すべての始まり
ふと思いついてしまったために見切り発車で始めてしまいました。
処女作ですし、文もつたないかと思いますが、温かい目で楽しんでいただけると幸いです。
弘治3年10月 京 薄家屋敷
「逆賊とされていた”楠木”の赦免、殿下のご協力のもと相成った。」
…さようで
「お前の求めたことは果たした。」
……確かに
「次の年となればお前の齢も10となる。」
………
「つまるところお前にはこの家から出て行ってもらう。」
…………なるほど、なかなかに想定外な状況になってきたようだ…
「困った」
「と申されますと」
「そう簡単にはならんだろうと思っておった楠木という名への朝廷の赦免、あの義兄め上手い事主上から引き出したようだ。」
「なんと…朝敵の赦免はならぬものと思っておりましたが…」
そう思っていたのだ、目の前にいる拾い物の家臣である
侍とあれこれ考えて出したのだが…
「殿下のご協力と言っていた、近衛様が動かれたのであろうて。」
「近衛様ですか…相も変わらず親族たる大樹様が朽木に引きこもっておりますれば…」
「だからであろう、二条様が朝廷内で力を伸ばしつつあるという、ここらで力を示し、派閥を引き締めたいのであろう。」
今年になって近衛晴嗣から前嗣となり、足利将軍家からの晴の字を捨て、天下人三好長慶の名を貰っている。
また従一位昇叙しており順風満帆のように見えるが、そも有力な見方であるはずの足利将軍家との縁を切るような様相を見るになかなかに劣勢のようである。
さて、面倒なこととなったのは明白である。
来月にも出ていかねばならぬ我が生家は薄家という中流公家であり、四大姓の源平藤橘の中で橘氏に属し、唯一の堂上家と言える家だ。
源氏と平氏はほとんどが武家と公家、源平以外のほとんどの公家は藤原氏というこの現状を見れば、橘氏がどれだけ没落しているか見て取れるだろう。
平成中期の頃までは国司や議政官と呼ばれる上級職を拝命していたようだが、今はほとんどが摂関家などの青侍、いわゆる家臣をしている。
武家としても楠木正成を筆頭に畿内や西国に分布していたようだが、南北朝終結時の楠木氏に対する朝敵処分によって衰退していったようである。
ではなぜこの高々いるのかいないのか分からん薄家の家督問題に近衛家なんていう超上流の貴族様が手伝いをしてきたのか、それはこの家の利権と義兄の薄以継が関係している。
そもそも薄家は釜座の本所として釜座に便宜を図る傍ら、釜座からの上納を受け取る立場にある。
この他にも、紅粉・青花に対する権益を保持しており、派閥に入れれば美味しいと判断したのであろう。
生活してゆくうえで必ず炊事で使う釜に化粧品として必需品の紅粉の利権を持っている以上、上流階級である武家や公家が多く暮す畿内では、公家の中では比較的裕福と言える。
まあ当然のことながら派閥の維持や朝廷内での地位の確保には政治力のみならず、金銭も必要になってくるのは昔も未来も変わらないということだ。
更に義兄の薄以継は祖父であった現当主薄以緒の息子が娘を残して急死したことで入り婿兼嫡子としてやってきたが、出自は近衛派閥である山科言継の息子だ。
つまるところ次の当主を自派閥の出身者にして取り込もうとしたわけである。
戦国の世ではよくあることと言えばよくあることである。
ここで問題が起きた、そう自分である。
自分を表すなら薄以緒の孫、つまりは直系の継承権もちの子供である。
娘だけかと思いきや、実はお腹の中にというやつである。
嫡子として4歳にして新しい家に行き、ようやく馴染みだしたところでの家督継承権もちの赤ん坊の爆誕は寝耳に水だったようである。
何はともあれ自分は生まれ、育ち、なんの因果か二条家の諸大夫の橘氏、櫛田家の庶子を傍付きにもらい受け、今の今まで生きてきたわけだ。
まあ孫である以前に直系ということも作用したのだろうと思うが…
なにはともあれ。
「相続権を手放すには自らが名乗る姓を貰いたい。」
「同じ橘氏として楠木を名乗りたい」
と言ったはいいもののそれが首を絞めてくるとは思いもしなかったのだ。
まったく間抜けなことよとも思うが。
つまるところ楠木氏の赦免が成った以上は楠木氏を名乗り、この家から出なければならぬのだ。
天文24年から約4年間、ちまちまと貯めた銭はある。
浪人としてこの戦国の世を主家を求める武士として歩むか、
はたまたどこかの寺で坊主として一生を終えるか、
商人をして諸国を進むか。
はてさていかがすべきか…
まあ、まずは元服であろうな。
家臣なのに一度も本名が出ていない不憫な男 櫛田権大夫正行
櫛田家の家長が女中とこっそりあれこれして、うっかり出来てしまった庶子だとか…
もともと出家して坊官になる予定だったとかなんとか…
主人公より濃いかもしれん