同じ世界に生きている
「怖いんだよね。」
蒸し暑い夏の夕暮れ。さして仲良くもなかった私に彼女はそう打ち明けた。
「私の存在が、誰にも気づかれてない気がする」
あのとき、もっとマシなことが言えたら。話の結末は変わっていただろうか。
元気に朝から晩まで笑っていた彼女が、なぜ私にそんなことを言ったかわからない。私からしたら彼女はクラスの人気者で、誰からも好かれるような…おはなしに出てくる主人公にふさわしい人だった。教室の片隅でぼんやり空虚を眺めている私と違って、彼女の目はいつも誰かを捉えて、誰かに捉えられていた。
帰り際、橋の欄干にぼんやりと肘をついて河口のほうを眺めている私の隣に彼女は急にやってきた。
「いっつも、空とか川とか、見てるよね」
「ぼんやりしてるだけだよ」
もう少し面白い返しがあっただろうと後悔する。反対に彼女はそこまで気にしていないみたいだった。
底抜けに明るい空に、ぎらぎらと太陽が照りつける。
「空見てると、なんだか溶けそう」
「アイスなの?」
私のバカみたいな返しに、また快活に笑って彼女は去った。もっと面白い返事ができたらもっと話できたのにと思うけどどうやらそれは自惚れだったらしい。隊列を組んでやってきたいつものメンツのところへ彼女は走っていく。待ち合わせしていたのか。私がどんな返事をしようと彼女は私と長々話す気はなかったようだった。
友人たちと物語の主人公はそれはそれは楽しそうに笑っていた。私も彼女の笑顔につられてしまう。ひとり頬が緩んでから、それがとてつもなく虚しいように思えて、すぐさま頬を引き締めた。
「かたちだけはね、いっちょまえなの」
「は?」
昨日に引き続き、橋の欄干に横並び。
私が理解しようとしまいと、彼女は話し続ける。
「うちがわは、からっぽ」
「えーと、」
「あたしのはなし」
にや、と引き上げられた口角から白い歯が覗く。
「だからね、空見上げてると、かたちまで溶けそう」
「あ、…なるほど」
理解できた、気がする。
「自分が、空に召されそう?」
「ぁあ、うん。そんなかんじ。」
一度肯定してから、彼女は吹き出した。
「死にそうってことじゃん」
「うん、まあ。」
「ひっど」
これにはいい返しが思いつかない。
だって、外側が溶けて内側に何も無かったら、何も残らないって、私はそう思ったのだから。
「うちがわが空っぽでね、歩くと音だけ反響してるの。」
「…」
「むなしいね。」
彼女の名前を呼ぶ声がする。
「暑いね!」
首元に垂れた汗を乱雑に拭って彼女は声のした方へ走っていった。
「遅いよ〜」
「ごめ〜ん、掃除長引いてさ!」
人と待ち合わせなんてほとんどしない。ましてや、相手を遅いと詰ることもほとんどない。遥か遠く、どこかで彼女は生きている。溜息をついて欄干に頬を乗せてみたら頬の肉が焼けそうだった。慌てて頬を離す。
ふと彼女がいた場所に目をやった。当たり前のことながらそこには何もない。せめて汗の一滴でもあったらよかったのに。変態っぽいことを考えて、その考えを汗とともに拭った。
「あなた、いつも何時までここにいるの?」
「そっちこそ今日は遅いね」
日が暮れてきても河口を見続ける私を見て不審に思ったようだ。
「夏は…肌寒くなるくらい」
「風邪ひきそう」
簡潔に感想を述べられたので私も簡潔に会釈で済ませる。会釈が面白かったのか彼女はこっちに近づいてきた。
「まあいいや。私に関係ないし」
「確かにそうだね」
彼女の柔らかい髪の毛がさらりと揺れた。夕方の風は心地がいい。私は風が好きだけど彼女は前髪を抑えた。乱れているのがいいんじゃない。そう思うけど、彼女は前髪を崩したくないらしい。
「まえがみ…」
鬱陶しそうに呟いたのを見て思わず口から言葉が滑り落ちる。
