9:冷やせ
こんなイベント、原作にはなかったわよ!
「んっ。んんーっ」
「大人しくして貰おうか、どこぞのご令嬢」
どこぞの?
つまり誰だか分からず襲ったの?
「あなた達、こんなことしてただで済むと思うの?」
貴族の令息じゃない。護衛の騎士でもない。
誰なの!?
「こんなこと? いやいや、まだまだこれからだぜ。第一皇子のご婚約様」
男が耳元で囁いた。
「な!?」
私の事を知ってる?
つまり目当ては私ってことなの!?
近くに人はいないけど、大きな声を出せば誰か気づいてくれないかしら?
「だ──んんんーっ」
「おっと。話はここまでだ。一緒に来て貰おうか、ご令嬢」
「ん!」
一緒に? 私を誘拐するために伯爵家に侵入したってこと!?
こんのっ。
「ッてぇ」
「おい、なにやって──ぐはっ」
私の口を塞いだ男の手に噛みつき、エリーシャを捕まえている男に向かって突き飛ばした。
エリーシャも一緒に倒れちゃったけど、すかさず「逃げて!」と叫ぶ。
「急いで誰かに知らせてっ」
誘拐しようとしたのなら、殺されることはないはず。
だけどエリーシャは違う。口封じされるかもしれない。
彼女を逃がさなきゃっ。
「ル、ルシアナ様っ」
「早く!」
こくんと頷くエリーシャを見届け、少しだけほっとする。
いや、ほっとしている場合じゃない。
「くそっ、逃がすな!」
「させるもんですかっ」
すかさずヒールを脱いで男に投げつける。
あ、踵が当たった!
「ぐあぁっ、くそっ」
「あっちは無視しろっ。さっさとこの女を連れて行くぞっ」
「あっ」
手首を思いっきり強く引っ張られてバランスを崩す。そのうえ、ヒールも片方だけだし、その場に倒れ込んでしまった。
くぅ、なんなの、こいつら!
「あんたたち──ひっ」
男を見上げると、その手に短剣が握られていた。
「ゆ、誘拐が目的よね?」
「ほぉ、賢いご令嬢じゃねえか。確かに俺たちの目的は、おたくを連れて行くことだが」
「少しぐらい痛い目を見せても構わないとも言われているんでね」
い、痛い目……それは嫌な展開ね。
もう片方のヒールをこっそり脱いで、
「まぁたその靴を投げるつもりかい、お嬢さ──」
握った短剣を振りかざした男は、何故か動きを止めて自分の手を見つめた。
釣られて私も男の手を見る。
陽光を受けて、男の手が光った。
「う、うわあぁぁぁっ。お、俺の手が、俺の手が凍ってる!?」
「え?」
凍って、る?
確かに、男の手首から先が凍って……というか、氷漬けになってる。
「伏せろ」
そんな声がした。
「はい」
ほとんど条件反射で、私は声の指示に従った。
土の上に座り込んでいた姿勢から、バっと上半身を倒して蹲る。
頭の上を、冷たい何かが通り過ぎた。
「ぐあっ」「ひいっ」
短い悲鳴が二つ。
視線を動かすと、逃げようとしている男の足が見えた。
だけど直ぐに黒い靴、黒いズボンが見えて──
「ぎゃあぁっ」
また、男の悲鳴が聞こえた。
助けが来た? エリーシャが間に合ったの?
体を起こして振り向くと、氷漬けになった男が……いた。
うわわわわわっ。人間が氷漬けになってる!?
え? 魔法?
でも人間を氷漬けにするって、凄くない?
え? これ生きてるの? 死んでるの?
もうひとりは?
男が逃げた方角に視線を向けようとしたとき、黒い壁が立ちはだかった。
見上げると、全身黒づくめの男がいた。
あ、金色の瞳……スリを捕まえてくれた人じゃない!?
「……立てるか」
「え、あ、はい。たぶん」
「ルシアナ様っ」
あ、エリーシャの声。
私はその声に向かって駆け出した。自分でも驚くほどの反射神経で、そのまま彼女に縋るように抱き着いた。
「エリーシャさん、よかったわ無事で」
「そんなっ。ルシアナ様の方こそご無事でなによりです。よかった、本当によかったぁ」
あぁあ、もうボロボロに泣いちゃって。
「大丈夫よエリーシャさん。あなたが連れて来てくれた方が、助けてくれたもの」
「え? 私が呼んだのは、伯爵様のところの兵士さんですけど」
「ん?」
振り返る。
黒い人と兵士が何か話してて、氷漬けの男がそのまま運ばれて行くところだった。
もうひとりのほうは……布を掛けられているのを見るあたり、死んだみたい。
「あの方、エリーシャさんが連れて来てくださった方ではないの?」
「はい、違います。だってお召し物が」
言われてみたら、確かに兵士や騎士の制服ではない。
じゃあパーティーの参加者? にしては黒一色でシンプルだけど、でも見た目はそう悪くはない。
ううん、顔がいいからそう見えるだけかもしれないけど。
その彼がこちらへとやって来る。
「ルシアナ様、どこかお怪我はございませんか?」
「ん、大丈夫よ」
あ、今度こそお礼を言わなきゃっ。二度も助けて貰ったんだし、ただお礼を言うだけじゃ失礼かな?
ピタリと足を止め、黒い人がじっとこちらを見つめる。
先日もそうだったけど、顔……表情がない。
で、また指を指してる。今度は彼自身の腕を。
腕……腕……ぁ。
「いったぁぁーっい」
「ル、ルシアナ様!? きゃぁーっ、手首が真っ青っ。え、お、折れてます? 折れてるんですか!?」
「わかんない。でも痛いっ」
思いっきり手首を掴まれて引っ張られた時だわ。
しかも直後に倒れたから、変に捻ったのかもしれない。
折れてないよね? 私、骨折なんてしたことないから、折れたらどんな風になるのか分かんないわ。
「折れてはない」
黒い人がそう言ってハンカチを取り出した。
これまた黒だわ。どんだけ黒が好きなの。きっと黒猫も好きよね?
その黒いハンカチを掌に乗せると、次の瞬間、青白い魔法陣が浮かんだ。
「魔法?」
「わぁ、私、魔法なんて始めて見ました」
黒いハンカチが一瞬で氷漬けになる。それを剣の鞘にこんこんとぶつけると、パリーンと割れた。
で、ハンカチを私の手首に巻く。
「つめたっ」
「冷やせ」
それだけ言うと、スタスタと行ってしまった。
行って……あっ!
「ま、待ってっ。お礼を……お礼を言わせてぇぇーっ」