ひつじがむこいる
思考とは愛だ。影こそは形無き愛の表れだ。だからネウベア、君のその残虐は愛おしい。君に見え得る限りの暗雲を、その露を、僕に与えておくれ。目を凝らせばこその愛、その拡大した虚像を、恋する僕に見せておくれ。
「そんな、僕の言葉を、何一つ拾ってくれない事だけが、あはは、寂しい」
宇宙其物の写しが此処に居る。
未だ幼い彼女は、未だ彼の手の内に在る。
古い衣装のイフがまた彼を訪ねて来た。
彼は好意と信頼を彼女に寄せている。けれどイフは気にも留めない。何時か彼女から言い寄る日もあったけれど、そんな事はもう忘れてる。そんな彼女に彼は悩まされている。綺麗な中の可愛さと思いもするけど、飽く迄触れ難く、彼からは近付けない。
「君の君は完璧過ぎる。少しは遊べよ、君も人なのだから」
「なら遊び相手になってくれ」
「一人で求めたのだろ?それを望むのだろ?それともそれが既に違ったから、私を求めたのか?」
「私を……いや、まあ、そうだな、俺一人じゃ叶わないな」
「それなら私が手を貸そう」
彼女は何時も大袈裟に振る舞う。そんな姿を彼は微笑んで眺める。胸を張る彼女には少し戸惑っていたけれど。
「馬鹿な私が最も賢い君に欠陥を……ははっ、少し駄洒落のようで、これは不本意だ。嫌ではないが……それともそう思ったのは私がそうだから?」
「あはは、やっぱり君は可愛い。本当に、馬鹿らしく思える程」
「……私の血は実際壊れてる。君もそうだが、君の……ふふ、そうか、此処から既に駄洒落か。何やら可笑しくなってくるな。楽しめる。こんな私を」
「俺にもそんな風に振舞えと?遊びも楽じゃないな」
「そうではない」
やっぱり彼は戸惑うばかり。
「ふざけはしない。間違えもしない。ただ一見無駄な物を、或いは単なる痕跡を、此処に加えるだけだ」
「此処に?」
「そうだ。僅か得られなかった物、失った物、それを人は、尚や尚も求める。だが初めに得た筈だ。だから物足りず、失いもした。無い物を欲するようで、その断片は抱いている。感覚と理論程の差だ。感覚は土台だが、感覚を土台たらしめるのは理論だ。欲とは感覚に近いもので、感覚は本能に近いものだから、無い筈は無いのだよ」
「……分からなくもない」
「なら、余る物はどうだ?或いはそれが己自身として生まれたのなら」
「ああそうか」
「そうだ、痕跡は失った痕跡ではなく、得た証だよ。つまりは進化だ。……君は何を退化と呼ぶ?」
「退化などありはしない、だろ?けど俺は、彼女には彼女の儘であってほしい。俺は、な。だからお前に……」
「真に完璧であったなら、其処に個は存在し得ない。……それを君が安全と呼ぶのなら、何を態々危うい私に君を任せる?君を危ぶむ?」
彼が返答に困っていると、ふとイフが彼女を見詰めて。
「怠り過ぎだ」
彼は相変わらず困っている。
「これでは……はぁ、私が手入れもするさ、序でだ」
「まじか。いいの?なら頼む」
彼は知らなかった。この儘でいいと思っていた。まじか、なんて、つい零れたのは、後ろめたさからでもあった。
「お前もお前だよ」
「ははは、まあ、俺も人だから、な?」
彼女の髪にイフの指の白さが柔らかに透き通る。そうした儘彼を見上げて、またイフは問う。
「生きるのなら、今が今でなければな。君はどう教えるつもりだ?君は彼女に、生きてほしいのだろ?」
「そう言われてもな、俺にも分からないから……俺は、自分の感覚を言葉に出来ないんだ」
「今という時間は、目的地が遠い程短く、近い程長く感じるものだ。思うのは今だから。目指した始まりと終わりの間にある今を思うのだから。……彼女には未だ、始まりも終わりもない」
「つまりそれを教えろと?」
「無い筈の時間だ。単なる方向としか見ていない彼女だ。つまりどう錯覚させるかが問題だ。これこそが感情だと」
「それなら簡単だ。そう教えればいい。同じだと。しかしそれは、感情なのか?確かに感覚ではある。人は時間を事象の羅列とは見ない」
「人程時間を噛み締める生き物は無い。自我は時間の中に生じたものだ。人程目の肥えた動物も居ない。……だが彼女は、その上だ。一石二鳥じゃないか。感情とは、許容を超えた情報の中に生じる歪みなのだよ。今が今でなければ、歪みようも無い」
教材と玩具を用意する為とイフは一度二人の下を後にした。こんな言葉を残して。
「眠りの中でこそ、君は試される。……何時か来るさ、君にも眠る日が、夢を抱く日が」
やっぱり彼は戸惑うばかり。
明くる日、その暮れの、飛ぶ鳥の影もまた、空へ舞おうとする頃。
「昨日のお前の言葉、やっぱり俺達には分からなかった」
「分からなくてもいんだ。感情は保留から成り立つ停滞の震えだから」
「……やっぱずっと、分かるような分からないようなって感じだ、お前の言う事は。……それが保留って事なのか?」
「あっはは、そうだな、そういう事だよ」
