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兄の脱線(3)

 翌朝、不眠で朦朧となった意識を引きずりながら部屋を出た。気は重かったが、いつまでもベッドに籠城しているわけにもいかない。それに、矛盾するようだが、一刻もはやく小夜乃(さよの)の様子を確認したいという気持ちもあった。「犯人は現場に戻りたがる」とはよく聞くが、これと似た心理だろうか。

 ダイニングに降りると、早速小夜乃と出くわした。既に昨夜見たパジャマ姿ではなく、外行きの服に着替えていた。無地のワンピースにジャケットを羽織っただけの簡素な装いだったが、元が良いと貧相に見えないから不思議だ。テーブル席についてカップに入れたコーヒーを啜りながら、朝の報道番組に眼を向けていた。

「おはようございます、兄さん」

「…ああ」

「飲み物は、いつものでいいですよね」

 そう言うなり小夜乃は、既にテーブル上に用意されていたティーポットにお湯を注いで心持ち揺らし、いつも俺が使っているカップに紅茶を入れた。コーヒーを嗜む妹とは違い、俺は紅茶党なのである。

「トーストもここに置いてありますから、早く朝食を済ませてくださいね。今日は出かける用事があるので、片付けるのが遅くなっては困るのです」

 紅茶をソーサーごとこちらへ差し出してくると同時に、小言も浴びせてくる。

 …案に相違して、実に普段通りの朝だった。妹は相変わらず世話焼きで、相変わらず口うるさかった。どのような非難も甘んじて受ける覚悟で降りてきた俺は、拍子抜けせざるをえなかった。

 小夜乃が淹れてくれた紅茶を一口飲む。美味い。これまたいつもの、俺好みの味だ。

 小夜乃は料理が苦手だと先に記したが、紅茶を淹れる手腕に関しては度重なる特訓により、名人の域に達していると言っていい。尤も"俺の舌に合わせる"技術の名人なので、他の人にとって彼女の紅茶が美味いかはしらない。

 自分の淹れる紅茶を俺が渋い顔で飲むことに不満を覚え、小夜乃が紅茶の研究に没頭したのが2年前。茶葉の量や蒸らす時間など、微調整を加えながら何度もカップに注ぐ、という作業を一月ほど繰り返した。その間注がれた紅茶は全て俺が飲んだ。俺の味覚に合わせる為の特訓だから俺が審査するのは当然だが、さすがにあそこまで立て続けに飲まされるのは辛かった。腹の中で溜まった水分が踊る感覚があった…

 いい加減止めさせようと世辞で「美味い、もう十分!」と言っても、嘘はすぐ見抜かれた。妹は俺の本心を見抜く名人である。語尾の震えや顔の筋肉の動き、その他諸々の要素から虚偽も韜晦も見透かしてしまい、試飲は続いた。そんなこんなで俺がようやく心から賛辞を送れる味に小夜乃が達するまで、一月かかったというわけである。以後俺は妹に自分好みの紅茶をいつでも淹れてもらえるようになり、それを考えれば当時の苦労も物の数ではなかった、とは今だから言えることだが。

 とにかくこの朝も、小夜乃が研鑽の末に辿り着いた技能に、寸分の狂いも生じていないようだった。

 妹をじっと観察してみても、無理に平静を取り繕っているようではない。極めて自然体に見えた。となるとやはり、昨夜のことは覚えていないと考えるべきだろうか。しかし一点、眼が少し充血しているらしいことだけが気にかかった。ひょっとして小夜乃も、あまり寝てないのではないか?

「どうしました、人をじろじろ見て。私の顔に何かついていますか?」

「い、いや、なんでもない」

 俺は慌てて妹から目をそらすと、テーブル上の透明パッケージから食パンを1枚取り出し、オーブンに放り込んだ。

 …どうも今一つ、確信が持てなかった。仮に小夜乃が俺にされたことを認識済だとしたら、この超然とした態度はどう取るべきだろうか。

 嫌悪と怒りのあまり、昨夜の事件は妹の頭の中から消去されているのか。それとも兄妹間でのああいう行為はノーカウント、という認識なのか。まさか欧米の小説を読み過ぎて、唇と唇の接触を挨拶程度と捉えるようになったわけでもあるまいが。

 或いは、俺がほんの軽い気持ちでしかけた悪戯に過ぎないと思いこんで、合わせて軽く流そうとしているのだろうか。妹の性分からしてそういった悪ふざけは到底看過できなそうなものだが、そこは出来の悪い兄貴のやることとてむきになるのも大人げない、と考えているのかもしれない。

 もしそうだとしたら、それはそれで釈然としない。そこまで軽薄な人間だと小夜乃に認識されるのは不本意でもある。はっきり弁明しておくべきだろうか。

「くれぐれも誤解のないように言っておくが、昨夜のあれはいい加減な気持ちでしたわけじゃないからな。俺は本気だ!」

 うん、言えるわけがない。それこそ事態がカタストロフ一直線となってしまう。

 そもそもそれは、探偵が何も行動しないうちから犯人が自白するようなものだ。ミステリ的に考えてもご法度だろう…この辺になってくるともう、自分が何を考えているのか自分でも追いきれていなかった。

「…兄さん、パンが焦げてますよ」

 混濁した思考の海に潜水していた俺は、小夜乃に声をかけられて現実へと浮上した。そうして気が付いてみると何やら焦げ臭さが辺りを包んでおり、オーブンに眼をやると、中で俺の食パンが炭化しかかっていた。

「うおおおっ!?」

 慌ててオーブンの扉を開き中へ手をつっこんだ俺は、熱されたスチール部分に指を思い切り追突させ、甲高い悲鳴をあげることとなった。


 以上が、ここ数日俺の頭を悩ませている事件のあらましである。

 小夜乃は俺を過大評価している。やはり俺には推理の才能などないのだ。妹の心中すら洞察することができず、未だに針の筵に正座を強いられているような心境なのだから。

 その後も、小夜乃は俺を避けたり嫌悪の感情を向けてくるといった素振りを一切見せなかった。寧ろ俺の方が後ろめたさから、妹と満足に眼も合わせられないという始末だった。廊下やリビングで小夜乃から話しかけられても、あれこれと理由をつけ足早にその場を去る、ということも何度かあった。我ながら情けない小物である。

 こんな逃げの姿勢では妹の真意になどたどり着けるはずもない。頭の中で悪い考えと希望的観測が無限にループし、惑乱は深まるばかりだった。

 妹が俺の部屋を訪ねてきたのは、まさにそんな状況の最中だった。いよいよ俺の罪業を追求しに来たのだ、ここが年貢の納め時かと密かに走馬灯を脳内で巡らせていたら、予期せぬ相談事を持ち掛けられたというわけだった。

 俺が自分に探偵の資質など皆無だと自覚しながらも妹の相談を断れなかった事情が、これで大方分かってもらえたと思う。1つには妹に負い目があるため。そしてもう1つは…負い目などなくても、やはり小夜乃の頼みは断れなかっただろう。結局は、“惚れた弱み”というやつなのだ。


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