夕食
「ご飯よ~!」
「今行く~!」
俺は速攻でタブレットを消し、ベッドから飛び上がる。この時の速度でビーチフラッグをやれば世界で一番を取れていただろうと俺は確信している。そのままに勢いで俺は下へと走っていく。そして皆で食事をするリビングに来た時におれはあることに気づく。
(あれ?焼きそばの匂いがしない?)
いつもの焼きそばであればうちの場合はホットプレートを出す。そしてそこで焼きそばを焼きながらスペースが空いてくると、色んな家の残り物だったり何だったりを焼いて楽しむのだ。しかし、今回に限っては焼きそばの香りもホットプレートの音も何も聞こえない。もしかして五感が奪われている?それともなにかそういう能力とかに閉じ込めっられちゃった?分からない。
俺はその可能性を考慮に入れながらゆっくりとリビングへの扉を開ける。中には大きな机がありその机には椅子が2ずつ向かい合うように置かれている。そこには母と父と弟が既に座っていて、食べるのを待ってくれていたようだ。だが、俺はそんなこと目に入らない。なぜなら彼らの前に置かれていたのがホットプレートではなく、透明な器に盛られていた冷やし中華だったからだ。
俺は膝から崩れ落ちるかと思った。頭の中の俺自身は全身がバラバラになってしまっていたから、あながち間違ってはいないかもしれない。俺はその光景を見て、何も言えず、固まってしまっていた。だが、そんな俺を許さない者がいた。
「アニキ、何してんだよ。はやく座れよ。麺が伸びちまうだろ」
「あ、ああ・・・わかった・・・」
俺はふらふらとしながら自分の席に座る。衝撃が強すぎて動けなかったハズだが、弟の麺が伸びるという言葉が引き金になったといっても過言ではない。その言葉が無かったら俺は何も考えずに1時間は止まっていただろう。
「いただきます」
「「いただきまーす」」
「い、いただきます・・・」
父の号令に合わせて母と弟が合掌して俺が遅れてそれに続く。その言葉だけはいかに眠たかったりしても忘れない。その意識だけが俺の口を動かした。そして皆が食事をし始める中、俺は箸に手を伸ばすので精一杯だった。
「アニキ、いつもみたいに食わねえのか?」
「・・・」
「どうしたんだよおい」
「かあさん」
「私?」
俺が右隣に座る弟と話していたのに、正面にいる母は話しかけられて首を傾げている。その見た目は40代とは思えないほど若々しく、美しい。茶色に染めた長い髪は纏めて左側に垂らしている。印象的なのは泣き黒子だろうか、左目の側にある物はとても儚さを出してもいた。授業参観に来ればあの美人は誰の母だとなり、50代の禿げた体育教師からは言い寄られたこともあったそうだ。しかし母は父一筋で、そう言ったことには一切靡かなかったが。
その母の顔が不思議そうにしている。なぜそんな顔が出来るのだろうか。俺にハッピーチャンスセットはとても重要なもの。それはまさにメロスとセリヌンティウスが結んだ約束と言っても過言ではない。その約束をたがえるとは一体どれ程の事があったのだろうか。もしかして家族を人質にでも取られて今夜は焼きそばにするなとでも脅されたのか?そうでないなら一体どうしたというのだろうか。
「今夜は・・・焼きそばって・・・」
「あーその話ね。最初はそうしようと思ってたんだけど、キャベツを買おうとしたら想像以上に高くってねー。それで冷やし中華にしたんだけど、まずかったかしら?」
「・・・そんなこと、ないよ・・・」
俺は母を傷つけない為に必死に声を絞り出した。本当ならこの冷やし中華を急いで冷蔵庫に持っていき、後数時間してから食べたい。その待っている間に腹の調子を冷やし中華にしておく、そうしたいがそれは流石に迷惑がかかる。本当に何か用事がある時しかそう言ったことは認められていないのだ。ただの腹の気分でといっても変更は認められない。だから母に返す言葉は普通だが、言葉の端々に苦悶の感情が入り込んでしまう。
「そう?ならいいけど」
母はそう言って自分の分の冷やし中華を食べ始める。俺はそれを見て考える。これからどうするべきかと、このまま腹はソースの味を欲しているままで冷やし中華を食べるのか。それとも何とかごまかし、時間を作って食べる時間を稼ぎ、腹の調子を冷やし中華を受け入れるようにするのか。とても悩ましい。こんなことになるなら腹の調子をロックしておくんじゃなかった。全ての物を食べれる様に変えておけば良かった。
いつも学校で弁当を食べる時にはそれをやっているのだが、今回はそんなことをしなかった。それはそれでいいが、ロックした方が腹が、体がそれを入れるために万全の態勢になり、味もその幸福も
最高になるからだ。だけど常にロックし続けるにはそれなりに時間もかかるし、それだけだと新しい料理に出会った時にはちょっと苦労するから、ちゃんと母から情報を集めたうえでしか行なっていなかったのだ。そしてこれが最初の方で言った地雷にもなる。今回の様にキャベツの高騰や母の気まぐれで頼んでいた献立が変わることが稀によくあるのだ。
「食べないのか?いつもなら真っ先に食べるだろうに」
そう言ってくるのは父だ。俺の斜め向かいに座っていた。そろそろ40代も後半で洗面所の鏡で頭を気にしているのを時々見かける。公務員としてそれなりに苦労もしているようでその顔には皺が刻まれているがその苦労を家族の前で話しているのを聞いたことはない。若い時は「それはもうカッコよかったの今でも違ったかっこよさがあるけど」とは母の言だ。生まれた時から見ているのでそうは思わないけれど。
「うん・・・ちょっと悩み事があって・・・」
俺はそう言って視線を冷やし中華に落とす。その悩みとは腹の調子の問題だ。焼きそばと冷やし中華、同じ麺類と言えど方向性は180度違うと言っても過言ではない。焼きそばがガッツりした攻撃的なハードパンチャーとすると冷やし中華はさっぱり美味しくなった防御主体のカウンタータイプ。事前に決めていた作戦ががらりと変わってしまうため直ぐに直すことを出来ないだろう。
「お前が・・・悩みだと?」
「アニキが?何か悪いものでも食ったのか?」
「あらあら、悩むことだってあるでしょうに」
何とも失礼な2人だ。俺だって悩むことくらいある。驚きで箸を止めて目を見開くことなんかないではないか。
「どうした?何かあったのなら聞いてやるぞ?」
「だから拾い食いはやめとけっ言っただろうが、何でその歳にもなってするんだよ」
「そんなことしてないって、まぁ、悩みって言っても死にそうとかって訳じゃないから」
俺はそう言ってゆっくりと冷やし中華に手を伸ばす。この時間稼ぎのお陰で少しだけ焼きそばのロックを外すことが出来た。これで美味しく食べられる。
「それならいいが・・・」
「変なものは食うなよ?」
「何かあったら言ってちょうだいね?」
「はーい」
それから俺達はいつもの様に食事をし、父と弟が後は食っていいというので残りも貰うことにした。こんなに旨いものを残すなんて有り得ない。
しかも弟にいたっては何を頓珍漢なことを言っているのか「アニキが毎回作ってくれたら全部汁も残さず食ってやるよ」と言っていた。俺も多少料理には自信があって時たま作ったりしているが、母の料理の味を超えることが出来たことは一度たりとてない。いつかはそれに追いつき、超えることが俺の人生の目標と言えるかもしれない。
俺は満腹になった体を何とか持ち上げ自室に帰る。勿論食器などの物はシンクに戻す。これだけ美味しいご飯を作ってくれているんだ。それくらいのことはやらなければならない。