十編, 上
稀な沼地に群がる子供、その一人が倒れたらしい。
「大丈夫ですよ。転がる石に頭を打ち付けた様ですが、大した炎症も見られませんし、血もそう出てませんから」
「そうですか……」
土の上に寝かされたその子は未だ覚めない。だから母親は心配そうに見詰めているが、屈もうとはせず、飽く迄厳かに、イコマに応える。イコマは何故この子が泥に塗れているのか不思議に思った。
「気を失ったのも、石が原因という訳でもなさそうですし」
「では何故……」
「泥に混ざると血を多く見紛うものですから、焦って余計に抜け出せなくなったんでしょう」
「そうですか。……溺れずに済んで幸いでした。貴方のお陰です。どうもありがとう」
彼女は頭を下げようとはしなかったが、それでも心地の好い礼だと感じ、その事にイコマは感心した。
「慣れない所で体が上手く動かなかったんですかね、余計な事も考えない分反って、体を庇うのは子供の方が上手な筈なんですけど」
「最近の子供は弱くていけません」
どうもこの人は私達の側だ、とイコマは思った。それで今度は、先輩達が避けていた理由が気になった。下らない仕事だから――その程度の嫌がり様ではなかった。嫁いだ先に問題があるのだろうか、端麗には相応しいが、言葉には余りに不似合いな振る舞いであるし。
「然し……何故我々に?」
「確かにこの時期の暇な軍人は子供を救いたがるでしょう。けれど融通が効かない。……医者も今は国家に仕えています」
イコマは首を傾げそうになったが、彼女の首飾りが北西の工房由来である事に気付き、直ぐに子供の方へ向き直った。彼女は矢張り我々の側だ。
「貴方なら自分で救えたでしょうに」
口が滑った。拾おうとした時にはもう彼女の餌食だ。
「私に服を汚せと?」
「いえ……その……」
「ふふふ、大丈夫ですよ。貴方は屋敷で着替えたら宜しい。昼食も振る舞わせて頂きます」
「いえ、その……」
これでも給料は先輩達と変わらないのだからまあ良いか。誇りを持たないイコマは、そう心の底に溜め息を吐き溜め、下賎の男――地位を以てして彼女には勝り得ぬ低俗な――夫君の馴れ合いに、その給与を言い訳にして付き合う事にした。
戯れに作ったその男の料理は、見た目には繊細で、確かに味も悪くはない。
舌の肥えた男は皆、私程にはしくじらないのだろうかと、今度は明白に首を傾げる。
「口に合わなかったかな?」
イコマの驚き様に紳士も釣られて大袈裟に動じた。これだからこの紳士は嘲笑れるのだ。
「いえ、恥ずかし乍ら……私は料理が苦手ですので、その……失礼に聞こえるかも知れませんが、私は男にも負けるのかと……ははは……」
「嬉しい事を聞かせてくれるね。……なに、シェフは皆男だから、気に病む事はない」
この男は何故こうも上機嫌なのだろうか。――男は尚も上機嫌にグラスを鳴らした。
昼食にも食後酒が付くのかとつい苦笑いを零したが、イコマも嫌いではないので、世辞の歯痒さと共に飲み干してしまった。
「ところで、君が勤める組織の親分さんは何と言ったかな?」
到頭イコマは話すのが嫌になった。
帰路に掛かる足取りはそれでも軽やかだった。
一口の甘味酒、ファミリーへの帰々、それに限らずイコマの足取りは常に軽やかだ。この様な女に男は惹かれるものだが、思わぬ強さにか、彼女に言い寄る男は此処数年に一人として居なかった。
「只今戻りました」
「おぉやっとの御帰りか」
「なんですかその感じ。仕事を、片付けて来たんですよ?……また、押し付けられた、仕事、を」
仕事から戻ったイコマに無礼で応えたホウザカは、揶揄った事を少し後悔したのか、書類を破り捨てているフスイへ目線を逸らした。
そんな様子に、イコマは此処ぞと沼地で拾った指輪を見せた。
「而もこんなの拾っちゃいました!臨時収入って奴ですかね〜」
「……何だそれ」
