待てよお前、お前……お前も覗いてんのか?つかお前のも持ってきてたのか?何時も代わり番こだったろ?どっちが見張っとくのは暗黙の了解だったろ」
「いやだって」
「だってじゃねえよ!幾ら都心からは少し距離あるとはいえ、昼間の、しかもコンビニの前の公園だぞ?俺等の方が誰かに見られてたって不思議じゃねんだぞ?」
「……誰も俺等なんかに興味無くない?」
「………………お前」
「なに」
「喧嘩売ってんの?どう考えても話逸らしてるだろう、しかも……」
「うん」
「……は?な……は?なんで……お前……開き直ったのか?そういうのが一番……」
「冗談に決まってんじゃぁんそんな顔すんなってぇ」
「……そんなか……はぁ、もうなんか……はぁ、兎に角見張っとけよ。そこでパトカー見掛けた事だってあったんだし」
「それはそうだけど、あんまり警戒してんのも反って……ねぇ。それに、二人で覗いてる方がなんか漫画チックで怪しまれなさそうじゃん。ああいう何かなんだなみたいな」
「無理があるよその理屈は。色々、流石に」
「分かったよ。……じゃあ、交代」
「は?お前まじ」
「だから冗談だって」
「何がだからなんだよ」
「さっき言った冗談の続きって事。そんくらい分かんない?」
「帰ったら宙吊りな」