妹の相談(3)
春休み初日から、小夜乃は喫茶店の“手伝い”に入った。俺がダイニングで小夜乃と鉢合わせしパンを炭化させた、あの朝の後である。
観月の実家が経営している喫茶店は"ローズマリー&タイム"という名の、住宅街の中にポツンと位置する1階建ての建物で、緑の屋根が洒落ていて人目を引くとのことだった。最寄駅から徒歩で10分ほど。小夜乃はかつて静と共に一度だけ訪れたことがあり、その時の記憶を頼りに迷うことなく着けたらしい。観月の祖父の代から続く老舗だが、パティシエの資格も持つ観月の父が店主となってからは凝ったデザートをメニューに加えるようになり、それが功を奏して若い女性客達の人気を獲得したということだった。春休みに入ると混雑するというのも、頷ける話である。尚店名にも関わらず、ハーブティーなどは出していない。古い洋楽にあやかっただけで、飲み物に関しては先代からコーヒーに拘りがあるそうな…
女性客の増加に合わせ、内装もどんどん変わっていったらしい。昔は薄暗い店内にコーヒーの香りとレコード-古い…-の音楽が漂うシックな店だったのが、現在はフロアの三方が淡いクリーム色の壁でその各所に緑や紫の造花が配され色どりを加えており、道路に面した残り一方は全面ガラス張りになって外の光をふんだんに取り込み、店内は明るい色調に満ち溢れているとのこと。客席のテーブルクロスにはキルトが使用され、それも女性客の心を射止めるのに一役買っている。特定の客層に支持を得て繁盛するのは目出度いことに思えるが、店主としては昔ながらの渋い店構えに愛着があり、現状についてしょっちゅう娘にも愚痴を零しているのだとか。ままならないものである。
女子3人の思い出旅行については、結局海外へ飛び立つ案は消え奈良・京都へ行くということで話が落ち着いたらしい。静は来日してからまだそのどちらにも行ったことがなく、日本を発つ前に一度見物してみたいとかねて思っていたようだ。そう要望を述べると観月は承諾し、小夜乃には元より異存があるはずもない。プランは修正されたが、ここ東北から近畿地方への旅行となるとやはり費用は馬鹿にならない。春休みに資金を調達しなければならないことには変わりがなかった。
"手伝い"は午前10時から午後3時半までの間となっている。小夜乃は9時40分頃に店に着いた。既に店の方に顔を出していた観月、厨房の奥にいた観月の父である店長に挨拶を済ませると、ホールと厨房の中間にある扉をくぐり細い廊下を通って更衣室へ向かった。もちろんこれらの道順は、観月から指示されたものだ。着替えを済ませ、始業5分前には配置につく。まあ小夜乃がこのような点で失態をおかすことはまずないだろう。
しかし、初日から順風満帆なスタートとはいかなかった。勤務開始時間を過ぎても、静が店に姿を現さなかったのだ。
「10時からだって昨日もあんなに確認したのに…何やってんのよ」
観月が苛立った声をあげた。開店前のテーブルを吹きながら、小夜乃が宥めようとする。
「ひょっとしたらイギリスへ行く準備で忙しいのかもしれません。まだ開店前ですし、ホールは私だけでも何とかなりますよ」
「だったら事前に連絡をくれてもいいんじゃない?それくらい社会の常識でしょ!うちの店の仕事を軽く見ているとしか思えないよ。一体誰の…」
観月はそこで言葉を呑み込んだらしいが、どう続けたかったかは容易に想像できる。「一体誰の為に私たちが春休みを潰してまで働いてると思ってるわけ!?」と言いたかったのだろう。
観月からすれば3人で旅行に行くという発案も、その為に実家で自分達を雇ってくれるよう父親に頼んだことも、全て静への善意で行ったことだ。傍からは自己満足の色彩が強いようにも伺えるのだが、おそらく本人にそのような自覚はない。その善意を他ならぬ静自身に無下にされた、と感じたとしたら、面白いはずがない。
その後も時間が経つにつれて機嫌が悪くなる観月を度々説得しながらも小夜乃は作業を続けていたが、結局静が店に姿を現したのは始業時間から30分ほど過ぎた頃だった。
「ごめんごめん、寝坊しちゃってさ。目覚まし鳴ったのにも気づかなかったみたいで、いやあ参ったよ。それでも急いで家を出て、ここの駅には9時50分頃には着いたんだけどさ、この辺道が複雑じゃん。1度きたことあるはずなのにどっち進めばいいか全く思い出せなくて、随分迷っちゃった。おかげでもう足がパンパン」
同じ内容でもしおらしく述べていれば随分印象も違ったのだろうが、静は笑い半分でまくし立てたというのだから、観月の神経を逆なでするには十分だったろう。フランクな性格も度が過ぎれば、“軽薄”の誹りを免れない。
「道に迷った?だったらGPSで位置検索すればよかったじゃない!しずちゃん、スマホもってんでしょ!?」
観月がたまりかねたように怒声を浴びせた。
「GPSって…ああ、慌てていたから思いつかなかったわ。何よ、そんなに大声をあげないでよ」
「はあ、遅れといて何その態度!あんた、あたしんちの仕事馬鹿にしてるでしょ!いくら同級生の店だからって、甘えないでよ!」
観月の罵声はますます勢いづく。最初はきょとんとしていた静の表情にも、当然じわじわと不快感が滲みだす。険悪なムードが漂い、傍で見ていた小夜乃はそのままつかみ合いの喧嘩に発展しないか危惧を覚えたという。
「ほら観月、もういいだろう。お前もそろそろ自分の持ち場につけ」