ホウザカは何時もの事とゴミを咥えて帰った犬猫でも見るかの様に、呆れ乍らもまた嬉しそうにしていたが、黙って聞いていれば――青と赤が半々に入り交じった石が埋め込まれている事を、嬉々として説明しているイコマは、ホウザカの顔色が変わった事に気付かない。
「掘り出し物とは正にこの事ですね」
「……お前それ……」
ホウザカの短い沈黙に、フスイの動揺に、まさかあの子供が落としたのかと冷や汗を掛いたが、そうではなかった。
「行ったのは何処の沼地だった?」
「西区の小さい……沼地ですけど……」
それを聞いてホウザカはまた顔色を変えた。今度は落胆に近い安堵の色と、ほんの少しの好奇の色だ。
あれは昔戦場に使われた事もあったかな、そんな事をフスイに尋ねた後、笑い乍ら、それはそれなりの兵隊――ともすれば士官の形見かも知れない事を、半ば呆然としているイコマに聞かせた。
「今度ワカツクの子供にでも見せてやれよ。運が良ければ天使の姿拝めるかも知んねーぜ?」
「もう間に合ってますよ」
「…………何かあったのか?」
「あははそんな大袈裟な……ちょっと口が滑っただけです。というかちょっと疲れてる所為で、頭がぼやけて返事が疎かに……ごめんなさい」
「本当可愛いなお前。怒る気にはなれないよ。元々怒るような事でもないけどさ」
それに笑顔で返したイコマは、如何にも疲れている風に、雑に腰を下ろして頬杖突いて、上目遣いに――
「あーそーえば、依頼者の旦那さんにツガさんの事聞かれましたけど……」
「話したのか?」
「いえ広げないようにしました」
「……良くやった」
穏やかな陰口に笑い合った後、上目遣いの本領を発揮して、悪く笑んで問い掛ける。
「誤魔化すの大変でしたし、私が拾った物は、私の物にして良いですよね?」
「……え、いや、さっき……」
「だから、あはは、懐刀として……扱ってくれるなら?」
聞いたイコマが驚く程話は簡単に通り、それから暫く天使を連れて出勤した。
その日居なかった先輩には、例えば古株のトノベには、こんな風に揶揄われた。
「未だそんな護身用の輪っか嵌めてるのか?」
「外したら護身用の意味無いでしょ」
「要らねぇだろって言ってんだよ抑」
「トイレとか寝込みを襲われたらどうするんですか」
「……そんな時にまで付けてんのかよ。仲良しとかってレベルじゃないな」
「良いでしょ別に、私の勝手じゃないですか」
「……ん?……それ……ちゃんとした、奴か?……は?そんなの買ったのか?態々?何処で?」
拾った事を説明する都度、あの夫婦の説明に迄話を広げられた為、日暮れたり、少々だが辟易していた。そんな愚痴も暫くは天使との社交に費やされたので、悪いばかりでもなかったのだが、発端がその天使とあっては、漸前向きなイコマも躊躇いに伍し掛けた。
今日もまた押し付けられた仕事に足を軋らせるイコマだが、今度ばかりは、その理由が明確であったし、確かに自分に向いた仕事であると納得出来たので、案外と快く赴いた。
「彼奴等は間違ってる!」
然し早くも降参の気配だ。立派な剣を振り回す少年の平定――これを病んだ子供を慰めるだけの仕事とは、早合点の安請け合いは兎角何時にも増した苦労を伴うものだ。
「おーい、危ないですから取り敢えずこっち下りて来て下さーい」
振り向いたその子の顔に驚いた。ついこの間助けたあの子だ。――あの日はイコマが帰る迄目を覚まさなかったから、きっと少年はイコマに気付かない。――彼が何故泥に塗れていたのか、その訳のもう一端を理解した。
「誰だよお前!……俺は……お……やっ……やりっ……」
「良いですから、一旦、下りましょう?」
「煩い!」
「……はぁ、何でそんな事してるんですか?」
「彼奴等が……彼奴等、あい……何も分かってない!何も……何も彼も間違えてる!」
「間違っちゃいけないんですか?正しいってのはそんなに偉いんですか」
「……俺だってもう知らない!知らないんだよ何も……彼も……何……ああもう!……あぁ……煩い!」
「……一旦、下りて、話しましょう?」
暫く見下ろして、頭を掻き毟って呟いた。