「外見だけはいっちょまえだから?」
「そうよ」
揶揄ったつもりだったのに流されてしまった。あるいは、あまり触れてほしく無かったのかもしれない。反省する。
「内面はからっぽ。」
自虐的ともとれない。むしろおもしろそうに付け足されたので脳が混乱した。この話題に、触れて良かったのだろうか。
「胸がきゅ〜ってなる」
冗談めかして両手を胸の上で重ねてみる。一緒に肩があがって、私は笑ってしまう。
「不愉快な感覚なんだ?」
「そうだよ、ずっと不愉快…というか、」
言葉を探している。
「怖いんだよね」
直球的な言葉にびっくりした。
彼女に畏れるものなんてないと思っていた。
「私の存在が、誰にも気づかれてない気がする」
「私には見えてるけどね」
「そりゃあね、今話してるから」
二人で吹き出した。
この日の会話も、私はなんともないように感じた。前と同じ、なんの変哲もない会話だった。
「じゃあ、私は帰るね」
「ばいばい」
ちょっと寒くなってきちゃった。半袖のブラウスを着ているのだから少し肌寒いのは当たり前だ。橋の欄干から体を離して学校とは反対の方向へ去る彼女は、友達の輪の中心で笑っていなくともたしかに物語の主人公だった。
翌朝、彼女は学校に来なくて、私の隣にも来なかった。友人たちは事情を知っているらしくて、目を伏せておとなしくしていた。3日かそこら数分話しただけで主要ポジションに就けると思ったら大間違いだぞと誰かになじられている気分になる。私は彼女がなぜ学校に来なかったのか知らなかった。でも、知る必要もないと思った。
数週間が経って、神妙な顔をした担任が彼女が死んだことを告げた。口調からも、死因が語られなかったことからも、自死だと知れた。周りに確証がなくても私にはわかる気がした。
クラスで中心的存在であった彼女の死は、もちろん衝撃だった。クラス中が啜り泣く声に包まれるなか、一人だけ苛立ちと優越感。
照りつける太陽の下で零した彼女の言葉を拾い上げられたのは私だ。私しか近くにいなかった。あのとき、最後の日、私の返事が最後のわかれめだったのだろうか。彼女の内側の空無を嘘をついてでも、偽善者の仮面を貼り付けてでも埋めてやれたら。
いや、彼女はそれを望まなかっただろう。
たったひとことふたこと交わしただけ、住む世界の違う私が彼女を満たすことなどできない。無理なことを、私が知っている彼女は望まないはずだった。
私が知っている彼女は自死を望まないだろうと思った瞬間に、でも、その考えは音を立てて崩れる。私が知っている彼女とは。そしてこのクラスが知っている彼女とは。なんて薄っぺらくて信用ならないものだろう。
結局彼女は。その全貌を知るものは誰もいない。
「そとが溶けたのか…」
ぽつりと呟いた私を、近くの席に座る人たちが訝しげに見やる。
教室の窓から空を見つめる。いつもは虚空を通して見ていた空を。
あそこに彼女はいるのだろうか。溶けて、おだやかに流れているのだろうか。あるいは。どこかに漂っているのだろうか。
終礼が解散になって、いまだに私の目は空から離せない。
ぽつりと涙がひとしずく落ちて、唐突に理解をする。私たちは同じ世界に生きていた。おなじ世界で、でも囲まれるものは違って。見るものも違って、考えることも違った。物語が違うだけで、ひとりひとりの人間だった、それだけなのだ。
私が泣いていることを悟った担任が気の毒そうな顔をする。クラスメイトの死に泣いてやれる優しい生徒。違うのだ。私がなぜ泣いているのか、それを知る人も、結局はこの世界に誰もいない。誰もが暮らすこの世界で、知る人は誰もいないのだ。
ああ、世界とは。なんて虚しいものだろう。
空が私たちを抱擁するように見下ろしていた。今日ばかりは、天に中指を立てたって許されると思った。