厨房から出てきた観月の父が、そう言って場を取りなした。痩せ気味で顎髭を生やし丸メガネ、喫茶店の店主やパティシエというより大学の教授でもやっていそうな風貌に小夜乃には見えたとのこと。
「静ちゃんも、まだ開店前だから慌てなくても大丈夫だよ。あそこの扉を出て廊下を進むと更衣室があるから、着替えてきてくれるかな」
教授もとい店主兼パティシエは、娘の友人にもやんわりフォローを入れることを忘れない。
「…遅れてしまい、すみませんでした」
静はさすがに居住まいを正して店主に頭を下げると、奥の更衣室へと入っていった。その間、結局観月への謝罪はなかった。
「ローズマリー&タイム」の制服はチェック柄のシャツに腰から下げるサイズのエプロン、薄いえんじの帽子というデザインだった。ボトムスは私服になるが、"デニム以外のズボン"だったら何でもいいということだった。ホールに出るウェイター・ウェイトレスは、シャツの胸ポケットに黒のボールペンをさし、エプロンの前ポケットに伝票を止めたホルダーを入れる、という決まりになっている。ボールペンも店で用意したもので、すべて同じ規格になっている。従業員は使用したボールペンを1日の終業時にペンスタンドに戻す、という決まりらしい。
小夜乃と静がホールでウェイトレスを任され、観月は厨房で調理補助という役割をふられた。調理部の観月は料理の腕に関しては中々のもので、本人もホールに立つこともしばしばあるものの、厨房で調理に携わる作業の方をより好んでいるらしい。新人2人がホールに回されたのは、"2人で一人前"と捉えられた故だろうか。
その他の従業員は厨房にアルバイトの大学生が1名、ホールには接客の司令塔として観月の母が入り、不慣れな娘の友人たちに指示を出す役目を担う。この辺りは家族経営の店ならではだろう。その他夕方から来るパートもいるとのことだったが、とりあえずはこれが春休み中の"ローズマリー&タイム"の陣容だった。
開店は11時。最初は緩やかだった客足も正午を過ぎると徐々に激しくなり、昼の1時半を回る頃には怒涛のようだったという。デザートが売りの店なので、昼食時よりもその後の方が繁盛するのだろう。客層も正午ごろはサラリーマンらしき中高年の男性もそこそこ入ったらしいが、以降は話に聞いていた通り、9割方若い女性だったとのこと。注文もほとんどが店主自慢の手造りケーキやクレープ、アイスなどに集中した。
入店した客に水とおしぼりを出し、注文を聞き、品と数を記した伝票を厨房に渡し、出来上がったメニューを客席に運ぶ。小夜乃や静の仕事は大体これの繰り返しだった。当然というべきか新人がレジには触れさせられることはなく、会計はすべて観月の母が受け持った。
序盤は無難にこなしていた小夜乃と静も昼を過ぎると店の回転速度に対処しきれなくなった、らしい。初日だから仕方ないことのようにも聞えるが、兄としての見地から言わせてもらえば、どうも我が妹がそのような作業で醜態を晒す光景がどうしても思い描けない。「全然ダメでした」という自己申告はほぼ謙遜の賜物で、実際は案外てきぱきとこなせてしまったのではないかと見ている。
しかし、共に初日である静の方は本当に忙しさで目が回っていたらしい。注文の品を運ぶ際、手を滑らせ食器ごと床に落とすこと3回、客からのオーダーを書き間違え全く違うメニューを配膳してしまうこと5回…小夜乃としては友人の失態など細かく口にしたくはないだろうが、この“相談”が観月と静の諍いに関するものである以上、必要な情報として提示しているのだろう。その上で少しでも静の印象をフォローするために「自分も同じようなものだった」と主張している、といった処ではないだろうか。
店長や奥さんは「初めてなんだし仕方ないよ」と言って大目に見てくれたらしいが、観月は静に対して手厳しかった。話を聞いているだけでも朝の件が尾を引いてのことだろう、と自然と想像がつく。静が3度目に注文の品を落とした際、厨房に呼び出し、激しい口調で叱責したという。「やる気ないなら帰れよ!」という金切り声はホールで接客する小夜乃の耳にも届き、周囲に目を配ると突然の喧騒に眉を顰める客もいたらしい。思わず作業を中断して厨房を覗いてみれば観月は顔を真っ赤にして静を責め続け、静は静で相槌ひとつ打たずただ黙って俯いている。垂れ下がった髪の間から、不機嫌そうに尖らせた唇が覗いていたという。「お客さんに聞こえるぞ!」と店長が一喝したことで観月の非難は途絶えたが、両者の表情を見れば不満がくすぶり続けているのは明らかだった。時間の経過は亀裂を修復する役目を果たさず、かえって深めていくようでさえあった。
4時前になると夕方からシフトを組んでいるアルバイトが顔を出し、親戚(仮)の女子達は予定通りの時刻にお役御免となった。慣れない作業の連続で静はぐったりしていた。小夜乃も初日のこととてさすがに消耗は激しかったろう。店長は2人に平等に労いの言葉をかけ「明日も頼むよ」と励ましたが、観月は小夜乃にだけ話しかけ、やはり静の方は殊更無視する態度に出た。静の方も観月を避けるように、早々に店を後にしたという。
「明日から来ないかもね」
店を去る静の背中を見送りながら、観月が棘のある声で呟いた。予測と呼ぶには、恣意が混じり過ぎた発言のようだった。
観月も静も、どちらも意固地になっているように小夜乃には見えた。何とか友人たちの仲を取り持ちたかったが、第三者が口を出してどうにかできるような局面でもない。下手を打てば余計状況がもつれる可能性もある。観月の呟きが現実にならないことを祈りつつ、翌朝まで静観するしかなかった。