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兄の脱線(1)

 いきなりだがここで一旦、脱線させてもらう。

 小夜乃(さよの)の述懐に入る前に、まずは俺と小夜乃の間に生じた3日前の夜の事件について説明しておきたいと思う。それにはまず、俺達兄妹の関係性について語るところから始めねばならないだろう。といっても、その9割方は俺の内心の問題に帰することとなるのだが。

 中学の時課題図書で読んだ夏目漱石『こころ』の中では、“兄妹の間に恋の成就したためしのない〜”(※1)と言って兄妹間の恋愛感情を否定していた。これは浅慮というものである。少なくともここに1人、例外が存在する。成就はしておらず、片想いの段階だが。

 俺、米丸有親(よねまるありちか)が1歳違いの妹である小夜乃に抱いているその感情を「恋情」だと自覚したのは、中学にあがってすぐの頃だった。さすがにまずいと思い何度も打ち消そうとしたが、そんな表層心理上の努力では最早どうしようもないほど、その思慕は俺の中にしっかりと根を張ってしまっていた。

 何せクラスで男子の人気を一身に集めていた女子も、連日同級生達の話題に上っていたトップアイドルも、小夜乃に比べればものの数にも入らないと本気で思えてしまったのだから、我ながら重症だと思う。

 一体どこにそんなに惚れたんだ、と聞かれても困る。特別なきっかけなど特になく、自然にそうなったと言う外ない。

 我が妹は確かに類まれな美少女の内に入るだろうが―何もひいき目で言っているわけではない―、容姿ばかりに惹かれたわけではない、と思う。妹の顔など、生まれた時からそれこそ飽きるほど眺めているのだ。

 そもそも物心ついてから当たり前のように隣にいた妹の、どこが好きでどこが嫌いかなど考えたこともなかったし、その必要もなかった。それでも自分の気持ちを自覚すると小夜乃の個性―生真面目すぎて堅苦しい処も、兄に対してやたら口うるさい処も、その癖何かと世話を焼いてくる処も、趣味が同じミステリ小説な処も、特殊な味覚を持っているから料理の腕がさっぱりな処も、すべてが愛らしく見えてしまうのだから現金なものである。

 もちろん小夜乃本人にも他の誰にも、この感情を打ち明けたことはない。また伝えてどうなるものでもないだろう。このまま一生自分の胸の内に閉まっておくと決心していたのだが…といった処で、話は3日前の夜に及ぶ。


 その日は昼に小夜乃の中学の卒業式があり、翌日から春休みだった。

 夜、俺は借りていた『毒入りチョコレート事件』の文庫本を返すために、小夜乃の部屋を訪れた。

 俺はミステリ小説のファンだが、海外の翻訳ものが苦手な所謂“翻訳アレルギー”の持ち主である。特に古典と呼ばれる1930年代以前の欧米の作品は、その多くは大分昔に訳されており訳文の日本語自体が古めかしい調子を帯びていることも相まって、殆ど手付かずの状態にあった。

 一方小夜乃はといえば古今東西のミステリ作品を満遍なく攻略していくタイプの読み手であり、俺の影響でミステリを読み始めた―と本人が言っている―にも拘わらず既に体系的な読書量では俺が足元にも及ばない域に達している。何事にも生真面目な性分なので、趣味に於いても基礎からしっかりと固めなければ気が済まなかったとみえる。

 そして妹は“生真面目”なのに加えて“融通が利かない”質でもあるので、基本を疎かにしたままのミステリファンである兄にも常日頃から「最近の作品だけでなく古典も読んでください」と説教をしてくるのだった。この4月から俺が高校で所属している"探偵小説研究会"の部長に就任すると決まってからは尚更で、自分が所持している古典作品を半ば強引に貸し付けてくるようにもなった。"部長"といっても他の2年生以上の部員が皆いなくなってしまい、1人残った俺になし崩し的に役割が回ってきただけなのだが、妹にその事を何度言い聞かせても取り合ってもらえなかった。いわく「部長がクリスティもクイーンも抑えてないようでは、新しく入ってくる後輩に示しがつかないでしょう」とのことだが…そんなものだろうか?

 というわけで今年の冬から春にかけては、俺にとっては小夜乃が課してくる古典ミステリの読破に追われる日々となった。既に冬には、年度が明けたら探研-探偵小説研究会の略称-部員が新入生を除けば俺1人になる見通しはついていたのだ。クリスティー『オリエント急行殺人事件』を読み、クイーン『オランダ靴の秘密』を読み…そしてバークリー『毒入りチョコレート事件』をほうほうの態で何とか読了したのが、3日前の夜だった。正直翻訳文が苦手な人間には中々にハードなマラソンだったが、そこはそれ、惚れた弱みというやつである。俺にも好きな女の子に対して虚勢を張る程度の矜持はある。

 小夜乃の部屋の前に立ちドアをノックしたが、返事がなかった。おやと思った。

 俺達兄妹の部屋はどちらも2階にあり、壁1つを隔てて隣り合っている。先ほど自室でチタウィック氏の推理パートをうんうん唸りながら読んでいる時に、小夜乃が隣室に戻りドアを閉めた音を確かに聞いたのだ。その後新たに外出するような物音はしなかったから、必然的に妹はまだ在室のはずだった。

「小夜乃お?」

 今度は扉越しに呼んでみた。やはり音沙汰がなかった。

 少しためらってから、俺は左手に文庫本を持ったまま右手をドアノブにかけ押してみた。俺の部屋のドアもそうだが、元より鍵などは付いていない。

 これが本格ミステリであれば部屋の中から小夜乃の姿は煙の如く消えている処だろうが、当然そんなことはなかった。妹はただ、部屋の中央に据えられた小卓の傍らで、カーペットの上に横たわったまま寝息を立てていたのだ。薄いピンクのパジャマの上下を身に着け、上半身には重ねてカーディガンも羽織っていた。腹部に乗せられた両手がブックカバーを被せた文庫本を包んでいた。どうやら本を読んでいる最中に寝入ってしまったらしい。

※1…夏目漱石『こころ』(角川文庫)より引用

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