彼は態とらしく困った顔をした。今度は只管可愛いとだけ思ってしまったから。彼はイフの言葉をどうにかして理解しようと、或いはそうし続けたいと思っていた。理解したいのではなく、錯覚が欲しかった。イフの為の理解であると。
「何もそう困る事は無いだろう」
「……手土産は?」
「らしくないな。強請る童に焦がれたか?」
「そう思ったなら少しくらい……」
「なんだ?」
彼はその問いに、それこそ甘えてしまおうかと思った。けれど彼には言えなかった。何をして欲しいなんて、それが何であっても、言える筈はなかった。問い返す事でしか強請る術を知らない、童にも劣る哀れな嬰児だから。
「やっぱり俺は君のようには遊べない」
「その為の玩具だろう」
「持ってきたならさっさと出してくれよ」
「……君は一旦外に出てくれ。二人の方が都合が好い」
「そうか、まあ、気楽に休んでるよ」
「……そうだな、君は待つ事が嫌いだったものな、そうするといい。……夜は言う迄も無く綺麗だ。君もきっと安らげるさ」
「そう願うよ」
扉の閉まる音に一度振り向き、直った後、座る彼女の前に跪いて、優しく、また楽しそうに、イフは背に両手を回した。
「この世を全て見終えた君だから、そんな君に、こんなものを用意した」
少しの間の、見詰める沈黙に、イフは溜め息混じりに微笑んで。
「月の上のイライザ、一緒に聴こ?まだ知っちゃ駄目だよ。知った後で聴く、その違いに響く音も、似た波だから」
彼女は心做しか安らいでいるように見えた。だけど何故だかイフは、彼女から憧憬も感じて取れた。だからそれは、後で彼に話そうと思った。
今は先ず僅かばかりの真実を言葉として、自らへの気休めに残して置きたかった。
「変わらないさ、何処の世界も。……人は人だよ。誰も、君のようには振る舞えない。変化に逆らえた者など、何処にも居はしない。言葉は只管に、感情の訳でしか無い。人の言葉は人の言葉だ。君には少し残念な話だったかな」
慣れない状況にイフも少し弱った。照れ隠しにまた捨て台詞一つ、彼を呼ぶ事にした。
「笑顔が好きなんだ。お洒落な……感じがする。だから、私は笑顔でいたいし、君にも、笑顔でいてほしい」
扉を開けると其処は光りが瞬くばかりの闇だった。呆気にとられるイフに横から囁く、君も寂しさを感じるのかい?
「揶揄うとは本当にらしくない。調子に乗り過ぎだ」
イフが自らへの自信を示すように彼を罵るのもらしくない。彼は柄にも無く顔を赤くした。
「感じたのは悔しさだったかな。悪かったよ、けどこれでお相子だ」
家の中の方が落ち着く。家はそういうものでなければ。彼女に取ってもそうだろうか。彼はそんな事を考えていた。
けれど初めに思った彼女とは、イフの事だった。彼女に対して思う方が自然であるのに。今この家に住んでいるのは、彼と、彼女なのだから。
考える彼をイフは退屈と見て、此処ぞとばかりに問い掛ける。
「渇望が常だとしたら、それはさぞ辛いだろうと、君は思わないか?」
「それはそうだが、突然なんだ?」
「彼女の心持ちは、きっと楽ってやつなんだ。そんな事も、抑心持ちなんて概念も、彼女の中には知識としてしかないのだろうけど、それは、それが、きっと、人にとっての安楽なんだ。だが、それが違ってきている。……君の思う生に近付いているのなら、いいな」
「……俺は少しくらい、寂しさの一つも抱いて欲しい。そんな、単純な話だよ。俺の、思いなんてのは」
イフはまた彼女に目を向ける。
「君が寂しさを感じないのは、個として既に人の群れを超えているからだ。寂しさを愛したいのなら、宇宙の広さを、君の目に投じればいい」
今度は見詰め合っている心地がした。
「君は見る時、目を瞑るのだね」
彼女に語るイフは何処か寂しそう。そんなイフに、少し喜ぶ自分に、彼は少し悲しくなった。
「君はほぼ完成された状態から知り始めた。それも得られるだけの知識を、忘れる事無く。だから変化に抱く悲しみや寂しみは理解できないよ。常にその渦の中で、変わらず佇む君には」
「酷な事を言うな」
「そんなつもりはない。……まっ、それでも感じてみたいと思ったなら、せめて、体を大切にする事だな」
「……何故だ」
「脳だけが人か?違うだろう」
「……それも分かるが、やっぱり、分からない。それが、繋がるのか?」
「誰しも一度くらい、嘘を吐くものだ。それが残り続けるのが人の社会だ。真偽を確かめる事の叶わぬ言葉が溢れる世の中だ。……希望はあるものだよ。それら希望は、忘れてしまえば失せるものだ。だから、感じてみたいのなら、大切にする事だ。それが何であろうとな」
またイフは最後に、星の如く手を差し伸べるように柔らかい暗号を残して行った。
「思い出してくない事は、思い出さなくてもいいんだよ」
感情が波やその重なりと同質であるなら、一つ並行の延長に並び、一つ輪の中に崩れ、そのどれにも同じ名は与え得ぬのだろう。或いは全て中にあるのだからと、然し、ならば何故人は言葉を獲得し、繋げるのか。
見え得る風と、聞こえ得る粒の、つまり人の不完全な面が、人を人間たらしめる。上か下かに狂うのならば。