「俺と話す気なんて無い癖に」
「……疲れてるだけです」
子供だと見くびっていたのは確かだ。余計に嫌気が差した。
「兎に角一度」
「煩い!お前みたいな奴とは話したくない!女の癖にそんな風に……どうせそんな、そんな慰める様な風で……そんな風にしてたって、どうせ仕事なんだろ!?……だったら、どうせならお前なんかより……」
もう諦めてしまおうか。
「そうですね。私は小さなファミリーの若輩ですから、先輩方を呼んで来ましょうか。小さなファミリーの年輩が数人増えるだけですが」
少年は言うに困ってまた背を向けた。それをイコマは了承の意と取って踵に背を翻した。愈々投げ遣りだ。
「子供の御守りは女の仕事だろ。クーデターごっこの相手くらいお前一人でやれよ」
歩き乍らにだ、然しものホウザカも仕事となれば、揶揄うばかりではいられないと見える。一旦は後輩に託された依頼も、その責迄は押し付けられない。
「あの子にも言われましたよ。女の癖にって」
「……クズだな。殴り飛ばしちまえよ」
然し真面に取り合おうともしない。これで本人は真剣な顔をしているから尚の事質が悪い。
「ん?何だ?」
態とらしく恍けるホウザカに、イコマも怒る気力を失くして、矢張り投げ遣りに後始末を押し付けた。反撃と言わんばかりに。
「貴方知ってたんでしょう?依頼を受けたのはホウザカさんですもんね。……はぁ、もう今日は疲れました。何であの家族を避けるのかは聞きませんから、その代わり今度の仕事だけは任されて下さい」
「……よし、任された」
ホウザカの素直さは何として生じるのかさっぱり読めない。楽に使われない為に敢えて反抗的に振る舞っていて、本質は此方にあるのだろうか。――疲れている時に程余計な事を考えてしまう。気取られない様に仕事へ促そう。――そんなイコマに見向きもせず、ホウザカは一定の足取りで弁明を始めた。
「けど……はは、言い訳がましいけどな、てかまあ言い訳は言い訳だけどさ、……気付いたのはお前が出た後だったんだ。今回の依頼人は親戚か何かだった」
「何かだった……って……じゃあ逆に、何で先日のあの子だと気付いたんですか」
「姓が似てたんだよ。全くの同じじゃないけどな、まあ思い返せばこの前の依頼人と顔立ちも似てたな……とさ」
「とさって」
「いや抑、初めに依頼寄越したのは此処の連中なんだ。養成所のな。けど相手がガキ一人だったから取り下げた。お前が熟そうとして出来なかったのはこっちの依頼だ。で俺がさっき引き受けて今熟そうとしてるのが、親戚らしい誰かからの依頼だ」
戻ると少年の姿は失われていた。向こうへ降り進んでしまったか――未だ声は聞こえる。
「此処に居たのか?」
「ええ、先程迄は」
「……面倒だな、少し釣ってみるか」
「釣る?」
ホウザカは徐に剣を抜き、その輝きを音に変えた。その動作に、風体に、緩やかさに似合わぬ荒い声を以て剣へと語り掛けた。ああいう類いの少年には、これがどうも届き易いらしい。
「お前はこれが欲しいんだろう?」
目当てには未だ程遠かったと見えて、好奇寄りき近場へ引き返して来た。釣るには矢張り、長物に輝き慰さずこそ。
自ら帰った少年にイコマは、しそびれた反論を――誇りが無い訳で無く、彼女もどうやら上と下とを作っていた。或いは慰めでもある様だが、それは矢張り、下へと下すものだ。――最後の投げ遣りに、これも仕事と微笑に瀬し落とす。
「確かに我々は好んでこの職に就いた。けれど仕事は仕事。望まれて初めて仕事になる。此処に居るのだって、誰かが……例えば親御さんが、私達にそれを望んだからなんですよ?あの日だって……」
これは少年にも効いたらしい。彷徨に少しの冷静を拾ったか、それとも狂気の酔いは単純さにこそ覚めるのか、自覚を齎すものが何かは大人の二人にも分からない。
「では、後は任せましたから、私はこれで」
矢張り徐に剣を戻すホウザカに、イコマも矢張り軽やかに、手を一振りその場を去った。
残されたホウザカは手始めに、穏しく少年の目的を問うてみた。
「何をそんなに嘆いてるんだ?」
「彼奴等……彼奴等何も分かってないのに、俺の事ばっか否定して……」
「無視はしないのか、子供の割に偉いな。……それとも認められたくてそんな事してるのか?肯定、して欲しくて。はは。だから応えるには応えるのか。まあ態々引き返して来るくらいだしな」
元の場所に元の立ち様で、今度はホウザカを見下ろしている。何を思ってか、少年も矢張り変わらず、見下ろしている。
「今度は無視か?」
少し目を泳がせた後で――今度は考えた後で――少年の方からホウザカに問い掛けた。その疑問は嘆きへ潜ませる様にして。
「何で彼奴等……大人の癖に、組織だとかって偉ぶってる癖に、あんな風に……」
「求めるから間違えるんだよ。君と同じじゃないか。何故理解してやらない?」
「俺は……彼奴等はだって、大人じゃないか」
「同じなんだよ、あんまり夢見るな。ともすればそんなお遊びのお前ですら勝ち兼ねない。もう諦めちまえ」
「あんたは何でそんな……」
「さあな。お前が俺に何を思ったか知らないが、俺は程良く諦めてるってだけだ。ちゃんと、稼いだ上で楽しめる程度にさ」
無視をするのとは反対の沈黙を少年に見たホウザカは、寧ろ偉い奴程無視をするのかと一つ悟った。思えば彼等は確かに、そういう類いに偉いのだった。
少年が何を何処迄理解したのかは定かで無いが、頭を使い会話を成り立たせようとしている。少なくともこの理解の立場が少年の夢の対極に在る事は、未だ理解していない様だ。
「俺は諦めたくない。何も……」
「諦めないのは立派な事だが、執着は判断を鈍らせる。それは相手に対してだけじゃなく、きっと自分に取っても不幸な事だ。……少しは肩の力を抜いて、一度整理してみろ。それで、本当に悔しい事が何なのか自覚した後、自分のしたい事は復讐なのか、改善なのか、逃避なのか、ちゃんと考えろ。……金さえ積めば、その試みには俺達も手伝うから」
「金は取るんだ。こんな子供からも」
冗談をも取り戻したらしい。それは照れ隠しにか、ある種の抵抗だったかも知れないが、ホウザカには通じなかった。
「受け取らなければ独り善がりだ。報酬があって初めて、それが正義として成り立つ。これは対等な証でもあるんだ。お前が欲しいのもそれじゃないのか?」
「……だけど……それじゃあ彼奴等と……」
「だから諦めろって言ったんだ」
ホウザカはこれで楽しんでいる。心做しか寂寥を帯びているが、それこそが少年との語らいを楽しむ尤もな理由だ。
納得は諦めを含むが、それを拒絶する少年だからこそ諭したくなる。理解を愛でる者は皆同士だ。でなければ会話など誰がしよう。
一方的な獅子吼はその名の如く人を遠ざける。誰を呼ぶか狼の遠吠えるが如く、そんな呼び掛けにこそ木霊も宿る。少年の遠吠えには、また同じく呼び掛けを以て応ずるものだ。
「ならばこう考えるのはどうだ?幾らあっても金は金だ。受け取ってくれる人がいなければ無価値だ。そんな物を受け取って、尚且つ願いも叶える。終えた後には、金にこそ価値が有ると信じて稼ぐ事を楽しめる。……まあそれに、一応俺達は、正義を看板に掲げてるだけあって、相手の事も考えてはいるからな。お前と違って」
「……俺は……」
「はは、まあ、それに、当然仕事に依るが、庶民が出せるか出せないかのぎりぎりの値で商売してるから、国に取っても俺達は正義なんだよ」
「そんな話じゃ……」
「まあ別に、本人からせびる必要はないし、報酬は金でなくとも良い。国に取っても正義なら、選択肢は俺達にも相手にも、広く存在してる」
もどかしさに頭を掻き毟る少年に、ホウザカは同情した。手を差し伸べてやりたいと、或いは此方から、寧ろその手を引いてやりたいとすら思った。だから笑顔に懐かしんで、鼻から吸った躊躇いを、その笑顔を理由に、想像の共感にして吐き捨てた。
「まあ先ずは、受け取ってみたいよな」